5:幼馴染は悲喜交々
冬の気配もほとんど過ぎ去り、季節が春へと移りかけている時期ではあるが、気温はまだ日中であっても温暖とは言い難い。
そんな時節に薄着で汗を拭いながら館の庭を横切ってきたアデルを見つけて、ハルトは小走りに駆け寄った。
艶のある黒い髪をしっとりと湿らせたアデルは、疲労のためだろうか、常の鋭い目付きを幾分緩和させ、赤銅色の瞳に睫毛の影を落としている。
精悍さの際立つ鋭い美貌と、程良く焼けた筋肉に覆われた四肢は、人に馴れたしなやかな黒豹を想わせた。
ハルトに気付いて振り返った拍子に、襟足から一滴、ぽたりと汗の雫が落ちた。
「あっ、アデル様。お疲れ様です、剣術の先生はお帰りになったんですか?」
「んあ。ああ、ついさっきな」
駆け寄ってきた年下の従者からタオルを受け取って、アデルは遠慮なく体を拭く。
代わりにアデルの模造刀を預かって、ハルトはぱちりと大きな目を瞬いた。傷だらけの模造刀を見下ろして、珍しそうに首を傾げる。
「今日は木刀じゃなかったんですね。ノルマン先生は元傭兵で手加減が苦手だからって、打ち合いをなさる時は大体木刀なのに」
「あー……まあ、そういう気分のこともあるさ。それよりお前、あんまり子兎を連れ回すなよ。うっかり蹴飛ばしたりしたらまずいだろ」
曖昧に言葉を濁しながら、アデルはハルトの足下にいる二匹の子兎を見下ろす。
耳の垂れた茶色い斑の子兎は、先日ハルトが拾ってきた子兎兄弟の一部だろう。
残りは館の中か、はたまた父や兄が職場にでも連れて行ったか。コロコロと愛らしい盛りの子兎たちは、アニマルセラピーと称して時々こっそり彼らの職場を賑わせている。
「だ、大丈夫ですよぅ、オレがちゃんと見てますから」
「だと良いけどな。模造刀に触れさせるなよ、怪我するぞ」
さっさと館へと歩き出したアデルを追って、ハルトも模造刀と子兎を抱えて小走りになった。
主の背中が若干ピリピリしているように見えて怪訝に思う。小首を傾げた時、ハルトの頭に一つの推測が浮かんだ。
「あっ、もしかしてカトリーナ様と会えないから苛々してたんですか?」
「…………」
アデルの足が一瞬だけ停止した。しかし、他の反応を見せることなくすぐに通常の歩行動作に戻ったアデルを、更にハルトの声が追いかける。
「折角お二方とも王都の別邸に留まってるのに、アデル様、もう二週間以上カトリーナ様に会えてませんもんね! 三日前はフリードリヒ様に会いに行くからって断られましたし、五日前はフリードリヒ様への差し入れを作るのに忙しいって断られましたし、十日前はフリードリヒ様の発表した新しい論文を読むからって断られました!」
「…………」
「アデル様、カトリーナ様に会うのを断られるたび、笑顔で格好付けて『じゃあまた次の機会にな』とか言ってるけど、帰ってくるなり真顔で木刀持って鍛練場に向かいますもんね! しょっちゅう『あの若白髪がああああっ!』って叫び声が聞こえてきますもんね!」
「…………」
「あのですね、アデル様。好きな人の前で格好付けたいのは仕方ないですけど、格好付けてるだけじゃ何も気付いてもらえませんよ。今までずーっと、カトリーナ様はアデル様のこと、恋に協力的な幼馴染だとしか思ってないんですからね。
八年間ちっとも想いに気付いてもらえなかったのに、肝心のアデル様がこのままヘタレっぱなしでいたんじゃ、きっとあと八年どころか八十年経ったって、アデル様は幼馴染のままですよ。ただでさえアデル様、カトリーナ様の好みとはかけ離れてるんですからね!」
「余計なお世話だあああああっ!」
一所懸命に恋のアドバイス、別名地味に心を抉る言葉をガンガンぶつけてくるハルトに、アデルはとうとう立ち止まって汗まみれのタオルを投げつけた。
途端にハルトがぴゃっと跳ね上がり、子兎たちを抱き締めて凄い速さで後ずさる。
「わああああ、何するんですか、アデル様! 臭いですー!」
「俺が異臭するみたいな言い方やめろ!」
このシェルピンクのウサギみたいな従者と来たら、実にいらんことばかり抜かしやがる。涙目で叫びたいのはこっちの方だと思いながら、アデルは腹の底から怒声を上げた。
怒り心頭のアデルの様子にようやく気付いたのか、ハルトが眦をへにゃりと垂れた。
おろおろと視線を彷徨わせ、やがて彼はしょんと肩を落とした。
「ご、ごめんなさいアデル様……アデル様は顔ではフリードリヒ様に敵わないなんて、正直に言うべきじゃなかったです……」
「お前ほんと俺のこと舐めくさっとんな!? 減給するぞエセウサギ!」
「ええええ、でも本当のことじゃないですかぁ……! カトリーナ様はフリードリヒ様の顔がドストライクなんでしょう? だったらアデル様は自動的に範疇外ですよね」
「範疇外言うなああああ!」
容赦ない言葉の暴力に、とうとうアデルが崩れ落ちた。我美形ぞ? タイプは違うけど結構な美形ぞ?
