始まりはじめたプロローグと、戻り始めたエピローグ
現在、5月12日、日曜日。午前10時30分。天候、晴天、快適な気候。
俗に、いい天気というやつだった。
仰げば尊し青が広がり、ところどころに点在する積雲が
なんとも優雅な雰囲気を醸し出している。
今日は風も弱く、気温も低くない。
まさに、絶好の日向ぼっこ日和というものだった。
特に此処ここ、穿山の高台の上は居心地もいい。
穿山の崖っぷちに備え付けられたこの高台は、今は葉桜に囲まれてはいるものの
春は桃色の部屋となり。
夏は生い茂る緑が、強い日光を遮ってくれ。
秋は落ち葉の絨毯が、独特の湿っぽい空気を作り。
冬はまた桜を咲かせるために、一息の準備に入る。
隠れた名所と言ってもいい。
また、ここから見下ろす町並みは絶景だ。
そこには、百余年前から変わらぬ風景が広がっている。
遠くを見渡せば、そこから海だって見えた。
香嵐島
それが、『織上 雅美』が住むところの名前だ。
日本海側に位置するこの島だが、あまり広くは知られていない
この島の開拓がおこなわれたのが、その百余年前。
それからというもの、この島では今も昔も変わらぬ町並みに加え
そこに住まう人々の営みもが、当時となんら変わらず続けられている。
とはいえこの香嵐島は、知る人ぞ知る良島だ。
確かに別段小さくない島ではあるし、住みやすく自給にも困らない環境だ。
だがすべてがこの島で完結してしまうなんてこともなく、ちゃんと本州民との交流もある。
いくら100年近く前からの文化があるとはいえど、現代文化との精通もこの島の住民たちにはある。
だからこそ、雅美はここにいるわけなのだから。
くぁぁ、と、雅美は大きな欠伸をした。
弱い風が横を凪、雅美の背中まで伸びた長い髪を揺らす。
春眠暁を覚えず、なんて。昔の人はよくいったものだと思う。
こんなに春を実感するというのも、結構珍しいんじゃないだろうかと思う。
視界に広がる、穏やかで、爽やかな風景。
それを眺めながら、雅美はなんとなく、これまでのことを思い返してみた。
ーーーーーーーーーこっちに引っ越してきて、もう1か月がたったんだな
しみじみと、そんなことを思った。
本州からこちらへ渡ることを決めて、経ること1か月。
最初こそ馴染めないことも多かったものの、住めば都という言葉もあるとおり
島の住民の歓迎や親切のおかげで、当初と比べれば緊張もほぐれたものだ。
慣れないこともまだ多いが、でも十分進歩はしてると思う。
雅美は手に持っていた本を傍らに置き、首からさげていたヘッドホンをつけてその場に寝転んだ。
燦燦と、太陽は葉桜の合間から木漏れ日となって雅美に降り注ぐ。
ヘッドホンから流れる音楽は「天城越え」という演歌で、齢16の子供が聴くには
若干場違いのような気もするが。
瞼を下ろして、温かい空気といっぱいの自然に囲まれて、雅美はうとうととその場で微睡む。
このまま昼までずっと眠りこけてしまうのもいいかもしれない。
そう思った時だ。
「ああ、いたいた。やっぱりここだったのか。」
ヘッドホン越しに、そんな声が聞こえた。
この声はーーーーー
うっすらと片目を開け、滅多に来訪者の無いこの場所への尋ね人の顔を拝む。
声の主は雅美が起きていることを確認すると、ニカッと笑って「よう」と言った。
思った通りの人物がそこにいて、雅美は小さくため息をついた。
この島で知り合った人のうちの一人。『石田 初馬』だ。
雅美とは同い年で、生まれも育ちも香嵐島のやつだ。
16歳にしては175cmっていう長身をしていて、結構筋肉質な体格をしている。
なんでも家の畑仕事を手伝っているうちに力はついていったのだそうだ。
次いで、雅美とは違い人懐こい性格をしていて、犬っぽい感じがする。
だからか知らないけれど、この石田初馬という少年は周りから親しみを以て『バツ』と呼ばれている。
『ハツ』ではなくて『バツ』なのは、たぶんその方が呼びやすいからなのだと雅美は勝手に納得した。
