§3 Ground Zero >>Prologue<<
「次は〜染六町〜染六町〜」
数年振りに訪れたその町は,最後に来た時から何ら変わっていなかった.
「虚腑」と呼ばれているものがある.
奇妙な事にこの固有名詞は世界中に存在し,概ね全て同じものを刺している.ただ一方で,これが確認されたのは数世紀前ではあるものの未だ出所が判っていない名前であったりもする.日本語でこそ「虚腑」と洒落た字が当てられてるが,海外に行けば「Uroph」や「Urov」と表記されるこれは,とある悪鬼を示しているのだ.
どの文化圏に於いても,歴史の遺産の中何処かで語られる「ウロフ」と言う名の悪魔.中々に面白い存在だと思わないだろうか?
横断歩道の信号は赤.歩みを止める.
漢字表記の固有名詞では度々ある様に,この「虚腑」の当て字は実の所良く的を射ている.特に「腑」の字は,臓物,それから転じて心を示す漢字であるが,見事にウロフと言うものはこの二つの意味を当てはめられる:「臓物の無いもの」,そして「心の無いもの」の意だ.
欧米では主に猟奇的な悪魔として語られる事が多い.
「ウロフと名乗る旅人が現れたら,神の名の下に善良で慈愛溢れるある人物である様に徹しろ.奴の機嫌を損なわない唯一の方法だ.目を付けられたら,一族郎党内臓を喰い漁られるぞ」
何か不幸な事件,最も代表的なものは戦争であるが,そう言ったものが起こりそうな予兆があるとまことしやかに囁かれる常套句だ.いざとなれば女子供も容赦無く殺戮する悪魔は戦争の度に何処からともなく現れ,引き連れる屍鬼と共に戦場にいる人間を食い荒らして回る,と言われている.
病院に入り間も無く目的の階に着き,入り口の除菌液で両手を洗う.ガラス張りの自動ドアが開き,右手にあるラウンジから和気藹々とした声が聞こえる.
「おら.国士無双」
「ちっきしょう.何で誰も南捨てねぇんだよ」
「けっけっけ.浜っちの奢り確定だわい.どれ,どぶろくでも奢ってもらおうか」
「はいはい何言ってるんですか岡田さん.まだ当分アルコール禁止ですからね」
「——でね,悟君は本当に頭が良くてね......」
「婆ちゃんそれさっきも聞いた」
「この前の案件,どうだった?」
「何とか無事に.そっちこそ体の方は?」
云々.天気が良いからだろうか,人が多かった.それにしても白髪率が多い.
日本では散在する伝説の中に語られる.オシラサマ伝説の様に東アジア一帯で類似する昔話が存在し,大陸の文献にも『虚腑』と記されているが出所はもとい,物語の伝播経路さえ未詳である.
曰く,悪行を働いた者がこれらに喰われると言われている.西欧の様に特定の象徴的な個体は明記されず,人が四つん這いになった様な姿の屍喰らいが絵巻物で見られる.獄舎に度々現れては囚人を喰らったと言われ,囚獄司が数人がかりで槍を突き刺し殺した際,腹を開いた所構造はヒトのそれに酷似しており,しかし肝臓ののある筈の部位だけが空洞になっていた事が名前の由来とされている.
牧歌的な風景が横を流れて行き,目的の病室へと入った.
「こんにちは,お久し振りです.お元気でしたか?」
——2020年10月
五輪が長らく振りに東京の地で開催され二ヶ月が経っていた.
未だ思い出したかのように襲って来る初夏の様な暑さと,こちらも気まぐれとしか思えない様なタイミングで押し寄せる寒波.寒暖差が激しく,人々も体調を崩し易くなり連日の様に体調管理への注意勧告がなされていた.
