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俺達が帰る場所は光樹学園。学校――それも所謂ミッションスクールというやつだ。
ミッションスクールって言ったって全校生徒が敬虔な信者なわけじゃない。でも、教師の中にはプリーストがいる。聖域というべきか、他よりはずっと空気の澄んだ過ごしやすいところだと思う。
幼稚園からから大学まで、寮もあるからシナーを飼うには適してる。
裏から入り込むのは俺達の存在が公認されてるわけじゃないから。知ってるのは一握りのプリースト達だけだ。
敷地内にある教会を俺達は拠点にしてる。
「おかえりなさい、聖斗君、陽大君」
神父様が笑顔で迎えてくれる。
俺達にとってボスなんだと思う。大ボスは別にいるけれど。でも、神父様は父親みたいな存在でもあるのかもしれない。
「陽大君、どうでしたか? 聖斗君についていって」
「自分の使命を知った気がします」
陽大は真っ直ぐに神父様を見ていた。
シナーになる宿命なんて悲しいと俺は思う。大切な誰かを失うってこと、そして、二度と大切なものを作れない。永遠の贖罪だ。
陽大こそ、パニッシャーになれれば良かったのかもしれない。運命はいつだって残酷だ。尤も、パニッシャーがどうやって生まれるかなんて本当にわからないから勝手に思うだけのことだ。
「聖斗君、陽大君をお願いできますね?」
神父様の優しい目が俺を見る。
「俺は構いませんよ。もっと適した人がいるとは思いますが……」
俺みたいな道外れのシナーは見せしめとしては意味をなしても教育者としては些か不適格じゃないか。
十分にシナーがいないこともよくわかってる。俺もシナーになって結構経つから、そろそろとは感じてた。けど、清花の件でなしになったと思ってた。
「陽大君はどうですか?」
「僕は天羽先輩についていきたいと思います」
陽大が神父様を見た後で俺を見てきた。真っ直ぐすぎて眩しささえ感じる。陽大は俺に何を感じたと言うのか。
「転校の手続きは済ませてあります。部屋は、聖斗君の部屋で構いませんよね」
「俺は構わないんですけど……」
「よろしくお願いします!」
頭を下げられて、なんだかむず痒い気分になる。
だって、俺は罪人の中でも大罪人という位置付けなのだから。
「では、頼みましたよ」
正直、責任を果たせる自信はないけど……。
「俺は寄るところが……いや、連れて行けってことですね」
神父様は何も言わずに微笑んでる。そうしなさいと目が語ってる。
「陽大、こっちだよ」
手招きして、奥へと進む。
廊下の更に奥、隠し扉がある。
階段を下りて地下へ、一般の生徒は知らない、入ることを許されない空間がある。
部屋の一つ、鍵を開けて中に入れば白い棺が一つ。淡い明かりに照らされたそれだけの寂しい空間だ。
「ここは清花の部屋なんだ」
振り向けば陽大の表情が曇る。女の子の部屋なんて可愛らしいものじゃない。
棺を開けて、清花の手を引く。棺の中には眠る清花がいる。肉体の方。
真っ白なワンピースを着て、手にはロザリオを握ってる。俺がその手に触れれば魂が戻ってく。本来の入れ物に。
ちらりと視線を向ければ、陽大は何を言ったらいいかわからないとばかりに唇を開いたり閉じたりしてる。
「眠り姫って言われることもある。揶揄って感じかな?」
清花は本当にお姫様みたいだ。真っ白な肌に一度も染めたことがない漆黒の髪は艶やかで触れれば腰まで伸びて、サラサラしてる。
「眠ってる。でも、生きてない。死んでから結構経つ。汚穢から解き放たれるまで、本当の意味で眠れないんだよ」
不思議な死体だと俺も常々思う。魂があり、腐りもしない。でも、死んでしまった。もう生き返ることはない。人形のようでそうじゃない。
俺によって蘇った清花は今は一般的な解釈で言えば化け物なのかもしれない。俺の血肉だけで動いてるんだから。普段は魂を連れて行くけれど、俺が起こせば肉体は動く。
生きた死体とも言うべきかもしれない。一般的なゾンビのイメージとも違うけど。
でも、こんなになっても俺は清花を愛してる。未だ尚愛は消えない。より強まったとも言えるのかもしれない。清花が俺に与えてくれたもの、この胸に灯してくれた火は弱まることもない。
何をしても二人の日々が戻るわけじゃないってことぐらいわかってる。償いの果てにあるのは本当の終わりだけだ。
