サボン玉幽人
放課後の旧校舎はなんだか雰囲気が違って見える。
そういえばぼくは、お昼休み以外の時間にこの場所に来たことはなかったんだった。
夕暮れに差し掛かった太陽に照らされた校舎は全体的にセピア色に染まっていて、より一層古ぼけて見えた。
これで黒猫やカラスなどいようものなら、不吉さましましである。
あいにく、この校舎に住み着いている猫はどこにでもいる三毛の化け猫だった。
ぼくの従者(予定)である。
ところどころ木のささくれが目立つ玄関を抜けて一階に這入る。
見慣れたもので、もはや第二の実家と言ってもいいんじゃないか?というくらいの安心感だ。
いつもとちがうところは、窓から入る光の色味くらいだ。
あの猫もいるのだろうか。
職員室を通り過ぎ、二階に上がる。
もう階段からおばけが飛び出してくるなんてことは考えなかった。
むしろ、例のあの生き物が突然湧いて出てきたらどうしよう、という恐怖のほうが勝ったのだ。
まあ、それも杞憂に終わったのだけれど。
いまぼくは二階のトイレの前の廊下に立っている。
ここから見る限りでは、先週の金曜日に見た時となんら変わりはない。
女子トイレの水道も何時もどおり止まったままだ。
よしよし。
ぼくは意を決して男子トイレのほうへ進んだ。
そして三番目の個室に視線を移した瞬間、思わず叫び出しそうになった。
ドアが閉まっているのだ。
ぼくはこんらんした。
なんで?
なんで?
だってこんな場所に来るのはぼくぐらいのものなのに。
あの猫だってトイレには入らないだろうし、そもそも猫はドアを閉められないし、なにより。
ドアには、鍵がかかっているようだった。
「………」
いる。
まちがいなく、この木の板一枚隔てた向こうに、ナニかがいる。
なんの根拠もないし、ぼくに気配を読むなんて芸当はできないけど、この時この場合においては、わかる。
思えばぼくはこの時どうかしていた。
先週に散々な目にあったから、もうあれ以上の目には合わないだろうという謎の確信があった。
それはそうであってほしいという希望かもしれないけど。
気づけばぼくは、無謀にも目の前のドアに向かってノックをしていた。
コンコン、コン。
ややあって。
「どうぞ。」
は!?
今度こそぼくは半ば叫ぶようにそう言ってしまった。
なんだ?どうぞってどういうことだ?
ぼくはドアに拳を寄せたポーズのまま大混乱した。
というか、今返事があった?
男の子の声だった。
どうぞ?
え?
入っていいの?
やだけど!?
ぼくが半泣きで立ちすくんでいるうちに、視界の端で何かがゆっくりと動いていた。
あ。
鍵が、開いてる。
ドアの閂錠が赤から青に変わっていた。
なんということだ。
鍵が空いたというのに中の声の主は出てこない。
これは入ってこいってことだろうか?
なんで。
どうして。
わからない。
さっきからぼくの頭の中はなんでどうしてなぜなにwhy?と疑問符だらけでろくに思考してくれない。
でも、人間は頭が動かなくても体は動くものなのだ。
赤信号になったら止まるように、青信号に変わったら動くように。
ぼくは反射的にドアを開けてしまった。
だって信号は青色だったから。
…………………………………
かくして青信号を渡った先には何もなかったわけである。
僕はドアを開いたまま、呆然と洋式便器を見つめた。
小ぎれいだ。
ここ数週間ですっかり見慣れたぼくの城だ。
だれもいない?
じゃあさっきの声は?
ぼくはとうとう本当におかしくなってしまったのだろうか。じぶんがしんじられない。
ああ、自分が壊れても自分ではわからないもんな。確認のしようがない。
この感覚は、最近感じたことがある。
こういうのなんていうんだっけ?デ、デ、デビューみたいな語感の…。
そうだ、先週の金曜日にも似たようなことがなかったか?
