夏の終わり
1.あの頃
海岸線。海を横目に走る。
カウントダウンを始めた夏を、少しでも多く刻み付けようとする人の名残りだろう。俺の漕ぐ自転車を追い越していく車が擦れ違い様、軽快にクラクションを鳴らす。
女子大生だろうか。窓から上半身を乗り出し、「しょうねーんっ」だの「いぇーいっ」だのと、俺に向かってご機嫌に手を振る。
青年だよ。
緩やかなカーブでその車は俺の視界から消えた。
祖父母の住むこの町に来たのは、五才の夏。
家は高台にあって、平屋ながらも縁側からは海が見渡せる。海面は角度を変えながらキラキラと光り、水平線はどこまでも一直線。夜になると、地の底ってこういうことを言うんだろうなって思うくらいそこには何にもなくて、なのに波頭が白く浮き上がっていて。
怖くなって慌てて見上げた空には手を伸ばせば届いた。
週末には離れて暮らす親父が来た。キャッチボールをしたり川釣りに行ったり。もちろん海にも出かけた。
早めに夕飯を済ませて帰る親父の車を見送りながら、ばあちゃんはいつも言ってたっけ。
「お母さんの心の病気、早く治ればいいね」って。
2.あの時
その日は、仕事が忙しくてたまにしか顔を合わせる事のなかった父さんがめずらしく家に居た。
じっとしているだけでも汗ばむ季節。長袖のシャツをいつまでも着ているぼくに、父さんは、「暑くないの?」って聞いた。
「……別に……」
不思議そうに、「ふーん」って言うと、「よしっ、久しぶりに一緒に風呂に入るか」って立ち上がる。
キッチンで洗い物をしていたあの人が慌ててやって来たのはその時。
「久しぶりに早く帰って来れたんだから……。ひとりでゆっくり入れば?」
あの人は、ぼくの肩に手を置いて父さんに言った。
「だから一緒に入るんだよなっ」
父さんは「さっ、入るぞー」って、ぼくの髪をくしゃくしゃ手で掻き混ぜてバスルームへ足を向けた。
「だから、ひとりで――」
「俺が一緒に入りたいんだって」
そう言って父さんが「海斗」ってぼくに手招きをする。
「いい……よ」
「ほら、この子もいいって言ってるし」
「父さんと入るの嫌か?」
「いいって言ってるんだから、ひとりで入ればいいじゃない」あの人はちょっとイライラした感じでそう言うと、ぼくの肩をぐっと掴んだ。
父さんは一瞬黙ると、「――怒るようなこと?」
あの人は、「やだなー、怒ってなんかないよ?」と微笑みながらぼくから手を離すとキッチンに戻り、洗い物の続きを始めた。「海斗は部屋に戻って片付けでもしてなさい」
ぼくは言われた通り自分の部屋に行こうとして父さんの前を通り過ぎようとした時、父さんが何気なくぼくの腕を掴んだ。その時、ぼくは思わず体をよじり、声をあげてしまった。
「え?」驚いた父さんが手を離す。
やってしまったと思った。
「海斗?」
「ごめんなさい」
「何が」
あ。またやってしまった。
「どうした?どこか痛いのか?」
なんでもないと首をふるぼくを心配そうな顔で父さんが覗き込む。
「海斗?」
ぼくの名前を呼ぶ父さんの声。ぼくの手を両手で包む父さんの大きい手。
父さん。お父さん――。
ガシャンっと食器のぶつかる音がして首がすくんだ。
「早く部屋に行きなさい!」
あの人の声が部屋に響く。蛇口から激しく水の流れる音が聞こえる。
ぼくは考える。
「海斗」
でも、わからない。ずっとわからない。
「――なぁ、海斗」
ぼくは、はっとして父さんを見た。
「海斗。――シャツ脱いでみな」
「え」
「脱いでみな」
ぼくは首を横にふる。「――部屋に行かないと」
「そうよ。部屋に行きなさい」あの人の声。
ぼくの手を包む父さんの手に力がこもる。
「早く部屋に――」そういうあの人を見て、「今、海斗と話してるんだ」父さんが言った。はじめて聞いた父さんの声。怒ってる。
父さんは立ち上がるとあの人の横を通り過ぎ、流し台の蛇口を閉めてまたぼくの前に座った。
「海斗。ちょっとごめんな」
そう言うと、父さんはぼくのシャツの袖をそっとたくしあげた。
父さんはひゅっと短く息を吸い上げた。
いくつも残るやけどに破けた水ぶくれの跡。化膿してじくじくしている傷口。恐る恐るシャツの裾をめくり上げて見えた痣で変色した身体。
父さんは大きく目を見開いた。ぼくの頭のてっぺんから足先まで見下ろしている間、ぽっかり開いた口は息をするのを忘れているみたいだった。
お母さんと呼ばないでと言われた。顔を見るとイライラすると言われて、いろんなものが飛んできた。お父さんの前では吸わない煙草を吸って、火種をぼくの腕に落とした。逃げようとすると腕を強く引かれて叩かれた。声を上げたらうるさいと大きな声で言われた。
