霧の世界
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世に人あり。
なれど、無知無力無能の弱者なり。
憐れに思し召したる七星の大神、知恵と力を授けけり。
火の大神、力と暖を授く。
水の大神、理と潤を授く。
雷の大神、裁と法を授く。
土の大神、護と実を授く。
風の大神、速と索を授く。
光の大神、灯と義を授く。
闇の大神、知と欲を授く。
七神、北天に輝き我らを照らす。
神託を与え我らを導く。
今、試練の刻は来たる。
七星の神子よ、その従者よ。
我らに再びの栄光を…!
(『七星神話』序章より抜粋)
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目が覚めると、そこは谷間だった。
地形の話ではない。体の部位の話だ。
他の何とも異なる柔らかな感触と優しい匂いに包まれ、このまま再び安らかな眠りに…
「もがっ!?むぐむごっ!?」
…って息が出来ない苦しい助けて早くどけっ!
「…ぷはっ、はぁ、はぁ、ぜぇ、はぁ、けほっけほっ…ふぅ。し、死ぬかと思った…」
酸素がうめぇ!生きてるって素晴らしい!!
思う存分に深呼吸しつつ、今しがた押し退けた物体を確認する。あの天国と地獄を同時に味わわせるモノになら心当たりがある。姉貴だ。あんな柔らかな凶器など、姉貴に聳える二つの山以外に考えられない。
果たして、そこには仰向けになった絶世の美女が転がっていた。母性の塊も健在で、重力にも負けず美しい形を保っている。
「あれ?なんだこれ?」
しかしよく見ると、姉の首は黒い鱗で覆われていた。しかも体が浮いてる…いや、腰の辺りから生えた尻尾の上に寝ているのか。しかし随分立派な尻尾だな…姉貴の身長より長く、両脚を並べたくらい太く、光沢のある黒鱗に覆われている様は、まるで大蛇のようだ。頭に生えている1対のトゲみたいなのは…角、か?
言うまでもないことだが、姉は人間のはずだ。鱗や尻尾や角など無い。というか、そもそもこんな人間なんてフィクションでしか聞いたことがない。
ということは、ここは現代日本では無いのか?そんなまさか、創作物じゃあるまいし。だったらこれは夢なのか?いやいや、さっきの苦しさは夢では済まないほどリアルだった。
自問自答を繰り返しつつ辺りを見回せば、濃霧に覆われて2メートル先もわからない有り様。少なくとも、屋外にいることだけは確かだが…さっきまでは我が家の食卓に着いていたはず。一体どうしてこのような場所にいるのだろうか?
「おにいちゃん?おねえちゃん?どこ行っちゃったの?…ふえぇ、一人にしないでよぉ…」
頭を捻っていると、どこからともなくか細い声が響いてきた。「ふえぇ」なんて言ってるやつ初めて見た気がする。いや、姿は見えないんだけど。
「一人ぼっちは寂しいよぉ…怖いよぉ……置いてかないでよぉ」
幼く、甘い声の主は、どうやらこちらに近づいてきているようだ。何者かはわからないが、この状況だ。警戒しておいた方がいいだろう。
「…!見つけたっ!!おにいちゃーん!」
「なっ?…んぼっ!?」
「やん!?」
なんて思っていた矢先、背後から何かがぶつかってきて、俺は再び姉貴っぽい人の谷間に転落する。この柔らかさ…胸には鱗は無いんだな。
じゃなくて!
