第3章
● 8月 世田谷西署
渕上遥香は、その後の捜査の進展が気になったのと、赤井に父の事のお礼を言いたくて世田谷西署を訪ねた。
「あ、渕上さん!」
自販機コーナーに行こうとした三田村が、ちょうど署内に入ってきた遥香に気が付いて、なぜか嬉しそうに駆け寄ってきた。
「こんにちは」
遥香は戸惑いながらも軽く頭を下げた。
「えっと、どうかしたんですか?」
三田村はやっぱり満面の笑顔で聞いてきた。
「あ、ああ……、えっと、その後の進展が何かあったかな?と思って、ちょっと聞きに来ました」
遥香は少し後ろに下がり気味に答えた。
「ああ、そういうことですか。すみません。まだ何も……」
「そっか。そうなんですね。わかりました。お邪魔しちゃ悪いので帰りますね」
遥香はこの雰囲気から逃げようと、軽く頭を下げて帰ろうとした。
「あ、ちょ、ちょっと待って……」
「はい?」
遥香は呼び止められて仕方なく振り向いた。
「あ、えっと……」
三田村は少し困った様に目を泳がせていた。
「三田村さん?」
遥香が少し覗き込むような仕草をした。
「あ!そ、そうだ。実は……」
三田村は軽く手をポンと叩くと、周りを気にしながら、「ちょっとこっちへ」と小声で遥香を手招きして、すぐ横にある応接室に入った。
「どうしたんですか?」
遥香は三田村の向かいに座ると、彼の雰囲気に合わせて小声で聞いた。
「うん、まあ……、どうしようかなぁ」
話そうとしたのはいいが、やっぱりマズイかぁという感じで三田村が頭を掻いた。
「言ってください。私、誰にも言いません」
遥香は、話すのを促そうと真面目な顔をした。
「いや、やっぱまずいか……」
言い掛けておいて、三田村は本当に躊躇している風でもあった。
遥香は、実際、警察が何か隠しているとは思っていたので気になった。
遥香は、思い切って、三田村の手を両手で握った。
そして、
「言ってください」
と、さらに真面目な顔で言った。
「あ、う、うん!言うね!」
三田村は手を握られた瞬間真っ赤な顔になって、もうタガが外れた。
「実は、信じてもらえるかどうかなんだけど……」
「うんうん」
三田村の扱い方を理解した遥香は手を握ったまま促した。
「遺体が見つかった時なんだけど」
「うんうん」
「君のお母さんの頭部は頭蓋骨じゃなかったんだ」
「……え?」
遥香は言われた事の意味が分からず目を点にした。
「あの似顔絵の顔をしていたんだ。そして、下の身体と普通にくっ付いていて、まるで生きているみたいだったんだ」
「…………」
さすがに、遥香の手が緩んだ。
「えっと、全然意味が分からないんですけど……」
「だから!普通に髪の毛も皮膚もあって、俺も赤井さんももう一人の警官も、君のお母さんの生前の顔を見たんだ!おっと……」
上手く説明出来ずについ声が大きくなった三田村が口を押さえてドアの方を見た。
遥香も、その視線につられるようにそっちを見たが、頭の中はそんなことはどうでもよかった。
「複顔なんてやってないんだ。もしやったとして、いくらCG使っても、発見から数日で出来る訳がないんだ。俺達が実際に見たからあの似顔絵が描けたんだよ」
「ちょっと待って。じゃあ、何で私が見たのは頭蓋骨だったの?」
「ここからだよ。きっと信じられないだろうけど……」
三田村は一呼吸を置いた。
「俺達の目の前でくっ付いていた首が切れて落ちて、そして、皮膚とか溶けてあっという間に白骨化したんだ」
三田村はそう言ったが、遥香はぽかんとしていた。
「……三田村さん、私をバカにしてるんですか?」
間を置いて遥香は三田村を睨んだ。
少し言い方がきつくなった遥香に、三田村が慌てた。
「だから、信じられないだろうけどって言ったじゃない」
「信じられる訳ないじゃないですか!」
遥香は身を乗り出して大きな声で言った。
「しー!しー!」
三田村がドアの方を見ながら口に指を当てた。
遥香は口を尖らせて座り直した。
「だから、俺達も戸惑ってるんだよ。俺達が最初に見たのは特に外傷のない遺体だったんだから」
「でも……」
「遥香ちゃんが信じられないのは分かる。分かるけどさ、実際はそんな怪奇な事があったの!それなのに化学的知識や技術がある奴を犯人として追ってるんだよ。そんな奴、見つかる訳がない。ほんと、アレを見た俺達にしか分かんないって」
三田村は一気に捲し立てたが、遥香は『遥香ちゃん』と呼ばれた事に気付いてなかった。