だからぼくは目をぎゅっとつぶり、身体に力を入れて歯を食いしばった。早く「今」が終われとそれだけを思った。
シャボン玉を抱くみたいにぼくの頭を抱いた父さんは、「ごめん」って言った。声が震えていた。
あの人は、「……私じゃない……私じゃない……」って呪文みたいに呟いていた。
そして、ぼくはこの町に来た。
父さんはあの人とマンションに残り、ぼくは毎日、波の音を聞いて過ごした。
次にあの人に会った時、ぼくは六才になっていた。
待ち合わせたレストランで、あの人は居心地悪そうにずっとそわそわしていて、注文した料理がまだ温かいうちに、あの人のお父さんとお母さんが迎えに来て帰って行った。
それが最後。
帰りの車の中で、「お母さんの病気、治せなかった」って言った父さんに、ぼくは、「ごめんなさい」って謝った。
「なんで海斗が謝るんだ?」
鼻の奥がツンとして、「わかんない」って笑ってごまかした。
ぼくはどこがいけなかったんだろう。
何が悪かったんだろう。
あの人は本当はいい人だから。
だって「お母さん」なんだもん。
そうでしょ?
あの人と三人で暮らしていたマンションから父さんが引っ越してきて、じいちゃんとばあちゃん、父さんとぼくの四人で暮らすようになり、ぼくはその夏、半袖のシャツを着た。
肌がちりちり焼けて、くすぐったかった。
3.夏の途中
小二の夏休み。本屋へ行く途中に降ってきた雨で、駆け込んだ駅の軒先から空を見上げていると、目の前に誰かが立った。なんだ?って顔を向けたら、黄色いレインコートを着た女の子がいて、「はい」ってぼくに青い傘を差し出してくる。
びっくりして慌てて目を逸らした。女の子の手に、判子を押したような痕があった。
ぼくは手で同じ痕が残る腕のしずくを拭いながら、「いらね」って言った。心臓がドキドキしていた。
傘を受け取らないぼくに女の子は、「ここに置いとくね」って、そばの壁に立てかけて改札の方に走っていった。横目で見ると、走って行く先に女の人がいる。その人は自分を見上げる女の子の頭を数回撫でると持ってる傘を差し、女の子と手を繋いで楽しそうに歩いて行った。
あの女の人も心の病気なのかな?
でも、手を繋いでた。笑ってた。
雨は夜遅くになっても止まなかった。雨音は誰かの泣き声みたいで、誰かの泣き声を消しているみたいで、ぼくはタオルケットにぐるぐるにくるまって目を閉じる。
「海斗ー、行くぞー」
父さんは仕事が休みになるとぼくを連れて穴場の海岸まで車を走らせる。今日は父さんの幼馴染みの人たちも一緒。ばあちゃんが二回お米を炊いておにぎりをたくさん握ってくれた。タッパーには父さんとぼくが大好きなたまご焼きと唐揚げ。エビフライも入ってる。
いっぱい遊んでいっぱい食べていっぱい笑って、ヒーヒー言いながら日焼けした身体でお風呂に入って、疲れ果てて眠る。
初めてここに連れて来てくれたのは、また父さんと一緒に暮らし始めて少し経った時。
半袖ではまだ少し寒い夕暮れで、父さんは砂浜に腰を下ろすと、立てた膝に伸ばした腕を乗せ、水平線に沈んでいく夕陽に顔を赤く染めながら、とても大きなため息を吐いた。
「ここはいいなぁ――。ここはいい」
父さんがここに来るまでの一年と少し、あの人とのふたりの暮らしに何があって、何を話してきたのかわからないけれど、優しくて無敵の父さんがたくさん傷ついて帰ってきたんだってことだけはわかった。
「海斗、ごめんな」
「なにが?」
「何がだろうな」
「父さん、ごめんね」
「何が?」
「わかんない」
ぼくたちは謝ってばかりだった。
友達と遊んだ帰り道。駅からぼくの家に続く緩やかな坂道の途中にあるアパートの二階の物干し竿に、ハンガーに掛けられた黄色いレインコートが揺れているのを見つけた。
前の日は、やっぱり酷い夕立があった。
あの子じゃないかもしれないけれど。
ぼくは急いで家に傘を取りに走った。あの時と同じような時間に、何度も駅でしばらく待ってみたけれど、ふたりに会うことがなくて返せないでいたあの青い傘。
勘違いで違う人が出て来たら、間違えましたってあやまればいい。
物干し竿にレインコートがかかっている部屋が左から二番目なのを確認。
玄関の前を行ったり来たりしながら覚悟を決めてインターホンを押した。
返事がない。
誰もいないのかな。緊張していた身体から力が抜けて大きく息を吐いた。
仕方なく通路を戻り、階段を降りる時、なんとなく振り向いたらさっきの部屋の扉が少しだけ開いてる。
「あ」
ぼくが声を出した途端、バタンと扉が閉まった。
え?
