7:新しい一年の始まり
ウィンネル白王国、ツァンベルグ学園。
国中から集まった貴族子女が在籍するこの学園では、今日、年に一度の慶事が粛々と執り行われていた。
即ち、新入生歓迎式典。
総勢千人を越える全校生徒が広大な大講堂に集められ、彼らは歓迎の意を見せながら、或いは品定めする眼差しで、緊張しつつ入ってくる新入生たちを迎え入れていく。
講堂に足を踏み入れた新入生の目に真っ先に入るのは、溢れんばかりに活けられた花々と、幻想的に日光を透かす白いベールだろう。
今しも強張った顔で入ってきた、真新しい制服の少女――栗色の髪を三つ編みにした可愛らしい少女も、それらに目を奪われた一人だった。
混じりけのない純白は、どれもツァンベルグ学園の誇りに違わぬ一級品ばかりを揃えているに違いない。
それそのものが光を放っているようなベールに囲まれた空間の一員にこれから自分がなるなどと、上流階級と呼ばれる人々とはほとんど無縁に生きてきた十三歳の少女には、半ば信じがたい心地すらする。
今を盛りと咲き誇る大輪の花々には赤やピンクも混じっているが、そのほとんどは、王国の名にも冠される、汚れ無き白の花である。
ずらりと並んだ椅子に座る新二年生以上の生徒は、少女と同じ白い制服を身に纏い、けれど少女のそれよりもずっとしっくりと身に合った、威厳と誇りのようなものがあるように感じられた。
「――ようこそ、ツァンベルグ学園へ」
涼やかな声をかけられて、少女ははっと我に返った。
そうして講堂に入った新入生たちが、在校生の手で胸に歓迎の花を付けられることを思い出す。
折角祝いの言葉をかけてくれた人の前を通り過ぎそうになって、慌てて振り向いた少女は、そこにいた人の顔を見て目を見開いた。
――それは、遥か高き銀嶺の雪で紡ぎ上げたような白銀の髪と、藍方石の如き硬質な輝きの瞳を有する、圧倒的なまでに美しい青年だった。
もしも彼が天上の美神がその魂を分けて造り上げた人形だと言われても、きっと少女は信じてしまっただろう。
少女よりも三つ四つ年上だろうか。自分とほとんど同じはずの白い制服が、まるで彼のために誂えられた特別な衣装であるかのように、雪氷の如き美貌と調和している。
――こんなにも美しい人を見たことがない。
少女はすっかり茫然として、極めて無表情なその青年が淡々と胸に歓迎の紅花を付けてくれるのを見つめていた。
「終わったよ」
いつまでも動き出さない少女を怪訝に思ったのだろう、どうでも良さそうに促して、青年が少女から目を逸らす。
とうに作業が終わっていたことに気付いて、少女は慌てて青年に頭を下げた。
周囲には数人の先輩が立っていて、同じように入ってくる新入生の胸に花を付けている。
いつまでもここにいては仕事の邪魔になると悟った少女は、早口に礼を言って踵を返した。
王都の貴族には、あの青年のような美貌を誇る人々が何人もいるのだろうか。
そんなことを考え、火照る頬を自覚しながら歩き出そうとした時。
どん、と肩を押されて、少女の足がよろめいた。
ガチガチに緊張しながら通過しようとした新入生の肩に、自分の肩がぶつけられたのだと、察した時にはもう遅く。
少女は可愛らしい顔を驚きに染め上げ、先程の青年のいる方向へと、堪える間もなく身を傾がせていた。
「きゃ――」
思わず小さな悲鳴が零れる。
入学早々醜態を晒してしまった焦りと、反射的な怯えに強張った顔で、少女は体を硬直させ――
――ふわり、と。
滑らかに割り込んできた柔らかな体に、その身を優しく受け止められた。
「――……えっ、」
思考を止めていた少女は、自分と床の激突を防いだ人間の存在に、一拍置いてようやく気付いた。
瞠目して顔を上げ、その人の姿を見て取って、更に大きく目を見開いた。
それは、先程花を付けてもらったばかりの、美貌の青年――――ではなく。
「――大丈夫かしら? 新入生さん」
