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もう一度、歩き出す

作者: 村上 治
掲載日:2025/11/20

『もう一度、歩き出す』



第一章白い書類


退職届を出した日のことを、亮は今も胸に棘のように抱えている。昼下がりの市役所は妙に静かだった。空調の音だけが響き、亮が手にした書類は白く光って見えた。その白さが視界に残る最後の記憶になるかもしれないと思うと、胸の奥がきゅうと冷たく引き締まった。

「景山さん、本当に……」

上司の声は遠慮がちだった。景山亮(カゲヤマリョウ)は五十七歳。あと数年で定年という時期に、彼は自ら職を手放すことになった。糖尿病性網膜症・・・医師にそう告げられたのは半年前のことだ。最初は「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせていた。だが視界の周辺から少しずつ暗闇が侵食し、やがて中心部も霞み始めた。


広報課の仕事は書類との格闘だった。細かい文字、校正の赤入れ、パソコン画面との睨めっこ。亮はそれらを愛していた。言葉を選び、レイアウトを整え、市民に情報を届ける・・・地味だが、確かな手応えのある仕事だった。

だが、もう無理だった。書類の文字が二重に見え、行を追うことができなくなった。会議で配られた資料を読むのに人の三倍の時間がかかり、最後には諦めて同僚に読んでもらうようになった。周囲は優しかった。だからこそ、亮は自分が負担になっていることを痛感した。

「お世話になりました」

亮は深く頭を下げ、市役所の玄関を出た。五月の風が頬を撫でる。空は青かったはずだが、亮にはもう青の鮮やかさが分からなかった。すべてが白く霞んで、輪郭だけが薄く浮かんでいた。


家に帰ると、妻の香苗カナエが台所で夕食の支度をしていた。包丁の音が規則正しく響く。香苗とは結婚して二十五年になる。二人の間に子供はいなかったが、それを嘆いたことは一度もなかった。互いの存在が、それで十分だったのだ。

「おかえりなさい」

香苗は振り向かずに言った。亮は靴を脱ぎながら、口を開いた。

「盆栽、処分してくれ」

包丁の音が止まった。

「全部?」

香苗の声は低く、静かだった。

「ああ。もう触れない。枯らすだけだ」


亮は盆栽を愛していた。それは趣味を超えた、人生の一部だった。二十五年前、結婚した年に最初の黒松を手に入れた。以来、週末は庭の作業小屋で盆栽と向き合う時間が何よりの喜びだった。針金をかけ、枝を整え、苔を植え、水をやる。盆栽は時間をかけて育つ。焦れば失敗し、放置すれば枯れる。丁寧に、辛抱強く向き合うことで、少しずつ理想の姿に近づいていく。


亮はいくつもの盆栽展に出品し、地域の愛好会で講師も務めた。だが今、その全てを手放そうとしている。視力を失えば、盆栽の状態を正確に把握できない。水やりのタイミングを誤り、病気に気づかず、剪定を失敗する。大切に育ててきた木々を、自分の手で殺してしまうかもしれない。それだけは、耐えられなかった。

「分かった」

香苗は短く答え、また包丁を動かし始めた。翌朝、亮が目を覚ますと、庭の作業小屋から物音がした。香苗が盆栽を運び出しているのだろう。亮は布団の中で目を閉じた。別れを見たくなかった。だが、夜になって床につくと、小屋の片隅に何かが残っているような気配を感じた。気のせいだと思いながら、亮は眠りに落ちた。



第二章 指先の地図


視覚障害者リハビリテーションセンターに通い始めたのは、退職から一ヶ月後のことだった。最初は拒んだ。「もう何もできない」という諦めが亮を支配していた。だが香苗が静かに、しかし強く説得した。「何もしないで家にいるのは、あなたらしくない」。その言葉に、亮は折れた。センターでの訓練は想像以上に厳しかった。点字を覚えること、音声読み上げソフトを使いこなすこと、白杖で歩くこと・・・どれも新しい技術であり、亮の体は最初、それらを受け入れるのに抵抗した。


