さかさまになってみた
さっきからずっと、部屋の壁に向かって逆立ちしている彼女の姿をノーリアクションで眺めている。いや、別にぼくが強制的にやらせているわけではない。帰ってきたらこんなだったのだ。しかも何も言ってこない。頭に血が昇って苦しくなったら、体勢を直していったん息を整えてから、また逆立ちを始めるのだ。その際に、チラチラとこちらへ目線を送ってくる。
何だかツッコミを入れたら負けな気がして、ぼくとしても声を掛けられないでいる。そんな微妙な空気のまま、そろそろ1時間が経過しようというところだ。
テレビをつけようにも、今日のチャンネル権は彼女にあり、今日のぼくはテレビを自由に使えないのだ。無断で使用しようとすると、家事をすべて押し付けてくるという制裁が降り注ぐ。面倒なので、その制裁は絶対に受けたくない。
8杯目のコーヒーを口へ運びながら横目で彼女のことを見てやる。顔が壁側を向いているので拝見できないが、その女性らしい細さの腕がぷるぷる震えていることからして、そろそろ限界らしい。むしろここまでよく持ったものだ。ぼくはその褒美として、アツアツのコーヒーカップを彼女の二の腕部分にそっと押し当ててあげた。
「ぎえ、あっちぃ!」
悲鳴を上げた彼女が頭の上から倒れこんでくる。ぼくの身体は思い切り下敷きになり、ぼくが床を、彼女が天井を見ながらブリッジする体勢になるという、あまりにおかしなシチュエーションが生まれた。運動会の組体操ばりの完成度である。
「これは……」
「芸術? 人間アート?」
「ぼくにはちょっと理解できないな」
「ちょっと写真撮ってよ。使いきりカメラ、タンスに入ってるから」
「誰が撮るの」
「あー」
どしんと彼女がブリッジを解いて落っこちてくる。そればかりか、重い衝撃に情けない声が出たぼくをからかうように笑い出す。まさに尻に敷かれるというやつだ。うつぶせに潰れたぼくを椅子代わりにして、彼女は残っていたぼくのコーヒーを一気に飲み干すと「にげぇ」とあざとく舌を出して水道へ向かった。ぼくが、8杯目だけわざと無糖にしておいたのだ。
下敷きにされた仕返しができたところで、やっと本題へ話を持っていくことにした。
「さっきのはいったい何だったの?」
ぼくの問いにきょとんと首を傾げる仕草を見せると、彼女はしばらく唸ってから答えた。
「逆さまになるのって、なんか素敵じゃない」
ぼくと彼女がサークルで出会って数年。いまだに彼女の感性というやつが分からないままでいる。一風変わった感性をしているのかと思ってピカソの絵を見せてみても、ちっとも興味を示さないし。彼女のセンスはきっと、凡人にもピカソにも当てはまらないところにあるのだろうというのだけ、ぼくは分かっている。
彼女は自分で飲み干した空っぽのコーヒーカップを、ぐるっと逆さまに持ち上げた。
「こうするだけで、アラ不思議。カップはカップとしての役目を終えるのです。この容器の名称は『コーヒーカップ』なのにね。これじゃコーヒーが淹れられないよ? さあ、そこでキミはこのカップをどーする?」
頭の中を疑問符でいっぱいにしたまま、ぼくは手渡された逆さまのカップを、元の向きに戻して彼女に返した。
「今、くるっとしたよね。回したよね?」
「うん」
「逆さまなものを更に逆さまにすると、なんと凄い、元の姿に早戻り~ぱちぱち~」
彼女が大好きなケーキを食べるときくらい嬉しそうに拍手してぼくを称える。ぼくは何か賞賛されるようなことをしただろうか。むしろ一時間も逆立ちする彼女にツッコミひとつ入れなかった方を称えてほしいものだが。
じゃあ、と次に彼女が取り出したのは、週末にふたりでキャッチボールをするときに使う野球ボール。先週末は雨上がりだったのもあって、ボールはすっかり泥だらけだ。
「これを逆さまにしてみせよ!」
