2
ひたすら走って、清花は息も乱さずついてきてくれて、やっぱり生きてないんだって思う。
俺が陽大を初めて連れて行った高台の公園、陽大はここにビーストを誘い込んだらしい。
ここは俺にとって終わりの場所であり、始まりの場所だから、また何かが終わるのかもしれない。
ようやく、陽大の姿が見えた。そして、ビーストの姿もこれまで見たことないほど巨大だ。
これが俺と清花の最後の仕事だって思った。今日は直感ばっかりだ。
「さあ、罪滅ぼしを始めよう――清花」
俺は清花を引き寄せて、口付ける。長い睫毛が音を立てるかのように瞼が落ちて、再び開かれる。
光彩は色を失って、すぐに血液が流れ込んだかのように色づく。爛々と輝く血の色。
俺の手を振り払って清花はビーストへと向かっていく。
俺は陽大へと駆け寄る。
「陽大!」
陽大はよく持ちこたえた。俺が祈れって言ったからロザリオを握り締めたんだろう。
強く握ったせいで皮膚に食い込んだらしい。ぽたりと血が垂れた。陽大は荒い呼吸を繰り返して、涙を流して、額には汗が玉のように浮かんで髪が張り付いてる。
汗も涙も血も拭う暇もなく、休ませてもやれない。
「事故現場の方もひどくて」
そりゃあ、現場には色んな感情が渦巻くだろう。恐怖や憎悪、シンの好物。
突っ込んだ車の運転手だって、キャリアだったかもしれない。
太陽がビーストになるほど感情を抑えられなくなったくらいだ。
「でも、リーパーのあいつが……」
「悠翔が?」
シナーとプリーストが総動員される。それだけ大事だ。もしかしたらパニッシャーも来るかもしれない。
リーパーが来るのも当然だ。でも、陽大は何か戸惑ってるみたいだ。
「考えがあるから俺に任せろ、って。僕、何も考えられなくて、とにかくこっちをどうにかしなきゃ、って」
「それでいい。あいつがそう言うってことは何かあるんだろ」
俺の言ったことを考えてくれたかはわからない。こういう場合はリーパーによって一掃された方がいいのかなんて考えるくらいに俺も戸惑ってる。全てを把握するには時間も情報も足りない。
でも、今、目の前にあるものを受け入れなきゃいけない。
月は見えない。今夜は新月、危惧してたことが起きてしまった。
街は深い闇に包まれてる。人々は恐怖と不安に押し潰されそうで、憎悪でそれを掻き消そうとしてる。
その闇の中で確かな獣の姿が俺達には認識できる。
「ねぇ、キヨ兄。太陽君を助けて!」
陽大が縋る目を向けてくる。
さっきから清花が相手をしてるけど、でも、足止めくらいにしかなってない。どれほど引き裂こうと闇は晴れない。
黒いトゲはうねうねとして、更に大きくなろうとしている。清花や俺達さえ取り込もうとしてるのかもしれない。側にシンがあれば即刻取り込まれるだろう。
元が人だとは思えないほど巨大で醜悪で、まるで汚穢の王だ。
それだけシナーの罪が深いのだと思い知らされる。
それに、いつもと違うことがある。
陽大が助けてというのは単に魂の問題じゃないだろう。普通、ビーストは死してなるか、なる課程で死ぬかだ。でも、太陽はまだ生きてる。
それどころか、多少の理性は残ってるんだろう。巨大なビーストのトゲの毛皮の中に太陽の存在を感じる。太陽自身も止めようとしてるのかもしれない。
でも、生きていて良かったと思えないこともある。救えるなんて断言はできない。たとえ、命が助かった後でどうなるのかもわからない。
「キヨ兄、お願いだよ! ねぇ、清花さんも太陽君を殺さないで……!」
清花の動きがぴたりと止まった。蔓でできたビーストの腕が清花を薙払う。清花は、ゴロゴロ転がってくる。陽大の足下まで。
今の清花には肉体がある。それに気付いたのか、陽大がビクリと肩を跳ね上げて、大粒の涙を浮かべた。
でも、清花は痛みなんて感じない。すぐに立ち上がって、ビーストに向かっていく。
だって、もう死んでるんだ。たとえ、冥界から連れ戻しても。
腐敗しないのは仮死状態と近いのかもしれない。定義は難しい。でも、清花は死んでる。
「ごめんなさい、でも、でも……!」