「ぷはっ、いきなり何しやがる!」
「ふえっ!?ご、ごめんなさいっ!」
振り返ると、星実がしがみついていた。いや、星実…だよな?何故か猫耳付いてるんだけど。よく見りゃ尻尾も生えてるんだけど。しかも無駄に似合っててめちゃくちゃ可愛いんだけど。
「おにいちゃんに会えてすっごく嬉しくて、ついぎゅーってしたくなっちゃったの。ダメ…?」
それに星実は姉貴に対しては甘えん坊ではあるが、俺にはここまで甘えてくることはない。素直に謝ることも無い。それにこの声、さっきの「ふえぇ」とか言ってた声だけど、いくら星実でももう少し低かったはずだ。何より、さっきから背中に押し付けられるささやかな二つの膨らみ…一応男である星実には無いはずのものだ。
つまりこの娘は星実じゃない。外見は瓜二つだけどちゃんと女の子だし、血は繋がってない。手を出しても大じょ…いや、それはダメか幼すぎるし。そもそも俺はロリコンじゃないぞ。ていうか弟そっくりな時点でそういう目で見ようとも思わないし、万が一誘惑してきても絶対に屈することはない…はずだ。
「おにいちゃん、ぎゅーってして?」
「あーもういくらでもやってやるよ」
ごめんやっぱ無理。こんなに可愛い生き物に潤んだ瞳で上目遣いでお願いされたら逆らえるわけがないじゃん。
痛くないように加減しつつ、目一杯抱き締めてあげると、華奢でしなやかな肢体を感じる。細い腕を首筋に巻き付け、より密着しようと一生懸命に身体を擦り付けてくるのが何ともいとおしい。こんな娘になつかれ、甘えられるなら、もう俺…
「『ロリコンでもいい』…なぁんて思っちゃった?この変態兄貴」
「…へ?」
猫耳幼女を引き剥がして見れば、さっきまでの天使のような笑顔が、悪魔のような嘲笑に変わっていた。もはや一片の疑いも無く、こいつは俺の双子の弟で…
「兄貴も騙せるなら安心だな!よかったよかった!」
…俺は初めて死にたいと本気で思った。
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「ほら、僕色んな人から結構貢がせていたからさ、もし男だってバレたら大変じゃん?」
霧の中をさ迷い歩きながら、星実の自慢気な声を聞き流す。本来ならこんな霧の中では下手に動かない方が良いのだが、この時の俺にそんな冷静さは無かった。実の弟に欲情するとか…この世から消滅したい。
「でも不思議だよねー。星実ちゃんだけ性別間違えられちゃうんだもん」
「確かに、2人とも性別変わらないのにねー」
黒鱗のお姉さんはやっぱりウチの姉貴だった。星実に押し倒される形で姉貴の谷間にダイブした時に目を覚ましたらしい。つまり星実の誘惑に骨抜きにされていた姿もバッチリ見られてしまったわけだ。死にたい。
「種族はゲームのアバターと同じなのに、容姿や性別はゲームと関係なくリアルに合わせてあるのね。星実ちゃんが性別間違えられるのはいつもの事として…どこで見た目を知ったのかしら?」
「そう言えば、気を失う直前にカメラが突然起動したじゃん?多分あれで判断されたんだよ!」
「だとしても正面からの1枚だけだし、顔しか写って無いはずじゃない。いきなり3人とも気絶した理由も謎だし…」
姉貴と星実が何やら話していたが、ほとんど耳に入って来なかった。何も考えず、生気が失せたまま、ただぼんやりと付いていったのが却って良かったのかも知れない。それを発見したのは俺が最初だった。
「あっちに門みたいなのがあるけど、行ってみない?」
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門は近づいてみれば見上げるほど大きく、立派だった。左右はこれまた立派な城壁に覆われている辺り、相当な大都市なのだろう。家の近所ではまずお目にかかれない代物だが…
「これ、七星伝説の王都に似てない?」
「言われてみればそんな気がするわね」
「霧が凄すぎてよくわからないけど、ウチの近所よりはそっちの方があり得そうだよね」
「でも、それならば…」
辺りを見回す。
人っ子1人居やしない。というかそもそも霧のせいで何も見えない。
「…門番くらい居そうなものだけどな」
「とりあえず入ろうよ。考えても仕方無いし」
「お腹がすいてきたわ」
「姉貴…あんなに食ってたのに」
訝しみながらも門をくぐる。門の中も酷い霧で、建物があるのかすらわからない。
…いや、一軒だけ、やけにクッキリと見える建物があった。酒場だ。どうやらあの周囲だけ霧が晴れているらしい。