第1話 死
目覚ましの音で目を覚ます。まだ布団から出るには寒いので潜り込んでいたいがそうはいかない。カーテンを開けて朝日を浴びると、欠伸をしながら部屋を出る。母の作ってくれた若干焦げたトーストを牛乳で流し込んで活力を養う。洗面台で歯磨きをしながらタコの触手のように好き勝手している寝ぐせに苦言を呈した後、冷水で顔を洗って意識を覚醒させる。そして母譲りの絹のように艶やかな長髪を櫛でといていく。
これが私――正義勇花の一日の始まり。
いつもの日常だ。代わり映えのない。だけど尊く、何にも代え難い日常。
そんな日常が今日も続くと――思っていた。
インターホンが鳴った。
こんな早朝に誰だろうか。
珍しいこともあるものだと思いながら髪を一つ結びにまとめていると――
「きゃーー!」
母の悲鳴が聞こえた。
私は慌てて玄関に走った。
するとそこで私は認識しきれない現実を目の当たりにする。
「おかあ……さん?」
仰向けに倒れる母の胸元にはぬらりと光る鋭利な物体が刺さっていた。
瞳孔に光はなく、虚ろを映している。人形のように固まっていて動かない。
今日はハロウィンだっただろうか? イベントのある日だっただろうか?
なにも思い当たる節はない。
「は……ははっ。おかあさん、冗談キツいって」
タチの悪い冗談に乾いた笑いが出た。
どちらかと言えば真面目で規律を重視する母だ。俗物だからとお笑い番組なんかも観ないのに、朝から娘の心臓に悪いことをしてくるなんてどういった心変わりなのだろうか。
「ねぇ……起きてよ。ねぇってば」
揺すっても母はピクリとも動かない。それどころか、胸元にある赤い液体がどんどんとあふれ出てくる。
温かい。まるでその液体が母の温もりを全て持っていってしまっているようだ。
「いやだ……。いやだよ」
単身赴任の父に連絡すれば、どうすればいいか教えてもらえるだろうか。
母を……目覚めさせることが出来るだろうか。
とめどなく涙が溢れてくる。
そんなわけないと思いたいのに、現実という波が私を呑み込んで、否が応でも真実を突きつけてくる。脳が理解を始めてしまう。いや、初めから気付いていた真実に向き合わせてくる。
「死んじゃやだよ……」
すがる思いで絞り出した言葉だったが、返事はない。
誰がこんなことをしたのか。なんの目的で母を殺したのか。
私は目の前に立つ男を睨みつけた。
中肉中背で四十代くらいの傲岸不遜そうな男だ。
身なりはあまりいいとは言えない。ヨレヨレの服に、所々に穴の開いたズボン。浮浪者と言われても納得できる格好。
そんな男を私は知っていた。
昨日だ。昨日の高校からの帰り道、すれ違いざまにタバコのポイ捨てをしてきたので注意をした。その時の男だ。
あの時は無視して去っていったのに、何で今さら……。わざわざ家を特定してまで……。
「なんで私じゃなくておかあさんを狙った!」
「なんで? お前が先に出てこなかったからだろ。つまりお前のせいだよ」
男は言いながら煙草を咥えて火をつけた。
冷たくなっていく母とは対照的に、私は体が熱くなっていくのを感じた。
この自分勝手な人間を……、人間の皮を被った獣を野放しにしていてはいけないと、私の魂が絶叫している。
「ごめん、おかあさん」
母の胸に刺さった包丁を手に取ると、肉の柔らかな感触が、引き抜いていくと骨の擦れる振動が伝わってくる。
もう本当に母はいないんだ。そう自覚する。
私は立ち上がり、母の血で艶めく切っ先を男に向けた。
今ここで殺す。恐怖はない。母に貰った愛が背中を押してくれているから。
そのはずなのに……、手が震える。
「死ねぇ!」
私は自分に言い聞かせて床を蹴った。
一撃で終わらせてやる。母を殺し、日常を奪ったこの男を許しはしない。地獄に送り付けてやる。
だけど――現実はゲームじゃない。そう簡単にいくわけがない。
気付くと天井を見上げていた。全身に電流のような痛みが走って、体が動かせない。
「ガキが大人に勝てるわけねぇだろ。バカかよ」
あぁ死ぬんだ。そんな諦めが脳裏に過った。
昔から正義感だけは人一倍強かった。いじめなんて絶対に許さないし、止めた結果標的がこちらに向こうものならぶちのめしてきた。大人にも物怖じしない強さは持っていた。
だから勘違いしていたんだ。大人にだって負けないって。勝てる力を持っているって。
妄想甚だしい。勝てるわけないんだ。
私は少し牙を向けられたら傷つき倒れるくらいには矮小な存在。
それを最後に自覚させられた。
悔しい。恨めしい。もっと私に力があれば……。
だけどそんな想いは届かない。
男は床に転がる包丁を手に取って、私の胸に突き立てた。
「じゃあな、この世界のゴミ」
「ゴミはお前d――」
ズブリと体内の肉を抉られる感覚と共に、私の意識は途絶えた。
私は初めての死を味わった。