陽大にとってはつい数十分前までは一緒にいて、買い物を楽しんでいた相手だ。
気持ちはわかる。俺だって、見殺しにしたくないとは思う。手を下したくはないと思う。
何事もなく、元に戻ればいいって都合のいいことばっかり考えてる。
「陽大、下がってていいよ」
陽大は限界のはずだ。たとえ、ドールの契約をさせたってビーストの餌になるのが目に見えてる。
そっと陽大の手に触れる。俺より小さな手は汗と血で濡れてるのがわかる。
「できれば、祈りをやめないで」
弱々しく、けれど、確かに頷いて陽大は下がる。
俺だって、きつい戦いだ。強い力を持った誰かが駆けつけてくれるまで、今度は俺がしのぐことになるだろう。
多分、プリーストは万全の状態で出てくる。身を清めて、聖なる道具を持って。
俺にできることなんて。それまでの時間稼ぎに過ぎないだろう。
駆けつけたプリーストがどう対処するかもわからない。
「清花」
ロザリオを手にして、清花を呼んで、左手を差し出す。清花は鋭い犬歯を手首に突き立てて、血を啜る。
「ラストワルツを踊ろうか」
そうしてしたキスは血の味がした。
清花と共にビーストへと向かって、俺はロザリオを握った手を振るう。
どうにかビーストの太陽である部分に触れたかった。実体はある。まだ生きてる。でも、時間の問題だ。
「太陽……太陽!」
呼びかければ獣は咆哮を上げる。それは応えてるわけじゃないだろう。
俺を煩わしがってる。蔓が俺を振り払おうとする。それを清花が受け止めて引き裂く。闇は晴れない。尽きることがないんじゃないかってくらい溢れる。
「太陽、俺だ。聖斗だ!」
聞こえると信じて、ただ呼びかける。
声が届くなら、喉が潰れたって構わない。
太陽も家族だ。本物の兄貴がいたって、偽物でも家族だ。共に食事をして、絆があると思ってた。
太陽を支えられるのは大空しかいない。大空の容態はわからない。愛紗先輩が付き添ってたって、あの人も奇跡を起こせるわけじゃない。
でも、今は俺にできることをするしかない。俺の全てを懸けて。
「太陽」
名前一つ呼ぶのに願いを込めて。
ロザリオを握る手で黒い蔓を切り裂いて。トゲなんて気にしないで。
陽大の祈りを背負って。
「太陽!!」
叫んだ瞬間、大きな黒い腕が眼前に迫って、清花が間に合わない。
スローモーションに感じる中でパッと光が弾けた。俺は咄嗟に後退する。
光った箇所の闇が少しだけ薄くなった気がした。すぐ修復しようとするけど、もう一度、光った。
パニッシャーじゃないかって思った。期待と落胆が同時にあった。パニッシャーなら断罪される。
焼き切るほどの強烈な光じゃなかった。それでも、ビーストの動きを止めるには十分だったのかもしれない。ビーストは清花や俺を襲うのをやめて、苦しみ始めた。
「お互い間に合ったってところか」
「悠翔……!?」
肩を上下させて悠翔がそこに立っていた。陽大の話では事故の現場の方にいたはずだ。任せろと言って。そっちの方の汚穢はまだ浄化されてないと感じる。
「あっちは神官様達に任せてきた」
俺の考えを察してか、悠翔がいつもより早口に言った。
「俺はてめぇに借りを返してねぇからな」
ビシッといつもの決めポーズみたいに悠翔が指さしてくる。
「おい、悠翔。俺がお前に何の貸しがあるって言うんだ」
貸しとか、借りとかそういう関係じゃないはずだ。
おしるこなわけがない。あれは話の聞き代だ。飯を奢ってやるって言ったのに、施しを受けないと言ったのは悠翔の方だ。
「一人でとっととおさらばされたら、困るんだよ!」
別れの挨拶はもう済ませたのに。
「この前、俺はてめぇに『生きろ』って言うつもりだったんだ」
聞きたくないと思ってた言葉だった。俺はひねくれてるから、生きろと言われたら多分死にたくなる。
今度こそ本当に清花を失ったら生きる意味なんてないって。
「種を蒔いたのはてめぇだ。蒔きっぱなしなんて無責任だ」
悠翔は続ける。いつからお前の独演会になった?
俺が何をした?
って言うか、お前は何をした?
