千年の時を超えて
どんな時代にも、どんな国にも――“黒歴史”は存在する。
栄光の裏に積み重なった屍。
勝者に消された敗者たちの記録。
光の陰で、必死に抗いながらも、運命に呑まれていった者たち。
キプロス王朝最後の王子――フランシスもその一人。
彼は後に、“悲劇の王子”と呼ばれた。
◇◆◇ラーナ視点◇◆◇
――フォーレスタ国の史実を読んだのは、私、ラーナが五歳の時だった。
胸が痛くなる内容に涙が零れた。
悲劇の王子様を、絶対に助けてあげたいって思った。
史実によれば。
今から千年以上前。
キプロス王国で、大規模なクーデターが勃発した。
中心となったのは、後に栄華を極めるフォーレスタ公爵家。
彼らは旧王家を打ち倒し、新たな王を擁立した。
そしてキプロス王朝は、歴史の闇へと消えていったのである。
──すべての始まりは、一人の王女だった。
ポルタニア国から嫁いできた、美しき王女マリエッタ。
彼女はキプロス王国の王太子妃として迎えられた。
銀糸のように輝く髪。
春の若葉を思わせる柔らかな瞳。
その美貌は、人々を魅了した。
だが――
彼女は、この国を愛さなかった。
豪奢な宴に明け暮れ、甘い言葉を囁く貴族たちに囲まれながら、民の苦しみから目を背け続けた。
やがて王太子が国王として即位し、マリエッタは王妃となる。
二人の間には、二人の子どもが生まれた。
王女ジュリア。
そして王子フランシス。
姉弟は母に似て、美しかった。
それだけではない。聡明で、心優しく、多くの者に愛された。
けれど。
国を治めるべき王と王妃は、政務より快楽を優先した。
愛人たちを城へ囲い、贅沢を重ね、腐敗は広がっていく。
重税に苦しむ民の怒りは、やがて限界を迎えた。
そして――キプロス王朝は滅びた。
王と王妃、その一派は処刑。
王家の栄華は、血と共に断ち切られたのだ。
しかしそのとき。
ポルタニア国の王妃――マリエッタの母が、孫たちの命乞いのため駆けつけた。
「せめて、ジュリアとフランシスだけは……」
涙ながらの嘆願は、かろうじて聞き届けられた。
姉弟は処刑を免れる。
だが、救われたわけではなかった。
二人は祖母のもとへ返されることもなく、“旧王家の生き残り”として厳しい監視下に置かれることとなる。
ジュリアは十二歳。
フランシスはまだ九歳だった。
幼い姉弟には、あまりにも過酷な運命。
やがてジュリアは、隣国の王の側妃として嫁がされる。
ジュリアは泣いた。
弟と離れたくないと。
一緒に生きたいと。
必死に訴えた。
けれど、少女の願いが叶うことはなかった。
ジュリアは嫁ぎ先で三人の子を産み、静かに生涯を終えた。
そして――
彼女が弟フランシスと再び会うことは、生涯一度もなかった。
◇
弟フランシスが世を去ったのは、十四の年だった。
死因は感染症。姉ジュリアにもそう伝えられたが、実際には自ら命を絶ったのだった。
その生涯は、あまりに短く、そして耐えがたいほどに過酷だった。
九歳で地下牢に落とされたフランシスは、日々、牢番たちからの嘲笑と暴力のなかにいた。掃除は月に二度ほど、排泄物は足元に溜まり、空気は澱み、悪臭が染みついていた。
「クソ王妃から生まれたクソ王子」――彼らの口にのぼる言葉は罵倒ばかりで、差し出される食事は半ば食い散らかされ、残飯にも満たぬ代物だった。
槍の柄で突かれた小さな体には、常に痣が絶えなかった。
それでも、フランシスの心には希望があった。
「必ず迎えに来るから。待っていてね」
姉ジュリアのその言葉だけを胸に、彼は暗い地下の底で日々を耐え続けた。
真冬には冷水を浴びせられ、真夏には水さえ与えられず、命が消えかけたことも一度や二度ではなかった。
フォーレスタ王政の方針は残酷にも「生かさず、殺さず」。
国の情勢が安定せず、民の不満が膨れ上がる中、その怒りの矛先をフランシスに向けさせるため、生きた贄として彼は利用され続けたのだ。
過去のキプロス王家の栄華をあげつらい、民衆の怒りを焚きつける報道が続いた。
「宝石を縫い付けた服を着せていた」
「料理は山ほど出され、食べ残しは全て捨てられていた」
「数十人の従者に傅かれていた」
