00-07:空が裂ける
思わず吐き気を催してしまう程に充満しているのは、血の臭い。
凛とあかりはえづいてしまいそうになるのを、必死に堪えた。
適合者といえど、彼女達はまだ幼い。
ましてや、自分が現れた現場でこれだけの惨劇と出会した事はない。
血の気が引くのは、むしろ当然の反応だった。
横たわっている五人の男女は、指一本動きはしない。
唯一の変化は、広がっていく地面の染み。
路面が紅に染まっていく意味を凛とあかりは理解していた。
「こんな、こんな……」
凛のわなわなと身体が震える。
間に合わなかった、守れなかったという後悔が彼女の胸を締め付けた。
主を失った高位次元力精製炉が転がっている。
それは同時に、このO-disが五人の適合者を殺した事を意味している。
瞬間。凛の全身に鳥肌が立った。
この場に立っているのは自分達と、血で赤く染まったO-disだけ。
自分ならいざ知らず、あかりが狙われる訳にはいかない。
「……あかりちゃんっ!」
直後、ちりん。と鈴の音が鳴る。
《忘音》によって加速した凛はあかりを抱き抱え、O-disと距離を置くを選択した。
「凛ちゃん!」
しかし、O-disの触手は真っ直ぐに凛を追う。
あかりを抱える時間があったとはいえ、《忘音》を使った自分が捉えられた。
その事実に、凛は衝撃を受ける。
「お願い、《天掏》」
『解っているわ』
触手が自分へ伸びようとする瞬間。
あかりのブレスレットから、黒い石が淡く輝く。
「――!?」
突如現れた、全てを覆う闇にO-disは混乱をする。
《天掏》による視覚の奪取は、凛とあかりを闇の中へと消した。
再度鳴る鈴の音から遅れて光を取り戻すが、二人の少女は煙のように消えていた。
「――ニィ」
O-disの中に浮かぶ、紅の『核』が歪む。
それは怒りなどではなく、鬼ゴッコが再開されたという喜び。
獲物が逃げたという事実は、この怪物を興奮させる材料にしかならなかった。
……*
「はあっ、はあっ……」
木々の群れに姿を隠しながら、凛は呼吸を整える。
今までに感じた事のない重圧を前に、彼女は恐怖を感じていた。
「あのO-disは絶対、ここで倒さないと」
でも。だからこそ。
あんな危険な怪物を野放しにはしておけない。
憧れた存在だって、どんな悪にも立ち向かってきたじゃないか。
自分だって、高位次元力精製炉に適合した。やれる、やらなきゃ。
凛は戦う理由を失わないように、己を鼓舞する。
手が汗ばんでいる事を誤魔化す為に、シャツの胸元を強く握りしめた。
『凛、本気なの?』
「本気も本気。だって、あんなのが街で暴れたらメチャクチャになっちゃうよ」
《忘音》の問いにも、凛は深く頷く。
ひとつずつ逃げる理由を潰していく。自分は戦えるのだと、思い続けなくてはならない。
恐怖よりも、正義感や使命感といった感情が彼女を突き動かしていく。
そう言った意味では、彼女もまた憧れた存在の資質を持っていたのだろう。
「あかりちゃんは、ここに隠れていて」
しかし、あかりは違う。
彼女は自分が連れまわして、O-disの退治を手伝ってもらっている。
あんな危険な怪物の前に、おいそれと立たせる訳にはいかない。
「凛ちゃん! でも!」
尤も、それはあくまで凛から見た話に過ぎない。
彼女に誘われたからだといっても、あかりは自分の意思でこの場に立っている。
独りで全てを抱えようとする親友を、放ってはおけなかった。
「大丈夫。ほら、いつもと同じだよ。
あかりちゃんが《天掏》でサポートしてくれれば、あたしが戦いやすくなるでしょ。
でも、あのO-disは触手もたくさんあるし、二人いっぺんに狙われるかもしれないし……。
上手く隠れながらサポートしてくれた方が、いいかなって」
半分は本当で、半分は嘘だ。あかりを傷付けさせる訳にはいかない。
でも、彼女は意外と頑固だから。素直に逃げてくれるとはとても思えない。
譲歩してくれるであろうギリギリのラインを凛は攻める。心の奥底では、逃げて欲しいと思いながら。
