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TS美少女は怪物を甲子園へ連れていきたい  作者: とほほ報
第二章:虎、目覚める
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22/22

第22話:初めての公式戦

 屋根のない市営球場のコンクリートスタンドに三人で並んで座っていると、強い照り返しを蓄えた座席の熱が、薄い夏用の制服スカート越しに太ももの裏へじりじりと伝わってきた。頭上を遮るものは何もなく、七月上旬の鋭い日差しが容赦なく降り注いでいる。六角形の金網の向こうには白く乾いた内野の土と外野の芝生が広がり、吹き抜ける熱風とともに焦げたような草の匂いと土埃が鼻をかすめた。


 答案返却の週明け火曜、短縮日課の授業が終わってから三人で球場へ駆けつけたものの、場内は息が詰まるような暑さだ。


 今日は待ちに待った夏の兵庫県大会の初戦である。西高は春の県大会ベスト十六のシード校なので二回戦からの登場で、相手は一回戦を勝ち上がってきた公立校だった。


「あっつ……! 座席、フライパンみたいになってるじゃん!」


 大原さんが身をよじりながらハンカチを敷き直し、プラスチックうちわを忙しなく動かし始める。


「ほんまや、お尻が焼けるかと思ったわ。姫宮さん、これ敷き。タオルの予備あるから」


「ありがとう、横山さん。ボクは平気だよ」


 そう答えながら、俺は膝の上のスクールバッグを押さえてグラウンドへ視線を向けた。


 スタンドを見渡してみても、客席は閑散としていた。

 バックネット裏のやや高い位置に、選手の保護者らしき母親たちが日傘を差して固まっている。あとは近所のお年寄りが数人。その少し離れた上段の通路に、ポロシャツ姿の体格のいい男が二人、バインダーを持ってグラウンドを見下ろしていた。偵察だろうか。この時期の地方予選ではよく見かける光景だ。


 グラウンドを見下ろすと、スコアボードの数字が目に入った。

 七回裏、相手校の攻撃中。スコアは三対一で、西高が二点をリードしている。


 そしてマウンドの中央には、見慣れた背番号一が立っていた。


「成瀬先輩だ。もう七回なんだね」


「すごい、勝ってるやん! 成瀬先輩、一人でずっと投げとるん?」


 横山さんが保冷バッグから凍らせたスポーツドリンクを取り出し、結露したボトルを頬に当てながら言った。


「うん。今日の先発は成瀬先輩だって、ボク、前もって先輩たちから聞いてたよ」


 俺は金網越しに、成瀬先輩のフォームをじっと見つめた。

 球速は出ていない。スタンドから見ていても、速い部類の球でないことはよく分かる。だが、相手のバッターはまるで芯で捉えられていなかった。


 成瀬先輩は低めの両隅に丁寧にボールを集めている。腕の振りをまったく緩めずに、打者の手元でわずかに沈む変化球を外角低めへ落とす。バッターが痺れを切らして踏み込んできたところへ、胸元を突くストレートを投げ込む。打者は腰を引かされ、泳がされて、力のない内野ゴロを打たされていた。


「成瀬先輩、すごいよね。派手に三振を取るわけじゃないのに、相手が全然打ててないじゃん」


 大原さんがうちわを扇ぎながら感心したように呟く。


「うん。成瀬先輩のピッチングは、本当に丁寧だよ。相手が何を狙っているのかをしっかり見て、一番嫌がるコースへ投げ分けてる。打たせて取るお手本みたいな投げ方だね」


「へえ、そうなんや。うち野球の細かいこと分からんけど、成瀬先輩が投げると相手のバットが変なとこに当たってばっかりに見えるわ。ポコンって上がったり、ゴロになったり」


「それが成瀬先輩の持ち味なんだよ。力でねじ伏せるんじゃなくて、バッターの裏をかいて芯を外してるんだ」


 口ではそう答えながら、俺はマウンドの上の成瀬先輩の足元をじっと見つめていた。


 成瀬先輩の投球術は素直に見事だと思う。自分の球速と制球力をしっかり把握し、無駄のない配球で試合を組み立てている。


 けれど、この暑さだ。日差しを遮るもののない炎天下で、投球数はもう百球近くになっているはずだ。打たせて取るスタイルとはいえ、相手も必死にしがみついて球数を投げさせようとファウルで粘っていた。イニングを重ねるごとに、成瀬先輩がロジンバッグを拾い上げる動作が少しずつ遅くなっている。マウンドの土をならす足取りにも、隠しきれない重さが滲む。


