プロローグ/Alto
収穫期がやってきた。
ほんの一月も前までは一面緑だった土地に、黄金色の稲穂が風を受けて波立っている。
温暖期と比べれば涼しい気候にはなったものの、朝から働き通しなのだろうか、農夫たちは額を袖で拭いながらせっせと作業をしている。
「うわぁ」
その広大な耕作地のすぐ傍らの道を通っている馬車に、一人の少年が乗っていた。
顔にはまだ幼さが残り、10代前半といった様子。こげ茶色の髪と同じ色の瞳を持つその少年は荷台から身体を半分乗り出してその風景に見入っている。
「すごいねぇ」
時々少年がもらす声に気付いてか、馬の手綱をとっていた男が首だけちらりと振り向いた。
「あれはこの辺り以外じゃあ育ちにくい種類の麦でな。用途も広いってんで、遠くの地方でも良く売れるそうだ。……あんまり身を乗り出すと危ねぇぞ」
少年は慌てて体をひっこめ、荷台に腰を下ろした。
「しかしなぁ、俺も長く馬車をやってるが、お前さんみたいな小さいのが一人旅してくるのは珍しいもんだ。どこから来たんだ?」
男は顔を正面に向けながら少年に尋ねた。
男の普段の仕事は、この近くにある『ブレーメン』という大きな町まで、人を馬車で運ぶことだった。
ところが、今日も例外なく仕事に出たところ、乗ってきたのがこの少年一人だったというわけである。
「『オテロ』っていう大きな町があってね。その近くにある『アイネム』という小さな町から来たのさ」
「『オテロ』?それはまた、遠い所から来たもんだな」
ここから山を二つほど越えたところだったな、と男は呟いた。
少年は特別だが、若い旅人が『ブレーメン』を目指してやってくる事は決して少なくない。
ある伝説が、『ブレーメン』を一大音楽都市へと成長させた。
「あの」
ふと、少年が男の背中に声を掛けた。
「おじさんも何か持ってるよね、楽器」
旅人なら、誰もが持っている必携品。
男はもちろん旅人ではないが、職業柄各地を飛び回るため、持ち歩いている物に心当たりはあった。
「おう。まぁ俺が仕事を始めたときから使い古しているヤツだから、ちと古いがな」
男はごそごそと懐を探ると、すこし型の古い木製のリコーダーを取り出した。
型こそ古いがまだ色つやが残っており、入念に手入れされていることが窺える。
少年はそこに近づいて行って、それをしげしげと眺めた。
「これ」
やがて、
「すごく良い楽器だね」
少年が顔を輝かせて言ったので、男は少し驚いた顔になって答えた。
「お前さん、なかなか目利きだな。流石に『名器』ほどじゃあないが、ちったぁ名の知れた木彫りの作品でよ。二十年前にヨメが商人から買ってくれたんだよ。金も余裕なくてヒィヒィ言ってたときに大金はたいてよ、あのバカ」
そう語る男は言葉とは裏腹に、懐かしそうに笑みを浮かべた。
「……折角だから一曲くらい、と思ったんだがな」
言いかけて、男は苦笑した。
「ほら、着いたぜ。『ブレーメン』の入り口だ」
いつの間にか、馬車の目の前には巨大な門がそびえ立っていた。
その向こう側にはたくさんの人と音とが混じり合う世界が広がっているのが見える。
少年は停止した馬車からひょいと飛び降りると、男に頭を下げた。
「ありがとう、えっと」
「代金ならいらねぇよ」
男はすかさず言った。
少年が不思議そうな顔をしたので男が笑いかける。
「出世払いにしてやらぁ。名前だけ教えていけよ」
少年は男の方へまっすぐ向き直った。
「ボクは、アルト」
「そうか。じゃあ、大物になってこいよ、アルト!」
男は大きく手を振って、小さな背中を見送った。