阻止
「それはどういう意味ですか……?」
正樹は河本の言うことがわからなかった。
彼が今回の一件でじつは頭がおかしくなっていたのではないかと思うほどだ。
それならば彼が正樹に対してここまで落ち着いて話ができる理由もわかろうというものだ。
「まさか、里中航平が脱獄してまた殺人を起こすとでも言うんですか? そんなはありえませんよ」
「ははっ、私だってそこまでは言わないよ。日本の拘置所の警備は決して甘くはない。彼の死刑が執行されるまでに彼が脱獄する可能性がゼロとまでは言わないが極めて低いだろう。そもそも彼はそんなことをしない。そんなことをしなくても彼の殺人計画はすでに進行しているんだ」
「言っている意味がわかりません。脱獄せずにどうやって人を殺すっていうんですか? 彼は人の名前を書いて殺せるノートを持っていたり、例えば念じて殺せるとでも言うんですか?」
「いやいや彼が直接殺すわけじゃないんだ。殺すのはマスコミやSNS……。いうなれば社会が彼に代わって人を殺すんだよ。そして殺されるのは凜花――娘の死に関わった者たちだ」
河本の言葉は最初は荒唐無稽な話だと思えた。
だが彼の言うことの正しさも正樹も理解し始めてくる。
「セカンドレイプという言葉は知っているよね?」
河本の質問に正樹は頷く。
「本来の言葉の意味としては性犯罪・性暴力の被害者がその後に更なる心理的や社会的ダメージを受けることだ。
『被害者にも責任があったんだ』などという言葉によってね。
実際このような二次被害によって自殺を図った被害者は決して少なくはない。
里中航平の狙いはここにある。自分が手をくださなくても、人は人を殺せるんだ。別にそれは物理的な死だけを指すものではない。それ以外にも社会的、心理的に殺すことを目的にしたんだよ。
里中航平は君の公開したあの『僕は何人殺しましたか?』を使って娘の死に関わった者を社会的に、心理的に、最終的には物理的に死を与えるつもりなんだよ」
「それはいくらなんでも飛躍しすぎですよ。山名凜花さんの死に関わったからってどうしてそんなことになるんですか?」
「インターネットやSNSに関わっている君なら私の言うことを理解できるはずだよ?」
飛躍しすぎの発想、それは正樹が最初に感じた思いだ。
だがそれが飛躍しすぎとまでも言えない気持ちも徐々に湧いてくる。
「事実、マスコミは私を叩いた。それは私が娘の死の隠蔽に関わったからと認識したからとも言える。当時の警察の関係者も叩かれた。それも同様の理由だろう。
だが他にも私と同様というほどではないが、叩かれている人間たちが存在する。凜花が死んだときの当時のクラスメイト達だ。彼らの実名がインターネットで公開されたのは君の知っているところだと思うがね?」
「それは……」
正樹は言葉に詰まった。
それは事実だったからだ。
それが『僕は何人殺しましたか?』を公開したときに起きた色々と起きた出来事の一つだった。
インターネットやSNSの意見は決して一つではない。
公開した正樹のブログにはその直後から様々なコメントが押し寄せていた。
河本清太郎の行為に怒りを感じるもの。
正樹の内容に納得行かずに嘘だとなじる者。
河本や正樹にではなく実際の行動を行った里中に怒りをぶつけるもの。
そして、発端となった殺害を依頼した山名凜花当人や彼女をいじめていたクラスメイトこそ真なる罪人とする者がいたのだ。
もちろん最後の意見に同意するものは数はあまりいなかった。
だが、この意見に同意するものは過激な発想の人間が多かったのは事実だ。
里中はすでに死刑が確定し、河本清太郎は議員辞職という制裁を受け、山名凜花は故人だった。
では誰にこの事件の怒りをぶつけるのか?