少女の体を胸に受け止め、穏やかに声をかけてきた人――それは、微笑を浮かべて少女を見下ろす、麗しい令嬢であった。
彼女もまたついさっきまで、すぐ傍で新入生に花を付ける作業をしていた一人だったはずだ。
雪氷の青年にはやや劣るが、彼女もまた稀に見る美貌の持ち主だった。
パロットグリーンの双眸は眦が強気そうに吊り上がり、ふわりと癖のある髪は太陽のような黄金色。先程の青年のような浮き世離れした幽遠さがない代わり、輝くような自信と存在感を全身から溢れさせていた。
「足を捻ったりはしていない?」
問われる声もまた優美で、少女はこくこくと何度も頷いた。
例えるなら、艶やかな花弁と鋭い棘を併せ持つ、大輪の白薔薇。
瞬き一つですら匂い立つほど美しいその人は、そっと少女を立たせると、こちらを見つめて硬直している新入生の一人に向かって「お気をつけなさいな」と短く告げる。
「この学園の生徒となった限りは、学園の名に恥じぬ振る舞いを心掛けなさいな。――あなたがこの学園であらゆるものを得、成長していくことを、先達として心から楽しみにしておりますわよ」
「は、はいっ! 申し訳ありませんでした!」
後半はトーンを和らげてそう言われ、少女にぶつかったことで真っ青になっていた新入生は、たちまち頬を紅潮させて謝罪を叫んだ。
その返事に満足そうに頷いてみせ、金髪の令嬢は再び栗色の髪の少女に向き直る。
それから、「あら」と小首を傾げて、少女の首元に手を伸ばしてきた。
「緊張しているのかしら、可愛い子ね。――タイがずれていてよ」
その瞬間。
ぶわぁっ――!!と咲き誇る百合の香りが、一瞬にして大講堂に満ち溢れたような気がした。
勿論それは錯覚だったのだろうが、そんなからかいと包容力のある微笑みを至近距離で向けられた少女の方はたまらない。
制服のネクタイを白い繊手で丁寧に直され、白薔薇の如き笑顔の直撃を受けた少女は、爆発するように顔を真っ赤にして、ひたすら目を見開くばかりで。
「さ、席にお行きなさい。あなたの学生生活が、楽しいものでありますように」
とどめとばかりに頬を一撫でされ、軽やかに身を翻して作業へ戻っていった令嬢の背中を見送って、少女は操られたように新入生席へと歩いていく。
周囲からちらちらと令嬢の素性を口にする声が聞こえてくるが、最早少女の頭の中は、あの麗しい令嬢のことで一杯だった。
「――なんて素敵な、お姉様……!」
恍惚とした声で呟いて。
少女――今年、田舎の小さな子爵家から出てきたばかりの幼い令嬢、アリア・エルドラムの学園生活は、マリア様でも見ていそうなふんわり桃色の空気の中で始まったのであった。
※※※
「ほーっほほほほほほほほほ! 完璧ですわ! 見ましたことシルヴィア、わたくし見事にフリードリヒ様をガードし切ってみせましたわよー!」
恙無く式典が終了した後、教室に戻るや否や勝利の高笑い(ただし周囲の目を気にして、ちゃんとボリュームは落としている)を上げたカトリーナに、隣に座る少女がはいはいと肩を竦めて相槌を打った。
「そうね、お疲れ様。ガード云々については知らないけれど」
「新入生の少女が一人、フリードリヒ様と接触事故を起こしかけていたではないですの! 油断などしたが最後、ああいうところから恋が始まってしまうのですわ!」
新入生歓迎式典では、二〜五年までの各学年でそれぞれ前年度トップの成績を修めた者が、新入生の胸に歓迎の花を付ける役を負う。
新入生にも行事にも無関心だが、基本的に与えられた責務は真面目にこなすフリードリヒもまた、素直にあの場に立っていて――そして「正史」においてはあの場所こそが、公式主人公とフリードリヒの出会いの場となるはずだった。
カトリーナが確認したところ、今年の新入生の中に公式主人公はいなかった。
恐らく、カトリーナが色々と小細工をした結果、入学自体をする必要がなくなったのだろう。