幸せはあまりに短く、ささやかだった。でも、忘れられない。
どんな形であっても、やっぱり俺は清花と一緒にいたいんだ。
「見るんだ、陽大。目を背けるな。これが禁忌だ。お前が誰かを好きになったらこうなるってことを忘れるな」
今し方、清花を戻した手で陽大の手を掴む。嫌がるわけじゃない。でも、怯えてる。
「これでも、減った方なんだ」
清花の体には黒い薔薇のトゲが絡み付いてる。汚穢が残ってる証だ。今日、また少し晴れたけど。
「清花が死んだのは初夏だった。あの時は真っ黒だったけど、まだまだ」
もう随分経つんだって改めて実感する。この汚穢が消えれば清花は本当の死を迎える。
いつまでもこのままでいたいとさえ思ってしまうのは俺のエゴだ。本当は早く解き放ってあげなきゃいけない。
「俺が愛したせいで清花は死んだ。俺が愛に気付いた時にはもう止められなかった。あらゆる手を打ったけど、回避できなかった。あっという間に汚穢に包まれて、凄く苦しかったと思う」
どうにか清花を死なせまいとした。理解者を得て、協力してもらった。
たとえば、清花が手にしてるロザリオがそうだ。薔薇を彫り込まれた淡いピンクの石はローズクオーツ、清楚な清花にはよく似合ってる。
シナーの中でも不思議な力を持った人に特別に作ってもらったものだ。
でも、清花を守ることはできなかった。やっぱり不可能だったと気付かされたのは棺が既に用意されてたと知った時だ。棺屋の気味の悪い顔は一生忘れられないと思う。
『こうなると思ってましたよ』
そうとだけ言った棺屋は預言者なのではないか。あるいは、預言者のなれの果てなのかもしれない。
清花にぴったりの棺をすぐに持ってきたし、何度か俺に『悔い改めろ』と警告してきた声に似てた気がする。だとしたら、白々しいにもほどがあるけど。
「俺は俺のせいで死なせてしまった清花を、こんな俺でも好きだって言ってくれた清花を天国に行かせてあげたくて、禁忌に手を染めた」
あのまま清花を地獄に行かせるわけにはいかなかった。
「愛するなっていうのはそういうことだったってあの時気付いた。愛によって人を死に至らしめるよりも禁忌を犯させたくないんだって」
あれだけ言われたのに俺は清花を愛してしまったし、禁忌を犯した。でも、シナーが必ずしもそうなるわけじゃない。
「普通のシンに憑かれた者を感染者って言うけど、圧倒的に違うんだ。ビーストとも異なる。冥界に連れて行かれて浄化できない。だから、自分の体の一部を食べさせることで、冥界と契約するんだ。あとはドールと同じように共に罪滅ぼしをする」
気持ち悪い話だとは思う。俺もああなるまで、自分の体を躊躇いもなく差し出せるとは思わなかった。
左の薬指を差し出したのは、俺の愛の証とも言えるのかもしれない。愛する人を失えば、誰も愛してはいけないのなら、結婚指輪なんてはめないから。必要ないから。
「あ、悪い……」
そこでようやく俺は掴んでいた陽大の手を離した。随分、力を込めてしまった気がする。
「いいんです」
陽大が首を横に振る。それから何度か迷うように俺と清花を交互に見た。
「どうして、シナーが愛した人は……」
死んでしまうんですか、と続くはずだったんだろう。これに関して聞くことすらタブーだと思ってるのかもしれない。
「理不尽だろ? 愛したくらいで。神は愛が罪だなんて言ってないのに」
愛が罪ならば、何が罪ではないと言うのだろうか。罪のないものなどこの世にはないのかもしれない。
求めたものが与えられることはなく、捜している物が見つかることもなく、門を叩いても開くことはない。
この世は理不尽、不条理、矛盾だらけだ。
「神の声を聞いただろう?」
シナーとなる瞬間、声が聞こえる。俺も聞いたし、他のシナーも聞いたと言っている。陽大も頷く。
「でも、あれは、本当に神なんですか?」
「難しい質問だ。結局のところ、神と呼ぶしかないものだ」
シンに憑かれ、一瞬の激情によって、俺達は縛られている。罪滅ぼしは死ぬまで続く。
シナーも結局、罪を重ねずにはいられないのかもしれない。死ぬまで償い続けるために罪は決して消えないのかもしれない。
神とは何なのだろうか。どれほど必死に命を捧げ、許しを請い続けても無駄だ。
得られるはずのない救済を求めて何になるんだろう。救世主なんていない。誰も何も救わない。俺達だって何も救えてないのかもしれない。