「……それ、赤井さんも見たの?」
「ああ、主任も、もう一人現場の立番をしていた警官も見た。だから、俺達全員その内容で報告書も上げてる」
遥香は少し考え込んでいた。
「遥香ちゃん?」
もうすっかり『遥香ちゃん』になっていた。
「ねえ、三田村さん。その時の事、もっと詳しく教えて」
遥香は真面目な顔で言った。
三田村は、手を繋がれた訳でもないが、再度詳しくあの時の状況を遥香に説明した。
遥香は赤井にも確認したかったが、三田村に本当の事を話したことは黙っててくれと懇願されたので、諦めて世田谷西署を出た。
でも、あらためて聞くと、どう見ても三田村が嘘を言っている様には見えなかった。
第一、彼は刑事なのだ。
刑事が、そんな作り話を一市民に話す訳がない。
もしこの事件が三田村が言っているように怪奇なモノだとしたら、警察が真実を掴める訳がない。
自分の母の事でもあるし、遥香は自分で調べてみることにした。
結局、本当の殺人事件だとしても、それはそれで警察が犯人を捕まえてくれるだろうと思った。
遥香は、東武蔵大学文学部を卒業後、小さな出版社に就職したのだが、約2年勤めたところでその出版社は倒産して無職になった。
その後は、一応就職活動をしていたが、このご時世、それは難しいことで、未だに決まってはいなかった。
逆にそれは、時間が有り余っているということでもあった。
遥香は、まずはこんなコトを相談できる人物に一人、心当たりがあった。
だからこそ、自分で調べてみようと思ったのもある。
彼女はまだ夕方前なので、早速、母校の東武蔵大学に足を向けた。
東武蔵大学は吉祥寺にあった。
遥香は、少し黄ばみ始めた風景の中、入り口の煉瓦造りの門を懐かしく見つめたが、今は感傷に浸っている場合ではない。
彼女は相談する人物の居るはずの研究室に向かった。
遥香は、少し強くなり始めた夕陽の光を手で遮りながら文学部棟に入ると、最上階である4階一番奥の、とある研究室のドアをノックした。
中から返事がして、遥香はドアを開けた。
「お?遥香君じゃないか!」
遥香が顔を覗かせると、すぐに嬉しそうな声が聞こえた。
「先生、お久しぶりです」
「ああ、久しぶりだね。さあ、入って入って」
「失礼します」
遥香は文学部教授の園山孝蔵に手招きされて中に入ると、応接のソファに座った。
中は12畳くらいの広さで、教授の机の他は応接セットとその横には作業用の長机が置かれ、それ以外は本棚で占められている。
「えっと、コーヒーでいいか?それともお茶の方がいいかな?」
「コーヒーで大丈夫です」
教授は、作り置きのサーバーからカップにコーヒーを注ぐと、遥香の前に置いた。
「で、今日はどうしたんだい?」
「ちょっと相談したいことがあって」
「そうなの?何だろ?」
一見厳つい顔の園山教授だが、ちょっと子供っぽいところもあって、遥香の相談事に対してワクワクしている様子だった。
「えっと、もちろん、本業の方ではなくて…、あの先生の趣味の方で……」
「お!そうなのか!」
遥香の台詞に、教授は身を乗り出した。
園山教授は、文学部の教授として現代文学が専門なのに、なぜか、古文書が好きなので有名だった。
それも、霊や物の怪系の古文書が。
だから、今回の件も、園山教授なら何か分かるかもしれないと遥香は思ったのだ。
ちなみに、それなりに親しい感じは、そもそも遥香が園山ゼミ出身だからだった。
「で?どんな話だ?」
何度も言うが、園山教授は厳つい顔をしているが、その顔で満面の笑みで聞いた。
「あの、先生は『首』に纏わる怪奇話は知っていますか?」
「首?」
「はい」
「首と言っても、たくさんあるが……、例えばどんな感じだ?」
遥香は、今度の事件の事を彼に話した。
「そんなことが……」
園山教授もさすがに言葉を失った。
「いや、それよりも君のお母さんが亡くなっていたということか……」
「いえ、それは私にも、もう過去の事と言えば過去の事なので……」
遥香はそう言ってごまかした。
「そっか……」
園山教授は、とりあえずコーヒーを口にした。
一口のはずが、遥香の話に聞き入っていて意外と喉が渇いていた。
そのまま飲み干してしまった。
「その、君が言った『首』の意味はわかった。確かに首だけの妖怪はたくさんいるが、今回みたいな事例か…」
教授はコーヒーのお代わりをカップに注ぎながら考え込んでいた。
「あ、一つあるな」