 七回裏の攻撃を、サードゴロで打ち取ってスリーアウト。

 ベンチへと引き揚げる成瀬先輩の右腕が、だらりと力なく垂れ下がっていた。足取りはかすかにふらつき、迎える堂本キャプテンがその背中を支えるようにしてベンチ奥へと促すのが見えた。


「……成瀬先輩、肩で息してるね」


 大原さんが心配そうに眉を寄せた。


「そりゃそうやろ、この日差しやもん。立ってるだけでも頭痛うなってくるのに、あんなとこで一人で投げ続けてたら倒れてまうわ」


「うん。スタミナはもう尽きかけてる。下半身の粘りがなくなって、球が少しずつ浮き始めてるよ」


 八回表、西高の攻撃。

 追加点を奪いたいところだったが、相手投手も粘りを見せ、内野ゴロ二つと外野フライで三者凡退に終わった。二点差のまま、試合は終盤の守備へと移る。高校野球の二点差など、ワンチャンスで一瞬にしてひっくり返る点差だ。


 八回裏、マウンドには再び成瀬先輩が上がった。

 先頭の六番打者を、執念のような低めのコントロールで追い込み、最後は外角のスライダーを打たせてサードゴロ。


 これで一死。アウトカウントを一つ稼いだ。

 だがその一塁送球を見届けた成瀬先輩は、膝に両手を当てて深く肩を上下させた。もう限界に近い。疲労が全身に回っているのが遠目にも分かる。


 その時、ベンチから伝令が走った。

 アンパイアが右手を掲げてタイムを宣告する。


 壊れかけたスピーカーから、ざらついたノイズ混じりのチャイムが鳴り響いた。


『西高、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャー、成瀬君に代わりまして城ヶ崎君。背番号十』


 静かな市営球場に、落ち着いた女性の場内放送が朗々と通った。


「……えっ!?」


 大原さんが目を見張り、ベンチから腰を浮かせた。


「嘘やん、ほんまに出てきた! 初戦から投げるんや!」


 横山さんも立ち上がり、手すりに身を乗り出す。


「……やっぱり、ここで来たか」


 俺は小さく息を吐き出した。

 成瀬先輩のスタミナが限界だったのも確かだ。だが、それだけじゃない。

 観客が少なく、派手な応援の音もないこの地方球場の初戦。二点リードの八回一死、ランナーなし。この絶好の場面で、公式戦のマウンドというものの空気を肌で覚えさせておく。ベンチの狙いは明白だった。負けられない夏の大会で一年生を試すなら、ここ以上の舞台はない。


 三塁側のベンチから、背番号十を背負った大きな身体がグラウンドへと飛び出してきた。


 城ヶ崎だ。

 白線をまたぐときに律儀に一礼し、マウンドへと走っていく。

 だが、その走り姿を見た瞬間、俺の胸の奥がきゅっと冷たくなった。


 ……走り方が、おかしい。


 いつもの雄大なストライドがない。膝の上が妙に突っ張り、腕の振りがぎこちなく固まっている。まるでロボットが無理やり手足を動かしているような、不自然な足取りだった。


「……ねえ、城ヶ崎君、なんか変じゃない?」


 大原さんが不安そうに呟いた。


「ほんまや……なんかロボットみたいになっとる。大丈夫なんかな」


「緊張してるんだよ。……それも、並の緊張じゃない」


 成瀬先輩からボールを手渡された城ヶ崎の横顔が、金網越しに見えた。

 血の気が完全に引いて、土気色になっている。唇を固く結び、うなだれるように俯きがちになっていた。渡されたボールを右手で握り直す仕草すら、指先が強張ってぎこちない。


 審判から投球練習を促され、城ヶ崎がマウンドの土を蹴った。

 一球目。

 大きく振りかぶった腕から放たれたボールは、堂本キャプテンのミットの遥か上を通過し、バックネットの金網に直接突き刺さった。


 ガシャン、と甲高い金属音がスタンドに鳴り響く。


「きゃっ……!」


 大原さんが短く声を上げ、横山さんが口を手で覆った。

 二球目は、ホームベースの手前で地面を叩くワンバウンド。三球目、ようやく堂本キャプテンのミットに収まったものの、肘が下がった完全な手投げだった。投げるたびに、城ヶ崎の背中が小さくなっていくのが見えた。