あの時もこうやって、この個室で、ぼくは、
「君って学習しない子なんだね。前後にいなければだいたい上にいるものなんだよ?」
ぼくは盛大に個室の壁に頭をぶつけた。
ぼくの失態をあざ笑うかのように、花子くんがドアの上に座ってにやにやしていた。
「…こんにちは。」
「うん、今日は。元気だった?」
ぼくはどうして普通にあいさつをしてしまったんだろう。ぼくのばか!
よく聞いてみればさっきのウェルカムボイスもこいつの声だったじゃないか。
どうして気づかなかったんだ。
おうちかえりたい。
「君もこの前のあれでもう来ないかと思ってたんだけどなあ。なんでまた来たの?馬鹿なの?怖いもの 知らずさんかな?」
花子くんはにやにやと厭な笑い方をしながらぼくの目の前に降りてきた。
それでも十センチくらいは浮いている。
ういて、いる。
「…ぼくにも、よく、わからない…どうしてだっけ?」
「質問に質問で返すなよな。あのね、君には想像できないかもしれないけどさ、僕の気持ちをよく考え てもみろよ。ある日突然自宅に知らない奴が我が物顔で入り浸ってきたと思ったら、悠々とくつろぎ だした時の家主の気持ちだよ。わかる?しかもそいつは、ぼくにはまったく気がつかないんだよ?こ のやり場のない怒りがわかるか?」
花子くんはそう言って、わからないだろうなあ小学生の君では、なんて両手を軽くぱたぱたした。
ぼくはといえば、突然の言葉の乱れ打ちに蜂の巣にされてまともに返事ができない。
なんかごめん、ととりあえずぼくは一言謝った。
この人(?)を怒らせるとなんだかめんどうなことになりそうだと思ったからだ。
まあいいよ、と花子くんはため息混じりにつぶやいた。
いいのか。
よくわからない子だなあ。
そういえば、と、ぼくはここに来た理由をやっと思い出した。
さっきのショックですっぽ抜けていたのだ。
君に聞きたいことがあるんだ、とやっとの思いで切り出すと花子くんは不思議そうな顔をした。
「むしろ僕が君に聞きたいことが山ほどあるよ。僕から先に質問させてくれないか?まず君は今まで一 階にばかりいたのにどうして急に二階に来だしたのか、どうして教室ではなく僕の家に来たのか、そ もそもなんでこの校舎に来るのか、というかもしかして君…友達いない?」
「う、うるさいな!一気に喋らないでよ、あと友達なんて別にきみに関係ないだろ!」
このおばけ?はいったいどうしてこんなにおしゃべりなんださっきから!
ぼくはまくし立てる花子くんを向こうに追いやろうとしたが、あえなく両手は花子くんのみぞおち辺りをすり抜けてしまった。
ひええ。
花子くんはすり抜けた僕の腕を愉快そうに見やると、かわいそうになあ、と温い目でぼくを見てきた。
ちくしょう。
「…ぼくがここにいるのはなんとなくで、深い理由なんてないよ。それより、君は、おばけじゃないん だったよね?」
「うん。僕は花子くんさ」
「えー…、じゃあ、幽霊?…でも、ないんだったっけ。君ってなんなの?」
「だから、僕は花子くんだよ」
「………そっかー。」
世の中には、どうあがいても無駄なことがあるって、前テレビでおっきいオカマの人が言ってたな。
これか。これのことか。
ぼくが半ば世界に絶望しながらも、男の子なのに花子くんなんて変わってるね、と言ったら、小野妹子に謝れと言われた。
ご、ごめんなさい…。
なんか今日の僕は謝ってばっかりだなあ。
「君はどうやら僕が何故花子くんなのかが相当に気になるみたいだね?名前なんて記号に過ぎないとい うのに。僕が花子くんなのは御察しの通り、ここで生まれたからだよ」
花子くんは仕方ないな、みたいな顔でそう言った。
…ここで生まれた?