最後の矛先は凜花のクラスメイトたちへと向いていった。
そして、誰かがSNS上で当時のクラスメイト全員の名前を公開したのだ。
名前、そして年齢も事件から逆算できる。
そうなれば当時のクラスメイトたちが今何をしているのかを突き止めることは容易とはまでは言えないだろうが可能である。
実際に現住所まで突き止められた人間がいたのは正樹も知っているところだった。
「インターネットってやつは実に怖いもんだ。自分は【正義の味方】いや【正義】そのものだと思っているやつがいる。
里中航平が起こしたこれまでの殺人。その発端は彼に自身の殺害を依頼した私の娘、ひいては殺害を依頼するほどまでに彼女を追い込んだ当時のクラスメイトたちにも責任があると思うものがいる。
彼らにも罰を与えないといけないと思う人間がいる。
ネットで名前を晒し、住所を突き止め、彼らに法的な処罰が与えられないならば自分たちが社会的に、精神的に制裁を与えないといけないと思うものがいる。
こいつは非常に恐ろしい話だ。そして実際そこまで話は進んでしまっている。……いやすでにその先へ行ってしまっている」
「その先?」
嫌な予感がした。その先に何があるのかなんて容易に想像ができる自分が嫌だった。
「クラスメイトの一人が子供と一緒に自殺を図ったんだよ。確か……守谷さんだったかな」
「えっ……?」
守谷は、山名凜花、里中航平のクラスメイトであり、正樹に凜花のいじめの話を告白してくれた人物だ。
彼女の告白がなければ、山名凜花の死に関して、里中航平の関与を疑うことができなかった。その点において正樹は彼女に感謝していた。
そんな人物が自殺? 思いも寄らない展開だった。
「幸い命は取り留めたそうだ。だがこれは彼女だけの話ではない。彼女のようにネットやSNSによって追い込まれて、社会的に制裁……つまり会社をクビになった者もいるんだ。娘の死から十年だ。彼らももはや子供じゃない。家族や大事なものを持ってたりする者たちだ。それら全てを巻き込んだあまりにも広大な殺害計画。それが里中航平が仕掛けた最後の計画だ」
ふざけている。そんなわけがあるか。
そう言いたかった。でもその言葉を否定できなかった。
それらは事実なのだから。
それでも正樹には大きく気になるところがあった。
「しかし、それは今までの里中の行動からはあまりにはかけ離れています。自分で手を下すのではなく他人を頼る殺害計画なんてやはりありえないですよ」
「確かに手口としては大きく異なる。それは確かだ。でもね、遠坂くん。彼の目的としてはこの方法でも今までのように成立するんだよ」
「目的?」
「そう、彼の目的だ。これは彼の性的嗜好というのが正しいのかもしれない。……私はずっと気になっていたんだよ。里中航平は何故殺害した女性たちの画像や動画をネットに公開したのか? そしてどうして生放送で配信などという行動に出たのか? というところがね」
「あ……それは……」
「もちろんこれは警察の取り調べや裁判でも指摘された点だよ。彼は自己満足のためとだけ答えていたよ。なんでネットに流せば彼は満足したんだろうと判断された」
「何が言いたいんですか?」
「話を一旦セカンドレイプの件に戻してみようか」
河本の提案に一瞬疑問符が浮かんだが、正樹もその意味に気づく。
「里中の目的は、犯して殺した人たちを更に社会的に辱めることだって言うんですか?」
「私はそう見ている。もちろん、彼が犯すことや殺すことに快楽を得ていたのは間違いないだろう。だが彼の犯行はそこで終わらなかった。更に殺した者たちを社会的に辱めることにしたんだよ。
私も里中が配信していた放送のコメントを見たが、とても見るに耐えないほど稚拙で卑猥な言葉が飛び交っていた。もちろんそのようなコメントだけではなかったが、そういうコメントをする者たちもいるということだ。
本来セカンドレイプとは生きている被害者へ行われることだ。だが里中はそれを死んだ……いや自ら殺した人間の様子をさらにネットに公開することで不特定多数の人間によって嬲ることに快楽を得ていた。それならば彼がネットにこれらを流した理由にもなると思わないかね?」
「そんな……いや……まさか」
正樹の顔が青ざめていく。自分が何をしたのかがわかりかけてくる。わかりたくない。知りたくないと頭がそれを拒否する。
「今回はそれを生きている人間を対象にしたんだ。君のあの『僕は何人殺しましたか?』を使って。
私を筆頭に当時の警察の関係者、学校の責任者、そして凜花のクラスメイトを君が公開した文書によって正義感を感じた者たちが踏みにじって、社会的に抹殺していく。そのことに興奮を得ようとしたんだ。
死刑囚というのは案外自由でね。新聞だって読むことができる。
死刑囚という誰からも邪魔されることがない最も安全な場所から私が失脚したり、守谷さんの自殺未遂などの経緯を彼が煽り立てたことによって正義感をもった自分ではない誰かが無自覚のまま殺していくのをニヤニヤしながら楽しんでいるのだよ。彼は。
これが彼の最後の殺人計画の全てだ」
言葉が出なかった。乾いた笑い声すらでなかった。
そんな馬鹿な話があるわけない。
そう否定したかった。
だったら自分がしたのは彼の目的のために餌、いや凶器作りということになる。
「遠坂くん、こいつはあくまで勝手な私の推理でしかない。実は里中はそこまで考えてなかった可能性は否定しないよ。でも実際に被害者がでているんだ。……私はそれを食い止めたい」
「どうやってです? 僕の『僕は何人殺しましたか?』はすでにネットに流れてしまっています。それを信じているものはたくさんいますよ。今更止められません……」
