序章
闇が落ちて世界が音を失った。
まるで喉元を締め付けられているかのように出ようとする声が止まっている。
全ての感覚がなくなってしまったように。
けれど、見えている。見たくもない現実を俺の目は映す。鮮明に。鮮明に。鮮明に。
「きよ、くん……」
か細い声が漏れ聞こえる。一字一句決して聞き逃すまいと雑音をシャットアウトしたのかもしれなかった。
声は俺の腕の中、息も絶え絶えに彼女は俺を呼ぶ。震える小さな手を必死に伸ばして。
白い手を掴んで俺の頬に当てれば、目を細めて、また俺を呼ぶ。
「き、よ、くん」
清花、呼ぶ俺の声は音にならない。
彼女の手は冷たい。もうこんなにも冷たい。助からないのはわかっている。
もうすぐ清花は死ぬ。俺のせいで清花が死ぬ。それはもう覆らない。決定されたことだ。
「あの、ね」
清花も自分が死ぬことをわかってる。だから、必死に伝えようとする言葉を俺は耳を寄せて拾おうとする。
鈴のように美しくよく通る声だったのに、今は掠れて聞こえにくい。
「……き」
聞こえなくて、抱き上げる。俺の肩にその頭を乗せて、もう一度、と髪を撫でる。
いつも触れたいと思っていたサラサラの長い黒髪は湿って額に、頬に貼り付いてる。
こんな形で触れていることがひどく悲しい。
「す、き」
その言葉が信じられなくて、その顔を覗き込む。清花は微笑んでる。
苦しくて苦しくて仕方がないはずなのに、俺に笑みを見せてくれる。
俺だって好きだ。大好き、愛してるとありったけの言葉で伝えたいのに、絞り出そうとするほどに狭まっていくようだ。
伝えたいことばかり、たくさんありすぎる。
俺の罪を神が咎めて、それ以上重ねさせないようにしているのかもしれない。これがお前の罪の結果だと言いながら。
これが神のすることか。憎悪さえ抱く。けれど、これは俺の罪だ。わかっていて犯した俺の罪。
「きす、してほしい、の」
懇願だった。最期の願い。俺が叶えてやれることなんて、高が知れてるのに。
だって、わかってるんだろう? 死の口づけになるって。
濡れた瞳を揺らして、長い睫毛を震わせて、清花が俺を見上げてる。
なぁ、その目に映ってるのは悪魔なんじゃないか?
そう思ったって、聞けやしない。
ただでさえ日に焼けることを知らないような肌は血の気を失って青白く、珊瑚色の可愛い唇も紫になってしまっている。
終わりの時は近い。おねがい、と動いたように見える唇はもう音を運んでくれなかった。
そっと唇を落とす。
清花はそのまま目を閉じて、もう開くことはなかった。
魂を失った肉体は重みを持って、抜け殻なのに確かな存在感を訴えかけてくる。
まだ仄かな熱を持っているのに、やがては失われる。その生々しさが辛い。
とてつもない苦痛に襲われていただろうに、その顔は微笑んでいる。やっぱり、清花は俺よりもずっと強かった。
火傷するほどに熱い滴が頬を伝う。
それが合図だったかのように、俺の喉頸を絞めていた手が外れた気がした。
「さやかあああああぁぁぁぁぁ……っ!」
出口で留まっていたものが爆発的に飛び出すように俺は叫ぶ。
小さな体を強く強く抱き締めて、獣のように、喉が裂けるほどに。
裂けてしまえばいいんだ。最後に愛を伝えることもできなかった喉なんてもういらない。
どれほど救われていたかわからないのに、感謝を伝えられなかったなんて。