特に白杖は難しかった。杖を左右に振りながら歩く動作は、慣れるまで何度も失敗した。障害物にぶつかり、段差で転びかけ、通行人に迷惑をかけた。だが訓練士の智子は辛抱強く教えてくれた。

「焦らなくていいんですよ。景山さんのペースで」

智子は三十代の女性で、自身も弱視だった。彼女の落ち着いた声が、亮の不安を和らげた。


訓練の合間に、亮はよく庭に出た。家の裏手には小さな庭があり、そこに作業小屋がある。香苗が水やりをする音が聞こえてくることがあった。ホースから水が流れる音、ジョウロの水が土に染み込む音。それらは亮の記憶を刺激した。

ある日、亮は庭の砂利を踏む香苗の足音を聞いた。その音は作業小屋の方へ向かっている。亮は思わず声をかけた。

「まだ盆栽があるのか」

香苗は驚いたように笑った。

「十鉢だけ残したの。全部は処分できなかった」

亮の胸に複雑な感情が渦巻いた。嬉しさと、不安と、罪悪感が混ざり合っている。

「触ってごらん」

香苗の声に促され、亮は恐る恐る手を伸ばした。指先が最初に触れたのは黒松の幹だった。ごつごつとした樹皮の感触が指に伝わる。剥がれかけた皮の端が微かにざらつき、古い剪定の跡がふくらみとなって残っている。


亮は枝を一本一本辿った。太い枝から細い枝へ、指先が慎重に進む。葉の針は冷たく、しなやかな弾力があった。土の表面に触れると、適度な湿り気が指先に伝わってきた。その瞬間、亮の中で何かがほどけた。見えなくても、木の姿は手に伝わってくる。幹の太さ、枝の配置、葉の密度・・・それらは視覚だけで理解するものではなかった。長年、亮は目で盆栽を見ていたが、同時に手でも感じていたのだ。ただ、視覚が優位だったために、触覚の情報を意識していなかっただけだ。


「まだ、できるかもしれない」

亮は小さく呟いた。香苗は何も言わず、ただ隣に立っていた。だが、希望はすぐに不安に変わった。翌日、亮は剪定ばさみを手に取った。枯れた枝を切ろうとしたが、手が震えた。どの枝を切るべきか、目で確認できない。間違えば、木を傷つけてしまう。

「香苗、見てくれるか」

亮は妻に頼んだ。香苗は盆栽を観察し、状態を言葉で伝えた。

「左の下の枝、少し枯れてる。右の上は元気」

亮は香苗の言葉を頼りに、指先で枝を確かめた。枯れた部分は硬く、弾力がない。生きている部分は柔らかく、水分を含んでいる。慎重にはさみを入れると、枝が切れる小さな音がした。

「うまくいった」

香苗の声に、亮は安堵のため息をついた。


それから毎日、亮と香苗は一緒に盆栽の手入れをした。香苗が目の代わりになり、亮が手を動かす。二人の間に新しいリズムが生まれた。一方、音声読み上げソフトの訓練も進んでいた。パソコンが文章を読み上げてくれるのを聞きながら、亮は少しずつ操作に慣れていった。最初は機械的な音声に違和感があったが、やがてそれも自然に感じられるようになった。ある日、亮はインターネットで盆栽の情報を検索した。視覚障害者向けの園芸情報は少なかったが、いくつかのブログや掲示板で同じような境遇の人々が経験を共有していた。亮はそれらを読みながら、自分だけではないことを知った。そして、ふと思った。自分の経験も、誰かの役に立つかもしれない。



第三章 声の波紋


「動画を撮ろう」

その言葉が亮の人生を変えた。提案したのは、高校時代からの友人・森安浩(モリヤスヒロシ)だった。浩からの電話は突然だった。SNSで亮の近況を知り、連絡してきたのだという。