ぼくは部屋の前に戻ってインターホンを押した。
「あの――傘。駅で貸してもらった――」
扉のドアノブがゆっくり回り、カチャっと小さな音を立てて少しだけ開く。なんにも言わないうちにまた閉じられるといけない。慌てて隙間から覗き込むと、大きな目があった。持ってる傘を見せながら、「あのさ、この傘――」
言い終わらないうちに、また、バタン。
なんだよ。あったまきた。もういい。もう知らない。
ぼくは傘をドアノブに引っ掛けて「返したからな!」って引き返す。
なんだよ、なんだよ、なんだよ。
前をちゃんと見ていなかったから、人がいることに気が付かなくてぶつかってしまった。
「っ!ごめんなさい――」
「――家に何かご用?」
そう言うぶつかった人を見上げると、後ろから、「お母さんっ」って言う女の子の声。
振り返ると、傘を引っ掛けたさっきの部屋の扉が開いていて女の子が立ってる。
「おかえりなさいっ」
やっぱり、あの時の子だ。
女の人は笑顔で、「ただいま」って女の子に言うと、またぼくに尋ねた。
「何かご用かな?」
「えっと……傘。傘返しに――」
急いで部屋の前まで戻って、ドアノブに引っ掛けた傘を、「これ」って女の人に掲げて見せた。
「あっ。わたしの!」
「この間、雨が降った時に――」
女の人はそれでわかったのか、「届けに来てくれたの?」
「黄色いレインコートが見えて、もしかしてと思って……」
「すごい。探偵さんみたいだね」女の人は驚いたように言った。「どうもありがとう」
「……じゃあ」
帰ろうとすると、女の人は、「今度はゆっくり遊びに来てね」って。「おばさん、働きに行ってる間、この子ひとりで留守番してるの。よかったらお友達になってあげてね」だって。
棚橋佐菜。二個上で、ぼくより背が高くって二ヶ月前にこの町に来たって言ってた
友達との待ち合わせ場所は、駅舎を挟む二車線の道路を渡った海岸沿いの堤防って決まっていて、あの子が住んでるアパートの前を必ず通る。海辺に向いているあの子の部屋の窓はいつも閉じられていて、明るい時間もカーテンを引いているのが外から見てもわかった。
あんな風にして家に閉じこもってるから友達が出来ないんだよ。
登校日はなんだかみんなちょっとテンションが高い。
チャイムがなって教室に入ってきた先生が、みんなにワーワー言われながら囲まれた。プール当番や海辺のパトロールで真っ黒に日焼けした姿に、「先生、夏休み満喫し過ぎー」
「やかましいわ、さっさと座れ」
先生は出席簿をパタパタ振って追い散らし、みんなが席に着くと教室を見回しながら、「お?なかなかの出席率じゃん」と言った。ポツンポツンと欠席はあるけれど、「みんな来ないかと思った」
「おれは先生が来ないかと思った」学級委員長の崚平が言うと、「褒めてくれ」先生は胸を張った。
友達みたいな先生は、去年大学を卒業して先生になった。
旅行に行って来たとか、これから行くとか、クロールで五十メートル泳げるようになったとかそんな話しをした後、「予告ー」と先生が言う。
「二学期から我がクラスに転校生が来ます」
みんなが騒ぎ出す。
「男子?女子?」誰かが聞くと、「女子」
女子の、「やったー」と喜ぶ声と、「マジかよー」とがっかりした男子の声が混ざり合った。
「え?なにそれ。うれしくないの?」男子の反応に先生が聞くと、「これ以上女子が強くなったらどうするんだよー」
「情けないこと言ってんじゃないよ。”女子はおれたちが守る”くらいのこと言ってくれよ」
「えーやだー」今度は女子から反感の声が上がり、その反応に、「え?なにそれ。うれしくないの?」先生が女子に聞いた。「女子のことはわたしたちが守るし」
ぼくはぼんやりと考える。
転校生か。
知らない町に来て、知っている人のいない学校にひとりで行く。
ぼくだったら。想像するだけでも、気が重くて心細くて不安で仕方がない。
――あの傘の子、今日、来てるのかな。
”夏休み前にやったのに”と文句を言いながら教室の掃除をして下校。帰り際、先生が、「宿題は全部出来なくてもいいけど、努力の後は見せてくれな」と言って、ちょっと焦った。
日曜日は荒れた。
昼間、青と白のマーブル模様だった空色を灰色が押しのけた。
凄い速さで雲が流れ、風も強く、縁側から眺める海では高波に向かってサーフボードを前進させている何人かが見て取れた。
居間で新聞を読んでいた父さんが、吹き込んでくる風に舞い上がる頁を押さえる。
「もうすぐ雨が来るから、そこ閉めとけ」
「うん――」
庭のバケツが目の前を転がっていく。
「危ないな」
気づけば、そばに父さんが立っていて、庭に降りると物干し台から物干し竿を地面に下ろした。
――レインコート。
ふっと物干し竿にハンガーでかけられたあの黄色いレインコートが、今にも吹き飛ばされそうにバタバタと風ではためいている様子が頭に浮かんだ。
強い追い風でなかなか前に進めない。
「海斗!」
何にも言わず家を飛び出したぼくを追ってきた父さんが肩を掴む。
「どうした?どこに行くんだ?」
「レインコートが」
「え?」
「風で飛んでっちゃう」
父さんの手を振り切って、押し戻されそうになりながら坂道を走った。
見えてきたアパートの前に白い自動車が停まっていた。男の人が小さい子の腕を掴んで車に向かって行く。足を踏ん張り嫌がっているその子を男の人が荷物みたいに軽々と肩に担いだ。アパートの階段を転がるように駆け下りて来た女の人が、足をバタバタさせているその子を助けようと男の人にしがみついた。
ぼくの後をついて来ていた父さんは唖然として、「……何やってんだ?あれ――」
「止めてっ!父さんっ、止めてっ!」
父さんはシャツを掴んで叫ぶぼくに、はっとして我に返った。
「父さんっ!早くっ!」
男の人は、「自分の子供、連れて行って何が悪い」って父さんに怒鳴った。父さんはその言葉に一瞬戸惑ったみたいだけど、ガタガタ震えてる女の子、佐菜を見て負けなかった。
自分の子供?この男の人、お父さん?
