第2章
●翌日 世田谷区某所
「主任こっちです」
「ああ……」
世田谷西署刑事課強行犯係の係員三田村に呼ばれて同係主任の赤井は、気怠そうに、彼が手招きしている家に向かった。
その家は廃屋と化した二階建ての住宅だった。
中に入る前にもう一度、朝早くからどんよりとしている空を見上げた。
纏わりつくような湿気がこの後の雨を予感させた。
「すぐ終わるといいんだけどな」
短めだが、少しボサッとした髪を掻きながら、赤井が呟いた。
「主任、何やってるんですか」
三田村が白い手袋をはめた手をさっきより大きく手招きした。
その白い色が灰色の景色の中で、唯一鮮やかで、それがここを日常ではないと感じさせた。
「……はいはい」
赤井は溜め息をつきながら、入り口で立って敬礼している制服警官に軽く手を挙げると、その家の中に入った。
今朝早く、犬を連れて近所を散歩していた住民が、女性の遺体を発見し通報してきた。
この家の前を通ると、急に犬が吠え始めたらしい。
いつもは素通りの場所で吠えるから気になって中に入ってみると、遺体を発見したという訳だ。
中は薄暗いが思ったよりも壊れてはいなくて、ただ埃が酷いという感じだった。
その埃で、ここを出入りした者の足跡はすぐにわかりそうだった。
特に家具とかかがあるわけでもないので、意外と広く感じた。
三田村の背中が右手の薄暗い廊下の先の部屋に向かっていた。
赤井はその後を付いて行った。
部屋の入り口で立っていた制服警官が赤井たちに敬礼した。
「お疲れ」
赤井が軽く手を上げて言った。
「主任、これですよ」
「おい」
遺体をまるでモノみたいに言った三田村を少し睨んだ。
「あ、すみません」
赤井は、目の前の遺体に手を合わせた。
三田村もバツが悪そうにだが、手を合わせた。
その儀式が終わると、赤井はその女性の遺体を見た。
白っぽいワンピースを着ていて、長い黒髪、色白の20代後半の女性。
壁に背中を預けて座り込んでいた。
ベージュのパンプスを履いたままだった。
赤井は薄暗い部屋を見回した。
元は寝室かもしれないが何もない。
ここにある新しい存在は、この遺体だけだ。
特に争った痕跡もないし、バッグなどの遺留品もなかった。
赤井は、他で殺されてここに運ばれたのだろうと思った。
ただ、赤井はその遺体の表情に違和感を覚えた。
三田村もだった。
「なんで仏さん、笑ってるんですかね?」
三田村が言ったが、赤井はそれは違うと思った。
ホッとした……
そんな感じだった。
死にたかったのか?と、思ったが、それも何か違う気がした。
「で?死因は?」
鑑識が来るまであまり触らないようにしながら、その遺体を見ていた三田村に赤井は声を掛けた。
「えっと、首を絞められた訳でもないし、特に外傷もないみたいですけど……」
「こんな場所だ。自殺じゃないだろ」
赤井は自分でそう言いながら、何となく足跡が少なすぎると感じた。
自分達は靴にビニールを被せているので「足跡」には入らない。
すると、もしかして仏さんと第一発見者のだけじゃないのかと思えた。
赤井は、遺体を自分でもじっくりと見てみたかったが、無意識に勘が働いているのか、なぜか傍に近付くのを躊躇していた。
「いや……別にどこからも血が出てるわけでもないですし、床に血痕もないし、毒か?」
そう言いながら、三田村が口の中を調べようと顔に触れた時だった。
「え?」
三田村はそれを見て手を離すと動きを止めた。
何もなかった遺体の首に、赤い線が左から右に描かれていったのだ。
「どうした?」
さすがに赤井が近付いた。
「何だよこれ?さっきはなかっただろ?」
赤井が三田村の肩に手を掛けて言った。
だが、その首に描かれた赤い線は、線ではなかった。
その赤い線がズレ始めて、初めて首が切れているのだとわかった。
「う、うわぁあああああ!!」