「それは承知の上だよ。ネットに流れたものを消し去ることはできない。でもそれを誤りだと証拠をあげて証明することはできる。もちろんそれを信じるかどうかは人によるがね。だからこそ私は議員をやめた後色々と調べたんだ。
その上でほぼ確実に言えるのは、娘――山名凜花は校舎から転落死したことと娘がいじめられていたことだけなんだ。
本当にそのいじめを理由に娘が里中に『殺してほしい』と殺害を依頼したのか、そもそも本当に里中が娘が殺したのか、すら確かではないんだ。
娘の体はすでに火葬させて墓の中だ。当時の校舎もすでに取り壊されている。もはや誰にも真相はわからないんだよ。厳密に言えばただ一人の死刑囚を除けば。そして彼が真実を語っている証拠はないんだ。
なのに皆それを真実と思ってあいつの思うように動いてしまっている。それを止めたい。……遠坂くん、君に逢いたかったのはこのふざけた計画を阻止したいからだよ。私に協力してほしい」
正樹は河本の提案にしばらく沈黙を続けた後ゆっくりと言葉を絞り出した。
「……一つ聞かせてください」
「何かね?」
「あなたは里中の計画を止めようとしていることはわかりました。でもその相手は自分の娘をいじめていた人間たちです。凛花さんを死に追いやったかもしれない人たちです。あなたはそんな人達も助けようと言うんですか?」
少し悩んだ様子を示した後、河本はこう返した。
「もちろん、その者たちにも思うところはあるさ。助ける必要なんてないと思う自分はいる。でもね、遠坂くん。この国には法があるんだよ。
この国に住む国民は、この国の法に基づいて、然るべき方法で裁かれないといけないんだよ。
警察や検察が然るべき方法で取調べ、罪状を確かめ、然るべき裁判によって弁護士が弁護を行い、法に基づいて裁判官がその罪に該当する然るべき刑罰を与えないといけない。
人の思いや感情で勝手に人を裁いてはいけないんだよ。
確たる証拠もない以上今回の一件で凜花のクラスメイトたちが何も知らない人間たちによって一方的に……裁かれてはいけないんだよ」
そう言うと河本は少し沈黙した。そしてこう続けた。
「……それは里中にもいえることだ。娘を殺したというあの男を私の手で殺したい気持ちはある。絞首刑なんかで済ませてたまるもんか、もっと苦しい刑罰を与えるべきだと思う自分がいる。
だが、それは許されないんだ。あの男にはすでにこの国において最も重い罰が下ったんだよ。それで終わりなんだ。そこから上はないんだ……!
ならば私はできるのは、忌々しいあいつがこれ以上の罪を犯さないように、あいつの思うようにならないようにするだけなんだよ……」
「河本さん……」
「頼む、遠坂くん。私に協力してくれ。里中航平は今もなお私の娘を――凜花を嬲り続けている。娘の死を弄んで、自分の薄汚い欲望のために利用し続けている。
あいつにこれ以上喜ばせたくないんだ。あいつに待っているのは然るべき方法によって与えられる死だけないといけないんだよ。お願いだ……!」
「少し……考えさせてください」
正樹にはそう答えるしかなかった。長い間二人の間を沈黙が包んでいた。
その沈黙を破るかのようにスマートフォンの着信音がこだまする。
「すまない。ああ私だ」
それは河本のもので、電話に出て応対し始めると、口に当たる部分に手を当て相手に聞こえないようにしてから正樹に小さな声でこう告げた。
「少しでてくるよ。後は君が決めることだ。このままここを立ち去ってもいい。私は君を軽蔑するかもしれないがそれだけだ。訴えることもしないよ」
最後にそう言うと河本は部屋から出ていった。
「なんだよ……なんだよ。そんなのありえないだろ!」
河本がいなくなってから、正樹の感情が爆発する。
自分が初めて世間の、人様の役に立てる。正義の味方になれる。と思ってやったことが殺人鬼の手のひらで勝手に踊っていたなんて。
信じたくなかった。
そもそも清太郎が言ったことも真実とは限らないのだ。
そう、自分を都合よく操るための嘘だって場合もある。
そう思い込みたかった。
自分がやったことで人が自殺をするなんて思いたくなかった。
自分は巨悪に隠された真実を公にしただけなんだ。河本清太郎は裁かれるべき存在なんだと思いたかった。
でも、自分がそう思ってやった行動によって人の生死が今実際に起きている。
自分がやったのは今ネットで【正義】の名のもとに行動している人たちと何も変わらなかった。
正樹はテーブルに置いてあった麦茶を飲み干す。
氷は全て溶けきっており、溶けた水で茶色の層の上に透明の層ができていた。
正樹には冷たさも味も何も感じなかった。
そして持っていた鞄から紙の束を取り出した。
それはブログで公開した『僕は何人殺しましたか?』を清書し、出版社へ送った原稿の印刷分であった。
もちろんメールで元のデータは送っていたが、山名凜花にこのことを報告するために紙に印刷して持っていたものだ。
「は……。はは。はははははは。――私にどうしろっていうんだよ……。私にそんな力も責任もないよ……!」
正樹の目から涙が溢れた。自分がやったことを初めて心の底から後悔した。
時が戻るならば戻したかった。
正樹には里中が頭を下げて自分に頼む姿が思い浮かんでいた。
そう言えばあのときの彼の顔はどうだっただろうか。
ああ……そうだ。あいつは。あいつの顔は変わらなかった。
笑みを浮かべながら僕に頼み込んでいた。
ようやくそのことを思い出した。
「僕は何人殺しましたか?」
脳内であいつの声がずっと響いていた。
あの顔のまま。人を人とも思っていないその笑顔のまま。
正樹の中のあいつはその言葉を繰り返していた。