父さんは男の人の腕をひねり上げてボンネットに顔を押し付けた。
「おまえが新しい男か」とか「それとも金で買ってんのか?」だとか、よくわからないことばかり言う男の人の腕を更にひねり上げた。
父さんは、「警察に連絡させてもらいます」と静かに言うと、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
男の人は座り込んで佐菜を抱きしめている佐菜のお母さんに向かって、「いてーよぉー。リカコー、助けてくれよぉー」と情けない声で言った。
玄関を入ったすぐの台所で、父さんと佐菜のお母さんが難しい顔をして話している間、ぼくと佐菜はその奥の部屋にいた。
真ん中に小さなテーブル。カラーボックスを積み上げた棚の上に目覚まし時計とラジオにくったりとしたウサギのぬいぐるみ。学校の教科書がキチンと並んでいて、棚に寄り添うようにランドセルが置いてある。カーテンレールにはハンガーにかけた制服。
「お母さん、お菓子を作ってる工場で働いてるんだよ」佐菜は押入れからお菓子をたくさん出してくれた。
週に一度、3つまで好きなお菓子を持って帰ってもいいんだって。駅前のパン屋さんにあるドーナツがふわふわで大好き。お母さんがしてる指輪ってね、誕生日にわたしがビーズで作ってプレゼントしたものなんだよ。
部屋に入ってから佐菜はしゃべり続けていた。目の縁を赤くしながら途切れないよう一生懸命に。
だからぼくも話した。
集めている消しゴムのコレクションの数とその貴重さとか、ハマっている漫画があるんだけど描いてる人の体調が悪くて休載になってるとか、ラジオ体操の最終日、スタンプカードを持っていくのを忘れて皆勤賞がもらえなかったこととか。
佐菜が泣き出す間なんかないくらい、思いついたことをいっぱい。
「佐菜ちゃんのお父さん、佐菜ちゃんにも佐菜ちゃんのお母さんにもちょっと優しくなれないんだって」
佐菜の家にいた間に降っていた雨でアスファルトが濡れた帰り道、父さんはそう言ってぼくの手を握ると、
「海斗」
ぶんぶん振りながら、
「強くなれよ」
佐菜がひとりで家にいるのも、外で友達と遊んだり出来ないのも、多分、手の痣も。
みんな、あの男の人のせいなんだ。
佐菜がお母さんと手をつないでやって来るのは毎朝七時二十分。
「佐菜ちゃんに、おまえの宿題見てやって欲しいってお願いしたから。ちゃんとやるんだぞ」
父さんに言われた次の日から、佐菜のお母さんが働きに行っている間、佐菜はぼくの家で過ごすようになった。
佐菜は縁側に座ると海を見る。目を細めながら太陽の光を反射して眩しい海をじっと。
そして、時々手を耳にかざす。耳を澄まし、閉じていた目を開いた後は、なんだかいつも寂しそうだった。
今日も佐菜は海を見てる。ばあちゃんが切ってくれたすいかを持って行った時も耳を澄ませていて、ぼくはそれが終わるのを待つ。
下ろした手が膝のスカートを握りしめた。
「食おうぜ」
ぼくは、わざと大きな音を立てて皿をどんっと置き、佐菜の隣に座る。
「わたしのおうちからも見えるんだけどな」
佐菜はひとりで留守番している間は、誰が来ても鍵を開けちゃいけない。窓を開けちゃ駄目ってお母さんに言われてる。その理由もちゃんとわかってるから、「仕方ないよね」って笑った。
