6:セントリーブ牧場
御者一人だけを付き人にヴォルザーグ邸を出た後、賑わう王都を横切って、がたごと地道に小一時間。
貴族街を抜け、店舗の立ち並ぶストリートや市街地を通り過ぎ、やがてメルインの家紋を付けた馬車が停止したのは、広々とした郊外に施設を構える小さな牧場の前だった。
遠くの方に、尻尾を振りながらのんびりと草を食む、大きな茶色い牛たちの姿が見える。
入口の小屋から従業員らしき若者が顔を出し、小振りだが上品な馬車に何事かと目を瞬いた。
扉が開かれ、軽い動作でアデルが降りると、明らかに上流階級らしい所作と精悍な青年を見て、若者はますます目を大きくさせた。
牧場を囲む柵は低いので、到着した客たちの姿がよく見える。入口の様子を察した他の従業員が、一人二人と寄ってきた。
彼らの視線にも構わずに、アデルが馬車へと手を差し伸べる。その手をとって身を乗り出し、優雅に裾をさばいて降りてきた美貌の少女の姿に、従業員たちの口がぱかっと開いた。
人目を集めることに慣れ、人を従えることを日常として知る、貴人の風格を纏った令嬢。
太陽のように輝く金髪を無造作に払ったカトリーナは、御者に数言指示を残し、アデルと連れ立って入口まで歩いていった。
奥から駆けてきた壮年の男が、深々とお辞儀をして二人を出迎えた。
少し腹が出ているが、真面目で穏和そうな雰囲気をしたこの男は、牧場の責任者を務めている。
仕事着の長袖を捲り上げ、彼は帽子を脱いで人の良さそうな笑顔で笑った。
「お待ちしておりました、カトリーナ様。そちらのお客様はご友人でいらっしゃいますか?」
「ええ、幼馴染なの。ヴォルザーグ伯爵家のアデル。だけど、今回は単に付き添いとして連れて来ただけだから、あまり気にしなくて良いわ」
「承知致しました、カトリーナ様。ヴォルザーグ様、ようこそセントリーブ牧場へ。ここの管理を任されております、エルマと申します」
「ああ、今日はよろしくな」
鷹揚に微笑うアデルに向かって丁寧に頭を下げ、エルマはぱたぱたと手を振って従業員たちを散らばらせた。
滅多に間近で見られない本物の貴族――それも飛び切りの美形が二人も揃っている――が珍しいのだろう、カトリーナの来訪を知らされていなかった従業員たちが後ろ髪を引かれながらも仕事に戻っていくのを見送って、エルマが二人に向き直った。
「カトリーナ様、ご案内はどう致しましょうか。お連れ様がおられることですし、宜しければ私が付かせて頂きますが」
「いいえ、今回も案内は必要ないわ。アデルにはわたくしが説明するから」
「分かりました。何かありましたら、手近な者にご遠慮なく仰ってください」
責任者の態度は落ち着いているし、従業員の雰囲気も、遠目に見える牛たちの様子も至極健康的だ。
どうやら順調に業績は上がっているようだと満足しながら、カトリーナはにこやかに頷いて、アデルと共に牧場へと歩き出した。
※※※
日がな一日牛や人の声で賑わうこのセントリーブ牧場は、実のところ、王都近辺では最も新しい部類に入る。
元は、メルイン所有であったものの中途半端に余っていた、商売目的で本格的に畜産をするには足りない土地を、二年前に小規模な牧場として作り替えたものである。
所有はメルイン家だが、カトリーナが学園に入学する少し前に経営権を譲られ、今や実質的にオーナーを任されているのは彼女自身だ。
セントリーブ牧場が扱うものは、乳牛――それも主にネル種と呼ばれる、環境変化に強い種類の牛である。
飼育数は五十頭。決して規模が大きいとは言えないが、純粋に牧場としてのみ機能している場所ではないので、当面広げるつもりはない。
牧場に付けたセントリーブという名は、とある花の名前から取ったものだ。