どれも事実ではあったが、それはかつての話である。牢獄のフランシスとは既に無縁だったにも拘わらず、民衆はフランシスへと怒りを向けた。
◇
フランシス十二歳のある夜、牢番の不始末で火災が起こった。
彼は焼け落ちる牢から辛うじて救い出されたものの、体には火傷を負い、顔にも火傷の痕が残った。
それがきっかけで、一部の者たちから同情の声が上がり、彼の扱いはわずかに見直された。
彼は治療を受けた病院で、回復後もそのまま働くことになった。だが、それは名ばかりの「仕事」であり、実態は奴隷と変わらなかった。
患者の洗濯物を洗い、床を拭き、料理の下ごしらえなど、雑用に追われ、眠る暇さえ許されなかった。
なかでも、彼が最も耐えがたかったのは、医療従事者たちからの虐待だった。
夜になると彼らはやってきて、フランシスを押さえつけ、暴行を加えた。
誇りも、尊厳も、ひとつひとつ削がれていく日々のなかで、彼の心はゆっくりと壊れていった。
十四の年、感染症を患ったとき、彼は自らの終わりを悟った。
春まだ浅い庭の大木に、病院のシーツを裂いて結びつけ、フランシスは静かに命を絶った。
その大木の根元に穴が掘られ、そこに彼は埋められた。
僅かに同情した者によって、やがて小さな十字架が建てられた。
◇
姉ジュリアがこの世を去ったあと、フランシスの墓は掘り起こされ、姉の傍らに改めて墓が建てられた。
生前には二度と交わることのなかった姉弟が、ようやく寄り添えたのは死後のことだった。
◇◆◇フランシス視点◇◆◇
僕は、まだ生きている。
冷え切った牢獄の中。
汚れた薄い毛布を肩に掛け、石の床に身を丸めて眠る夜。
もう何度繰り返したのか分からない。
吐く息は白く、体は冷え切っている。
それでも僕は、ずっと信じていた。
──いつかきっと、ジュリア姉様が迎えに来てくれる。
それだけを支えにして。
僕は今日まで、生き延びてきた。
けれど。
気づけば、もう三年だ。
希望というものは、こんなふうに少しずつ壊れていくのかもしれない。
時々夢を見る。
暖炉の火が揺れる部屋。
優しく笑うお姉様。
あの頃は毎日が幸せだった。
……そして、あの最後の光景。
父上と母上の首が落とされた瞬間。
血飛沫。
響き渡る歓声と悲鳴。
あの日から、僕の世界は止まったままだ。
僕の名前はフランシス。
滅びたキプロス王家の生き残りだ。
今年で十二歳になった。
この牢に、あと何年閉じ込められるんだろう。
……お姉様に会いたい。
その願いだけが、まだ僕を人間でいさせてくれる。
時々、思うんだ。
いっそ、あの日に処刑されていた方が幸せだったんじゃないかって。
その方が、きっと楽だった。
ここでは僕は、人として扱われない。
牢番たちにとって、僕は奴隷ですらない。
なんの価値もない、ただの虫けらだった。
暗い牢獄の天井を見上げながら、僕は静かに目を閉じた。
──お姉様。
もしまだ、生きているのなら。
どうか、僕を忘れないで。
◇
浅い眠りの中で、僕はふいに目を覚ました。
「ゴホッ……」
周囲が、真っ白な煙に包まれていた。
「火事だ!」
遠くから誰かの叫び声が聞こえる。
「ゴホッ……ゴホッ……!」
喉が焼けるみたいに痛かった。
慌てて毛布で口元を押さえる。
僕の牢は地下の一番奥。
誰か助けてくれるだろうか?
……いや。
ここで死ぬんだ。
不思議と、怖くはなかった。
僕は牢の隅に小さく身を寄せ、その時を待った。
こんな人生だったけど。
死んだら、天国へ行けるのかな。
静かに目を閉じる。
せめて最後くらい、苦しくありませんようにと祈った。
その時だった。
「フランシス王子!」
煙の向こうから、声がした。
優しくて、まるで天使のような声。
薄く目を開けると。
煙の中、銀の鎧の兵士……? がいた。
全身を銀の鎧みたいなもので覆われ、顔には黒いガラス。
呆然としていると、階段の方から牢番たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「早く助けろ!」
「死なせたら俺たちが処刑されるぞ!」
すると銀の鎧の兵士は、楽しそうに笑った。
「来たわね!」
次の瞬間。
檻の前へ何かを投げつける。
──ボン!!