「でもね、夜、おふとんに入ってると波の音が、ざぶーんざぶーんって聞こえてくるの」
「うん」
「わたしね、この町に来てはじめて見たんだ。海」
「あ。ぼくも」ここで暮らすようになるまで、ぼくも海を見たことがなかった。
海風に当たると体調を崩すから。「行かないんじゃなくて、行けないの」行ってご両親に迷惑をかけるなら行かない方がいいと思うの。
あの人は父さんに何度も言って確認していた。「私、悪くないよね?」行きたいけど行けないんだもん。
そのうち、父さんの仕事も忙しくなって、みんなでじいちゃんとばあちゃんに会いに行こうっていう話もしなくなった。
「泳げる?」
「あったりまえじゃん」
「すごーい」
佐菜はニコニコしながら海岸を見渡す。
「――今度さ」
「え?」
「行ってみない?海」
佐菜は目の前に広がる海に目を戻した。
「じゃなくって。秘密の海。車に乗って行くんだ。すっごい楽しいよ。多い時は父さんの友達やその家族の人とかすごい大人数で。女の子もいるからきっと友達もすぐ出来るよ」
佐菜の顔が少し曇る。
「大丈夫だって。父さんが一緒だもん。知ってるだろ?ぼくの父さん、強いんだぜ」
「でも……」
「おばさんも一緒にさ」
「――お母さんも?」
「うん。ばあちゃんのお弁当付き」
ばあちゃんは、佐菜が来てから昼ごはんにぼくの苦手な野菜を必ずひとつは入れる。今日はゴーヤ。あれは絶対わざとだ。
「おばあちゃんのごはん、おいしいよね!」
ぼくは返事はしないけどごはんと一緒に頬張って、なんとか残さず食べている。
「行こうよ」
佐菜は笑顔で大きく頷いた。
だけど。
次の朝、玄関先で靴を履く父さんに佐菜のことを話そうとした時だった。
「――そうだ。今日からしばらく佐菜ちゃん来られないから。ひとりでもちゃんと宿題するんだぞ」
「え?なんで?」
「佐菜ちゃんのお母さん、夏休みが取れたからおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行ってくるって」
「そんなこと言ってなかったよ?」海に行くこと、すごく楽しみにしてたんだ。
「おまえが寝たあと、佐菜ちゃんのお母さんから電話があったんだよ」
そう言って、父さんは仕事に出掛けて行った。
うそだ。
あの男の人を追っ払った後、佐菜の家で「実家にも押しかけて来て……」って、おばさんが父さんに話してたじゃないか。
「宿題、大丈夫?」
庭で洗濯物を干しながら、ばあちゃんが聞く。
ぼくは、「うーん」と曖昧な返事をしながら、集めているキャラクターの消しゴムを縁側に広げてより分ける。午後から友達と交換しあうことになっていた。中でも滅多に手に入らない青色のそれを空にかざす。
佐菜に見せてやろうと思ってたのに。
視界に入ってきた海は、今日も太陽の光を反射して眩しい。
佐菜が縁側に座って耳をすませている姿を思い返す。なんとなく、あの時の佐菜と同じように手を耳にかざして目を閉じてみた。
――っちっ。
舌打ちが聞こえた気がして目を開ける。
「――ったくっ」
目の前にタンスを探っている男の人がいた。
え?