三田村が後ろに飛び退ったので、赤井も一緒に倒れ掛けたが、そんなことはどうでもよかった。
目の前の遺体の首が手前にそのままズレてきて、ゴトッと落ちた。
「うわあっ!!」
赤井は堪えたが、後ろの制服警官が悲鳴をあげた。
目の前で、落ちた首はゆっくりとその揺れを緩やかにして、止まった。
誰もが声を失って、その首に視線を釘付けにされたままだった。
赤井が気を取り直してそれに近付こうとした時だった。
首の顔が、まるで映像が揺れるように見えた。
「な、なんだ?」
そしてその表情が少しずつ変わり始めた。
まるで、床の方を見ようとしている様に見えたが、違った。
その皮膚や髪が溶ける様に流れ落ち始めたのだ。
「うわぁあああああ!!」
赤井も今度はさすがに後ろに飛び退った。
「何なんですか!!これ!!何なんですか!!」
三田村も横で叫んだ。
その皮膚や髪の毛が溶け落ちながら蒸発する様に消え、その首は見る見るうちにただの白骨と化していった。
「何だよこれ!!何なんだよ!!」
三田村が気が狂ったように叫んでいた。
赤井は目の前の、もう表情のない頭蓋骨を見て、ただ言葉を失っていた。
●世田谷西署 大会議室
「普通に捜査本部《帳場》が立ちましたね」
三田村が赤井に小声で囁いたが、赤井はそれには応えずブスッとしていた。
三田村が言ったのは、あんなモノを見たのにこれを『ただの殺人事件』にするのかという意味が込められている。
今回の事件では、警察官3名という目撃の証言がありながら、誰もそれを信用しなかった。
刑事課強行犯係長の大山は現場での生え抜きで、赤井とも長年の付き合いで、お互いの信頼感は強かった。
その大山でさえ、赤井が食いつく様に訴えても、さすがに、苦笑するしかなかった。
「何かクスリでも撒かれていて、3人で同じ幻覚をみたんだろ」
誰もが確証もなしに、そんなコトを言った。
ただ、鑑識が調べたこところで、そんな薬品の痕跡が検出されたわけではない。
司法解剖の結果では、なんと頭蓋骨と身体は別人のもので、現時点でそれぞれの身元は判明していない。
しかも、身体の方の死亡推定時刻が発見された日の前日22時から26時の間、死後10時間程度に対して、頭蓋骨の方の死亡推定「《《時期》》」はほぼ15年から20年くらい前のものだった。
どちらも信じられないほど鋭利な刃物で切断されていたが、不思議なことに身体の方は、ほぼその血液が体内に残ったままだった。
何か薬品を使った訳でもなく、首の部分の血液だけが凝固して出血を止め、体内の方はまだ流動性が残っていた。
こんなことができるのか……と、誰もが思った。
仮にやるとすれば、首を切断した瞬間に血が出ない様に蓋をしたということか。
例えば薄い板状で幅のある刃物でそのまま首を切り落とした後、そのままにすれば蓋をしていることにはなるだろうが、首には動脈がある。
すぐに血が噴き出すし、身体を少しも動かない様に固定する必要がある。
それは実際には不可能なことだったし、遺体には、その痕跡が一切なかった。
それに首の周りはもちろん、どこからも血液反応がほとんど出なかったのだ。
本当は、身体の中の血液が固まるまで蓋をしていて、頭蓋骨に載せ替える行為も必要となるが、そんな時間があった訳もない。
それに、赤井が危惧した様に、現場の足跡は、本人と第一発見者、そして犬のモノしかなかった。
あの遺体は、自分であそこに歩いて行ったのだ。
だが、あの死に方から、これが殺人事件であることは間違いなかった。
だからこそ今、この大会議室に約30人の捜査員がいるのだ。
現時点での初動捜査の結果を各担当が報告していた。
まずは一番疑わしい第一発見者について。