小振りの白い花を咲かせるこの植物は、本来メルイン家領に多く繁茂する花だが、二年前、カトリーナがオーナーになると同時に大量に植え付けられ、今では敷地のあちこちで繁殖して、訪れる客の目を楽しませていた。
「――入学祝いに父親から牧場貰うって、お前はやっぱりどっかズレてるよなあ」
カトリーナの隣で長い足を交互に動かして進みながら、アデルは興味深そうに周囲を見回しつつそう言った。
メルイン伯爵は娘に甘い。カトリーナが欲しがれば入学祝いに別荘の一つや二つくらい与えただろうが、しかしモノが牧場となれば別の意味で規格外の贈り物である。
最初は娘の道楽のつもりでいたのだろうメルイン伯爵も予想外に実績を叩き出している牧場に興味を持ったらしく、牧場の話はヴォルザーグ家にも伝わってきていた。
アデルはここに来るのは初めてだが、カトリーナは至極真面目にここを運営しているようで、定期的に様子を見に来ているらしい。
「乳牛を育てて乳製品を出荷するだけじゃなくてね、お客を受け入れて乳搾り体験や、バターやチーズ作り体験なんかもしているの」
丁度乳搾りをしている家族連れらしき集団を指差しながら、カトリーナがそう言った。
「自尊心の高い貴族なんかには、下々の仕事だからって嫌な顔をする人もいるけれど。でも、下級貴族とか一般庶民にも、珍しがってやってみたがる人は多いのよ。乳牛は少しでも絞り忘れがあるとすぐ乳房炎になったりするから、必ず従業員が監督しなければならないけどね」
敷地内にあるカフェでは、ここで加工した乳製品を使った菓子も食べられる。
牧場の敷地内に一般客を呼んだり、ましてやカフェがあるなんて試みはこの国には他にないようで、折り紙付きの新鮮さに菓子の美味しさが加わって、口コミでじわじわと評判が広がり、今は外部からの注文も多かった。
勿論規模が小さいので注文には応え切れないが、そちらには全く同じ品質のものを作っている、より大規模なメルイン家領の牧場を紹介している。
カトリーナとしては、元々領地にある牧場の売り上げを上げるために作った宣伝用の支店のつもりだったので、大きく利益を上げる必要はない。
要するに、触れ合い牧場とアンテナショップを兼ねたような施設だった。
あちこちに点在する設備の説明をアデルにしていると、数頭の牛がのそのそと寄ってきた。
どれも短い角と穏やかな目を持っていて、カトリーナが手を伸ばせば頭を擦り付けてくる。
アデルが物珍しそうに毛皮を撫でて、ジャケットの裾を食われていた。
「懐っこいな。牛って皆こうなのか?」
「ネル種の牛は特に気性が穏やかなのよ。ああ、でも、」
ドスッ。
言い切る間もなく鈍い音がして、アデルが軽く吹き飛んだ。しばらく硬直した後、顔を引き攣らせて振り向くアデルに、白斑の牛がふんふんと尻尾を揺らして向き合っている。
「牛の目の前に背中を向けて立つと、唐突に攻撃されるから気をつけてね……って言おうとしたのだけど」
「……あと十秒早く言って欲しかったな」
アデルは苦笑いでそう答えたが、多少の注意さえ払えば、牛は基本的に大人しい動物である。
ただし戦闘能力に期待はできないから、牧場外をうろつく肉食獣やモンスターからの守りは慎重にしなければならないが。
大人しく草を食んでいる牛を撫で回しながら、カトリーナは牛たちの目元や爪や毛皮の様子を確認していく。
見る限りは皆健康体のようだが、春になったらまた獣医に来てもらおう。すり寄ってくる牛たちは、自分のものとして二年間面倒を見てきたことを鑑みれば、実のところハルトの子兎よりも可愛かった。
「痛い。おい、やめろ。痛いって……いい加減にしろや若白髪ああああああ!」
何やらキレぎみの怒声が聞こえてきて振り向けば、アデルがモーモーと鳴く牛の群れに取り囲まれているところだった。