まわりを見回すと見たことのない家の中。
男の人はぶつぶつ文句を言いながら、引き出しを次々開けて中を乱暴に探っている。
怖くなって後ずさった時、散らばっていた新聞の広告に足を滑らせて転んだけれど、男の人は全然気付いていない。
部屋の隅っこで誰かがうずくまってる。女の子だ。
「なぁ、サナ――」
男の人は探るのをやめると女の子の方に近寄って行った。
――この人、見たことある。
思い出すのに時間はかからなかった。
あの時の人だ。佐菜の父親だって言った人。
じゃあ――、うずくまってるのは佐菜。今より小さな佐菜。
「お母さん、お金どこに隠してるか知らないか?」
男の人は佐菜の顔を覗き込むようにして聞くと、佐菜は抱えた膝に顔をうずめて「知らない」と頭を横に振った。
「……おまえ、何持ってんだ――?」
男の人は佐菜が身体を折って胸の中に抱えているそれに気付いて、手をねじ込み取り上げた。
「だめっ!」
男の人が何回かそれを振るとじゃらじゃらと音がした。
「――ま、ないよりはマシか」
ウサギの形をした白い貯金箱。
「かえしてっ」
手を伸ばして取り返そうとする佐菜を乱暴に振り払うと、部屋を出て行こうとする男の人を追って佐菜が男の人のシャツを掴んだ。
「かえして――」
「うるさいっ」
振り切った男の人のひじが佐菜の横顔を打ち、佐菜が倒れこんだ。
「なにすんだよっ!」
叫んだぼくの声はやっぱり誰にも聞こえなくって、男の人は両手で左頬を押さえてうずくまってる佐菜を見て、「めんどくせぇな」ぼそっと言って出て行った。
半分開いた扉に向かって靴を投げつけ、佐菜に駆け寄った。
「大丈夫?――」
頬から放した手の平をぼんやり見てる。
「どうしたの――」
血が。
ポカンとしながら佐菜が頬に戻した手でわかった。耳から流れ出た血が手を汚していた。急いでタンスから垂れ下がっているタオルを引っ張り出し、佐菜の耳を押さえる。
「待っててっ」
助けるから。
「待ってろっ!」
ぼくは玄関を飛び出し、駆け下りようとしたアパートの階段から足を滑らせた――。
身体がびくんっと跳ねる。
目の前で竿に干した真っ白いシーツが風に膨らんで捲れ上がると、遮っていた視界が広がり、海が姿を現した。眩しく揺れる縁側から眺めるいつもの海。
聞こえない。
佐菜は聞こえないんだ。
スプリングが軋んでベットが沈んだ。
壁に向き合い寝転んでるぼくの背中から父さんの声。
「具合でも悪いのか?」
夕食の時、ぼんやりしていたり、あまり食べなかったのが気になったんだと思う。
「別に」
「昼も食ってないんだってな」
「おなかが空いてなかっただけ」
「海斗」
「なんでもないよ」
「――そうか」
父さんはそれ以上言わないで、ぼくの背中を二度軽く叩くと立ち上がった。
「――父さん」
「ん?」
「さっきの電話、誰?」
「あー……。知り合いだよ。友達」
「決まった曜日の決まった時間にかかってくるよね?」
「そうか?」
「ぼくやじいちゃん達が出ると、何も言わずに切れちゃうんだ」
それはいつからだったろう。
「でも、父さんだと違うんだよね」
多分、父さんがこの町に帰って来た頃。
「あの人でしょ?」
あの人。お母さんだった人。
父さんはもう一度ベットに腰を下ろした。
「あのな、海斗――」
あの人は、父さんが出張から帰って来る日は、美容院に行って、部屋を綺麗にして花を飾って、時間をかけて作った料理をテーブルに並べて、新しい服を着て、父さんの帰りを待っていた。
「話し相手になってたんだ」一日中部屋に閉じこもったままで、誰とも会わないし話さないって。心配された向こうのご両親が「時々でいいから話し相手になってやってくださいませんか?って相談されてな」
あの人は父さんのことが大好きだった。
「でも……そうだよな……海斗はツライよな――。黙ってて悪かった」
あの人は、「子どもなんていらなかったのに」「ずっとふたりだけでよかったのに」って何度もぼくに言っていた。
だから、父さんとふたりだったらあの人は病気になんてならなかった。ぼくがいたからあの人は父さんと離れ離れになってしまった。
じゃあ――、父さんは?