爆発音。
一気に炎が燃え上がり、地下牢の天井まで赤く染まった。
「無理だ!」
「王子は捨てろ!」
牢番たちの叫び声が遠ざかっていく。
煙の中。
兵士は僕へ手を伸ばした。
「助けに来たよ!」
……助けに?
僕を?
信じられなかった。
次に兵士は、僕によく似た人形を床へ転がした。
それから。
ぎゅっと、僕を抱きしめる。
「行くよ!」
──どこへ?
そう聞く前に。
体がバラバラになりそうな感覚に襲われた。
視界が歪む。
意識が遠のいていく。
ああ。
きっと、天国へ行くんだ。
そう思いながら、僕は意識を失った。
◇
次に目を覚ました時、僕は、真っ白な部屋にいた。
清潔で温かな寝具。
窓からは眩しい光。
花瓶には花。
牢獄とは何もかも違う。
懐かしい緑の匂いもして、胸が締めつけられた。
突然、ウィーン、と不思議な音がして扉が開く。
「目が覚めた?」
入って来たのは、一人の女性だった。
黒髪に黒縁眼鏡。
知的で、綺麗な人。
だけど笑顔は、子どもみたいに明るい。
「私はラーナ。王子様、気分はどう?」
気分は驚くほど良かった。
……でも、それより。
「ラーナ……ここはどこ?」
「ここは病院。君の時代から千年後のフォーレスタ国よ」
彼女はさらっと、とんでもないことを言った。
「私が発明したタイムマシーンで、君を助けに行ったの」
僕は、完全に固まった。
千年後?
タイムマシーン?
意味が分からなかった。
でも。
日が経つにつれて、僕は理解していった。
ここは夢じゃない。
本当に、千年後の世界なんだと。
あの銀の鎧の兵士は、防火服を着たラーナだった。
彼女は十八歳。
世界的に有名な天才物理学者だ。
そして、タイムマシーン完成の褒賞として、
僕を救う許可を国から勝ち取ったのだという。
「君は史実では死亡扱いだからね。歴史が変わらないって判断されたの」
「……そうなんだ。ラーナ、ありがとう」
本当に。
心からそう思った。
「でも、どうして僕を助けようと思ったの?」
「君、悲劇の王子様として有名なのよ」
彼女は一冊の史実書を開いて見せてくれた。
そこには、幼い僕の肖像画があった。
〈フランシス王子。十二歳の時、火災で焼死〉
そう書かれていた。
本当は、その後も二年間生きていたらしいけど。
その事実は歴史から消えてしまっていた。
「君を助けたくて物理学者になったの。君の絵がね、幼い頃の私の初恋だったの」
ラーナは少し恥ずかしそうに笑った。
その笑顔にジュリア姉様を思い出し、
──僕は胸の奥が熱くなる。
「これからは私がお姉さんになるから、安心して長生きしてね」
優しい声だった。
あまりにも優しくて。
僕は、泣きそうになった。
◇
未来の世界は、僕の想像を遥かに超えていた。
戦争もなく。
誰も王家の血を理由に、僕を憎まない。
だが、制約は沢山あった。
中でもフォーレスタの子孫を恨まない事。
──これを守れないと、元の世界に戻すと言われた。
フォーレスタ王国は千年も平和を維持しているのだ。恨んだりしなかった。
救ってくれたラーナに迷惑はかけられない。
そのラーナは後見人になって、ずっと僕の側にいてくれた。
そして元気になった頃。
僕たちは、ジュリア姉様と僕の墓へ花を供えに行った。
千年を超えて。
──とても不思議な気持ちだった。
僕は墓石を見つめながら、誓う。
「いつか必ず、ラーナに恩返しをするよ」
「うーん。じゃあ初恋を叶えてくれる? 六歳差は厳しいかな?」
ラーナは冗談っぽく笑って僕を見た。
僕は真剣に答えた。
「六歳差くらい、大丈夫だと思うよ?」
一瞬ぽかんとしたあと。
ラーナは吹き出して大笑いした。
「冗談よ! 私は純粋に悲劇の王子様を助けたかっただけ」
……でも。
僕は本気だった。
そっと、ラーナと手を繋ぐ。
いつか絶対に、ラーナに相応しい騎士になる。
今度は僕が、彼女を幸せにする。
だから。
僕が大人になるまで、待っていて。
最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。