ガンガンと地面を殴り始める彼に、子兎たちがひょこひょこ近付いていく。一応腕が当たらないよう配慮はしているらしく、拳をギリギリと握り締めながら鬼の形相で奥歯を噛み鳴らすアデルに、ハルトはひいっと息を呑んだ。
「つーかな、元はといえばカトリーナの趣味が悪過ぎるんだよ! ぶっちゃけフリードリヒ殿って、結婚相手として本当に優良物件か!?」
「まあ、侯爵家の方ですし……」
「それでも次男だろ! 侯爵位を継ぐわけじゃないし、将来家を出て入軍する予定の俺と条件的には大差ない! ただでさえ、地位と才能とツラと実績があってギリギリ相殺し切れてない人間性の悪さだぞ!? 結婚なんかしてみろ、カトリーナの胃にストレスで穴が空こうが、気付きもせず研究室に引きこもるに決まってる!」
「ここぞとばかりに言いますねー……」
呆れた顔で言いながら、ハルトがアデルの頭にそっと子兎を乗っけてやる。
きっとストレスが溜まっているのだろう、せめてこのふわふわ毛皮に癒されてくれれば良い。
ささやかな気遣いをしたハルトの前で、子兎はずるりとアデルの頭から滑り、顔面を腹で擦って落下していった。
そのまま大きく開いた襟元から服の中に落ちてもがき始め、もう片方の子兎は兄弟が拉致されたと思ったらしく、健気に兎キックなどをかましてアデルを攻撃し始める。
「……………………」
アデルが無言で服の中の子兎を取り出し、ハルトに押し付けた。もう一匹も首根っこを掴んでハルトの頭に乗せ、のそのそと再び歩き出した。
「……今日はカトリーナが来るから、一緒に出かける。馬車はメルインのを使うから必要ない」
「あ、もしかしてメルイン家運営の牧場に行くんですか? ようやく会う約束を取り付けられたんですね!」
子兎たちを地面に下ろし、にこにこ笑顔で言うハルトに、アデルは深々と溜め息をついた。
この従者は時々ひどい毒舌だが、基本的に悪意は一片もない。もうこっちが諦めて流すしかないのだろうな、と思っていると、小走りに追いついてきたハルトがひょこりとアデルの顔を覗き込んできた。
「でも、牧場ってことはアデル様、ご当主様に受けた指示の件、やらなきゃいけないんですか?」
無邪気げな顔で問いかけられて、アデルはほんの少しだけ眉根を寄せた。
父からの指示。別段友好関係にあるメルインを裏切るようなものではないのだが、正直気は進まない。
貴族社会の一員としては、親しいからといって綺麗事ばかり並べていられないことも分かっている。それでもカトリーナと二人で出かけることを素直に喜べない原因が、他ならぬ自分の立場にあるというのは面白くなかった。
ハルトは可愛らしい笑顔のまま、じいっとアデルを見上げ続けている。
答えを待っている彼から目を逸らし、やがてアデルは忌々しげに小さな舌打ちを落とした。
「……カトリーナを困らせる気はない」
「えー、じゃあご当主様の言い付けはどうするんですか?」
「勿論果たす努力はするさ。だが父上だって、こんな些細なことでメルインを怒らせるのは本意じゃない。最悪、俺がちっとばかり父上に怒られればそれで済む話だ」
「そうですか……アデル様、カトリーナ様とのお出かけ、楽しいと良いですね!」
にこにことスキップを踏むハルトが、カトリーナと取り付けたデートを喜んでくれる顔は確かに本音なのだろう。