あの人と離れ離れになってしまったのは、ぼくがいたから?
『死ねばいいのに』
海に沈めたはずのあの人の言葉は、波で何度も戻って来る。
「――父さん」
ぼくはまだわからないでいる。どうすればよかったんだろう。
あの時も、あの時も、あの時も。
「お父さん――」
佐菜が待ってるんだ。
助けるって約束したんだ。
ぼくはどうすればいいの?
ぼくは。
ぼくたちは何がいけなかったの?
夏休みがあと一週間で終わる。
おばさんが、「入居、決まりました」って言うと、「そうですか」って父さんが答えた。
「新幹線に乗ったよ」
父さんたちが居間で話しをしている時、ぼくたちは佐菜が持ってきた花火をする。
水を張ったバケツを用意してくれたじいちゃんが、「懐かしいな」と言ったその花火は藁で出来ていて、「西の方って米作りが盛んだったから、線香花火は藁で作ってたんだよ」と教えてくれた。
「そこってね、お家に帰れない人達が力を合わせて暮らしている所なんだって」
佐菜は今にも落ちそうな火の玉を見ながら、「でも、海は見えないの」
「――行くの?」
佐菜は静かに消えた花火の先を、バケツに張った水にちょんとつけた。
「……耳」
「?」
ぼくが自分の左耳に手を当てると、佐菜は驚いた顔をした後、困ったように笑った。
幼稚園の時。お父さんの手が当たっちゃったの。お母さんに話すと、すごく悲しい顔をすると思うし、何も悪くないのごめんねってきっと言うし――。
「平気だもん。それに――」
佐菜はスカートのポケットから"それ"を取り出し、大事そうに手のひらに乗せて見せてくれた。
「お守り」
キャラクターの青い消しゴム。
「こうするとね、大丈夫って思えるんだ」そう言って、ぎゅっと両手で握りしめた。
「青は進め」だから。
佐菜は小さく微笑む。
バケツの中で月が頼りなく揺れていた。
「行こう。海。約束したじゃん」
じいちゃん達は早くに寝たけど、父さんが居間に長く居たから、ぼくが家を抜け出たのは夜の十一時を回っていた。
その間、貯金箱はもちろん、タンスにしまった服のポケットを探り、自分が持っているありったけのお金を集めた。小銭でパンパンに膨らんだ財布はズボンのポケットに入れるとずしりと沈んだ。
外灯のまばらな坂道を走る。靴底が地面を叩くパタパタいう音が静かな夜に響く。
怖くなかった。
「ごめん……っ」
アパートの階段下に隠れていた佐菜が足音を聞きつけて道に出てきて、「はい」手にふたつ持っていたキャラメルの箱をひとつをぼくに差し出した。
電車なんてとっくになくて、駅舎の灯りも落とされていたけれど、海を目の前にする駅前は昼とは違う賑やかしさがあった。
たむろしてる人達がぼくたちを見て、あれー?どこ行くのー?って、声をかけてくる。こんな時間にデート?って、やるねーって、からかってくる。
海岸では幾つかのグループが波打ち際でふざけあったり、ロケット花火を海に向かって飛ばしたりしてる。早朝、町内会の人達が交代で浜辺の掃除をしていることなんて知らないどこかの街から来る人の集まり。
ぼくたちは線路に沿って歩く。
何かを話す訳でもなく、佐菜は距離を少し開けてぼくの後ろをついて来る。
どれだけ歩いたのかわからなかったけれど、気がつけば、ぼくたちだけの足音と柔らかい波の音だけ。見上げた空には星が散らばっていた。
巡回に回っていた警察官に声をかけられるまで、ぼくは九十七個、佐菜は七十六個の星を数えた。