「神の嫉妬だとか天罰だとか色々言われてる。何年もここにいるけど、『諸説ある』ばっかりで嫌になるよ。結局、真実は自分で見極めるしかない」
何もかもが憶測。正解は決められていない。
シナーの定義についてもそうだ。こういう考え方もある、と結局は自分で考えさせられる。
答えがわかるのは最期の一瞬なのかもしれない。
「なぁ、陽大だって、自分が罪を犯した自覚なんてないだろ?」
俺達は犯罪を犯そうとしたわけじゃない。
「怖くて、でも、両親を食べた怪物が許せなくて、俺が殺さなきゃって」
「勇敢だったんだな」
「いえ、そんなんじゃ……」
もしかしたら、陽大はメシアなのかもしれない。否定し続けてきたことの可能性を考えるくらいには俺には陽大が聖人にさえ思えた。俺とは違うって。
だって、そんなの当然の憎悪だ。恐怖するかもしれない。でも、それもどこかでは振り切れてしまうかもしれない。
俺だって許せなかった。今まで持ったことのない激しい感情を抱いた。
「でも、シンは少なからず元々心にあるものだ。負の感情や漂うシンに憑かれた時に強くなるけど」
「あの瞬間、自分の中で何かが変わって……声が」
シナーは初めから選ばれていてその時が来れば堕とされるって説が有力に思えてくるくらいだ。
シナーとなるものの前にビーストが現れる。笑えない話だ。
「さあ、そろそろ部屋に案内しようか。今日一気に詰め込まなくたっていい」
罪滅ぼしはいつまでも続くんだから。
清花の部屋を出て鍵をかける。清花を一人閉じ込めるようで、いつまでも慣れられないけど、それがルールだ。
「あ、あの、天羽先輩」
そう呼ばれるのはなんだかくすぐったい。俺は先輩なんて慕われるようなガラじゃない。年下だろうと何だろうと軽蔑されて、罵られてた方が楽なくらいだ。何を言われようと俺は気にしない。
「聖斗でいいよ。敬語とかも俺は全然気にしないから」
「き、キヨ先輩って呼んでもいいですか?」
陽大が妙にキラキラしてるように見えた。気のせいだ、多分。
「好きにしてくれ」
名乗った時にそう言ったはずだ。遠慮なんて必要ない。
「その奥の部屋、なんなんですか? 凄く気持ち悪い感じがして……」
躊躇いがちに陽大が奥を指さす。俺もそっちを見る。
「ああ……首吊り部屋か」
「首吊り部屋?」
「裏切り者が首を吊って死ぬっていう曰く付きの部屋」
絶句、陽大の顔がひきつったのがわかった。
俺だって最初は怪談か何かだと思ってた。新入りを怖がらせるための話だとか思ってた。
でも、実際、見たことがあるんだから仕方がない。
「鍵がかかって開かないようになってるから安心しろよ。まあ、その話もおいおい、な」
神父様も鍵は厳重に保管してるって言うし。
裏切り者には開かれるとかいう話もある。真相はわからない。
この話をすると、また色々語らなきゃいけなくなる。
寮に戻れば、部屋の前に段ボール箱が置いてあった。準備がいいのか、仕事が速いのか。
「これ、陽大の宛の荷物だな」
陽大君へ、とメモが貼られているだけだ。俺はそれを陽大に持たせる。
鍵を開けて部屋に入れば落ち着く。俺にはもう家がないから、ここが唯一帰る場所。陽大にとってもそうなるんだろう。
尤も、ただ体を休めるだけの寂しい部屋だけど。
「手洗いうがいは忘れないこと。神父様に怒られる。洗面所はそこな。あと、クローゼットはそっち」
規則正しい生活を心がけること。これもルールだ。俺は正直あんまり口うるさい先輩にはなりたくないけど仕方がない。
まあ、そういうことをうるさく言うのは神父様って言うよりは……まあ、それはいいだろう。
手袋を外して、すぐに俺は義指を付ける。
一度見せたとは言っても、明るいところで見るのは違うだろう。気持ちのいいものじゃない。
今までは一人だったから本当に学校に行く時以外は付けなかったくらいだけど。俺だって同居人への配慮くらいできるつもりだ。
「ベッドは上でいいか?」
「あ、はい……」
「荷物は適当に空いてるところにおいてくれて構わないよ。あー、机はそっちな」
どうせ、俺のものなんて大してないし。
「そん中、必要最低限のものしか入ってないと思うから、必要なものがあったら……まあ、とりあえず、俺に言ってくれればいいよ」
プリーストの誰かが用意したものだろう。みんな、身一つで来るから倉庫に用意してあるのかもしれないけど。
