§1 序
「次は〜染六町〜染六町〜」
このなんとも形容し難い街に来るのは何年振りだろうか.駅を出て正面には馴染みの大学病院があり,其処から向かって斜め前には某大陸系左翼集団の総本部がある.建物の外見は折に触れて変われどこの配置だけは変化しない.正直言っていつかそいつらに対し暴動でも起きて某政治グループ共々クレーンから吊り下げられろと思ったりもするのだが,それはまた別の話である.
そもそも,祖母が最後の力を振り絞った我儘さえ言わなければ今日此処に来る事もなかったのだ.あれの成金趣味な思考回路にはつくづく呆れる.針小棒大に病弱アピールし,箸が転んでも重症だと主張し搬送される様は無様の一言に尽きるが,あれなら当分死なないだろうと確信を持って言えていた.とは言えど祖父亡き今,施設で一人暮らしを数年続け心身共に疲弊したであろう祖母も此処にきて脳卒中を起こした.更には食道癌も同時に見つかったらしい.母方の婆ちゃんはそれ以外にも腸の腫瘍やら心臓疾患やらあり結局一年程で他界してしまったところを見ると,此方もそう長くはないのだろうなと思う.
横断歩道の信号は赤.歩みを止める.
今週中に数学の課題を提出し来週の月曜迄にレポートを書き上げ,火曜には英語のプレゼン.定期試験は約一ヶ月後だからそろそろ暗記系統は本格的に取り組み始めねばならない.大学に入ったからと言って人生が楽になると期待せずにいたお陰で急に鬱になる事も無く,相変わらず忙しくやっている.海外留学も手に届きはするからと言って視野に入れ,それの下準備も並行して行っているのだが……正直其処まで豊富に経験を積んだからと言って何になるのかは甚だ疑問だ.確かに実績にはなるが,だから何なのか.幾らそう言った付加価値を付けたところで,人間無能なら結局は無能でしか無いと思うのだが.まぁ親が文句も言わずスポンサーとして動いているので活用させて貰う.それで以って自分が生産性のある存在になれるのかは判断に困るが.
信号が緑に変わった.害悪タクシーが横断報道に半分程乗り上げている.だからタクシーは早く消えるべきなんだよと,利用者のモラルが欠けている事が要因の半分であるとは知っていても罵ってしまう.残り半分は運転手の態度だな.平気でバス妨害したりするし.免許取り直して来い.
カウンターで面会票を受け取り,迷路が如き院内を彷徨いつつ病棟,強いては祖母の倒れている病室へと足を運ぶ.直進,左折して直ぐに右折,時々エスカレーターからのエレベーターで7階へ.エレベーター内では院内販売の人と乗り合わせ軽く挨拶をした.
目的の階に着き,入り口の除菌液で両手を洗う.ガラス張りの自動ドアが開き,右手にあるラウンジから和気藹々とした声が聞こえる.
「おら.一盃口」
「ちっきしょう.何で誰も東捨てねぇんだよ」
「けっけっけ.浜っちの奢り確定だわい.どれ,どぶろくでも奢ってもらおうか」
「はいはい何言ってるんですか岡田さん.まだ当分アルコール禁止ですからね」
「〜でね,悟君は本当に頭が良くてね……」
「婆ちゃんそれさっきも聞いた」
「この前の案件,どうだった?」
「何とか無事に.そっちこそ体の方は?」
「あら,美穂が笑うなんて珍しいねぇ.なんか良いことでもあったの?」
「おぉうマジかよ.明日雪でも降るのか?」
云々.天気が良いからだろうか,人が多かった.それにしても白髪率が多い.
その中で一人,先に美穂と呼ばれた人物だろうか,車椅子に座り此方側,即ち廊下の方向に向いていた人物は周囲の老人と同じ様に白髪であっても見た目は“少女”と言って差し支え無い年齢に見える.染めている様にも見えないし,実際にこの目でアルビノの女性を拝む事になるとは思わなかった.悲しいかな,タイミングが父方の祖母の見舞いであったり,無気力に苛まれていなければ多少感動したのかも知れないが,残念ながら今となっては自分の事でさえ他人事だ.モブの一人に過ぎない.
そんな様子の牧歌的なテクスチャが横を流れて行き,目的の病室へと入った.
見舞いは程なくして終わりを迎え,後は来た道のりを逆に辿るだけだった.家に帰れば通常業務が待っている.ただそれだけの日常.ただそれだけの人生.
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冬季休暇を迎える.東京五輪開催に伴い部活の監督に以前から活動へ参加する様言われていたボランティアで忙しかった夏季休暇期間とは逆に,良くも悪くも予定は入っていない.因みにボランティアの配属先は,競技の性質上危険物を扱う為に協会会員で固められていた射撃部門でありそこそこ珍しい経験をした.
高校から射撃を始め,念願のARを所持して2年.計画通り成人になるのと同時に狩猟免許をとりはしたもののやはりアスリートだからといって何ら他と扱いは変わらず,結局大人しく12gaボルトアクションのブローニングA-boltを所持するに至ってしまった.妥当と言えば妥当ではある.何せSBすら未だ所持して間もないのだから.とは言え念願の狩猟免許,この銃規制のやたらと厳しい日本に於いて合法的に銃を所持・使用することの出来るもう一つの方法であり,更には競技ではあり得ない生物を標的とした射撃が出来るのだ.BB(大口径ライフル)を持つ通過点であるとは言え狩猟と言う我々都会人には縁の無い活動に勤しむのも悪くは無いだろう.
数日後に備えた初の狩猟を兼ねた旅行に向け,この日はサイティングを兼ねた射撃練習をしに伊勢原射撃場へと来ていた.これまでの射撃経験で,23区住まいからして最寄りの大口径射場は伊勢原か長瀞の二択となっていたが,射座が多いと言う点以外に於いては長瀞を利用する価値が見出せず自動的に伊勢原を選択した.実際の所,長瀞はとてもでは無いが車でないと辿り着けない所も含め環境が劣悪すぎる.これで国内最大級の射場と言うのも笑えない冗談だ.経験としては群馬県と広島県の射場も知ってはいるが,伊勢原射撃場以上に快適な場所は無かった.
射座に入り諸々の準備をしていると,一瞬視界がホワイトアウトした.そしてじんわりと視界が戻ってくるが,同時に頭の中身を引っ張られるような感覚に陥る.
めまい自体は中学の頃から度々,割りかし日常的に経験していた為,この時は「またか」と思う程度だった.セットアップの方は済んでおり後は構えて弾薬を装填するだけだったが,流石にめまいがしてしまったのでは碌にゼロインも出来ない.仕方無く休憩を挟む事にし,銃を横に置いてマットの上で仰向けに寝転がった.無論セーフティーフラッグも忘れずに.何時ぞやのインターハイでは大会公認キャラクターがこれを挿入せずARを持っている立ち姿を晒していたが......あれは些か問題があるのでは無いかと思う.いい子のみんなはセーフティーフラッグ絶対に忘れちゃあかんぞ.
然し乍ら今回のめまいはそこそこ酷く,平衡感覚もだいぶ異常を来していた.仰向けに寝っ転がり安静にしていると言うのに世界が反時計回りに回転しているような錯覚が続く.自然とそのの回転に合わせて頭も回転して行くと言う滑稽な様を見せているが,当人としては割とたまったもんじゃ無い.若干吐き気の兆候があらわているものだから,立ち上がったら確実に悪化し悶え苦しむ事になると経験上知っていた.こうなてしまっては止むを得まいと,瞼を閉じていったのであった.