「久しぶりだな。会いたい」

浩の声は昔と変わらず、明るかった。亮は戸惑いながらも、会うことにした。数日後、浩が亮の家を訪ねてきた。手土産の日本酒を抱えた浩は、少し白髪が増えていたが、相変わらず元気そうだった。二人は居間で酒を酌み交わしながら、昔話に花を咲かせた。

「お前の盆栽、また見たいな」

浩の言葉に、亮は庭へ案内した。作業小屋の前で、亮は黒松の鉢を手に取った。浩は盆栽を観察し、細かく状態を説明した。

「幹の曲がり、いいな。苔も元気だ。この枝の流れ、すごくいい」


浩の言葉を聞きながら、亮は指先で盆栽を確かめた。二人は黙って、しばらく盆栽と向き合った。風が葉を揺らし、かすかな音が響く。

「なあ、亮」

浩が口を開いた。

「これ、動画にしたらどうだ?」

「動画?」

「ああ。お前が盆栽の手入れをする様子を撮るんだ。視覚に頼らない方法を伝える。同じような境遇の人、絶対に助かるぞ」

亮は戸惑った。動画は「見る」ためのものだと思っていた。だが浩の言葉には説得力があった。

「俺もさ、実は糖尿病なんだ」

浩の告白に、亮は驚いた。

「まだお前ほどじゃないけど、いつかそうなるかもしれない。だから、お前の経験を知りたい。他にも、きっと同じように思ってる人がいる」


その夜、亮は香苗に相談した。香苗は即座に賛成した。

「私が撮影するわ。編集も覚える」

香苗の決意に、亮は頷いた。最初の撮影は緊張した。カメラの前で話すことに慣れておらず、亮の声は震えた。だが香苗と浩が支えてくれた。浩は時折、的確な質問を投げかけ、亮の言葉を引き出した。

「どうやって土の湿り具合を確かめるんだ?」

「指を土に差し込んで、湿り気を感じる。乾いてたら、指先がサラサラする」

「枝の健康状態は?」

「触って、弾力があるかどうか。枯れた枝は硬くて、折れやすい」

亮は自分の技術を言葉にしていった。長年の経験で身につけた感覚を、できるだけ具体的に説明した。香苗はカメラを操作しながら、時折、亮の手元をアップで撮影した。


編集には時間がかかった。香苗は夜遅くまでパソコンに向かい、映像をつなぎ合わせた。字幕をつけ、説明を加え、分かりやすく構成した。そして、ついに最初の動画が完成した。タイトルは「指先で育てる盆栽 第一回:土の確認」。動画は十分ほどの長さだった。亮が盆栽の土に触れ、湿り具合を確かめる様子が映っている。亮の声が静かに説明する。


「土の表面が乾いていても、中はまだ湿っていることがあります。指を一センチほど差し込んで、確かめます」

香苗が動画サイトにアップロードした。亮は半信半疑だった。誰が見るのだろう。需要があるのだろうか。だが、反応は予想外だった。一週間で再生回数は千回を超えた。コメント欄には感謝の言葉が並んだ。

「私も糖尿病で視力が落ちてきて、園芸を諦めかけていました。でもこの動画に励まされました」

「父が緑内障で、盆栽が趣味だったのですが、最近は手をつけなくなっていました。この動画を見せたら、また始めると言ってくれました」

「盆栽の本質は『見る』ことじゃなく、『対話する』ことだと気づきました、ありがとうございます」


亮は音声ソフトでコメントを読んでもらいながら、胸が熱くなるのを感じた。

浩は興奮気味に言った。

「な? 言っただろ? お前の経験は価値があるんだよ」

亮は第二回、第三回と動画を作り続けた。テーマは水やり、剪定、針金かけ、植え替え・・・盆栽の基本的な作業を、視覚に頼らない方法で紹介していった。失敗談も包み隠さず語った。


「若い頃、水をやりすぎて大切な真柏を根腐れさせたことがあります。土の状態を確認せず、毎日たっぷり水をやってしまったんです。盆栽は水が好きですが、やりすぎは禁物です」

