01-01:音無凛、16歳
鳴り響くのは、硝子が罅割れるような不快な音。
皆がこの音を知っている。どれだけ危険であるかも。
ここ、初根市に於いては特に。
「ウソ……」
少女は銜えていたアイスを、ぽとりと落とす。
陽光に当てられたアスファルトによって、みるみると溶けていくが気にも留めていない。
当然だ。そんなモノに気を取られている暇など無い。
裂けた空の向こう側から、奴らが現れたのだから。
透明な肉体は、向こう側の景色を歪ませる。
境界線を目を滑らせていくと、怪物はまるで翼を広げた鳥のような形をしていた。
どことなく後光が射しているような佇まいは、不覚にも美しいと感じてしまった。
「お、O-disだああああああ!」
誰かが叫ぶと同時に、少女は我に返る。
どこぞの誰かが言った通りだ。見惚れている場合じゃない。
一刻も早く逃げなくてはと、O-disに背を向けた。
彼女の行動は間違っていない。
事実、その場にいた人間達が蜘蛛の子を散らすように逃げ始めている。
それでも。
O-disが彼女に狙いを定めたのは、単に運が悪かったからだろう。
透明な翼を広げ、身体の中で浮かんでいる『核』が少女の姿を認識をする。
次の瞬間。鳥型のO-disは空気を切り裂く様に落下していく。
「えっ? えっ!?」
少女は己へ振りかかる脅威を前に、思考が停止した。
「どうして自分が?」と恨み節を心の中で呟いても、状況は変わらない。
ただ、運が悪かった。
その言葉で片付けられかねないこの状況を、ただた恨んだ。
「や、やだ……」
死の淵に瀕しているからだろか。
心臓の跳ねる音が聴こえる。全てがスローモーションに見える。
いくら透明な身体といえど、輪郭はよく解る。
O-disの尖った嘴が、一直線に迫りくる。
まるで矢が放たれたかのような軌跡。さしずめ、自分は的と言ったところだろうか。
逃げられない。自然と涙が溢れ出る。
少女は己の頭を抱え込み、その場にしゃがみ込んだ。
全く意味がないと知りつつも、防衛本能が身体を動かした。
恐怖から目を背ける為に、瞼を強く閉じた。
ほんの数秒だろうが、これでもう怖いモノを見なくても済む。
自らへ降り注ぐ不幸を受け入れようとした瞬間だった。
鈴の音が、少女の鼓膜を揺らした。
「え――」
思わず、瞼を持ち上げてしまった。
聞くのは初めてだ。けれど、知っている。
それが彼女であると確かめたくて、少女は顔を上げた。
次の瞬間。少女は地面が僅かに揺れるのを感じた。
透明な鳥が地面へと叩きつけられる証だった。
「――大丈夫!?」
景色を屈折させる透明の鳥を足蹴に、焦燥感を滲ませた声が響き渡る。
浅い呼吸は、急いで来た証左だろう。現に見上げた先で、声の主は余裕のない顔を見せていた。
少女は声の主を見て、「やっぱりだ」と安堵する。
O-disに立ち向かう少女の名は、音無凛。
初根市を守る、高位次元力精製炉の適合者だ。
16歳になった彼女は今も、O-disと戦っている。
……*
「キイエエエェェェェェェッ!」
足蹴にされたO-disは、不気味に『核』を動かす。
自分を地面に叩きつけた存在を視界に捉えると、奇声を上げた。
「大人しくしてよ!」
凛の頼みとは裏腹に、O-disは勢いよく翼を広げる。
バランスを崩され、足が離れた一瞬の内にO-disは体勢を立て直していた。
戦う術を持たない人間を狩っている場合ではない。
自分達に触れられる存在。この適合者を先に仕留めなくてはならないと、標的を変える。
凛からすれば願ったり叶ったりだが、物事はそう単純には進まない。
逃げ惑う人で入り乱れている今、《忘音》を使った高速移動は一般人を巻き込んでしまう危険を孕んでいる。
『凛、たくさん人が居るよ。巻き込まないようにしないと』
「分かってるってば!」
注意を促す《忘音》だったが、凛は反発するように強く当たってしまう。
聊か余裕が無さ過ぎるのではないかと感じるものの、《忘音》は決して追及をしない。
彼女が焦る理由は知っている。これまで共に見て、共に戦ってきたから。
凛の事は、なんでも知っている。敢えて今更、かけてあげる言葉も見当たらない。