「プレイ!」


 容赦なく球審の声がかかり、相手の七番打者が左打席に入った。

 一死走者なし。落ち着いてストライクを放り込めばいい場面だ。しかし城ヶ崎の目には、相手打者どころかホームベースすら見えていないように思えた。


 セットポジションに入る。胸の前に構えたグラブが、遠目からでもはっきりと分かるほど小刻みに揺れていた。


 ……だめだ。呼吸が浅くなっている。

 心の中で叫んでも、スタンドからの祈りなど届くはずもない。


 城ヶ崎が足を上げた。

 軸足に体重が乗る前に体がホーム側へ倒れ込み、腕が遅れて出てくる。すっぽ抜けた白球は、打者の頭の後ろを通過する大暴投になった。


 ボール。

 球審の低い声が響く。相手打者は露骨にほっとした顔でバッターボックスを外した。

 二球目、力んで腕を引っ張り、外角へ大きく外れるボール。

 三球目、腕を振ろうと焦って地面に叩きつけるボール。

 そして四球目。置きにいこうとした球が完全にすっぽ抜け、高めに大きく浮いた。


 フォアボール。

 一度もバットを振らせることなく、わずか四球で一塁へとランナーを歩かせてしまった。


「またあいつは……!」


 俺は思わず両手で頭を抱えそうになった。

 練習であれだけ良い球を投げていても、いざ本番の舞台に立つとこれだ。周りの空気と背番号、そして失敗したら終わりだという重圧。それらすべてが、あいつの長い手足に鉛のようにまとわりついている。