それでも万が一があるからと、同じく出迎え役に任じられたカトリーナがフリードリヒの傍に張り付いていれば、案の定公式主人公が立てるはずだったフラグは、別の新入生に回収されかけた。
カトリーナが割り込まなければ、危うくフリードリヒの胸に飛び込むところだった令嬢を咄嗟に抱き止め、空気を百合の色に塗り替えたのは、先輩愛ではなく八割方保身の賜物である。
「倒れたのが埴輪なら身を挺してでも守ったでしょうけど。新入生が一人倒れたところで、イルデガルナ様が歯牙にかけるとも思えないわ」
一方、ヒートアップするカトリーナに向かって、至極冷静に言ってのける少女の名をシルヴィア・バルドー。
キャラメル色の髪を後れ毛一筋も許さないほどきっちりと結い上げ、ココアブラウンの双眸を緩く眇めた彼女は、その甘やかな色彩に反し極めて理知的な性質の少女だった。
伴侶を探す場としても活用されるこの学園においても、家庭の事情や当人の性質故、色恋沙汰を望まない人間は確かに存在する。
彼女はその中でも珍しい、ひたすら学問に身を捧げんがために色恋や婚姻を心底厭う、非常に稀な令嬢だった。
――さて、ここで少々注釈を入れよう。
如何に悪役令嬢と書いて恋の女神と読むカトリーナであっても、学園に通う全ての独り身を結び付けることが出来るわけではない。
彼女が学園に入学してから新たにカップルを成立させたのは、実のところ全体割合で言えば精々四割程度である。
四割と言っても、そもそも総生徒数が四桁を軽く越えるのだから、人数で言えば莫大なものだろう。
その中にはカトリーナ自身が手掛けたカップルだけでなく、彼ら自らが作り上げたカップルも含まれる。
新たに出来た恋人の紹介で知人友人が増え、それを更に自分の友人に紹介することで、連鎖的にカップルが増えていくネズミ講。ちなみにこの現象は、間近でいちゃつく友人カップルに当てられ、独り身の友人同士が呆れと羨望を共有したことによって発生することが多いようだ。
何はともあれ。
カップル成立したのがおおよそ四割として、残り六割のうち三割は既に相手が決まっていた者たち。
更に残った三割はと言えば、つまり未だ独り身を保ったままなのである。
くっつけるなら末永くお幸せに、がモットーのカトリーナにとって、明らかにどうしようもないと判じた掃き溜め共を善良な誰かに押し付けることなどまず出来ない。
つまり、適当な相手がいなかったり、カトリーナの手が届かない学園外に片思いの相手がいたりする者たちを除き、残り三割の中には一定数、「不良債権」としてカトリーナが『処理』を却下した者が存在したということになる。
そもそも貴族子女というものは、時に庶民には付いて行けないほど陰湿で排他的な部分を有する一方、扱いさえ間違えなければまず育ちの良さが先に立つ人々である。
何せ親に立場があればあるほど、子供が社交界に出てから恥を掻かないよう厳しく躾るのは、翻せば親自身のためでもあるのだ。
学園に通う「育ちの良い」子女たちは大半がこれに該当するが、残念なことにその程度のことすら出来ない者たち――要は「正史」のカトリーナの如く、十把一絡げに「プライドばかり高いアホ貴族」の烙印を押されるような輩はどうしても発生してしまう。
尤も、逆に言えばそれは「恋敵にすらならぬ」と判じられた者たちでもあり、純粋に婚約者の立場を奪われるか否かという意味では、フリードリヒの感情及びイルデガルナ家の都合を考慮しても、一切の警戒に値しない連中でもあるのだが。
――閑話休題。
ともあれ、自らの意思で独り身を貫いている――これからも喜んで貫く予定のシルヴィアは、それ故に、フリードリヒに対して一切の恋愛感情を向けない、珍しい立ち位置の令嬢である。