亮の正直さが、視聴者の共感を呼んだ。チャンネル登録者は徐々に増えていった。



第四章 連鎖する光


ある日、亮のもとに一通のメールが届いた。香苗が読み上げてくれた。

「景山様。はじめまして。山本と申します。七十五歳です。私は元大工で、定年後は木工を趣味にしていました。しかし白内障が進行し、細かい作業ができなくなりました。もう無理だと諦めていたとき、あなたの動画に出会いました」


亮は息を呑んだ。

「あなたの『触覚を信じる』という言葉が、私の胸に刺さりました。私も試してみようと思い、小さな木のスプーンを作りました。最初は失敗ばかりでしたが、諦めずに続けました。完成したスプーンを、地域の福祉施設に寄贈しました。施設の方々が喜んでくれて、涙が出ました。あなたの動画が、私にもう一度手を動かす勇気をくれました。本当にありがとうございます」


亮は黙ってメールの続きを聞いた。山本は自分も動画チャンネルを始めたという。「触って作る木工」というタイトルで、視覚に頼らない木工技術を紹介しているとのことだった。

「山本さんのチャンネル、見てみようか」

香苗が言い、パソコンで検索した。山本のチャンネルはまだ動画が数本しかなかったが、丁寧に作られていた。高齢の男性が、手探りで木を削り、磨き、形を整えていく様子が映っていた。亮は胸が震えた。自分の小さな一歩が、誰かの背中を押したのだ。それから、似たようなメッセージが次々と届くようになった。


元パティシエの舞浜喜代マイハマキヨという女性は、糖尿病性神経障害で指先の感覚が鈍くなり、繊細な菓子作りができなくなって職を離れていた。だが亮の動画に触発され、「触って楽しむお菓子」のレシピ開発を始めたという。視覚障害害者向けの料理教室でボランティア講師も務めるようになったとのことだった。


大学生の咲希(サキ)という若者は、生まれつきの視覚障害で盆栽には興味がなかったが、亮の語り口に惹かれて動画を見続けていた。そして自分も何か発信したいと思い、音声配信で詩の朗読を始めたという。咲希から、コラボレーションの提案があった。

「景山さんの盆栽を、私の詩で表現してみたいんです」

亮は即座に承諾した。咲希が亮の家を訪ね、二人は庭で盆栽を囲んだ。亮が盆栽に触れながら説明し、咲希がそれを聞いて詩を紡ぐ。

「幹は時を刻む。指先が辿る年輪は、静かな証。枝は空へ手を伸ばし、葉は風と語る。見えない世界で、木は生きている」

咲希の詩は、亮の感覚を美しく言葉にしていた。二人のコラボ動画は、視聴者から大きな反響を得た。


そして、ある日。地域の視覚障害者支援センターから連絡があった。「できることフェス」というイベントを企画しているので、ぜひ参加してほしいとのことだった。

「盆栽の実演ブースを出していただけませんか?」

亮は引き受けた。香苗と浩も協力してくれることになった。



第五章 新しい枝


フェスの当日は快晴だった。会場は地域の公民館で、多くの人々が集まっていた。視覚障害者とその家族、支援者、地域住民・・・様々な人々が行き交っている。亮のブースには、十鉢の盆栽が並んでいた。香苗が丁寧に配置し、説明のパネルも用意した。パネルには点字と大きな活字で、盆栽の育て方が書かれている。


亮は来場者に盆栽を触ってもらい、手入れの方法を説明した。子供たちも興味津々で、小さな手で盆栽に触れた。

「ざらざらしてる!」「葉っぱ、チクチクする」

子供たちの声が亮を笑顔にした。

隣のブースには山本がいた。木工のブースで、触って楽しめる木のおもちゃや食器が並んでいた。山本と亮は初めて対面し、固く握手を交わした。

「景山さん、本当にありがとうございます」

山本の声は震えていた。

「いえ、こちらこそ。山本さんの動画、拝見しました。素晴らしいです」

少し離れたところには、喜代のブースがあった。触って楽しむお菓子が並び、来場者が試食している。クッキーには点字でメッセージが刻まれ、チョコレートは様々な形で触感を楽しめるようになっていた。