「え?本当ですか?」
「ああ、日本じゃないが、確かペルーの『ウミタ』だったかな?飛び回る首が人間を食べてその人間になりすますとかだったかな?」
「なりすます……ということは、その後動き回るんですよね?」
「そうだな」
「今回のはそういうのでしょうか?」
「遺体発見現場には被害者の足跡だけだったんだよな?被害者が自分でそこまで歩いたとなると、それも考えられるな」
「でも、結局亡くなってるので……」
「そうだな。まだ結論出すのは早いな」
「他にはありますか?」
「日本で言えば、踊り首、舞首、轆轤首、首おいてけとかが有名だが、大体は驚かすだけとか、害があっても血を吸うくらいだな。轆轤首に関しては、ただ霊体が抜け出した時に、その霊魂の流れが首に見えるだけという説もある。要するに、ただ首を置き換えるようなものはないな」
「そうなんですか……」
遥香は、教授に聞けば何かしら情報が出てくると期待していたので、思いの外がっかりしている自分に気が付いた。
「まあ、それはそうか」
「え?」
「古文書の時代に胴体と頭が違うということに気付くはずがないだろう。男の胴体に女の頭とかでない限り」
確かに、教授の言うことももっともだった。
「そうですね……」
「と、来ればだ」
そう言って、教授は自分の机に座ってパソコンをいじり始めた。
「先生、何か調べる方法があるんですか?」
遥香は教授の側に歩いて行って、一緒にパソコンを覗いた。
「これなんだがね……」
教授が開いたソフトは、ただの検索ソフトの様だった。
「これ、普通の検索ソフトに見えるけど、最近、俺が作ったんだ」
「え?あ、そっか。先生はパソコン得意でしたもんね」
園山教授は、パソコンオタクでもあった。
「で、普通のと何が違うって、検索結果が違うんだ、と」
教授は思い付く限りの言葉を入力した後、リターンキーを押した。
画面にたくさんの検索結果が表示された。
「普通の検索エンジンだと、結果がフィルターにかけられて意外とリアルな情報は手に入らなくてね。俺のはそんなフィルターはかけずになるべく表示するし、検索結果も、検索文字列が入ってなくても『関連すると推測した』結果も表示する。さらに、その時点で無い情報もロボット巡回式で集めてくれるんだ」
そう言った教授の顔はまるで少年の様で、遥香は、こんな人だったなとあらためて思った。
「さて、中身を見てみるか」
教授がそうは言ったが、
「えっと、先生……、検索結果が信じられない数になってるんですけど」
遥香は目を点にした。
「これ、一応、上から検索ワードを多く含む順、推測分は関連性が高い順に表示されてるからさ、見るのは上の方だけで済むよ」
「ほんとですかぁ?」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
と、教授は言ったが、実際、いつまで掛かるか分からなかった。
「先生、大学が夏休みとはいえ、大丈夫なんですか?」
遥香は、一つ一つ内容を確認している教授に聞いた。
「ん?…ああ、だいじょぶ、だいじょぶ……」
教授は検索結果を見るのに集中していて、遥香の言ったことには話半分だった。
遥香は軽く溜め息をつくと、空になったカップにコーヒーを注ぎに行った。
● 世田谷西署刑事課事務室
赤井は自分の机で、積み上げられたファイルを捲っていた。
「主任、またそれ見てるんですか?もう何度も見直したじゃないですか」
わざわざ下から買ったきたカップコーヒーを赤井の前に置きながら三田村が言った。
「さんきゅ」
赤井が見ているのは、警視庁管内における、首に関する殺人事件のファイルだった。
もちろん、早々に確認されたが、今回と同一犯と思われる事件は見つからなかった。
他の県警にも協力を依頼しているが、特にそれらしい報告は来ていなかった。
「さすがに、俺達が見た様な状況じゃなくても、胴体と頭部が違う事件くらいあってよさそうだろ?」
「いやいや、そんなのあったら、大事件ですから」
三田村は大袈裟に手を左右に振った。
ただ、赤井が気になっていたのは、目の前にあるこれらの事件より古い物で、DNA鑑定もない頃だと、首を切断された殺人事件とは書かれていても、「別人の頭部」だと気付いていなかった物もあるかもしれないということだった。
ここにあるのは比較的近年の物だが、連続犯だとして、考えられるその犯行周期の範囲は網羅されていた。