うち一頭、やや体の細い白毛の牛が、アデルの黒髪に食いついてもぐもぐ口を動かしている。
牛を相手に本気で殴りつけるわけにもいかず、ぐいぐい鼻輪を引っ張りながら眦を吊り上げているが、何故だか牛以外のナニカに対する怒りを多分に含んでいるような気がしてならない。
牛の鼻先に干し草を持っていって、涎でべたべたになったアデルの頭を解放してやると、アデルはちょっと涙目になって牛の群れから離れた。
「おのれ、若白髪……俺の人生の宿敵め……どいつもこいつも性格が悪い……」
「牛相手に何言ってるのよ」
アデルは基本的に穏和な青年だが、時々白いモノに過剰反応するのは何故だろう。
トラウマか何かだろうか、と呆れ顔で首を傾げつつ、カトリーナは「従業員の詰め所に行きましょう」と提案してやった。
確か、あそこはシャワールームやタオルがあったはずだ。
※※※
アデルが詰め所にいる間、カトリーナはショップで時間を潰すことにした。
このショップの売りは、ハーブ入りのソーセージやセントリーブの蜂蜜、呑み込むように食べてしまえる、白いふわっとした生チーズなどだ。中でも、その生チーズを惜しみなく使って焼き上げた特製チーズケーキは、王都のどのケーキ屋とも違う味だと密かに評判を呼んでいる。
さりげなく周囲の客の動向を観察しながら土産物の売り上げや人気商品の確認をしていると、説明役として捕まえた店員がこっそりと話しかけてきた。
二十歳になったばかりの若い娘で、前回来た時に少しばかり仲良くなった従業員だ。
他の客に見咎められないよう、綺麗に化粧を施した顔をこそこそと寄せて、小声で質問を振ってくる。
「ところで、お嬢様って確か学園の生徒ですよね? 今学園で恋の女神が微笑んでるってほんとですか?」
「え? まあ、そう言われてはいますけれど……」
当の恋の女神が自分であることは口に出さずに肯定したカトリーナに、店員は、はう、と羨ましそうに溜め息を吐いた。
「そうなんですか……良いなぁ、実はあたしの従兄弟が今度学園に入学する予定になってるから、ちょっと気になっちゃって」
「あら、もしかして庶民枠? その子、頭が良いのねぇ」
「いえいえ、どっちかと言うと運動神経の方ですよ、将来は騎士様になりたいとか言ってたので。良いなぁ、あの子ももう婚約者いるんですよ! あっちでもこっちでも空気が桃色で!」
「アンリ、貴女、以前恋人いるって言ってなかった?」
「うふふ、お嬢様、覚えておいてくださいな。大人になると、恋一つでさえ純粋にはできなくなるんですよ。そう例えば、惚れた男に魔界の住人のような姑がついて来た時とか」
……なんかごめん。
虚ろな目で笑い出したアンリに、カトリーナはそっと目を逸らす。どうやら彼女の恋人はイヤな思い出となり果てたらしい。
生憎カトリーナは庶民層の知り合いは少ないので、学園のようにすぐさま相手を見繕うわけにもいかない。
どうしたものかと思っていると、従業員用のドアから出てきたアデルの姿に気付いたらしく、アンリは即座ににこりと笑ってスイッチを切り替えた。
さも今この瞬間まで真面目に接客業をこなしていましたよ、というような顔をして、赤と白に染まった小さな瓶を取り上げて、カトリーナに示してくる。
「人気があると言えばこちらでしょうか、お嬢様が開発されたイチゴとミルクのジャムです。特製チーズケーキも勿論人気が高いのですが、こちらは小振りでお値段も控えめなので庶民層にも手を出しやすく、また色が可愛らしくて良いと、女性客に評判になっております」
くっきり赤白の二層に分かれている瓶の中身は、下半分がミルクジャム、上半分がイチゴジャムになっている。
食べ進めるにつれて層が混じり、ピンク色のイチゴミルク味になっていくので、一瓶で三度美味しいのが売り文句だ。