「花子くんはトイレで生まれたの?」
「そうだよ。気づいたらここに居たしね。なんなら厠戸の皇子、と呼んでくれたって構わないんだ。第 二の聖徳太子と思ってくれたまえ」
花子くんはなにやら訳のわからないことを言って得意げに胸を張った。
えっへん、とでも言いそうだ。
このおばけはどうしてこんなに生き生きとしているんだろう。
ああ、おばけじゃないんだっけ。
ややこしいなもう。
「ところでそろそろ僕の質問にもまともに答えろよ。君ってやっぱり友達いないんだろ?」
「それをぶり返さないでよ…いいだろ別にそういう人だっているんだからさ…」
「その年でそんな風に諦めるのは良くないよ。人生まだまだこれからじゃないか。幸い、まだ新学期が 始まって一ヶ月と少しぐらいだろ?大丈夫大丈夫、まだ取り返せるって」
花子くんはあまり本気で心配しているようには見えない顔で僕にそう言った。
死んでいる(多分)人間にこれからの人生を励まされた時ってどんな顔をすればいいんだろう。
ぼくはいま多分、それは微妙な顔をしているんだろうな。
花子くんはしばらくそんなぼくを眺めたあと、顎に手を遣ると、少し右に首を傾けた。
「うーん、でも君は、確かに少し捻くれてそうだけど、別に虐められそうなタイプには見えないんだけ どなあ。消去法で選ばれてしまったのかな?」
そんな理由で虐められてたまるか、と思ったがあながち間違ってはいないのかもしれないと思い、なにも言えなかった。
「…母親がいないことが、虐められる理由になる子もいるんだよ。誰かを見下す為にはどんな小さな事 だって利用するんだろ。ふつう、じゃないのは、ダメなことだから」
そうじゃないかもしれない。
これもぼくの捻くれた目線から導かれたことなのかもしれないが、はたしてあの日におかあさんが死んでしまわなかったとしても今のこの状態となにかが大きく変わっていただろうか。
その先を考えることは、臆病なぼくにはとても無理な話だった。
ぼくが花子くんから目を反らしてトイレの床を見ていると、視界の端で彼は今度は左に首を傾けた。
「ふうん。それなら僕も虐められるのかな?だって僕ってば、トイレで生まれてるし、母親も父親もい ないわけで、この校舎には僕以外住んでないし、言うなれば一人ぼっちだ。いままで意識しなかっ たけど、これは君がそんな顔をするくらいに悲しいことなの?」
花子くんは不思議そうにぼくを覗き込んだ。
わからない。わからないけど、ぼくにはまだおとうさんがいる。
その点で言えば、ぼくは花子くんよりしあわせなのかもしれなかった。
…しあわせって、なんだろう。
ぼくはなんだか、自分がとても小さな生き物に思えて苦しくなった。
こんな風に、他人を憐れむことが、ぼくに許されているのか?
けっきょく、ぼくも、あいつらと同じで、自分を高いところにもっていきたいだけの、それだけの、吐き気がするような、きたない生き物なんじゃないか?
これでもし、ぼくからおとうさんまでいなくなってしまったら。
ぼくとこの、目の前でなにやら考えこんでいる子とでは、いったいなにが違うというのか。
「…わかんないや。けど、きみが独りぼっちで、ぼくもそれなりに、ひとりぼっちだってことはわかっ たよ。あのね、それで、きみにお願いがあるんだけど」
…ぼくはなにを言おうとしてるんだろう。
「いやならいいんだけど、その、家族以外のだれかとこんな風に話したの、初めてなんだ。えっと、つ まりね、」
花子くんの目は不思議な色をしてるなあ。
「…ぼくと、友達になってみない?」
半透明少年、改め、花子くん、もとい、ぼくの初めての友達はその時初めて、目を細めてはにかんだ。
ぼくには、その笑顔の意味も、じぶんのこの言葉が同情から来るものなのか、はたまた、好奇心から来るものなのかもよくわからなかった。両方かもしれない。
どうやらぼくはひねくれているそうだから、もしかしたら世間ではそれを、純粋な好意と言うのかもしれなかった。