これよりさらに古いファイルは、地下の保管庫で箱詰めされているが、それを見ても、同様の事件かどうかはわからないだろう。
まあ、事件概要はデータベース化されていて、キーワード検索でも引っ掛からなかったから、さらに紙ベースのファイルを確認したのだ。
「と、すると、本当にこれが始まりなんだろうか?」
赤井は、同様の事件がまた起こると思っていた。
「仕方ない」
赤井はそう呟くと、何か引っ掛かる事件があるかもしれないと、また一からファイルを捲り始めた。
「あ、そうだ。三田村。最近の小説とか映画とかで今回みたいな猟奇殺人を扱ったものがないか確認してくれ」
その模倣も近年の事件には多いことだった。
その時、外が騒ついた。
赤井が何だ?と顔を上げた時、係長の大山がドアを開けて入ってきた。
「どうかしたんですか?」
「ああ、例の身体の方の身元が割れた」
「え!?」
「本当ですか!」
三田村と赤井が顔を見合わせた。
●事件現場に近い世田谷区某所マンション
被害者宅は駅から意外と近く、少し古いが入り口は一応防犯カメラ付きのオートロックのマンションの404号室で、他の捜査員、鑑識と共に赤井と三田村も中を調べていた。
被害者は柳静香、28才、無職。
被害者は一人暮らしだったが、あの事件直前に派遣先を切られていて、彼女が行方不明になっていることに、ここ1ヶ月、誰も気が付かなかった。
数少ない友人が、彼女と連絡が取れないことから、様子を見に来た際、ドアの郵便受けから中を覗こうとして異臭に気が付いて通報したのだ。
中は特に争った形跡もなく、異臭の元は、餌を与えられずに餓死した猫だった。
ただ、身元不明者のDNA鑑定を真田が指示していたので、その結果、あの遺体の身体の方だと判明したのだ。
「ここ血液反応が少し出ました」
鑑識の声に、捜査員達が寝室に集まった。
「でも、少しだけですね」
「そんなんだと、ここが殺害現場だとは言えないな」
「そうですね……ただ怪我をした、くらいですか?」
「だよな……」
捜査一課員と鑑識課員の会話で、皆が「何だよ……」みたいな雰囲気で、また散開した。
赤井は寝室で怪我というのが少し気になったが、「まあ、女性ならあり得るか……」とも思った。
19時過ぎまで続けられた室内の捜索では、結局、切断された首は元より、事件に関係するものは一切見つからなかった。
ただ一つ分かったのは、殺された当日、ほぼ死亡推定時刻の22時頃に被害者が外出したことだった。
マンション入り口の防犯カメラに死亡時の格好をした彼女が出て行くところの後ろ姿が映っていたのだ。
友人にも確認してもらったところ、顔は映っていなかったが、背格好は確かに被害者で、その着ているワンピースも彼女の部屋で見たことがあるということだった。
赤井もその防犯カメラの映像を見た。
その時、彼は何か違和感を感じたが、それが何なのか、その時はよくわからなかった。
とりあえず、22時過ぎまでは被害者は生きていた事が確認できたが、多分、直後に殺されている。
駅から近いこのマンションから、あの事件現場までの約500mの足取りは、特にコンビニやコインパーキングの防犯カメラの映像に映っていなかったことから不明だったが、逆に言えば、防犯カメラの無いルートだということで、いくつか想定はできた。
その間で、あっという間の犯行。
しかも、首を切断しながら血を流さない。
さらにその死体を、血を流さずに運ぶ……
捜査員達は、この実行不可能な命題を解かなければならなかった。
真田は、その近辺での再度の目撃情報と怨恨関係の捜査も指示したが、赤井にはそれも無駄な事だと思われた。
●世田谷西署刑事課事務室
「あーあ、せっかく首も身体も身元が判明したのに、振り出しですか……」
夜も更けて、刑事課も赤井と二人きりになり、三田村が自分の机で天井を見上げた。
「振り出し言うな」
赤井も少し上の空でツッコんだ。
柳静香の部屋の捜索の後、もちろん渕上親子に確認したが、二人共面識はなく、出身地なども含めてまるで接点はなかった。
柳静香があの部屋に地元の茨城から引っ越して来たのは2年くらい前で、17年前に行方不明になっていたというか、殺されていた渕上小百合と接点がある訳もなかった。
「ん?どうしたんですか?主任」
余りに上の空な赤井に三田村が聞いた。
「ああ、あの防犯カメラの映像が気になってな」