会場の一角では、咲希が詩の朗読をしていた。静かで透明な声が、会場に響いている。亮は目を閉じて、その声に耳を傾けた。

「失ったものを数えるより、残ったもので何ができるかを考えよう。終わりは、新しい始まり」

咲希の詩は、亮の胸に深く染み入った。


フェスの終わりに、亮はステージに立った。マイクを握り、少し緊張しながら話し始めた。

「私は視力を失って、すべてが終わったと思いました。でも、それは間違いでした。終わったのではなく、新しい方法で始まったんです」

亮は自分の経験を語った。盆栽との再会、動画の開始、そして山本や喜代、咲希との出会い。

「一人の小さな一歩が、こんなに広がるなんて思ってもみませんでした。皆さん、ありがとうございます」

会場から拍手が起こった。亮は深く頭を下げた。浩が舞台袖で親指を立てていた。香苗は客席で静かに微笑んでいた。



第六章 風が、針葉を鳴らす


フェスから数日後、亮は庭で盆栽の手入れをしていた。夕暮れ時の静かな時間だった。黒松の鉢を前に、亮は指先で新芽を確かめた。小さな、柔らかな芽が顔を出している。春の訪れを告げる命の証だった。

「元気に育ってる」

香苗が隣で言った。

「ああ」

亮は微笑んだ。

土の匂い、剪定ばさみの冷たさ、妻の呼吸のリズム・・・それらすべてが亮の世界を形作っている。視覚を失ったとき、世界が白紙になったように感じた。だが今、世界は音や触感、匂いで満ちている。それは以前とは違う世界だが、決して貧しい世界ではなかった。

香苗がポケットから携帯を取り出した。

「今日、新しい視聴者からコメントがあったわよ。糖尿病で最近診断された若い子。不安で仕方ないって。でも、あなたの動画を見て、少し希望が持てたって」

亮は黙って頷いた。

「じゃあ、次の動画は『病気との付き合い方』にしようか」

「いいわね」

二人は一緒に水やりを続けた。ジョウロから水が流れ、土に染み込む音が響く。亮は指先で土の湿り具合を確かめた。適度な湿り気が、根に届く。


その夜、亮は音声ソフトを使って、新しい動画の台本を書き始めた。パソコンが亮の入力した文字を読み上げ、亮はそれを確認しながら修正していく。

「糖尿病と診断されたとき、私は絶望しました。でも、病気は終わりではありません。付き合い方を学べば、人生は続きます」


亮の指がキーボードを叩く音が、静かな部屋に響いた。翌朝、亮は白杖を手に、いつものリハビリセンターへ向かった。道を歩きながら、亮は周囲の音に耳を澄ませた。車の音、鳥の鳴き声、風が木々を揺らす音。それらは亮にとっての地図だった。センターに着くと、智子が出迎えてくれた。

「景山さん、動画見ましたよ。素晴らしいです」

「ありがとうございます」

「実は、他の利用者さんたちも興味を持っていて。もしよければ、センターでワークショップを開いていただけませんか?」

亮は即座に承諾した。


数週間後、センターでワークショップが開かれた。参加者は十人ほど。様々な年齢、様々な障害の程度の人々が集まった。亮は盆栽を持ち込み、一人ひとりに触ってもらった。最初は遠慮がちだった参加者たちも、徐々に積極的になっていった。