 一死一塁。相手のベンチが一気に色めき立ち、ベンチの選手たちの野太い声がグラウンドに響き始めた。

 城ヶ崎はマウンドの土を見つめたまま、微動だにできずにいた。肩をすぼめ、視線を足元に落とし、まるで今にも消え入りそうな背中をしている。


 その時だった。


「タイム!」


 太く通る声とともに、ホームベースの後ろから堂本キャプテンが立ち上がった。

 マスクを外し、重たい防具を鳴らしながらマウンドへと大股で歩いていく。それと同時に、セカンドとショート、サードの三年生たちも一斉にマウンドへと駆け寄ってきた。


「城ヶ崎!」


 マウンドに上がった堂本キャプテンは、いきなり大きなミットで城ヶ崎の胸板をどすんと小突いた。


「ガチガチじゃねえか。心臓が口から飛び出そうなツラしてんぞ!」


 その声は静まり返ったバックネット裏のスタンドにまで、驚くほど明瞭に届いてきた。

 城ヶ崎がびくっと肩を跳ね上がらせ、目を白黒させる。


「す、すみません……! 俺、体が全然動かなくて……」


「謝ってんじゃねえよ」


 間髪を入れず、サードの三年生が横から城ヶ崎の帽子をパコンとはたいた。


「誰がお前に満点のピッチングなんて求めてるかよ。四球の一つや二つ、最初から計算の内だっつーの!」


「そうだぞ城ヶ崎、もっと気楽に腕振れよ。お前が打たれたって、後ろには俺たちがいるんだぞ」


 セカンドの先輩が笑いながら、城ヶ崎の背中をバチンと平手で叩いた。

 堂本キャプテンが両手を腰に当て、仁王立ちになって城ヶ崎の顔を覗き込む。


「成瀬がここまで繋いでくれたんだ。お前が一人で勝負を決める必要なんてねえんだよ。周りなんか見るな。俺のミットだけ見て、思い切り腕を振ってこい!」


 堂本キャプテンが、ミットをはめたまま城ヶ崎の両肩をがっしりと掴んで前後に激しく揺さぶった。

 内野の先輩たちが口々に笑い声を上げ、城ヶ崎の尻を蹴飛ばすようにしてそれぞれの守備位置へと戻っていく。


 マウンドに一人残された城ヶ崎が、深く息を吐き出した。

 叩かれた胸を手のひらでさすり、脱げかけた帽子を掴んで、深く被り直す。

 その瞬間、あいつの肩から不自然な力みが、すうっと抜け落ちていくのが見えた。強張っていた頬の肉が緩み、視線がしっかりとホームベースに向け直される。


「……あ」


 俺の口から、間抜けな声が漏れた。


 ……解決した。

 俺があんなに焦って、なんて声を張り上げようか迷っていた問題が、ほんの三十秒のやり取りで跡形もなく消え去っていた。

 チームメイトが、先輩たちが、たった一言で城ヶ崎の呪縛を解いてくれたのだ。


 チームで戦うというのは、こういうことだったのか。


 前世の俺は弱小校のエースとして、常に一人で戦っていた。

 後ろを守る味方を信じきれず、すべての重圧を右腕一本に背負い込んで。誰かに背中を叩かれることも誰かに任せることも知らず、最後は肘を粉々に壊してしまった。


 けれど、城ヶ崎には仲間がいる。

 頼もしいキャプテンがいて、泥臭く打球を追ってくれる先輩たちがいる。

 俺が一人でこの怪物を背負い込む必要なんて、最初からどこにもなかったのだ。


「……よかった。城ヶ崎君、いつもの顔に戻ったね」


 大原さんがほっと息をついた。


「ほんまや。先輩ら、めっちゃ頼もしいやん。あんなん言われたら、誰かて投げられるようになるわ」


「うん。……もう大丈夫だよ」


 俺は金網の手すりに指をかけ、マウンドの背番号十を見つめた。


 一死一塁。相手の八番打者が右打席に入り、じっとマウンドの様子を窺っている。直前に四球を出した城ヶ崎に対して、初球は手を出さずじっくり見てプレッシャーをかける作戦だ。


 城ヶ崎がセットポジションに入った。

 左足を静かに持ち上げる。軸足の太ももにしっかりと力が溜まり、スパイクが土を噛んで、上半身の余計な突っ込みが消えていた。胸の前に抱えたグラブが壁となり、相手打者に対して背番号を見せるほどの深いタメが生まれる。


 そして、踏み出した左足がマウンドの土を捉えた瞬間。


 右腕が遅れて出てきて、鋭く空を切り裂いた。


 それは成瀬先輩の投球とも先ほどの暴投ともまるで違う、大気を引き裂くような風切り音だった。

 指先から弾き出された白球が、低めから唸りを上げて浮き上がるように伸びていく。


 初球を見ていくつもりだった打者が、内角低めを鋭く突いた球に思わず身体を引いた。

 ボールは低めの内角いっぱいに突き刺さり、堂本キャプテンの構えたミットを激しく揺らした。


 ドガァンッ!


 重厚な捕球音が、閑散としたスタンドのコンクリートにこだまする。


「ストライク!」


 球審の太い右腕が勢いよく突き上げられる。

 打者はバットを構えたまま、見送った球の軌道を信じられないような目で見つめて固まっていた。


 その瞬間バックネット裏の上段通路が、ざわりと揺れた。


「……おい、今の見たか」


「嘘だろ。手元のガン、見間違いじゃないよな」


 ポロシャツ姿の偵察の男二人が、身を乗り出して手元を覗き込んでいた。


「百四十五出てるぞ……! あいつ、本当に一年生か? 背番号十だぞ」


「どこの中学だ? 春の地区予選にこんなの投げてたか? とんでもない隠し玉持ってやがったな、西高……!」


 他校の偵察たちの動揺した声が、金網を通り抜けて耳に入ってきた。

 市営球場の古いスコアボードには、球速を表示する電光掲示板などついていない。けれど、あの男たちが構えていた黒い機械に刻まれた数字が何だったのかは、球の伸びを見れば明らかだった。


「……ふふ」


 俺の口元から、自然と息混じりの笑みがこぼれた。

 驚くのも無理はない。高校に入ってまだ三ヶ月の一年生が、夏の公式戦の初登板で、何気ない顔をして百四十五キロを放り込んだのだ。二回戦の偵察程度に足を運んでいた連中にしてみれば、寝耳に水どころの話ではないだろう。


「今の音、何……!? バチンってレベルじゃなかったじゃん!」


 大原さんがうちわを握りしめたまま、目を丸くしてグラウンドを見つめている。


「音すごっ……! 大砲でも撃ったんかと思ったわ。姫宮さん、今のめっちゃ速かったんちゃう!?」


「うん、速かったよ」


「やっぱり! 成瀬先輩の球と全然違うもんね!」


「でもね」


 俺は手すりに体重を預けながら、マウンドの大きな背中を見つめた。


「あいつ、まだ緊張してるよ」


「えっ、これで緊張してるの!?」


「うん。足の踏み込みがまだ少し浅いし、腕の振りも八割くらい。身体全体を使い切れていない手投げの延長だよ。緊張が完全に解けたら、あんなものじゃない」


 大原さんと横山さんが顔を見合わせ、言葉を失ったようにぽかんと口を開けた。


 俺はふと、手すりを握っていた自分の右手に目を落とした。

 細い指、細い手首。制服の半袖から伸びる腕には、速い球を投げるための太い筋肉などどこにもついていない。


 俺がすべてを捧げても手に入れられなかった、壊れない頑丈な骨格と、天性の筋力。どれだけ走っても、どれだけ投げ込んでも、俺の細い体では決して届かない領域の肉体が、目の前で躍動していた。