「マンションのですか?」
「ああ」
三田村も一応見たので、それを思い出しながら首を傾げた。
「何か気になることとかありました?何も持ってないくらいじゃないですか?」
「あ?」
「え?」
赤井が睨むようにこっちを見たので、三田村がきょとんとした。
「そうだよな。何も持ってなかったよな」
赤井が何か気になったみたいに立ち上がった。
「おい、ちょっと付いて来い」
「あ、はい」
頭を掻きながら部屋を出て行った赤井に、三田村は付いて行った。
赤井は、鑑識課に行くと、またマンションの映像を見始めた。
「おまえの言うとおり、何も持っていない」
「それはそうでしょ。現場にも何も無かったんですから」
「それだよ、それ。おかしいだろ?彼女は何をしにあの時間に出掛けたんだ?」
「コンビニとかじゃないんですか?」
「あほか、おまえ。それなら最低でも財布は持つだろうが」
「ああ、そりゃそうですね」
赤井は呆れた様に三田村を睨んだ。
ケータイの履歴も、あの日は特に掛かってきたものはなかった。
というか、その前も、SNSを含め、彼女にはほとんど連絡がなかった。
だから、誰かに呼ばれて外に出たという線もまずない。
「かわいそうな娘だよな……」
赤井は、ポツリと言ったが、
「それはそうとして、これ、本当に本人か?」
「え?どういうことですか?」
「だから、こんな時間に何も持たずに出掛ける必要がないってことだよ」
「はあ?」
「鈍い奴だな……。だから、犯人の一味に女もいて、わざわざ被害者に化けて、この時間まで生きていた様に見せ掛けたってことだろ?」
「でも、ほぼ死亡推定時間ですよ?意味ないでしょ」
「あ……」
三田村の言うことももっともだった。
赤井は、もしかして死亡推定時刻まで何か細工してごまかしてるのか?と、思った。
でも、あの怪奇な出来事を目撃した自分が、やっぱり刑事として現実で物を考えていることに気が付き、苦笑しながら、画質のあまり良くない映像を繰り返し再生させた。
何回目かで、ふと気になった。
「おい」
「はい?」
「これ……」
三田村は赤井が指差したところを顔を近付けて見つめた。
「あれ?」
三田村も気が付いた。
「これ、服がおかしいですよね?」
「だろ?何か後ろから引っ張られてないか?」
確かに、出口に歩いていく女性の服が後ろに引っ張られている様な動きをしていた。
「糸が何かに引っ掛かったんですかね?」
「わからん」
「それでふらついているのかな?」
赤井は三田村を見て、もう一度見直した。
「まあ、ふらついているとは思ったが、糸くらいでふらつくかよ」
部屋からは、特に薬物は見つかっていない。
具合が悪くてふらついているのか、本当に、後ろから何かに引っ張られているからなのか……
赤井は、とりあえず、最初に見た時の違和感はこれか……と、思っていた。
● 東武蔵大学園山教授研究室
遥香は、最初にここを訪れてから毎日通っていた。
「先生、差入れ持ってきました」
遥香は吉祥寺駅のエキナカで買った包みをテーブルに置いた。
「お、sawaiのカヌレかい?」
「はい。先生お好きでしたよね」
「おお、好きだ。ありがとう」
遥香は二人分のコーヒーを入れて、それもテーブルに置いた。
教授はソファーに座ると、早速箱を開け始めた。
「うんうん、これこれ」
教授は、まるで宝石でも見る様に軽く目の前に持ち上げて、ゴクリと唾を飲み込んだ。
遥香は苦笑しながら、コーヒーを口にした。
「美味い♪」
「それは良かったです」
遥香は、満面の笑みを浮かべている教授を見て笑った。
「で、何か見つかりました?」
「うっ!!」
「え?せ、先生!」
遥香の問い掛けに思い当たった教授が、いきなりカヌレを喉に詰まらせた。
遥香は慌てて教授の後ろに回ると背中をどんどんと叩いた。
教授はコーヒーを飲んでやっと一息ついて、
「いやぁ、死ぬかと思ったよ」
と、笑った。
「もう、先生ったら……」
「いや、すまんすまん」
そう言いながらも、教授はすぐにもう一つカヌレを手に取った。
そこまで好きなら仕方ないと諦めて、遥香は彼が食べ終わるのを待った。
「うんうん、満足した」
満面の笑みの教授を見て遥香はクスッと笑った。
「じゃあ、何か見つかったコトを教えてください」
「ああ、そうだな」
教授はデスクの上から数枚の印刷物を手に取ると、遥香の前に置いた。
「とりあえず、絞り込んだのはこれくらいだ」
