過去話 プロジェクト始動
アイリスの部屋を訪れてから数時間後、私は自室で本を読んでいた。ちなみにマナーの教本である。復習だ。復習は大事だ。いつもは私のそばにいてくれているマリアも、やることがあるとかで私が自室に戻った時からずっと席を外している。もう直ぐ夕食の時間だから、そろそろ戻ってくるだろう。マナーの教本から顔をあげたところで、丁度マリアが夕食の知らせを持ってきた。何やら機嫌の良さそうなマリアと共に食堂に行くと、既にみんなが揃って私を待っていた。
「お待たせしました」
「いいえ〜全然待っていないわよ〜」
と、おばさまから暖かな返事をもらったところで、夕食がスタートした。ドルイット家の料理人は腕がいい。食事も軽食もお菓子に至るまで、とても美味しい。今日もその美食に舌鼓を打っていると、おじさまが楽しそうに私とアイリス、おばさまに明日の予定変更を教えてくれた。
「アイリス、シルヴィ、明日はお勉強も鍛錬も全てキャンセルだ。午前はマダムローズがいらっしゃるからシルヴィのドレスの仕立てを。シルヴィ、アイリスとドミニクにも付いていてもらうから大丈夫だ。午後は宝石商の方がいらっしゃるから、私も同席しよう。良いね」
ん?今なんて?
「まあ、お父様、流石ですわ。もうお話が通ったのね!」
「大丈夫よシルヴィちゃん。私とアイリスがあなたに似合うドレスをたくさん見立ててあげますからね!」
「え、いや、そんなにたくさんは…」
「何を言っているの!折角シルヴィちゃんがお洒落をしたいって言ってくれたのに…今たくさん作らなくてどうするの!」
「そうよシルヴィ!あなたはただでさえ全くドレスを持たないで。この際普段着もそんな質素なワンピースじゃなくてドレスにしてしまいなさい。ダンスもマナーも、実際にはドレスで行う物なのよ?練習だというなら、形だってちゃんと整えなくちゃダメよ」
ごもっともすぎて反論の余地もなし!私は言葉をつまらせてしまった。そしてすでに諦めてもいた。こうなったおばさまとアイリスは止められない。
ちなみにドミニクとはおばさまの名前だ。ドミニク・ドルイット。ファーストネームもセカンドネームも、どちらもドから始まるの、なんだか変な感じね〜と本人は笑っていたが、そんかことないと思う。そしてさらに補足すると、おじさまの名前はウィリアムという。
「諦めろシルヴィ、こうなった二人は止められない。お前も知っているだろう」
「そうね。反論するだけ無駄ね」
やれやれといった様子でアーサーが首を竦めた。アーサーはまさにこうなった二人の被害者筆頭である。彼が諦めろというのだから、諦めるしかないのだ。
「ウンウン、ようやくシルヴィもお洒落に興味を持ったか。これから楽しみだなあ、お前もそう思うだろ?アーサー」
「楽しみというか、驚きの方が強いな。正直あまり想像できない。シルヴィはもともと…」
「あら〜もともと?」
「もともと?なんなのお兄様、早く言って頂戴よ」
「ああ〜うるせえアイリス。母上も、茶化さないでください。折角素直に言えそうだったのに」
「ははは、まだまだだな、アーサー」
もともと、なんだろう。うやむやになってしまったけど、みんなが楽しそうだからまあいっか。アーサーの言う通り、私も私がどうなるのか正直想像は付かない。貴族令嬢らしく、なれれば良いなあ。
夕食が終わって、部屋に戻ろうとしたらアイリスに呼び止められた。なんでもこれからのことについての説明のために、後から訪ねてきてくれると言う。今日のアイリス(午後から)は目がギラギラしていて勢いがすごい。ちょっと怖いと思ってしまった。ごめんアイリス。
部屋に戻ってしばらくしたら、予告通りアイリスが訪ねてきた。後ろに数人の侍女さんを連れて。え?侍女さん多くない?何人いる?アイリス専属の侍女さん三人を除いても五人もいるんですが、ナニユエ???
「いいこと?シルヴィ、お洒落には毎日の努力は必須…今日からあなたの美容プロジェクトを始動するわ!安心して、プロジェクト内容はお母様と私、そしてマリアの三人でバッチリ決めさせてもらったわ。まずは毎日の湯浴みでのケア、肌と髪のね。そのあとはマッサージを含めたエステ、これであなたの肌はツルツルもちもち。髪も艶々よ!私の後ろにいる侍女たちは、あなたの美容専属にするわ!」
「え、え、」
「文句は言わせないわ。しばらくは私たちに従ってもらうわよ。それから化粧とヘアメイクはマリアにお願いおするわ。とりあえず明日ドレスを仕立てるのと、既製品も購入するから、それに合わせた化粧とヘアメイクをマリアにお願いすることにしたの。本人たっての希望よ。それを見て、あなたの化粧とヘアメイクをマリアに任せるか決めるわ」
え!?マリア!?
思わずマリアの方を見たら私の驚きなどお構いなしにお澄まし顔であった。こ、こいつ…!まさか昼間居なくなっていたのはこのためか!?てか呆気にとられてツッコミ忘れたけど、美容プロジェクトってなんぞ!?そんな大層なもん、始動する必要があるのか!?私はちょっと化粧とか教えてもらえたらな〜なんて気楽に考えていたよ!?
「さ、まずは湯浴み。それからエステよ。今日から夜更かしは禁止ね。あなたたち、任せたわよ」
「「「「「かしこまりました、アイリスお嬢様!失礼いたします、シルヴィお嬢様!」」」」」
「ちょっと待って、ええ〜〜〜〜〜〜」
私の制止の言葉も虚しく、私は浴室にドナドナされるのであった…。
そしてお風呂はとてもいい香りのする白く濁った浴槽に体を沈め、髪も肌もオイルやらなんやらで磨きに磨かれ、上がってからもまた別のオイルやらクリームやらでマッサージや爪などのお手入れ…文字通り頭からつま先まで、ピカピカに磨き上げられたのであった。お風呂から上がった時、アイリスはとっくに自室に戻っていたが、良かったと思う。今会ったら恨み言の一つでも溢してしまいそうだ。代わりと言ってはなんだが、私は寝る準備を整えてくれているマリアをジトっとした目で見つめた。
「…」
「あらお嬢様、どうなさいましたか?そんなに恨みがましく私を見て。言い出したのはお嬢様でございますからね?」
しれっと言うマリアにまたも私は撃沈した。その通りだ。だけど言い訳させて欲しい。こんなことになるとは思わなかったのだ。
「お嬢様がどう思っていたかは存じませんが、そんな一朝一夕でお洒落を理解し、マスターするなど不可能です。ここはプロフェショナルであるアイリス様のプロジェクトに従ってください」
「わかってるけど…あ〜〜疲れたぁ」
ぐうの音もでない。はいはい、私が悪かったんです〜そう簡単にお洒落にはなれないんだね。日本でもいろんな雑誌とか特集とかあるもんね、美容関係の。
「今日はもうお休みくださいませ。明日は人とお会いしますし、しっかり休息をとるべきですわ」
「ああ…そうよね、そうするわ」
その時の私は知らなかった。
今日のこの疲れより、明日の方が何倍も疲れると言うことを。
そして私はベッドで眠りについた。ちなみに詩織の日常はいつもと変わらず平凡な物で、いつもと違うことと言ったら、若者向けの美容系雑誌を学校帰りに買ったことくらいであった。