流石はプロと言うべきか、アンリは滑らかに言葉を紡いでいく。
程なくカトリーナの傍にアデルがやって来て、物珍しそうにジャムの小瓶や、手近な商品棚を覗き込み始めた。
「そう……売り上げを見る限り、商品ラインナップはもうしばらくこれで行けそうね。ジャムとチーズケーキを幾つか買って帰るから、包んでおいて頂戴」
「畏まりました」
「ありがとう。アデル、カフェに行きましょう。ここはちょっとお客が増えてきたわ」
「カトリーナ、俺このプリンっての気になるんだけど」
「カフェにあるから、そっちで頼みなさいな」
お手本のような笑顔のアンリに見送られて、二人はカフェに移動した。
牧場取れたての品を扱うセントリーブ牧場カフェには、下級貴族は時々来るが、上級貴族が足を運ぶことは少ないらしい。
いつもニコニコ現金払いを徹底していることも敬遠される原因なのだろうが、お陰で支払いが滞ったことは一度もない。
店に入ってきた二人を客や従業員が目を大きくして眺めてきたが、二人が素知らぬ顔をしていると、そのうち飽きて自分たちの時間に戻っていった。
隅の小さなテーブルについて、紅茶とカフェオレとプリンを注文。
清潔になったアデルはまだ髪が湿っていたが、風邪を引くほどのものではないだろう。
「――で、ヴォルザーグの小父様は、あなたに何て命じたの?」
不意打ちで切り込むと、アデルはぎくりと身を震わせた。
組んだ両手の甲に顎を乗せ、にこにここちらを見つめているパロットグリーンの瞳に誤魔化しはきかないと悟ったのか、彼はしばらくうろうろ視線を泳がせた後、諦めたように肩を落とした。
「――メルインが牧場経営に力を入れ始めてるのは本当かと、本当ならどれくらいの規模に拡大しそうか調べてこいって言われてる。これから隣国との国交が盛んになりそうなのに、うちはどうしても輸出品では一歩劣るからな」
素直に白状したアデルに、カトリーナは「成程」と指に手を当てる。
確かに、最近カトリーナは父から、セントリーブ牧場の知名度をもう少し上げられないかと打診を受けていた。
アンテナショップとして機能するセントリーブが有名になれば、謂わば「本店」であるメルイン家領の牧場も有名になる。
隣国――イェムジード古王国は、最近まで家畜として牛を飼う文化がなかった国である。
代わりに、マロスという山羊に似た家畜がいたのだが、最近国内環境の変化による生産性の低下と流行病で多数死んだことで、新たに牛を家畜として飼うことが計画されているそうだ。
「まあ、それくらいなら運営にも支障はないわね。でも、聞きたいことは本当にそれだけかしら?」
「もう一つ、あるにはある」
にこ、と笑いかけたカトリーナに、アデルは降参するように苦笑してみせる。
「メルイン家が出荷する牛の乳や肉は、他の領の牛にはないコクと甘みがある。それも探れるようなら探ってこい、と言われたが――」
「探ったけれど分からなかった、と返すつもりかしら?」
「そのつもりだ。父上にとっても、あくまで僥倖があればの話。メルインとの関係に罅を入れる危機は望んでないだろう」
カトリーナの質問に答えるアデルの眼差しは、至極真摯なものだった。
幼馴染の顔をしばらく見つめ、カトリーナはそれが事実であると判断した。
メルイン領の牛の秘密は、飼料に混ぜているセントリーブの実である。
メルイン領に多く、この牧場にも繁茂しているこの実を利用することは他の家も推測したのだろうが、セントリーブの実は苦みが強過ぎ、そのまま与えても牛は食べない。
メルイン領では複雑な工程を経て干すことで甘みを出し、細かくして飼料に混ぜることでそこをクリアしているのだが――アデルも分かっている通り、流石にそこまで企業秘密を晒すつもりはカトリーナにも無い。