 手すりの熱を帯びた鉄の感触を確かめるように、指先に少しだけ力を込める。

 だが、その思考は長くは続かなかった。


 マウンドの上で、城ヶ崎が再び大きく息を吸い込んだ。

 二球目も見逃しのストライク。追い込んでからの三球目、堂本キャプテンが外角低めにミットを構える。


 城ヶ崎の腕が振られた。

 外角いっぱい、打者の膝の高さへ寸分の狂いもなく吸い込まれるストレート。

 打者が慌ててバットを振り出したが、ボールがミットに収まり、破裂音が響いた後で空を切った。


「ストライク、バッターアウト!」


 空振り三振。これで二死。

 一塁ランナーはスタートを切ることすらできず、塁上に釘付けのままだ。


 続く九番打者に対しても、城ヶ崎の勢いは止まらなかった。

 初球、内角高めいっぱいの直球で空振りを奪う。二球目、真ん中低めの直球で見逃しストライク。そして三球目、外角の直球を振らせて、三球三振。


 二者連続の空振り三振。

 マウンドに上がった直後には四球を出して青ざめていた一年生が、気づけば相手打線をまったく問題にせず、涼しい顔でベンチへと戻っていく。


「スリーアウト、チェンジ!」


 審判の声がかかると、ベンチ前で待ち構えていた先輩たちが城ヶ崎の頭を手荒く叩いて出迎えた。成瀬先輩が冷たいタオルを城ヶ崎の首に巻き、堂本キャプテンが肩を抱いて笑っている。


「やったぁぁ! すごいじゃん城ヶ崎君!」


 大原さんが飛び跳ねるようにして手を叩いた。


「ほんまに抑えてもうた! かっこええやん!」


 横山さんも立ち上がって拍手を送る。

 上段の通路では、偵察の二人が血相を変えて携帯電話を取り出して耳に当てながら、手元のノートに狂ったように文字を書き殴っていた。


 九回表の西高の攻撃は、相手投手の粘りもあって無得点に終わった。

 三対一のまま、試合は最終回、九回裏の守備を迎える。


 相手校にとっては最後の攻撃だ。打順は好調の一番打者から始まる。

 ベンチから飛び出してきた城ヶ崎は、もう最初のイニングのようなぎこちない足取りをしていなかった。長い手足を悠々と動かし、マウンドのプレートへと向かっていく。


 九回裏のマウンド。

 城ヶ崎の投球は、もはや手がつけられない領域に入っていた。


 先頭の一番打者に対し、低めの直球二球で簡単に追い込むと、三球目は高めのボール球。分かっていても手が出てしまう軌道に、打者のバットが空を切った。空振り三振。一死。


 続く二番打者は、何とかバットに当てようと極端にグリップを短く持って打席に入った。

 だが、放たれた直球の球威に完全に力負けし、打球は力のないセカンドゴロ。軽快に回り込んだセカンドの先輩が、余裕を持って一塁へ送球してツーアウト。


 あっという間に、二死走者なし。

 勝利まで、あと一つのアウトとなった。


 打席に向かうのは三番打者。相手校のキャプテンだ。

 意地を見せようと鋭い目つきで構え、初球の内角直球を強振した。だが鈍い金属音とともに打球は三塁側のファウルグラウンドへと転がり、打者の両手が痺れで細かく震えているのがスタンドからでも見て取れた。


