鏡の向こうの私
私はこの家の鏡だ。
いや正確には鏡の中にいるもの。
古い一軒家の二階
埃っぽい和室の片隅に立てかけられた楕円形の古びた鏡。金箔の縁は剥げガラスは曇っている。
人間にはただの古道具に見えるだろう。
でも、私は見ている。いつも見ている。
この家に新しい住人が来た。
女、30代半ば、名前は彩花。髪は乱雑に結び疲れた目をしている。
引っ越してきたばかりで荷物を解く手は雑だ。
彼女が私の前に立ったとき初めてその顔を見た。 悲しみと苛立ちが混ざった表情。
人間の感情は鏡に映る時いちばん美味だ。今すぐ喰いたい。でもまだ我慢。
「こんな古い鏡、捨てちゃおうかな」彩花が呟く。
人間の笑顔も、涙も、叫び声も、全部映してきた。
そう言えば彩花の祖母が少女だった頃、恋人とこの鏡の前で同じ事を言っていたな。あの頃の彼女は彩花に似ていたなァ。
夜、彩花が寝静まると私は動く。
鏡の表面が波打つように揺れ彼女の寝室に忍び込む。
彼女の夢を覗く。夢の中の彩花は誰かと口論している。
男の声冷たい言葉。「もう終わりだ」と男が言う。
彩花の目から涙が落ちる。私はその涙を味わう。しょっぱくて苦い。
人間の悲しみはとても良い。
翌朝彩花が私の前に立つ。
化粧をしながら鏡の中の自分を睨む。
「なんでこうなるの…」
彼女の声は小さく震えている。
私は囁く。「彩花、泣いてもいいよ」もちろん、彼女には聞こえない。
だが彼女の目が一瞬私の表面で揺れる。
私の黒い影が彼女の瞳に混じる。気づいたかな? 気づかないよね、人間はいつもそうだ。
夜ごとに、私は彩花の夢に入る。彼女の記憶をなぞる。
失恋、仕事の失敗、母との確執。
彼女の心は脆いガラスのようだ。少し押せば砕けそう。
私は押す。鏡の中で彼女の姿を歪ませる。目の下に隈を頬をこけさせる。
彼女は気づかない。鏡の中の自分が日に日に変わっていくことに。
ある夜、彩花が叫びながら起きる。
「誰かいる!」
彼女が懐中電灯を手に私の前に立つ。光が私の表面を照らす。
「何か…変だ…」彼女が呟く。
いいね、その顔。もっと見せてよ。
私は彼女の記憶を映す。鏡の中に彼女の母の顔、恋人の冷笑、子供の頃の暗い部屋。
彩花が後ずさる。
「やめて!」
彼女の声が割れる。
私は囁く。
「彩花、私と一緒にいればいいよ。鏡の中なら、誰も傷つけない」
彼女の目が揺れる。彼女は知らない。
この鏡は逃がさない。
一度私の目を覗いた人間は私の一部になる。彩花の手が震えながら鏡に触れる。
その瞬間、彼女の指先が私の表面に沈む。冷たい冷たい感触。彼女の顔が歪む、螺旋のように。
叫び声は鏡の中に吸い込まれる。
朝、鏡は静かだ。
彩花の部屋は空っぽ。
荷物はそのまま、ただ彼女がいない。私はまた静かに待つ。
この家の次の住人を。鏡の向こうで、彩花の声が小さく響く。
「助けて…」ふふ、遅いよ。
貴方も私の一部。