これから夕食を作るというのにその泥の付いたボールを手渡されてしまい、いきなりぼくの手は泥まみれに。今夜は泥を入れても怪しまれない味噌汁にでもするか。
そうではなく、とにかく悔しいのは、一瞬でもこれを逆さまにする術を考えようとしてしまったこと。指でボールを転がしてみると、彼女がにやにや笑うのだ。まんまと彼女のショートコントに付き合わされているのが非常に悔しい。
「無理だよコレ丸いもん」
「うーん……じゃあさ、地球を逆さまにしたらどうなる?」
話がいきなり超進展した。これも悔しいのが、地球をひっくり返すという図を一瞬でも思い浮かべてしまったこと。違う違う、それじゃ彼女の思う壺だ。意味の分からないことを言って遊ぶのはいわば彼女の癖だ。
同棲しようと言い出したときも、彼女は「ピ○チュウ、百ボルトー!」と答えてこれを承諾した。ぼくはいまだにこれの意味が分からない。
「ふふふ、地球をひっくり返したらねぇ、北極が南極になって南極が北極になる。ただそれだけだよん」
「えー……なんか納得いかん」
「宇宙人から見たら、あたしたちだって逆さまに立ってるかもよ? この足はいつも引力の方を向いてるわけだしー。ね、そう考えるとすごいよね?」
こういうときは理解しようとしたら負けなのだ。人には決して理解できない事象というものは必ずあって、それを知ろうとするのはあまりに無謀で無鉄砲で、かつて地動説を初めて説いたコペルニクスが受けた批難と同じものを浴びせられても可笑しくないことだ。
とにかく彼女の言っていることが分からないのは、ぼくだけじゃない。クラスでひとりだけ算数ができないのとは違う。
「つまりさっきのは、そんな法則に逆らってみたくなったから行った実験である!」
逆立ちのことらしい。どうやらちゃんと意味があったようだ。その意味自体が分からないのだけれど。
「逆立ちしてるあたしを見た宇宙人はどう思うかな? 『お、あいつだけ体のつくりが逆だぞ!』とか思うのかな。それはそれでアリだよね。だってあたしたちだって、未知なる宇宙人が侵略してきて、そいつが足が上で、頭が下の姿でも、それがエイリアンたる通常の姿なんだって認識するよね」
だんだん退屈になってきて、ぼくは9杯目のシュガーたっぷりコーヒーを淹れてきた。その甘い香りにつられて彼女も飲むと言い出すもので、交代交代でカップに口を付ける。
「あー……それで、キミが行った実験の結論は?」
ぼくは早くこの意味不明な話を切り上げて、テレビをつけてほしかった。まだ陳腐なドラマを見せられている方が、時間が有意義だろうから。このままでは夕食を作っている間、下手をすれば夕食中、食後まで話が長引きそうで恐ろしい。
彼女は、こほんと咳払いをひとつして、カップに口付けしてから告げる。
「つまり、あたしはキミのこと『第一印象』で決めましたってこと!!」
ふと彼女の手に何か箱のようなものが握られていることに気付く。それはよくきれいなドレスを着た女性が受け取るような、リアルにかぱかぱという音が鳴りそうな箱。おもむろにそれを受け取ったぼくは、さっそく開封してみた。
「たとえキミが手足逆さまのエイリアンだとしても……」
蛍光灯が反射して光る、輪っかの上にちょんと付いた宝石。
「私が逆さまになって見てやれば、逆さまのキミは元通り!」
ぼくの頭の中は、もはや疑問符だけでなく『疑問』という言葉が石になってゴロゴロ転がっている状態である。箱の中に光る、その指輪。ちょっと安そうなエンゲージ・リング。
*
その数日後、彼女がすでに一児を身ごもっていたことが発覚する。
しかもそれが一ヵ月半もたっていたことにも驚かされた。胎児の様子を見せてもらえるということで病院まで足を運ぶと、彼女の腹の中にはまだまだ小さな命があり、ときおり動く様子を見せてはぼくと彼女を喜ばせた。
赤ちゃん、逆さまでしょ。
彼女はなぜか得意気にそう言って、ぼくと年配の看護師さんに苦笑いを誘った。