まず1枚目は首を切られた殺人事件のリストだった。
そんなに数はなかった。
次に数枚からなる資料は、日本各地の伝承についてまとめたものだった。
「首だけの物の怪、首を切る風習、首をどうかする風習、とにかく首に関するもので、今回の事に関係ありそうなものをピックアップした」
遥香は、とりあえず目を通してみたが、しっくりくるものはなかった。
「ん?先生……これ……」
「その最後のやつだろ?」
「あ、はい」
遥香はそのとおり、最後の項目にただ一言書かれた言葉が気になった。
「うつり?」
「そう、『うつり』だ」
「でも、特に何も書いてないじゃないですか。何ですか?これ」
「俺にもわからん」
「は?」
「俺はそんな言葉は検索ワードにしてないが、関連付けられてあちこちで引っ掛かるんだよ」
「中身は何なんですか?」
「それが、引っ掛かるのは、まずは『うつり』という言葉なんだよ。だから、まずは関係ありそうな物が無いんだ」
「それじゃ、本当に意味がないじゃないですかぁ」
「そこでだ、『うつり』に重点を置いて再検索を掛けている。すぐに引っ掛かったのは目を通したが、後は巡回で何か引っ掛かるまでしばらく待つさ」
「はあ……」
でも、なぜ首に関する殺人事件でそんな言葉が引っ掛かるのか、確かに気にはなった。
遥香は、自分のケータイで『うつり』を検索してみた。
検索結果には、まずは結婚祝いのお返しの『おうつり』がズラズラと並んだ。
漢字では『お移り』。
他にはおためとも呼ばれるが、お祝いを確かに受け取りましたという意味も込めて、お祝いの一部を返す風習のことだ。
その『お移り』以外では、
『人の住所などが変わること』
『火事などが他に伝わること』
『移り変わること』
『ゆかり。関係』
『代わりの人。身代わり』
『事情』
など、意外といろんな意味があった。
これらの中で遥香が何となく気になったのは、『代わりの人。身代わり』だった。
頭と身体が違う。
遥香はこの意味で引っ掛かったのかとも思ったが、
代わり……か。
ただ漠然とその言葉を頭の中で繰り返させた。
それと、何かここ数年の間に『うつり』という言葉を聞いたことがある様な気もしたが、今は特に思い出せなかった。
まだ陽が落ち始めたばかりの時間だが、再検索は時間が掛かるので、遥香は帰ることにした。
遥香は教授に挨拶して研究室を出た。
廊下の左右を見ても人の気配はなく、しーんとしていた。
夏休みにこんなことをしている自分に、無職なのにそうじゃない感じの違和感を感じて、彼女は苦笑した。
「仕事見つかるかなぁ」
遥香は少し笑顔で大学の門をくぐった。
いつもの帰り道だったが、そんな気分が後押ししたのか、ふと思い付いて、一つ手前の駅で降りた。
遥香は駅前の花屋であまり派手でない花束を2つ買った。
それを抱えて、彼女は駅から北の方へ歩き始めた。
ほんの数分で着いたところは、柳静香のマンションだった。
エレベーターで4階に上がると、それらしい部屋のドアに立入禁止と書かれた黄色いテープが貼られていた。
表札を見ると、確かにここだった。
遥香は、しゃがんで花束を1つドアの前に立て掛けると、目を瞑り手を合わせた。
しばらくして、彼女は目を開けると、
「私のお母さんと、最期に一緒だったのはなぜなんですか?」
と、小さな声で言った。
誰も返事をしない中で、遥香の耳には後ろから、夕方のすごい蝉の合唱が聞こえていた。
遥香が立ち上がってエレベーターの方へ向くと、その手前の角から顔を半分出してこっちを見ている女の子に気が付いた。
遥香は、何だろう?と思いながら、女の子の方へ歩き始めたが、その女の子はすぐにそこの階段を降りて行ってしまった。
エレベーターのところから階段の方に耳をすませたが、その時にはもう駆け下りる足音は聞こえなかった。
遥香は首を傾げながら、エレベーターに乗った。
下に降りて周りを見てみたが、やっぱりさっきの女の子はいなかった。
「ま、いっか」
遥香は次の場所へと向かった。
その次の場所は、ここからちょうど実家への道の途中みたいな感じだった。
●遺体発見現場近隣
「何度もすみません。世田谷西署の者ですが」
赤井の前で三田村が、出てきた品の良い初老の女性に言った。
「ああ、例の殺人のね……」
「ええ」
「あの事件のあった日の夜22時頃なんですが、何か気付いた事、思い出した事、何でもいいんで、何かないですかねぇ?」