近所に住む40代後半の会社員で、19時前には帰宅し、風呂に入った後、ビールを飲んでテレビを見ながら居間のソファで寝込み、ずっと一緒だった妻が23時過ぎに寝室で寝るように急かして、そのままだった。
高校生と大学生の子供もそれを見ていた。
学歴も低レベルなただの文系大学出身で、今回の事件が本当に殺人事件であるなら、それを行った犯人像とはかなりかけ離れた人物だった。
それだけで、容疑者から除かれた訳ではない。
この男性の足跡が、建物の中に入り、そのまま慌てて外に出た、そういう動きしかなかったのだ。
その他にも報告は続いたが、犯人に繋がる事実関係は何も浮かんでこなかったし、その殺人方法、遺体の運び方もまるで見当が付かなかった。
頭の方はまだしも、身体の方も近隣の行方不明者の確認だけでは身元が引っ掛からなかった。
実際には、何もわかっていないことと変わりなかった。
「所轄の赤井と三田村」
管理官の真田が鋭くこっちを見ていた。
「は、はい!」
三田村は返事をして立ち上がると、赤井は続けて渋々立ち上がった。
「お前達の報告書は読んだ」
「はい!」
三田村は返事をして、赤井は軽く頭を下げた。
赤井は、どうせ無視してたんだろうが、今更恥をかかせるのかと更にぶすっとした。
「で、赤井。お前はこの事件をどう思っているんだ?」
二人の反応から真田は聞く価値のある方の赤井に聞いた。
赤井は、聞かれることの当てが少し外れて、その質問を訝しんだが、
「俺たちがアレを見たのは事実です。きっとどこかで掘り出した頭蓋骨を複顔したか何かで、まるで生首の様に見せかけ、近付いたらそれが溶ける様に細工していた。こう考えるのが自然じゃないですか。頭のおかしい奴だが、それなりに化学的な知識やあの切断の技術を持った奴の仕業だと思いますが、ただ、あそこにわざわざ運んだ理由、その運び方については見当も付きません」
と答えた。
赤井の言い方はぶっきら棒だったが、刑事として現実を見ていた。
「あ、ああ、自分もそう思います!」
少しあっけに取られていた三田村がそう言ったが、真田は聞いていなかった。
「今の所は俺もそう思う」
その真田の答えに、赤井だけでなく、他の捜査員達も少し騒ついた。
彼らが頭蓋骨でなく『顔』を見たのが前提だったからだ。
「管理官!所轄のあんな報告を鵜呑みにするんですか!」
捜査一課の若い課員が声を荒げた。
あの頭蓋骨からは、洗った形跡がないのに、複顔に使われるはずの化学物質や、ましてや土でさえ付着していなかったのだ。
それは、最初から「頭蓋骨」であり、死んでから埋められずにどこかで保管されていた物と考えられたからだ。
「じゃあ、なんだ?あの仏さんをどうやって血が出ない様に殺した?どうやって血が出ないままの仏さんにできた?さらにどうやって運んだ?なぜ3人の警官が同じ報告をした?幻覚でも見せたのか?じゃあ、どうやった?1つくらい答えられるか?」
「いや、それはまだ……」
逆に聞かれて、その課員は答えに詰まった。
「まだ方向性を決められるほど事実関係がわかっちゃいない。だから可能性は全部潰せ。池田」
そう言って、真田は鋭い視線をその課員に向けた。
「……すみません」
池田と呼ばれた若い課員は頭を下げた。
「試しに、お前達が見たというその女性の顔の似顔絵を3人が別々に描いてもらってみろ」
真田は赤井に視線を戻して言った。
「……分かりました」
赤井はその真田の視線に何かを感じ取って、少し姿勢を正し礼をすると、座った。
三田村も慌てて礼をして座ったのだった。
その後、真田は、赤井が言った内容のことを裏付ける捜査と、過去の同様の事件の洗い出し、そして、今回切断されたばかりの首の捜索を各担当に指示した。
「主任」
会議室を出て、三田村が赤井を呼び止めた。
「あ?」
三田村は、他の捜査員の目を逃れる様に、横手の通路に赤井を引っ張った。
「何だよ」