聞きたいことはあるのに、悠翔の目は真剣で何も言えない。
「俺だって猿じゃねぇ。何も疑問に思わなかったわけじゃねぇ。でも、仁義ってもんがあると思ってた。命の恩人に正しいと教え込まれたことを否定する恩知らずにはなりたくなかった」
あの話か。リーパーの戦い方の話。
消滅ではなく、導くこと。俺にはわからなくても悠翔なら辿り着ける答えがあると思ってた。自分がぶつけた疑問の答えを知ることはできないかもしれないと思ってたけど。
「試してみて、わからなくなったこともあるし、わかっちまったこともある」
事故現場の方で悠翔は実践したのか。それで、手応えを感じて、こっちに来たのか。
悠翔、やっぱりお前は優しいよ。俺よりもずっと。
「賭けに乗るのは嫌いじゃない。危険な賭けほど勝ちたくなる」
「男のロマンか?」
悠翔がニヤッと笑って、俺もつられて同じように笑う。
俺だって、悠翔の可能性に賭けてみたくなったんだ。
今、賭けて良かったと思ってる。だから、もっと賭けたっていい。俺の全てさえ。
「俺、馬鹿だから何が正しいかなんて難しいことはわかんねぇよ。今回限りかもしれねぇ。でも、友達ごっこも悪くねぇかもしれねぇから」
今の悠翔はリーパーじゃなくて何か別のものに見えるから。とっても頼もしい戦友なのかもしれない。
今回限りだって構わない。今だけの友達でも。
互いを否定し合って、ストーカーだなんだって言ってきたけど、俺達なりの絆があるはず。
「友情のためにリーパーぐらい敵に回してやるよ。あんなん、家族でも仲間でもダチでもねぇ。それが俺の罪滅ぼしになるんならな!」
吹っ切れた表情で悠翔が言って、それから、ビーストを見据える。
「ダチのダチはダチだ!」
ビシッと悠翔がビーストを指さす。
「太陽、神田太陽だよ」
俺は教えてやる。
「太陽! 俺の光を見ろ!」
叫んだ悠翔は俺にだって眩しく見えた。
「聖斗、行くぜ!」
顔を見合わせて、ビーストに向かう。ビーストの蔓はうねうねしてるけど、まだ苦しんでる。
中で太陽も戦ってるんだって感じる。
「太陽!」
二人で呼びかけて、悠翔は何度も何度も光を放って、清花も引き裂いて。
闇は確かに薄まってると感じた。
「キヨ兄!」
陽大が声を張り上げた。
「愛紗先輩が、大空先輩が一命を取り留めたって!」
朗報だった。
でも、太陽には届いてないんだろう。知らせなきゃいけない。この蔓の毛皮みたいな鎧みたいなのを破って、直接太陽に呼びかけないと。
隣で悠翔が放ち続ける光はビーストの体に当たって、黒い薔薇の蔓を枯れさせてるように見えた。
「悠翔、でかい光を一発頼む」
「おい、何考えてる?」
直感的なこの考えを言って、悠翔は反対しないか。
俺も取り込まれて共にビーストになる可能性だって捨てきれないのに。
俺が浄化されるかもしれないのに。
「できないのか?」
説明してる暇はなくて、俺は悠翔を挑発した。
「馬鹿にすんな! やってやるぜっ!!」
悠翔が短気で良かった。
いや、この場合は俺の賭けに乗ってくれたのか?
俺を信じてくれたと思っていいのか?
悠翔だって、そろそろ限界だろうに特大の光を放った。まるで全身全霊を込めたみたいに純度の高い光だった。
俺はその光と共にビーストの中へ飛び込んだ。
「おい、聖斗、馬鹿野郎っ!!」
悠翔の声が聞こえた。でも、振り返らなかった。
「きよ、くん!」
清花の声が聞こえた気がした。聞こえるはずがないのに。
そこから先は闇だった。
俺の体に蔓が絡まる。浄化はされなかったらしい。でも、ビーストになる可能性はやっぱりあった。
そして、俺は太陽を見つけた。
すぐ目の前に全身に蔓を絡ませて、両手を広げてる。
まるで、磔にされたみたいじゃないか。
「太陽」
呼びかける。俺の声も嗄れかけてた。
「太陽……!」
届いてくれ、願いを込めて呼ぶ。
睫毛を震わせて、太陽が薄目を開けた。
「太陽」
もう一度、その名前を口にする。
「聖斗……?」
完全に目が開いて、自分が呼ばれたことに安堵する。
「聖斗、大空が、大空が……俺……!」
蔓の隙間から光は漏れてるのを感じるのに、太陽に闇が混ざるのがわかった。
蔓の力が強くなる。トゲが食い込む感覚がある。同じように磔の格好にされようとも、俺は必死に手を伸ばそうとする。