「この枝、生きてますね」

「土、いい匂いがします」

参加者たちの声が、亮を勇気づけた。ワークショップの終わりに、一人の中年男性が亮に近づいてきた。

「景山さん、私も何か始めてみようと思います。陶芸に興味があるんです。触って作る陶芸、できるんじゃないかと」

亮は男性の手を握った。

「できます。絶対に」

その確信は、亮自身の経験から来ていた。



エピローグ


秋が深まり、庭の木々が色づき始めた頃。亮は縁側に座り、温かい茶を飲んでいた。隣には香苗がいて、二人は静かに庭の気配を感じていた。

「ねえ、亮」

香苗が言った。

「あなた、変わったわね」

「そうかな」

「うん。前より、生き生きしてる」

亮は苦笑した。

「視力を失ったのに?」

「失ったからこそ、かもしれない」

香苗の言葉に、亮は考え込んだ。確かに、以前とは違う人生を歩んでいる。市役所の仕事はもうない。視覚もほとんど失った。だが、新しいものを得た。動画を通じた繋がり、同じ境遇の人々との連帯、そして何より、世界を新しい方法で感じる喜び。


庭から風が吹いてきた。黒松の針葉が鳴る音がさわさわと響く。

「今日は北風だ」

亮が呟くと、香苗が頷いた。

「そろそろ冬支度ね」

携帯が鳴った。香苗が画面を確認する。

「咲希ちゃんから。来週、また遊びに来たいって」

「いいな」

亮は楽しみだった。咲希との交流は、亮に新しい視点を与えてくれる。

「山本さんからもメールが来てるわよ。新しい木工教室を始めるんですって。地域の小学校で」

「それはいい」

亮の周りで、多くの人々が新しい一歩を踏み出していた。それぞれが、失ったものと向き合い、残ったもので創造している。その連鎖の輪は、亮が想像していたよりもずっと大きく広がっていた。


動画のコメント欄には、今日も誰かの感謝や質問、報告が寄せられる。

「景山さんの動画を見て、母に盆栽をプレゼントしました」

「不安でしたが、希望が持てました」

一つひとつのコメントが、亮にとっての宝物だった。香苗が立ち上がった。

「そろそろ夕飯の支度するわ」

亮は庭へ降りた。白杖で地面を確かめながら、作業小屋へ向かう。黒松の鉢に手を伸ばし、幹に触れ、枝を辿り、新芽の成長を確かめる。盆栽は時間をかけて育つ。人生も同じだと、亮は思う。


退職届を出した日、亮は人生が終わったと感じた。だが今、その日は新しい始まりだったのだと分かる。視力を失ったことで、亮は別の世界を発見した。触覚、聴覚、嗅覚が織りなす豊かな世界。そして何より、人との繋がりという、かけがえのない財産。亮は水差しを手に取り、黒松に水をやった。水が土に染み込む音が、静かに響く。

「亮、ご飯できたわよ」

香苗の声が聞こえた。亮は白杖を手に家へ向かった。夕日が背中を照らしていた。亮には見えないが、温かさが肩を包む。


夜、パソコンの前で亮は新しい動画の台本を書いた。指がリズミカルにキーを叩く。音声ソフトが文字を読み上げる。

「皆さん、こんにちは。景山です。今日は冬の盆栽管理についてお話しします」

台本が完成し、亮は縁側へ出た。夜の庭は静かだった。虫の音が遠くで響き、風が葉を揺らす。亮はふと、退職届を出した日のことを思い出した。あの日、白い書類が最後の視覚記憶になるかもしれないと思った。だが今、亮の記憶は様々な感触や音、匂いで満ちている。黒松の樹皮の感触。浩の笑い声。香苗の足音。咲希の詩。山本の握手。それらすべてが、亮の新しい世界を形作っている。

「終わりだと思った場所が、実は新しい始まりだった」

亮は小さく呟いた。咲希の詩の一節だった。


寝室へ向かい、布団に入ると、隣で香苗が静かな寝息を立てていた。亮は目を閉じた。暗闇は、もう怖くなかった。明日もまた、新しい一日が始まる。小さな一歩の積み重ねが、大きな道になる。その道は、亮一人のものではなく、多くの人々と共に歩む道だった。眠りに落ちる直前、亮の耳に風の音が届いた。庭の黒松が、針葉を鳴らしている。さわさわと、優しく。まるで、「また明日」と囁くように。



—— 了 ——




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