(鳥の形。空を飛ばれると面倒だ……)
対する凛は、完全にO-disとの戦いに集中している。
急いで移動した影響で乱れていた呼吸も、徐々に正常なリズムを取り戻していた。
この状況で彼女が気を付けなくてはならないものは、ふたつ。
ひとつは《忘音》の使用時に、避難する人を巻き込まない事。
もうひとつは、O-disの狙いを自分に集中させ続ける事。
翼を広げた立体的な攻撃をされると、全てをカバーしきれない。
O-disの特性上考え辛いが、戦線を離脱される可能性だってある。
「あたしが、守らなきゃ」
ぽつりと、凛が呟く。
だって、自分はそうしなければならないから。
「行くよ! 《忘音》!!」
強い決意と共に、鈴の音を鳴らす。
《忘音》によって強化された渾身の蹴りが、O-disへと放たれた。
しかし、O-disも馬鹿ではない。
翼を広げたまま空へと浮かび上がり、凛の蹴りを躱す。
見上げる凛の瞳と、見下ろすO-disの『核』が交錯する。
この一撃で仕留められれば、問題なかった。
けれど、凛とて避けられる可能性は考慮している。
大切なのはこの後。空へと舞うO-disを、きちんと捉える事だ。
「まだまだ!」
凛の手首から、三度が揺れる。
加速した身体は一直線にO-disを狙いはしない。
「!?」
予想外の動きに、O-disの『核』は凛の姿を追った。
だが、《忘音》を使用した凛の加速に思考が追い付かない。
次にO-disが彼女を視界に捉えたのは、自分よりも高い位置に居る姿だった。
「はあああああっ!」
街灯を足場に高く跳びあがった凛を、O-disは追いきれていなかった。
陽光を背に、蹴りを繰り出す。
「――!!」
O-disも負けじと、嘴を尖らせた。
高位次元力精製炉の力と、O-disの肉体。
人智を増えた力がふたつ、衝突をする。
結果は、凛の持つ《忘音》が勝る形となった。
嘴が砕かれると共に、悲鳴を上げるO-dis。
しかし、凛の攻撃は止まらない。
「これで!」
凛は砕けた嘴を足場に、体勢を立て直す。
空中でくるりと一回転する様は、優雅だった。
「終わりだよ!」
そのまま彼女は、《忘音》によって強化された踵をO-disの頭へと叩きつける。
強烈な一撃を受けたO-disは、アスファルトへ吸い込まれるように落下をした。
「やった……」
O-disとは対照的に、凛は重力に導かれるまま落下をする。
安堵の表情を見せるのも束の間。凛の表情が青ざめる。
『凛! あれ!』
「うそ、まだ動けるの!?」
よろめきながらも起き上がるO-disに、凛は焦りを露わにした。
O-disは奇声を上げ、出鱈目に翼を振り回している。
力関係を悟ったのか、狙いが凛ではなくなっていた。自身より脆弱なモノを、本能のままに破壊しようとしている。
「降りて、早く降りて……!」
落下する時間を永遠のように感じながら、凛は歯軋りをする。
周囲に足場となるようなものはない。《忘音》で加速する事すら出来ない。
O-disが暴れる様を、指を咥えてみていなくてはならない。
「ダメ、絶対にダメ……」
『凛、落ち着いて』
凛から血の気が引いていく。思い返されるのは一年前の記憶。
自分の親友が消えてしまった一件が、昨日の出来事のようにフラッシュバックする。
空中で震える凛を他所に、O-disが起き上がる。
目に映るものを破壊しようと、透明な脚が前へと進む。
「やめて!!」
これから起こるであろう惨劇を拒絶するかのように、凛が叫ぶ。
ただ、ひとつ挙げるとするならば。
彼女の切なる願いは、天へと届いていた。
「――起きなさい、《像断》」
決して大きな声ではない。しかし、芯の通った声がこだまする。
次の瞬間。鳥を模したO-disが真っ二つに斬り裂かれる。
長い黒髪を揺らし、一本の刀を握り締めた少女の手によって。
「紗香……ちゃん……」
O-disが息絶えると同時に地面へと辿り着いた凛は、彼女の名を呟いた。
安達紗香。
日本刀の高位次元力精製炉である《像断》を手にする少女。
そして、凛の現相棒。
音無凛、16歳。
親友である天間あかりを失ってから、約一年。
彼女の運命は、ここから再加速をしていく事となる。