迎えには父さんと佐菜のお母さんが一緒にやって来て、派出所を出ると、「申し訳ありませんでした」
父さんはぼくの頭を押さえつけ、自分も一緒に腰を折り、佐菜のお母さんに深く頭を下げた。
車で走る帰り道は、あっという間にぼくたちを連れて戻る。
ぼくの座る助手席からバックミラーに映る後部座席を見ると、佐菜は両手で青い消しゴムを握りしめながら、真っ暗な海に目を向けていた。
駅前に通りかかると、海岸で何本もの吹き上げ花火が同時に上がっているのが見える。
明日の掃除当番のメンバーに父さんも入っていることを、ぼんやりと思い出した。
佐菜が出発するその日、見送りには行かなかった。
仕事が休みだった父さんは、物置から古い自転車を引っ張り出してきて、「これで三年間、高校に通ったんだぜ」なんて自慢げに言いながら、文字がくっきり書けるくらいに埃が積もり、ペダルを回すと錆びたチェーンがシャカシャカ音を立てるその自転車を、持ち出した工具で修理しはじめた。軍手が油で真っ黒になる。
「海斗」
シャツの袖で汗を拭いながら父さんは言う。
「強くなれ」
「うん」
うん。
夕方になって、
「海斗、乗れ」
「大丈夫なの?」心配になって聞くと、父さんは怪しげに笑った。
「――ぼく、いいや」
「そう言わずに」
サドルに跨る父さんの後ろに乗って、赤とオレンジの混じった夕陽が下りる水平線に向かって下り坂を走った。
オンボロな自転車はガタガタと音を立て、振り落とされないよう父さんの背中にぎゅっとしがみつく。
佐菜のいなくなったアパートの前を凄いスピードで通り過ぎる。
ねぇ、佐菜。
ぼくたちが歩いた道。
ぼくたちが歩いた距離。
あの日、ぼくたちは何かを越えられたのかな。
二学期が始まったばかりの学校の帰り。
あの男の人が佐菜のいたアパートの部屋のドアを、足でガンガン蹴ってるところを見た。
4.夏の終わり
赤信号。
ブレーキをゆっくりとかけながら止まる。
大きなあくびをひとつ。目の端に溜まった涙を拭うよう目を擦った。
今朝は海岸の掃除当番で、いつもより三時間早く起きた。
ここから三つ数えた信号を右に曲がって、坂を上りきったところに俺のバイト先がある。
俺は今でも祖父母の家にいる。
ここから大学に通って、縁側から海を眺めて暮らしている。
町には外灯が増え、マンションが建ち、車の交通量が増え、ショッピングモールが出来た。
自動改札になった駅は、季節に関係なくたくさんの人が利用する。人の生活が灯りも運び、夜は夜でなくなった。
週末の海は、どこからか乗りつける乗用車が連なるよう堤防沿いに何台も止まり、明け方まで人がたむろする。昔からの住人は、日が暮れるとあまり出歩かなくなった。
佐菜の住んでいたアパートは取り壊されてコンビニになり、俺は空に手が届かなくなった。
母親と手を繋いだ幼い男の子が横断歩道を渡って行く。片方の手に持つ小さな花火セットを見て一昨日届いた差出人不明の葉書を思う。
――あの線香花火、ここでも見かけなくなってしまいました。――
住所のない便りは消印が西にある町を知らせた。
俺は、あの時より少しは強くなったんだろうか。
信号が青に変わる。
地面を蹴り、ペダルを思い切り踏みしめる。
ぐんぐん速度を上げ、風になる。夏を追い越す。
後ろから来た乗用車が俺を追い抜き様、軽快にクラクションを鳴らした。
窓から顔を覗かせたのは女子大生だろうか。こちらに向かってヒラヒラと手を振りながら言った。
「頑張れ!少年!」
だから青年だって。
了