三田村は、通路から他を少し確認すると赤井に向き直った。
「さっき言った事は本気ですか?」
「はあ?何がだよ」
「あの生首が白骨化したのが、誰かの細工ってやつですよ」
「どういう意味だよ?」
「アレを見て、『誰かの細工』だと、本気で思ってるんですか?ってことですよ!」
言い方と違って、三田村は小声で言った。
「んな訳あるか。俺だって、アレが『人の仕業』なんて思ってねえよ。でも、さっきは刑事として答えるしかねえだろうが」
赤井がブスッとして答えた。
「そっか、そうですよね……。とりあえず、自分だけおかしくなったのかと思いましたよ。安心しました」
「何だよ、そんな事で呼び止めたのか?ほんと、お前は空気が読めねえな」
赤井はそう言うと、さっさと行ってしまった。
「主任!待ってくださいよ」
三田村は情けない声を出して赤井を追い掛けた。
似顔絵とは言うが、実際はCGで作成するので、その日のうちに、赤井達3人の証言の似顔絵が別々に出来上がった。
「ほお……」
管理官の真田が唸るほど、3人が見た女性は似ていた。
誰が見てもほぼ同一人物だった。
「わかった。じゃあ、今度は3人で確認しながら、一番似てるやつを選べ」
「え?どういうことですか?」
三田村が訳が分からず聞いた。
「まさか、それ公開するんですか?」
赤井はその意味を感じ取って聞いた。
「ああ、公開する」
真田はさも当たり前の様に言った。
「犯人を刺激しませんか?この犯人はきっと注目を集めたがっています」
赤井が言いたいことは、真田も分かっている。
赤井の言うとおり、この犯人は注目を集めたがっているのだろう。
そうでなければ、あんな細工はしない。
だが、まだ警察発表では、ただ「首が切断された殺人事件」とだけ発表しているのだ。
それだけでも犯人を刺激しているのに、一見写真に見えるように加工される似顔絵の発表は自分の仕掛けが失敗したと警察が言っている様なものだ。
そうなれば、犯人は同様の殺人を更に犯す可能性が高まる。
「お前の心配も分かるが、この似顔絵から何かの情報を得られるかもしれない」
赤井は真田の台詞に、彼の思い描く方針を想像した。
確かに、仮定の上では、こんな犯人だ。
どうせすぐに次の犠牲者が出るだろう。
それなのに、これからも頭も身体も身元が分かりそうにない。
まずは、身元を特定しないことには、何の手掛かりもないのだ。
ただ、心の中では、
「そんなことは無駄だ」
と、思っている赤井だった。
●世田谷西署 応接室
似顔絵が公開されてから、数日後、渕上遥香は世田谷西署を訪ねた。
「渕上遥香と言います」
対応した赤井と三田村に、遥香は頭を下げた。
「それで、あの似顔絵の女性がお母さんだと?」
本当にこんな申し出が出るとは思っていなかった赤井は戸惑っていた。
「はい。間違いありません。確かに母です」
遥香はそう言うと、何枚かの写真を差し出した。
「失礼します」
赤井がその写真を受け取って見た。
「あ……」
その反応で遥香はかなり似てるのだと思った。
「それ、母が失踪する前の写真です。もう17年前ですけど」
「え?17年前?」
赤井が少し驚いていた。
彼等が見たのはついこの前だ。
「すると、この女の子は……」
空気を読まない三田村が、一緒に写る女の子を指差した。
「はい。私です」
「じゃあ、お母さんはそれ以来?」
「はい。行方知れずです」
「そっか……」
同情している三田村の横で、赤井は表情を隠していた。
「私、ほんとは、ずっと母を憎んでいたんです」
と、遥香は言った。
「私と父をいきなり捨てて、ふざけるな!って思っていました」
赤井はそういう感情もあるかと思ったが、
「いや、でも……」
三田村はやっぱり空気を読まない。
「でも、死んじゃったのなら、責められないですよね……」
そう言って遥香は急に気落ちした。