今日は後者の出番の様で,昼下がりだと言うのに空は鉛色に曇り,吐く息は白く暖房器具を付けていないこの部屋では手足がいい加減かじかんで来た.足先はまだ耐えられるとしても,指先の動きが鈍くなってしまってはキーボードもろくに叩けなくなってしまう.かと言って局所的に暖めてくれる様な暖房器具を買う事に貯金を割く気にはなれず,エアコンの暖房機能は何故だか知らないが放置気味で,床暖房はガス代が嵩む事を理由に文句を言われない様忌避している.全く生産的では無い生活態度だが,慣れてしまっているが故に改善しようと言う努力もせずただ淡々と出された課題に打ち込んでいた.
付けっ放しのているテレビの音が漏れ聞こえて来る.ここ数日はアメリカ上空で出現した新たなゲートエリアの話題でもちきりだった.
「…….先ずはゲストの方からどうぞ」
「笹沢大学法学部教授,石曾根元博さん,よろしくお願いします」
(拍手)
「そしてジャーナリスト,伊敷幸則さんです.よろしくお願いします」
(拍手)
「さて11年振りのゲートエリア出現,という事ですが,早速ですが伊敷さん,今回は当たりでしょうかそれとも外れでしょうか」
「まぁ難しいところですね.何を以って当たりとするかによりますけど,ちょっと今回は場所が場所ですからね……金銭的に言ってしまえばハズレですよね」
「そうですよね.流石に宇宙ってなると……ちょっとどうしようもないですよね」
「今までは基本的に地上でしたからね.武力衝突があろうが無かろうがアクセスは出来ましたから」
「それに加えて利権問題ですよ.結局何が問題なんですか」
「領空の定義の問題ですよね.アルザスゲートエリアみたいに国境が明確ならある程度落ち着くんですが,今回は宇宙が被っちゃってますから」
「その辺りの解説お願いします」
「はい.さて,今回新たに発覚したゲートエリアですが,先ずですね,規模が直径……」
世界各国に於いてランダム的に発生している異世界との接点“ゲートエリア”ではその区域を保有する国家によってそれぞれの世界間での交流,開発が盛んに行われそれに応じる形で経済も潤う様になっている.
無論,順風満帆に物事が進む訳が無い.ファーストコンタクトではほぼ確定で武力衝突が発生し,今の所は我々の世界が勝利する形で収まっている.制圧先で対話の成立する種族が文明を築いていれば大儲け出来るが,中国・冷湖ゲートエリアの様に不毛の大地が広がっているだけだと屯田開発と資源回収程度しか旨味がない.その点,ドイツ・フランス共同統治のアルザスゲートエリアでは大きな成果が出ており,EUはかつてない程の経済力を持つ様になった.
そして極東の島国,ここ日本に於いても非常に小規模ではあるがゲートエリアが発現していた.岩手県遠野市一帯をカバーする遠野ゲートエリアである.
現状,向こう側にも小規模ながら茅葺屋根の長屋を中心とした部落,農村の存在が数少ない生還者の証言により確認されているものの,度々出現する妖怪の様な生物や好戦的な戦闘狂によって接触が阻まれている.目立った武力衝突は起きていないものの,稀に神隠しや拉致が発生しているが故に自衛隊の厳重な監視下にある.
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1984年,スターリングラードにて初のゲートエリアが出現.冷戦目下だった旧ソビエト連邦は異世界人を鎮圧,植民地化した.現在“魔法”と呼ばれている能力を駆使するメイジ型アノマリーとのファーストコンタクトが原因で両陣営共々少なくない犠牲が発生.これを機に旧ソビエトの権威は衰退して行く.
1993年,アルザスゲートエリア出現.発足したばかりの欧州連合はにとっては唐突な災禍であったが,仏独の迅速な対応によりNATOの介入を待たずして鎮圧される.特に東西統合を果たした直後のドイツにとっては掛け替えのない資源となった.
『俺の息子が空を飛んだ』
『娘がぬいぐるみを自然発火させた』
『帰還兵の中に透視能力を持つ者がいる』
同時期に,スターリングラードゲートエリア帰還兵の間で,こう言った奇妙な噂が目立つ様になる.