牧場を案内していた時のアデルの様子を見る限り、元よりアデルにも深く踏み込むつもりはなかったのだろう。
ヴォルザーグの当主がどれだけ力を入れているのかは知らないが、アデルがそれで良いと言うなら構わなかろうとカトリーナは判断した。
「――まだ本決まりではないのだけどね。どうやらイェムジード古王国に対して乳製品の輸出量が増えそうだから、お父様はそれまでに、メルイン領の牛にブランド価値をつけたいようなの」
ならば、これ以上面倒な話は家長同士に任せるべきだ。そう思って話題を変えれば、アデルはあっさり乗ってきた。
「あー……火山の影響ででっかい山が崩れて、変な所から風が吹き込むようになったんだっけ。気温と植物が、マロスの生育に向かない環境になったとか」
「そうね。それにあそこは遺跡が多くて、あまりあちこち開発できないから、今ある牧場の土地で回したいらしい――って、フリードリヒ様が言ってたわ」
フリードリヒの名前にアデルの眉がひくりと動くが、丁度プリンのセットが来たので、カトリーナは気付かなかった。
パン、スイーツ、料理にドリンク。この国には実に種類豊富なレシピがあるが、意外なことにプリンは存在しなかった。
パンや果物を加えて蒸し上げる、所謂プディングなら多種あるが、卵とミルクでシンプルに仕上げたプリンは逆に物珍しかったようだ。
カトリーナが前世の記憶からレシピを持ち込んだ、プレーン、ミルク、イチゴ、ベリー、コーヒーなど様々なラインナップを揃えたプリンは、今や牧場の主力商品の一つとなっていた。
各種取り揃えたプリンの中から、アデルはまずプレーンを一口。
ぷるりと柔らかなプリンは、卵とミルクを繋ぎとして扱うプディングにはない柔らかさと滑らかさがあって、少々物足りないが美味である。
スプーンを口に咥えたまま、彼は唇をへの字にさせた。
(フリードリヒ殿ねぇ……そういや隣国との国交が活性化したのは、そもそもあの人の論文が原因だったか)
フリードリヒが書いた論文が、国内にある考古学研究チームの目に留まり、結果として隣国の岩壁の中に、五代前の王が戦争時に密かに作った大空洞が見つかったのは去年の話だ。
マロスは上下運動をさせなければ足腰が衰えるので、完全な平地では飼えない。あれでまた飼育に使える土地が減ったことだろう。
当のフリードリヒはと言えば、事が考古学に関係ないと分かるや否や権利も名誉もさっさと放棄し、論文を研究チームに押し付けて、素知らぬ顔で次のデータに没頭していた。
アデルがやったことは、そんなフリードリヒの行動を人伝に流し、イェムジード古王国の伯爵家令嬢にフリードリヒの存在を教えた程度である。
噂を流させた後輩がその家の縁者だったため、シンプルだが成功率は高いと踏んでいたのだが――思えばあの件、フリードリヒの兄であるディートリヒの意図も含んでいたのだろう。
恐らくディートリヒは、隣国で指折りの旧家である伯爵家と繋がりが欲しくてアデルの策を利用したのだ。
事実イルデガルナ家は、隣国との国交に際して窓口のような立ち位置を手に入れており、しっかり利用されていたことにアデルは歯噛みした。
――対フリードリヒにおいて、敵になるのはカトリーナ自身の恋心。それと、ディートリヒの存在。
ディートリヒは、兄としてフリードリヒを可愛がっている。同時に次期イルデガルナ侯爵として、フリードリヒの血と才覚に価値を見出している。
ただでさえ癖のあるフリードリヒに娶せようと思うなら、現時点でカトリーナ・メルインこそが、地位・人格・能力揃って最善最良の相手なのだ。
少なくとも、ディートリヒを納得させないうちは、フリードリヒを絡め取ることは出来ないだろう。たとえフリードリヒ自身が、婚姻にもカトリーナにも興味がないとしても。