ますます、犬のようだ。
というのが、雅美の率直な感想。
視線だけで、「何しに来た」と問うと、バツは
「割と暇なんだ。少しくらい話し相手になってくれよ」と言った。
バツは雅美の隣までやってくると、その場で腰をおろして胡坐をかいた。
どうやら、居座るつもりらしい。折角、惰眠を貪ろうとしていたというのに。
こいつが隣にいると、五月蠅うるさくて仕方がない。
どうやら、その野望はたった今潰ついえてしまったようだ。
雅美は諦めて体を起こした。
また弱い風が、横を凪いだ。
「ミヤってさ、暇さえあればここにいるよな。」
バツはいきなり話を切り出す。いつ許したわけでもないのに、バツは自分のことをミヤと呼ぶ。
まぁ、こっちも相手のことをバツと呼んでいるからお互いさまということにはしているけれど。
というか・・・・・突然そんなことを言われても・・・・。
あまり人と話すのが好きでない雅美は特に言う言葉も見つからない。
困ったように顔をしかめ、とりあえず「そうだね」とだけ言っておく。
「よく来るよな、こんなトコまでさ。この山そんなに緩やかじゃないし、登るの結構大変だろ?」
町を見下ろしながらバツは言った。
確かに・・・バツの言うことが全くないでもない。
見下ろす風景はまさに絶景だ。高いところから見下ろせばそれだけ壮観でもあろう。
だが、それだけにここまでの道のりも、実は大変だったりする。
島の山の中でも俄然低い、まるで丘のような山ではあるけれど、結構傾斜が急な所が多い。
もともと何を目的にして登るような山でもないから、そもそも登りに来るような人もいないし、階段みたいなものがあるわけでもない。登ったところで何があるわけでもない。
だからいつまでもほったらかされてそのままな山がここ、穿山であると雅美は聞いていた。
災害に見舞われても整地されることはないからボロボロである。
何があったのかは知らないけれど、この高台のあるところみたいな崖っぷちがあるくらいだ。
それこそまるで、なにかに穿たれたかのように。
穿山と言う名前の由来はそこから来ているらしい。
でもここの桜は、毎年ちゃんと花を咲かせているというから驚きである。
生命の力強さを感じさせてくれるような気がする。
それを素直にすごいなぁ、と、雅美は思った。
割と、雅美がここを訪れる主な理由はそこにあるのかもしれない。
まぁ、どうでもいいことだけれど。
でも、なんだっていいじゃないかと思う。
来たいから来る。
それ以上の理由がいるだろうか。
純粋に暇を謳歌したかった。
ただゆらゆらと、時を揺蕩うみたいに。
探せばいくらでも理由なんて出てくるだろう。
でも行きつくところは結局、そこなんじゃないか。
だから雅美は思ったことをそのまま言った。
「別に」
そう言うと、バツは「そっか。」と言って、また町を眺めた。
それから、しばらく二人は無言だった。
珍しく静かなバツに雅美は正直驚いたが、静かにしていてもらえるのならこちらに文句はなかった。
膝を抱えて、その上に顎をのせる。そうして、またうとうと微睡む。
「平和だなぁ・・・」と、思わず声が漏れた。
「あんまり無防備にしてると、狼にとって食われるぞ」
バツが冗談交じりに言った。
ムッとして、バツをにらむ。もちろんのことだが、この島に本物の狼なんていない。
それとも、この島にそんな節操無しがいるとでも言うつもりか。
視線だけで、「バカにしてんのか」と言う。
「いや、別に」
笑いながらバツは言った。
それからバツは口を閉じた。静かになったのを良い事に、雅美もまたうとうとまどろみはじめた。
そうしていたら、ふと、脳裏に「狼」に該当する影がよぎった。
・・・・・ああ。そういえば。
狼・・・かどうか知らないけど、そういえばそんなのもいたなぁ。
節操なしを全身で象徴する奴が、居るには居るのだ。
ただアレは、狼どころではなく龍の凶悪さだと思うのだ。