「そうですね……」
赤井が呟くように言った。
「あの、お母さんが亡くなったのは多分その頃ですから、君達を捨てたという訳じゃないと……」
「え?」
「三田村!」
赤井が声を少し荒げた。
三田村もしまったという顔をした。
だが、三田村を止めるのは遅すぎた。
「あの?今のどういうことですか?母はついこの間殺されたんですよね?……あ!」
そう。
今回の似顔絵が17年前のままということに、遥香も気が付いた。
「えっと、その……」
何かを言おうとしながらうまく言えそうにない三田村を、赤井は制した。
「ここだけの話にしてください」
「あ、はい」
遥香は表情を真面目にして少し身を正した。
「確かに、あなたのお母さんは、その失踪の頃に亡くなっているんです。いや、失踪じゃなく、その時、殺されたから家に帰れなかったんでしょう」
「え?どういうことなんですか?」
「今回の殺人現場では首のない死体と、その死体とは別の古い頭蓋骨が見つかったんですよ。その頭蓋骨があなたのお母さんだということです」
「え……、そういうこと、だった……んですか」
言われたコトの意味がすぐには分からず、少し理解しながらという様に遥香は言った。
赤井はCGによる複顔という技術によって頭蓋骨の元の顔を似顔絵にしたと説明した。
「だから、お母さんを責めないで欲しい」
赤井はあえてそう言った。
「え?あ、そ、そうですね……、母は、殺されたから帰って来られなかったんだ……。そっか……私と父を捨てた訳じゃなかったんだ……。確かに、あんな土砂降りの雨の日にわざわざ出て行きませんよね……」
そこまで言うと、遥香はその事実にあらためて気が付いて、母のことを勘違いしていたことの後ろめたさ、そして母の無念さ、哀しさ全てが一気に心に流れ込んできた。
遥香は抑えきれずに大きな声で泣いた。
捜査の秘密を話したのはまずかったが、とりあえず、赤井は救われた気もしていた。
しばらく泣き続けて落ち着いてきた頃に、赤井に言われて三田村が新しいお茶を遥香の前に置いた。
「まあ、飲んでください」
赤井が優しく言った。
「……はい」
そして、何とか落ち着いた頃に、赤井にいろいろ聞かれたが、元々いきなりの行方知れずで、答えられることはほとんどなかった。
「最後にちょっと、今さら少し言いにくいんですが……」
赤井が遥香を見た。
「はい?」
「一応、お母さんのDNA鑑定をさせてもらっていいですか?間違いはないとは思いますが、確認はしておかないといけなくて」
「はい、もちろんです。当然のことだと思います」
「ありがとうございます」
遥香の素直な対応に赤井が頭を下げた。
遥香は、世田谷西署を出ると、一度振り返ってその建物を見た。
こんなところが自分に関係することになるとは思っていなかった。
軽くため息をつくと、陽が暮れかかった街へ歩き出したのだった。
赤井は、この写真が17年前のものなら、ついこの前見たあの顔とは違うことにがっかりしていた。
世の中、似ている顔は多い。
きっと、本件とは関係がない。
この時点であの頭蓋骨が遥香の母だとは思っていなかった。
ただ、それとは別に、そうであってくれとも思っていた。
今更、本当は失踪だった……では、彼女がかわいそうだった。
赤井は真田にこの事を報告した。
DNA鑑定の結果は、赤井の刑事としての勘を裏切って、遥香の母親渕上小百合であることを裏付けた。
それは、あの現場で見たのが、本当に17年前の渕上小百合だったということだった。
三田村はともかく、赤井にはかなりの衝撃だった。
だとすれば、この事件は、本当に警察が調べて分かるモノではないと思った。
DNA鑑定の結果を受け、17年前の失踪も殺人事件の可能性が浮上し洗い直すことになったが、今更何かの証拠が見つかる可能性はなかった。