「太陽、大空は大丈夫だよ。一命は取り留めた。今も頑張ってる」
「ほんと……?」
「ああ、本当だ。だって、お前の自慢の兄貴だろ?」
手が太陽に触れた。蔓が引きちぎれてく。
強い光を感じてた。
「お前が信じなくてどうするんだよ? 言いつけるぞ」
俺はよく大空に言いつけるって言ってた気がする。
「そうだよな……兄貴、ごめん」
太陽の目から雫が零れ落ちた。
そうして、俺は強く太陽を抱き締めた。どこにも連れて行かせない。
光によって、薔薇は枯れてく。解放されるのがわかる。体が落ちる。
「聖斗……!」
悠翔の声が聞こえた。
「きよくん」
今度は幻聴じゃないと感じた。俺と太陽を抱き締めるのは清花だった。もう黒い薔薇はない。
俺は気を失ってる太陽を抱えて地面に座り込んでた。
「皆、よく、頑張りましたね」
かけられた声に驚いた。
神父様がすぐ側にいた。しゃがみ込んで俺と太陽の頭を撫でる。
「叶谷悠翔君、ですね。君もよく戦いましたね」
立ち上がった神父様は悠翔の方へと歩み寄る。
「お、俺はいい!」
悠翔は言うけど、とっくに限界だったんだろう。ふらついて結局、神父様に撫で撫でされてた。しかも、ちょっと嬉しそうな顔をして。
俺は思い出して振り返る。
いつからか陽大は気を失ったらしい。今はプリーストに抱えられてた。
終わったんだって実感する。
「話は後にしましょうか」
意外に力強い腕で神父様は太陽を抱え上げた。
太陽をどうする気なのか、問う暇はなかった。
「休ませるだけですよ」
と微笑まれた。俺の考えなんてお見通しなんだろう。
「聖斗君、私達は先に戻りますね」
神父様の配慮がわかった。俺だって、気付いてる。
くるりと神父様が悠翔を見た。
「悠翔君、君とは後日話をしたいのですが」
「俺はねぇ……ないです」
悠翔が丁寧な言葉使いをした。神父様に圧されたらしい。
笑ってるけど、こう、あるんだよ。何て言うか、その、威圧感?
「では、君を拉致してみましょうか」
物騒だけど、神父様はそれぐらいすると思う。保護だと言って教会に連れ込むくらい簡単なはず。
そうしたら、悠翔はもう明日にでも神を信仰してるかもしれない。
「おい、神父がそういうこと言うのかよ! ……わかった。わかりましたから!」
悠翔も神父様には敵わないみたいだ。
神父様とプリーストは太陽と陽大を連れて行く。
「悪かったな、化け物なんて言って」
悠翔の去り際のその謝罪は俺へというよりも清花に向けてだった。
残されたのは俺と清花だ。
俺が清花を失ったのは正にこの場所だった。
出会ったのもこの公園だったりする。春になると桜が綺麗に咲くんだ。
「キヨ君、やっと話せるね」
清花が喋った。微笑んで、手が俺の頬に触れる。
不思議な暖かさを感じた。
「清花、ごめん……ごめん……!」
謝っても、どうにもならないことはわかってる。
俺が清花を死なせた事実は変わらない。償っても償いきれない。
清花は突然死ということになってる。早すぎる死だった。
「謝らないでよ、キヨ君」
ぺちんと軽く頬が叩かれて俺はびっくりした。
「私、キヨ君に出会えて良かったよ。一緒にいれて幸せだったって言える。本当だよ?」
生前と何ら変わりない清花だ。ニコニコと嘘偽りのない笑みで俺を見てる。
でも、違うんだ。これは本当の別れ、最後のさよならを言う時間が来てしまった。
「だって、キヨ君が大好きだから」
「俺も好きだ。愛してる」
あの時には言えなかった言葉を今度は確かに紡げた。
「キス、していいかな? いや、清花がしてくれると嬉しいんだけど」
あの時、キスをせがんだのは清花だった。でも、今度は俺から。
そうしたって、事実は変えられないってわかってるけど、
清花が微笑んで頷いて、顔が近付いてくる。俺は目を閉じて、触れる唇の感触に涙が零れる。
『泣かないで、キヨ君。後悔しないで。いつだって、私はキヨ君と一緒だよ』
声は頭の中で聞こえた。
もう一度、終わったのを感じる。ドサリと落ちてくる重みを感じたから。
冷たい体、空っぽの入れ物、天使はもういない。
わかってる。天国はここにはない。
俺は清花を抱えて小さく聖なる歌を口ずさみながら教会に戻って、棺に戻した。そこで俺の意識は途切れた。