そんな彼女が、対照的に恋愛に人生を懸けるカトリーナと仲良くなってくれたのは僥倖だっただろう。「物語」のことこそ教えていないながら、シルヴィアは聡明でしっかりした同級生だったし、時に冷静にカトリーナの暴走を押さえてくれる良き友人だった。
「例の新入生が埴輪か土偶みたいな顔でもしていない限り、イルデガルナ様は存在も覚えていないわよ。あなたが散々私にそう教えたんでしょうに」
「勿論フリードリヒ様はそうでしょうよ。でも、害虫は何処からでも湧いてくるもの。もしもわたくし並みにガッツのある令嬢が今から登場したらどうしますの。わたくしならフリードリヒ様の目を引くために、全身のアクセサリーを全てミニ埴輪にするくらいのことはしてみせますわ」
「やっても良いけど、私には話しかけないで頂戴ね」
奢侈や奇異を好まないシルヴィアは、身につけるアクセサリーにおいてもシンプルなものを好む。
飾り気のない彼女の格好の中では、上品な赤い眼鏡くらいが唯一のお洒落要素だろうか。
細縁の眼鏡には金色のチャームが垂れ下がり、先端に花の蕾を象った飾りがついている。
呆れたように目を細めた彼女が小首を傾げると、金色の蕾が涼しげに揺れた。
「間近で見るとこんなに残念なのに、取り繕う腕が一級品だから騙される人が多いのね……カトリーナ、あなたに新しいファンが付いた模様よ」
視線で入り口を示されて、カトリーナは背後を振り向いた。
壁に隠れてこちらを覗いていた栗色の髪の小さな令嬢が、カトリーナと目が合ってぴゃっと頭を引っ込めた。
傍にいた、やはり新入生らしき少女たちが数人、顔を赤らめてさわさわと囁き合い、栗色の少女の手を引いて駆け去っていく。
「…………」
「私、彼女のこと知ってるわ……確かエルドラム子爵家の一人娘だったかしら。お姉様認定されたんじゃないの?」
赤縁眼鏡をくいっと持ち上げて冷静に告げるシルヴィアに、カトリーナはしばし沈黙し、
「……まあ、つまりこれで、フリードリヒ様に恋する可能性のある令嬢がまた減ったということで良いのよね?」
「イルデガルナ様より、あなたが勢い余って押し倒されないように注意なさいね。知り合いに彼女の遠戚がいるのだけど、彼女、ちょっと思い込みが激しいタイプらしいわよ」
「…………」
あの時は少女の意識をフリードリヒから逸らさんがために全力で空気を塗り替えたカトリーナだが、相手が予想外にがっつり百合色に染まってしまえば、新たに別の問題が出てくる。
もう一度沈黙して、カトリーナは幼気な少女に迫られる自分の姿を想像してみた。
愛らしい顔をうっとりと赤らめた無垢な少女と、強気な美貌に誘うような微笑を浮かべた自分。まずい、予想外に違和感がない。
「……違いますフリードリヒ様! わたくしがお慕いしているのはいつだってあなただけですわ!」
「脳内のイルデガルナ様と会話するよりも、休み明け試験のことでも考えなさいな。そう言えばカトリーナ、年号がルクサからイムル・ナムに切り替わった頃、チーリ諸島で起きたオルケ大狼の大量死の原因にどうも納得がいかないんだけど」
「それ当時ラゴパロ大陸にあった沿岸国家の海洋進出が遠因になってるから、お行儀良く纏めた教科書の文章だけ読んでいると分かりませんわよ。図書館にあるラゴパロ大陸紀の考察書の中に論評が載ってるから、後で一緒に借りに行きましょう」
すらりと事も無げに述べたカトリーナに、今度はシルヴィアが沈黙した。
恋に生きるカトリーナが、恋い慕う相手に振り向いてもらうためにと非常な努力していることを知っている。
けれどやっぱり、普段の恋愛脳の彼女を見ていると――
「……私、時々あなたが私より成績が良いと認めたくなくなるの」
次の試験こそ絶対に私が勝つわ、と複雑そうに顔を顰めて言ったシルヴィアに、カトリーナは「ほーっほほほほほほほほほ! 次の試験もわたくしとフリードリヒ様で二学年トップ! 掲示板に名前が並んで婚姻届のようですわー!」と高笑いした。