渕上遥香とその父は、その失踪の頃から今も狛江市に住んでいた。
殺人現場と近いことは近いが、普通に埋葬されたのではない以上、あの頭蓋骨が一体どこにあったのかが問題だった。
そのことは、身元が判明しても、事件解決へ何の進展をも生まないということでもあった。
「とりあえず、この仏さんの旦那にも当時の事を聞いてこい」
真田は、赤井達に指示した。
「おい、三田村。その旦那の勤め先は分かるか?」
「あ、はい。遥香ちゃんに聞きましたので」
「遥香ちゃん?」
三田村のその言い方に赤井は少し睨んだ。
「あ、すみません」
三田村は悪びれる風でもなく、照れ笑いをしながら言った。
確かに、身長も女性として高くもなく低くもなく、肩まで掛かる少し茶色掛かった黒髪で、中々可愛い娘さんではあった。
三田村の趣味という事だろう。
「で!どこだよ!」
三田村がまだニヤけてるので、少し怒ったように赤井が言った。
「はい、えっと東都新聞ですね」
「東都新聞?」
「はい。どうかしました?」
「東都新聞で渕上?……まさか」
「え?知ってるんですか?」
「知ってる奴じゃなきゃいいけどな」
赤井はそう言いながら、照り付ける太陽が待ち受ける窓の外を見つめた。
そして、ふと思った。
もしかして、そういうことか……と。
●東都新聞本社 応接室
「お久しぶりです」
赤井は目の前に座る渕上祐志に、微かに浮かぶ感情を出さないように言った。
その感情とは、ある意味、恨みではあった。
10数年前、社会部にいた渕上が、とある殺人事件に関わる警察の証拠隠滅をスクープ報道した。
警察が証拠隠滅したのは、犯人として逮捕した男性が無実である証拠だった。
このスクープの後、その男性は釈放され、再捜査によって真犯人が特定されたが、その時には海外へ逃亡したあとだった。
その時の証拠隠滅は、上からの指示だったが、その責任を直上の先輩が取らされた。
いつもペアで行動していた息の合った先輩だった。
その先輩が一人でやったことにされた。
赤井自身も直下でありながら、それを止められなかった責任を取らされて、捜査一課から所轄へ飛ばされたのだ。
その時は、証拠隠滅したのが組織ぐるみと分かっていながら、なぜもっと上を追求しなかったのかと渕上を恨んだ。
だが結局は、彼も彼自身の上からの指示でそれ以上は追求できなかったのだろうとも思っていた。
新聞社とはいえ、完全に警察と喧嘩をする訳にはいかない。
中途半端なことをしやがって……
それが赤井の思いだった。
でも、彼がそれ以上追求しなかったのは別の理由かもしれないと、今は思っていた。
「お久しぶりです」
渕上が応えて頭を下げた。
目が鋭く意思が強そうな顔だが、その表情には、当時の精悍さがなかった。
「あれから、何やら資料整理の部署に移ったと聞きましたが」
「ええ。今でもずっと、同じ仕事です」
「あの事件のせいですか?」
赤井は表情を変えずに聞いた。
渕上は、その質問に、少し視線を落として、
「いえ」
と、自嘲の笑みを浮かべながら軽く首を振った。
「じゃあ、やっぱり、奥さんの失踪が原因ですか」
渕上は、その赤井の言い切るような言い方にハッとして顔を上げた。
赤井は、渕上の反応に少し戸惑った。
「あれ?……娘さんから聞いたんじゃないんですか?」
それまで、赤井と渕上の雰囲気に何も口を出さなかった三田村が言った。
「いえ、何も聞いていませんが?」
三田村が赤井と顔を見合わせた。
「あの……何かあったんですか?」
渕上も三田村を見て、もう一度赤井を見た。
その雰囲気から、本当に何も聞いていないようだった。
赤井は、今度の事件について、遥香に話したよりは情報を減らして説明した。
「小百合は……殺されていたんですか、……あの頃に既に……」
渕上は、感情を押し殺して、そう言った。