こういう性格だからいつも本気で怒れないんだと思いながら、アデルは丁度ざわめき始めた館の方を親指で指した。
「ありがとよ。ほら、多分カトリーナが到着したから、身支度整えるのに三十分だけ待って欲しいって伝えてくれ。早めに来たのは、多分子兎目当てだろうからな」
「はい!」
きらきらと目を輝かせたハルトが、ぴょんぴょんと跳ねるように玄関へと駆けていく。その後ろを子兎たちが追っていくのを見送って、アデルは言った通り身支度を整えるために部屋へと戻った。
ざっとシャワーを浴び、清潔な白いシャツを着る。
カジュアルな薄手のジャケットを羽織って応接室に降りていくと、カトリーナが子兎を撫でながらハルトと話しているところだった。
「可愛いですわね、この子たちは野生に返すんですの?」
「いえ、実はご当主様が、王宮の畜舎で飼うことができないか、奏上してるみたいなんです。何でも、アニマルセラピー要員だとか」
「そう言えば聞きましたわね。小動物による癒し効果で仕事場の能率を上げるプランが、王宮で試験的に導入され始めたとか」
「はい! 主に後宮の愛玩用だった小動物を、仕事場の方にも流用できるかもとかで」
「経費削減ね。動物嫌いの人にさえ注意すれば、一定の効果はあると思いますわよ。あなたたち、可愛がってもらえると良いわねぇ」
「えへへ、お行儀の良い子たちだから、きっと大丈夫です。それよりカトリーナ様は、今日はアデル様と牧場に行かれるんですよね。羊とか山羊とかはいますか?」
「今いるのは牛だけよ。それでも良いなら、ハルトも一緒に行きませんこと?」
「わあ、良いんですか? その牧場、美味しいものを売ってるって聞いて、オレも気になってたんです! カトリーナ様さえ良いのなら是非きゃああああああ!」
――だからお前はああいう話をした傍からああああああ!!
ギリギリ片手で頭部を締め上げられて泣き声を上げるハルトに、すっ飛んできたアデルはギリギリと目を吊り上げた。
「ハルト、お前今何言おうとした……?」
「ごめんなさいごめんなさいアデル様! 痛いですううう!」
ボスが虐げられていると思ったらしい子兎たちがギーギーと威嚇しながらアデルに噛みついてくるが、靴があるので全く痛くない。
遠慮なくミシミシと従者の脳細胞を虐殺しつつ、アデルは「悪意がないのは分かるけどさあ……!」とやるせなさそうに喚いた。
「アデル……あなた……いつも思うけどアイアンクローはないわ……」
不良が小動物を虐待しているような光景に、カトリーナがドン引きしているのが分かる。
しかしこればかりは譲れない。このクソ生意気な従者と来たら、放っておいたら折角のデートにノコノコ付いて来る気でいやがるのだ。
「待たせて悪かったな、カトリーナ。用意が出来たから、もう出るぞ。ハルトのことは気にするな、こいつは執事に言いつけられてた用事がある」
「えっ、そんなものありましたっけ? オレは今日、アデル様の雑用くらいしかあいたあああああああ!」
再び繰り出される、主怒りのアイアンクロー。
びゃあびゃあ泣き叫ぶハルトをぺいっと放り出して、アデルは何事もなかったかのように笑顔でカトリーナの手を取った。
「さあ行こうか、カトリーナ。時間が勿体ない」
「あ、ええ、そうね……」
大分物言いたげにはしていたが、結局カトリーナは溜め息を吐き出してアデルに従った。
正直この主従、会うたび似たようなことを繰り返しているもので。