そしてこの様な特殊能力者は,程なくして一般人からも出生する様になった.
1999年,英国政府の後援によりウィンチェスター・カレッジ附属の新たな教育機関が誕生.ゲートエリア帰還関係者に見られ,アノマリーと呼ばれる超能力を持つ子供を集中的に育成する事を目的とする.同校卒業生であり,黎明期よりスイスでアノマリーの教育活動をしていたリサの助手であるダニエル・ウェイズが初代校長,強いてはアカデミー会長の座に就く.
2000年代に入り各国でも同じ様な学園都市が構築され派閥が構築されるも,ウェイズ氏の手腕によりアカデミーの一大勢力の座は揺るぎないものであった.
現世にゲートエリアが出現してから早三十数年,アカデミーの出現を皮切りに生まれては散って行った各派閥はアジア圏を除いて概ね二大勢力の管理下に降った.
・英米勢力圏:Academy ( a.k.a Institute )
・EU内部機関:European Parliament of Anomaly Instruction ( EPAI, PEIE )
有象無象の屯すアジア圏でも,最低限の国際的地位を得る為にアカデミーの認知を受ける者が多かった為事実上のアカデミー圏となっている.
しかし一方で,日本は未だこれらの勢力圏外にいる.本来なら迷いなくアカデミーとの提携協定を結んだ組織乃至は支部が置かれそうなものだが,度々国際会議の話題として取り上げられる問題が目の上の瘤となっていた.
外交的には「恒久的平和を主張する国家としてなんたる事か」と揶揄され,当の原因からは常に刃を喉元に突き付けられて居るに等しい状態の日本政府は,得意のプレイヤースキル「誠に遺憾である」を惜しみなく発揮する事で現状を維持していた.
遠野ゲートエリアの呪い仔.
1991年の10月条約で禁止されたアノマリーの軍事転用が,施行前の設立を理由に黙認されているロシア,アメリカと並ぶ数少ない例.
自衛隊内部でも『遠野の猟鬼』と呼ばれ忌避された部隊の存在.
——特殊作戦群,怪異執行部隊.通称,『遠野隊』
遠野ゲートエリアで通じている世界,高度警戒区域への報復を目的としたアノマリー部隊の存在は,他国から見ても異様の一言に尽きるものだった.
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——同時刻,遠野GA監視駐屯地
朗報は,行方不明者が“帰って来た”事だ.
凶報は,行方不明者が言わば“迷い出て来た”事だった.
「これは......酷いですね」
「歯型,DNA,携帯していた免許証からは......確実にご本人なんですがね」
「遺族には?」
「未だ伝えていません」
その左腕に大きく橙で『392MA:T2-144』と表記されたグレーを基調とするデジタル迷彩を身に纏う女性隊員は,顔をしかめつつ遺体を眺めた.
「防疫措置として火葬した,と言うカバーストーリーで行きましょう.観察が済み次第,速やかに火葬して下さい」
「了解しました」
彼らの目の前に横たえられた死体は,ヒトとしての原型は留めつつも異形と化してしまっていた.
胴体はやせ細っているものの四肢は異常発達しており,特に指は第二,第三及び第四,第五指が癒着し,三本の爪が手から直接生えている様な様になっている.着ていたであろう服は破け素肌が野ざらしになっている胴体には数多くの暴行の痕が残っており,レントゲン写真では肋骨が数本折れたまま放置されていた.死因となった銃創以外にも無数に残る傷跡は,GA内部で起きた事を物語っていた.
そして何より,CTスキャンによって判明した事実はその場に居る関係者に鳥肌を立たせた.
「見事な肝臓の欠落.虚腑は......実在したと言う事ですか」
嫌悪感では無い.怒りと哀しみにより激昂した隊員達は,後にこう語った.
——虚腑とは,あまりにも悲しい存在である,と.
PEIE = Parlement Européenne des Instructions d'Extra-ordinaire(EPAIの仏語ver)
第一指=親指
第五指=小指
です.