が、すぐにぼろぼろと大粒の涙を流して、嗚咽し始めた。
赤井と三田村はそれを黙って見つめていた。
赤井もあらためて調べて気が付いたのだが、渕上小百合の捜索願が出された日付けが、先輩の辞職の時期とほぼ同じだったのだ。
だから、それが渕上がその後追求をしなかったことと、社会部から出た理由だと思ったのだが、渕上が落ち着いた後に話し始めた内容は、そのとおりだった。
彼にとって小百合は良くできた妻であり、何よりも掛け替えのない存在だったらしい。
渕上は、彼女が傍にいるからこそ仕事人間になれていたのだ。
ところが、その妻が何の前触れもなく失踪し、その時の狼狽振りは酷かったらしい。
大スクープの後でも、もうそんなことを考える余裕はなかったみたいだった。
彼は妻を捜すために、自分から休みの取れる部署への異動を申し出たのだった。
「それで、娘さんとは何か確執が?」
赤井は、理由が想像できたが、一応聞いた。
「そうですね。あの時、妻が失踪したのは私のせいだと遥香は思っていました。私が家に帰らず仕事ばかりしていたからだと。それで今でも嫌われています」
赤井はふと気が付いた。
そういえば、よく考えたら、遥香が連絡先に書いた住所は、同じ狛江市だが、赤井が知っている自宅の住所とは違っていた。
「娘さんは、今、独り暮らしなんですか?」
「いえ、妻の父のとこで暮らしています」
「ああ、そういうことですか……」
赤井は三田村と顔を見合わせて頷いた。
その後、当時の状況を再確認したが、やはり、特に分かった事はなかった。
渕上は妻に合わせて欲しいと言ったので、そのまま一緒に署に戻ったのだった。
●狛江市渕上家
数日後、喪服姿の遥香は、久しぶりに実家の前に立った。
左側が少し坂道になっている角で、敷地は一段高くなっていて玄関まで数段の階段を上る。
濃い緑の生け垣に囲まれ、鉄製の門扉は開けるとキイッと音を立てる。
特に個性もない住宅街の一角の二階建てだったが、庭と縁側があるのは好きだった。
ここは就職の際に出て、それからは祖父の家に住まわせてもらっていた。
遥香は、母の失踪から家を出るまでの13年間、ほとんど話さないまま、父と暮らすのを我慢していた。
その13年の間も、父の帰りは遅かったので、あまり顔を合わせることもなく、まだ我慢ができていた。
でも、赤井から、母が殺されたという事と、父の帰りが遅かったのはその後ずっと母を捜していたからだという事を聞いて、今はそんな気持ちはなかった。
遥香は、ドアのノブにそっと手を掛けると、ボタンを親指で押しながら手前に引いた。
もちろん鍵は掛かっていなかった。
遥香はまっすぐ行った突き当たりの居間のドアを開けた。
ソファに喪服姿の父が座っていた。
「ただいま」
「……お帰り」
祐志は、ぎこちなく微笑んだ。
遥香は祐志の真向かいに座った。
「あ、お坊さんはもうすぐ来るから。お茶でも飲むか?」
祐志は立ち上がろうとした。
「お父さん」
祐志はまっすぐ自分を見る娘に、戸惑いながら、また座った。
「何だ?畏まって」
祐志は気を取り直して微笑んだ。
「今まで、……ごめんなさい」
遥香は頭を下げた。
「な、何だよ?別にお前が謝ることないだろう」
祐志は大袈裟に手を振った。
「ううん。私、ずっと一人で勘違いして、お父さんに嫌な思いさせたもの」
「いや、悪いのは俺で、お前が悪くなんて……、いや、そんな……」
祐志はそこで、嗚咽を漏らして大声で泣き始めた。
「お父さん……」
遥香は祐志の横に行って、泣いている父を抱きしめた。
「ごめん、お父さん……」
そして、遥香も泣き始めた。
しばらく親子で泣き続けたが、玄関のチャイムが鳴った。
「はい!はーい!」
祐志は、涙を拭きながら、遥香の肩を軽くぽんぽんと押さえると出て行った。
その後は、家族二人だけでの葬式をしたのだった。