「この前も聞かれたけど、ずっと家の中にいたしねぇ……」
その女性がそう言った時、後ろを小さな女の子を連れた親子連れが通った。
その女の子が、母親に公園での事を話しながら歩いていた。
「あ……」
「あ?」
「そうそう。そういえば、その時間くらいの頃、私、お手洗いに行ったのね。で、手を洗うところの窓を開けてたんだけどね、その時、外を女の子が親か誰かと通っていたの」
「え?女の子ですか?」
三田村は何の話かと首を傾げた。
「えっとね、その女の子が、確か、『どこに行くの?』『もう無理だよ』っていうことを言ってたの。でも、あの窓からは外は見えなくてね」
彼女が指差した方にお手洗いの窓らしき物が見えたが、その前は背の高い生け垣で、確かに、道路のところは見えないだろう。
「『どこに行くの?』『もう無理だよ』……?」
赤井が繰り返した。
「そうそう。確かにそんな感じのこと言ってたの。ちょっと言葉遣いが変だったからはっきりは覚えてないけど、意味はそう。で、あんな時間に小さな子供を連れて、何なのかしらって思ったのよね」
彼女は思い出すように言ったが、
「あ、あらあらごめんなさい。事件と何の関係もないわね」
と、笑った。
「ですよねぇ~」
三田村は苦笑したが、赤井はなぜだか、その台詞が気になった。
「いや、まあ、その親子が見つかれば、何かを見てるかもしれませんので参考になります。他には何かないですか?」
三田村が更に聞いたが、聞けたのはそれだけだった。
赤井達はその女性にお礼を言うと、次の家に向かった。
● 遺体発見現場の家
遥香は、マンションから歩いてきて、遺体発見現場に差し掛かっていた。
周りはかなり薄暗くなっていた。
「あの家か……」
家の前にさっきと同じ黄色いテープが貼られていたのですぐに分かった。
ふと気が付くと、その家の前に誰かいた。
それはさっきマンションで見掛けた白っぽいワンピースを着て赤い靴を履いた女の子で、その家を見ていた。
肩までの黒髪が真っ直ぐ綺麗で、お人形さんの様なかわいい顔をしていた。
手にはボールを両手で持っていたが、そういえば、さっきも持っていたような気がした。
「ねえ」
遥香が声を掛けると、その子はゆっくりと遥香を見た。
「あれ?遥香ちゃん?」
その声に振り向くと、三田村と赤井が歩いて来ていた。
「あ、こんばんは」
「どうしたの?」
三田村が遥香と家を見た。
「ばか」
赤井が軽く三田村の頭を叩いた。
遥香も苦笑しながら、花束を目の前に持った。
「あ、そうだよね……、ごめん」
その三田村の言い方に、赤井が再度彼の頭を叩いた。
「え、何するんですか?」
「うるさい」
「ぷっ」
その二人のやり取りに、遥香は噴き出した。
「いや、ほんとすみませんね」
赤井が横を向きながら言った。
「あ、そういえば」
遥香は振り向いたが、女の子は居なくなっていた。
きょろきょろと周りを見たが、どこかに走っていった気配は感じなかった。
「どうかしたんですか?」
赤井が聞いた。
「いや、今ここに女の子が居たんです」
「女の子?」
「ええ、4、5才くらいの。あれえ?」
「私達が渕上さんを見かけた時には居なかったですが」
「え?もしかして、この家に入ったのかな?」
「え!それはマズいですよ!俺見てきます!」
三田村が、テープをくぐって真っ暗な家の中に入って行った。
「その子、さっき、例のマンションでも見掛けたんです」
「え?本当ですか?」
「もしかして、何か目撃してるんでしょうか?」
「そうですね。その可能性はあります。今も聞き込み中なので、気を付けてみます」
赤井は、さっき聞いた女の子と同一人物ではないかと思った。
遥香が花束を置いて、手を合わせた後、しばらくしてライトを揺らしながら三田村が出てきた。
「いや、やっぱり居なかったですね」
「じゃあ、家が近いのかもしれません。すぐに近隣を聞き込みしてみます」
「はい、お願いします」
「遥香ちゃんはどうするの?」
「私は、このまま真っ直ぐ実家へ」
「実家?」
赤井が遥香を見た。
「ここ真っ直ぐ行ったとこですよ。すぐ近くです」
狛江市は世田谷区の西隣りである。
「そうですか」
赤井は軽く微笑んだ。
確かに、柳静香の事を聞きに行った時に、お礼は言われたが、赤井は、遥香が普通に父に会うということに少しホッとしていた。
「じゃあ、暗くなったので気を付けて」
「はい、ありがとうございます」