貸せるものは俺が貸せばいいんだと思う。
少し荷物を出して確認して、それから陽大は、ふぅ、と息を吐いた。
「疲れたよな?」
無理もないと思う。
「まあ、そこに座るといいさ」
その内に誰かが夕食を運んできてくれるらしい。普段は食堂に行くけど、いきなり連れて行っても疲れるだろう。そういう配慮らしい。
でも、陽大は大丈夫なんじゃないか。食事中だってそう思うくらいだった。
他愛のない話をして、俺が食器を下げに出て戻っても少しぼんやりしてるくらいだ。
「シャワーはそこ。先に入っていいよ。着替えは入ってた?」
「あります。でも……」
「俺に遠慮はしないでほしい。何かあったら、いつでも言ってくれていいから」
「ありがとうございます」
敬語は直す気はないのかもしれない。まあ、いいけど。
「タオルとかシャンプーとかは置いてあるの勝手に使って構わないから。ドライヤーも」
陽大は荷物を取り出して適当に置いて、それからシャワールームに入って行った。
俺は机に向かう。日記を書くことにしてる。今までは寝る前に書いてたけど、これからは一人の時間にしようと思う。
一人だった部屋に同居人ができるっていうのは不思議な気分だった。急に弟ができたみたいだ。俺には勿体ない可愛い弟。
自由がなくなるとかそんなのはどうだっていい。
別に腫れ物扱いで同居人がいないのが寂しかったわけでもない。
日記に書くのは今日一日のこと、学校でのこと仕事のこと、清花のこと。もちろん、陽大のことも。悩みや疑問に思ったことを書いてる。
いつか振り返る日が来るのかなんてわからないけど。でも、俺が生きた証明でもあるのかもしれない。祈りでもあるのかもしれない。
そうして、書き終わらない内に陽大が出てきた。
「急がなくても良かったのに」
「いえ、いつもこうなので……」
まあ、俺もシャワーに時間はかけないか。
「日記、陽大も書くなら予備があるよ」
「日記ですか?」
「神父様に勧められて書くようにしてるんだ。今では自分と向き合うために必要だと思ってるよ」
勧められなければ書かなかったと思う。でも、別に強制されて書いてるわけじゃない。
「なんか落書きでもいいし、先輩らしくプレゼントってことで」
引き出しから日記用のノートの予備を出して差し出す。陽大はおずおずと受け取った。
「ありがとうございます、キヨ先輩」
「シナーとして生きてくのは辛いけど、ここの人達はみんな優しい。家族として扱ってくれるから。明日、ちゃんと紹介するよ」
新しい環境に戸惑うのは無理もない。わけもわからないまま連れてこられて、シナーだ何だと言われて。
それを信じられるのは実際ビーストを見てしまって声を聞いたこと、それを否定することができないから。
俺はもっと小さかったけど、でも、ここの仲間と馴染むのに、時間はかからなかった。
罪人同士の傷の舐め合いだとか言われるけど。でも、ここは刑務所じゃない。ちゃんと暖かい場所だから。
夜、不意に目が覚めた。声が聞こえる。とても小さな声。
陽大が泣いている。声を殺そうとしてる。だから、俺は起きたと悟られるわけにはいかなかった。
泣きたい夜だってある。使命を知って受け入れて、落ち着いてるようでも、やっぱり強がりなんだ。
俺だって、未だにここに来た時のことを引きずってる。清花のこともそうだけど。思い出せば、今でもその箇所が痛むくらいに。
もう痕がうっすら残るだけのところが何かを訴えるみたいに時々痛むんだ。俺は絶望の中にいた。指一本失った時よりもずっと痛かった。
そっと右手で左の手首に触れれば、いつだって何かがこみ上げてきそうになる。そこにある十字の傷痕は俺には鮮明だ。俺の一つ目の十字架なのかもしれない。
夜を越えて強くなると先輩方には言われたけど、結果はご覧の通りというわけだ。大罪を犯してしまうくらいに心が弱いままだった。
我が心の汚れを許したまえ、いつだってそう祈ってる。けど、許されることはないんだろう。
皆、許されることはないと感じながら、自分は許されるようにと祈りを捧げる。
もしかしたら許されたくないのかもしれない。
神に試されているのかもしれない。そう考えながら生きてる。常に迷いの中にある。その状態がいいとも思えない。
俺達は迷路の中に投じられて祈り続けるドブネズミなのかもしれない。それだっていい。