 ツーストライク、ワンボールからの四球目。

 堂本キャプテンが、どっしりとミットを構えた。

 小細工はいらない。お前の最高の球を投げてこいというサインだった。


 城ヶ崎が頷く。大きく息を吸い込み、右腕を思い切り振り抜いた。


 低く唸るような風切り音。

 打者は渾身の力でバットを振り抜いたが、白球はバットの上を通過し、ミットの奥深くへと突き刺さった。


「ストライク、バッターアウト! ゲームセット!」


 球審の右手が空高く突き上げられると同時に、球場の頭上に長いサイレンが鳴り響いた。


 甲高いサイレンの音が、真夏の澄み切った青空へと吸い込まれていく。

 三対一。西高の勝利だった。


「勝ったぁぁぁ!」


「キャーッ! 勝った勝った!」


 隣で大原さんと横山さんが、飛び上がって抱き合っていた。抱き合う弾みで足元のスポーツドリンクのボトルが倒れ、カラカラと音を立てて転がる。


「姫宮さん! 勝ったよ! 初戦突破だよ!」


「城ヶ崎君、ほんまに全部三振とゴロで片付けてもうた! すごすぎるわ!」


「うん。……勝ったね」


 俺も立ち上がり、二人の笑顔につられて自然と口元を綻ばせた。


 グラウンドでは、両校の選手たちが本塁を挟んで一列に並んでいた。泥だらけのユニフォームを着た少年たちが、互いに深々と頭を下げる。


「礼!」


「ありがとうございました!」


 砂埃の舞うグラウンドに、太く揃った掛け声が響き渡った。

 続いて、勝者の栄誉を称える西高の校歌がスピーカーから流れ始める。選手たちが整列したまま胸を張り、青空を見上げて声を張り上げていた。その列の端っこで、城ヶ崎もぎこちなく口を開けて歌っている。まだ歌詞を覚えきれていないのか、隣の先輩の口元をチラチラと盗み見しながら歌っている姿が、いかにもあいつらしくて可笑しかった。


 校歌の演奏が終わり、選手たちがスタンドへと駆け足でやってくる。

 バックネットの前に並んだ部員たちが、一斉に帽子を取って頭を下げた。


「応援、ありがとうございました!」


 スタンドから、まばらながらも温かい拍手が降り注いだ。

 保護者たちが立ち上がって手を振っている。


 礼を終えて立ち上がった瞬間、成瀬先輩が城ヶ崎の汗で濡れた短髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。城ヶ崎が首をすくめて嬉しそうに笑っている。反対側からは堂本キャプテンがやってきて、太い腕で城ヶ崎の首を巻き込むようにして抱き寄せた。


 先輩たちに揉みくちゃにされながら、城ヶ崎がふと視線をスタンドの上へと向けた。


 バックネット裏の最前列で、制服姿の俺たちが並んで立っているのを見つけたらしい。

 あいつの垂れ目が、ぱっと大きく見開かれた。

 それから照れくさそうにはにかむと、先輩たちの腕の隙間から、ぐっと右手の拳を突き出してきた。


 見ててくれたか、と言わんばかりの、真っ直ぐな拳だった。


 その瞬間、俺の隣で息を呑む気配がした。


「……ちょっと、見た!? ヒロ、今の見た!?」


 大原さんが俺の肩を激しく揺さぶってきた。その目は興奮でらんらんと輝いている。


「見た見た! 見てもうたわ! 完全にこっち見て拳突き出してきたやん!」


 横山さんも顔を真っ赤にして、口元を押さえながら飛び跳ねていた。


「姫宮さん! 今の城ヶ崎君の拳、完全に姫宮さんに向けてだったよね!? あんな先輩たちに囲まれてる中で、真っ先にこっち見て拳出すとか、もう完全にそういうことじゃん!」


 二人が大騒ぎしながら、交互に俺の腕をつついてくる。

 だが、俺には二人が何をそんなに騒ぎ立てているのか、さっぱり分からなかった。


「何を言ってるの。ボクたち三人で並んで見てたんだから、三人に向けてに決まってるでしょ」


 俺が呆れて言うと、大原さんの手がぴたりと止まった。


「は……? 三人?」


「そうだよ。暑い中わざわざ電車乗って来てくれたクラスメイトが三人揃ってたら、そりゃあっちから見たら目立つでしょ。応援ありがとうの合図だよ」


「応援ありがとうの合図……?」


 横山さんが引き攣った笑顔のまま、信じられないものを見るような目を向けた。


「……こんなに矢印を向けてるのに」


「モモ……うち、もう何も言えへんわ……」


「二人とも様子がおかしいよ……暑さで頭がやられちゃった? ほら、さっさと片付けちゃおう。この暑さだし、念のため早く帰ったほうがいいよ」


 俺が身の回りのものを整理しだすと、二人は顔を見合わせ、深いため息を同時に吐き出した。


 グラウンドを見下ろすと、城ヶ崎はまだ先輩たちに背中を叩かれながら、引き揚げの列に加わろうとしていた。

 一回と三分の二を投げて、被安打ゼロ、無失点、四奪三振。

 そして他校の偵察の度肝を抜いた、百四十五キロの速球。


 まだ誰も知らない地方の市営球場から、あいつの夏が静かに幕を開けた。

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