「コーヒー味が意外と美味いな。ほんのり苦みがあって、俺好みだ」
「あら、じゃあわたくしの分も食べる? 気に入ったなら持ち帰りも出来るわよ」
「するする。サンキュー」
何事もないかのように相槌を打ちながら、アデルはへらりと笑った。
満足そうに顎を上げて笑うカトリーナが、美しい金髪をふわりと揺らした。
※※※
カフェを出る時に土産の袋を渡され、ジャムやプリンの瓶でずっしりと重いそれをアデルが受け取った。
馬車を待たせてある方へ向かおうとした二人を――厳密にはカトリーナを、管理人のエルマが「少し良いですか」呼び止める。
「客寄せのために、従業員の意見を募ってマスコットキャラクターを考えてみたのです。食用牛の扱いを検討なさっていると聞いて、これならお客にも、牛肉食に馴染みを持ってもらえるようになるかと思いまして」
ほんのり自慢げに見せられた数枚の紙に、カトリーナとアデルは沈黙した。
紙の中では、牛の姿をしたキャラクターが、「僕の肉をお食べよ!」を合言葉に、セントリーブ牧場で取り扱う牛肉の質と美味しさを紹介していた。
大きな目をキラキラさせた茶斑の牛は二頭身で可愛らしかったが、何故か脇から腹にかけて、腕一本分ほどの長さを厚めにスライスされ、脂の筋の入ったピンク色の肉を覗かせていた。
猟奇的な姿のまま輝くような笑顔を浮かべた牛は、今夜のレシピに困った人間一家の母親やコックに、自分の肉を使った料理を丁寧に教え、「美味しく食べてね!」と言っていた。
「ステーキからシチューまで、レシピを取り揃えておりますよ! ぬいぐるみも作ろうかと思っておりまして、カトリーナ様の許可さえ頂ければすぐにでも製作に移れます!」
『……………………』
誇らしげに宣言するエルマに、二人はしばし沈黙した。さっと顔を見合わせて、目と目で高速の会話を交わす。
(えっ、何これ。ジョーク? 牧場ジョーク?)
(いえ、本気だと思いますわ。見てみなさい、さあ褒めろと言わんばかりに目がキラキラしている)
(リアクションに困るんだけど。気持ち悪いって素直に言ったら傷つくと思うか?)
(確実に傷つきますわよ! でもその……何がやりたいかは分かるんですけど……確かに正直センスが分かりませんわね)
(ドン引きするって素直に言ってやれば?)
(禍根が残ったらどうしてくれますの! 中間管理職としては有能な人ですのよ!)
(じゃあ適当に誤魔化すか)
(誤魔化しましょう)
ちなみに、ここまで双方、完全に無言である。
合計三十秒ほどの間を置いた後、アデルがくるりと笑顔を作って告げた。
「いやー、今日カトリーナとも話してたんだけど、実は既得権益とか隣国とのこととか諸々あって、メルイン領での肉牛取り扱いの話はまだまだ検討中の域を出ないんだ! キャラクターはとても面白いと思うんだが、もうしばらくこれまでのままで業務を続けた方が良いと思うな!」
「そうなのよ! 隣国への輸出条件なんかも関わってくるから、わたくしもアデルに聞かされるまで方針転換について知らなくて! 後で知らせを寄越そうと思っていたのだけど、もっと早く言うべきだったわ! ごめんなさいね!」
「ああ、そうなのですか……残念ですが、仕方がありませんな……」
エルマはしょんぼりと肩を落とすが、その手に握られているのは猟奇的な牛の絵である。
基本が可愛い分だけ肉を露わにしたデザインが怖いし、ぬいぐるみとか買う気が起きない。
ハルトを連れてこなくて良かった、と思ったのは二人同時だった。
ところでこの人『意見を募った』って言ってたけど、まさかこれって今時の庶民層には受けが良いのだろうか。
正直怖かったので、答えは考えないことにした。