遥香は軽く手を振りながら歩いて行った。
「そうか」
「どうしたんです?」
「いやな、あのマンションから、柳静香は、渕上遥香の実家の方へ歩いていたんだなと」
「遥香ちゃんの実家を知っていたんですかね?」
「いや、分からんが……」
「分からんが?」
そう言ってこっちを見た三田村の頭を赤井はまた叩いた。
「ちょっと、何するんですか!」
「だから、『ちゃん』はやめろ!」
「あー!そんなの俺の自由でしょ!」
「自由な訳あるか!」
「もういいから行きますよ!」
「三田村、おまえは!」
そんな会話をしながらも、二人は次の聞き込み先に足を向けた。
● 渕上家
遥香はキーホルダーの少し古びた鍵でドアを開けた。
少しずつ失われた時間を取り戻すように、あの葬式以来、何度か帰って来ていた。
電気も点いていなかったのでわかっていたが、父祐志はまだ帰っていなかった。
居間に入って、遥香はソファーにバッグを置いた。
父が帰る前に少し片付けようかと思ったが、意外と片付いていて、することがなかった。
ふとテレビの横の棚の上に目が留まった。
写真立てが置かれている。
親子3人が写る最後の写真。
遥香はそれを手に取った。
父の時間は、きっとここで止まっていたんだろう。
しばらくそれを見つめると、また元の様に置いた。
遥香は思いを新たにした。
線香の匂いがしたので、誘われる様に奥にある部屋に行った。
その部屋には小さな真新しい仏壇に母の遺影が置かれている。
遥香は線香に火を付け、手で煽って消すと、香炉に立てた。
そして、お鈴を鳴らすと、目を瞑り手を合わせた。
その時だった。
急に空気が重くなり、身体の表面がざわっとして鳥肌が立った。
たまに感じる、あの感じだった。
ゆっくり目を開けた時、ふと右目の端に映るものに驚いた。
正座をする女性の下半身が見えた。
誰かが、こっち向きに正座をしていた。
遥香は声も出せないまま、ゆっくりと右へ顔を向けた。
その女性の顔が見えた。
それはたった今、目の前で見ていた顔…
「お母さん……」
横に座っていたのは、遥香の母、小百合だった。
着ていた服に見覚えがあった。
確か、家に帰って来なかったあの日の朝、学校に行く自分を玄関で見送った時の服だった。
身体はざわっとしたまま。
だから……
小百合は、何も言わず、ただ微笑んでいた。
「お母さんなの?本当に、お母さんなの?」
小百合は、変わらず微笑んでいた。
怖さはなくなった。
それより。
「お母さん……私……、私……、ごめんなさい……」
遥香は母の方に手をつくと、泣きながら頭を下げた。
顔を上げると小百合はゆっくりと首を振った。
「ほんとに?……本当に許してくれるの?」
小百合はゆっくりと頷いた。
「お母さん……」
遥香は涙ぐんだまま母を見つめた。
手を伸ばせば触れられそうな感じだったが、それは無理だと分かっていた。
時間もないと感じた。
「お母さん、教えて。お母さんを殺したのは、誰?」
遥香は涙を袖で拭くと気丈な感じで母を見つめた。
小百合は、その微笑みを悲しそうな微笑みに変えただけだった。
「お母さん!」
小百合はその微笑みも消して、少し俯いていたが、顔を上げると口を動かした。
何か言ったが、それは遥香には聞こえなかったし、口の動きだけでは、それを言葉に変えられなかった。
「ねえ、お母さん、もう一度言って」
遥香がそう言ったが、小百合は寂しそうな微笑みをまた浮かべただけで、そのまま消えていった。
「お母さん!待って!」
遥香は小百合がいた場所に手を伸ばしたが、その手には何も感じなかった。
そして、あの感じもなくなった。
「お母さん……」
遥香は顔を両手で押さえると、また泣き始めた。
「ごめんなさい、お母さん……。きっとお別れを言いに来てくれたのに、私……」
遥香はまた、悔いを残してしまった。
それからそんなに経たずに、襖が開いた。
「遥香、来てたのか」
祐志が顔を覗かせた。
「どうした?」
少し呆然としていた遥香を見て、祐志が戸惑った。
「ううん、何でもない」
遥香は軽く首を振った。
「あ、ご飯作るね。何かあるかな?」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ」
遥香は少し微笑んだ。
「冷蔵庫見てみるね」
そう言って遥香は部屋を出て行った。
祐志はそんな娘をただ見つめるしかできなかった。