「……うん、分かった」
数秒間の沈黙の後、あかりは頷く。
自分が前に出過ぎる結果、凛に危険が及ぶ事態だけは避けたい。
彼女もまた、凛を大切に思っているが故の決断だった。
「よしっ。それじゃあ、頼りにしてるね」
凛はあかりの返事を受け取り、徐に立ち上がる。
あまり長い間、あのO-disを放置出来ない。
「行ってきます」
緊張を味わうかのように、固唾を呑み込む。
ここから先は、一瞬の判断ミスが命取りとなる。
意を決して、凛はO-disの元へと向かった。
……*
鬼ゴッコではなく、かくれんぼ。
周囲に獲物が見当たらない状況に、O-disは業を煮やしていた。
あの適合者は、段違いのスピードを持っていた。
もしかすると、自分を撒いたのかもしれない。
思い浮かんだ可能性がO-disの機嫌を損ねる。
この鬱憤を晴らすには、肉で遊ぶしかない。
伸びた触手が、息絶えた適合者へと叩きつけられる。
ぐちゃぐちゃと気持ちの悪い音が、人気のない公園でこだまする。
凛がO-disの元へ飛び出したのは、まさにその瞬間だった。
「なんてことをするの!」
『アイツ、無茶苦茶だよ!』
同じく人智を越えた存在である《忘音》ですら、O-disの行動を気味悪がっている。
激しい動揺と怒りを抱えながら、凛は真っ直ぐにO-disを見据えた。
血で染まった触手の動きが止まる。
身体の中で浮かんでいる『核』が、心なしか嗤っているように見えた。
槍の穂先が突き立てられるかのように、最短距離で凛へと伸びる。
『凛っ!』
「行くよ、《忘音》!!」
ちりん。と、鈴の音が鳴り響く。
凛が瞬時に触手を避け、お返しと言わんばかりに思い切り蹴り上げた。
「――!」
触手はこの一本だけでなくとも、全てが本体に繋がっている。
その元となるO-disの身体も、僅かではあるがバランスを崩した。
「このままっ!」
凛は初めから、長期戦は不利だと考えていた。
無数の触手を躱し続けていては、こちらの体力と集中力が保たない。
この攻防一度きりに、全ての力を注ぎ込む。
O-disもまた、活きの良い獲物を歓迎していた。
体勢を崩しながらも、二本目、三本目の触手が残っている。
今度は確実に仕留めるべく、狙いを定めたその瞬間。
「――――!!」
またしても、O-disの視界が全て闇で覆われた。
一瞬の硬直を目撃した凛は、あかりが《天掏》を使用したのだと察する。
ならば、この機に乗じない手はない。
「《忘音》っ!!」
距離を一瞬で詰め切るべく、凛は《忘音》を発動させる。
森林公園に響く鈴の音が、決着が近い事を報せていた。
……*
「凛ちゃん……」
木々の間を縫うように前進しながら、あかりは前線で戦う凛の様子を覗っていた。
いつものように攻めているようで、どこか違う。直線的な動きから焦りのようなものが、見て取れた。
この攻撃が決まればいい。けれど、もし倒しきれなければ。
完全に密着した状態であの触手全てを躱しきれるとは思えない。
例え《天掏》を使ったとしても、出鱈目に触手を振るえば当たってしまう。
触手を打ち付けられた亡骸が、視界の端へと映る。
もしも、凛が同じ目に遭ってしまえば。嫌な想像が、頭の片隅から離れない。
あかりにとって、凛は掛け替えのない親友だ。
引っ込み思案だった自分を引っ張ってくれた。
彼女の太陽のように眩しい笑顔を見ると、自分も釣られて笑ってしまう。
万が一にでも、彼女の命を奪わせたりはしない。
強い想いはやがて、あかりにひとつの決断をさせる。
「《天掏》。もしもの時は――」
『あかり……!』
主の覚悟に、《天掏》はそれ以上何も言えなかった。
ずっと傍にしたからこそ、知っているのだ。彼女がどれだけ、凛を大切にしているかを。
『……分かったわ』
「ありがとう、《天掏》」
許し難いと思いつつも、《天掏》は彼女の決意を受け入れた。
まるで姉へ我儘を言った妹のように、あかりは軽く微笑んで見せた。
……*
「ああああぁぁぁぁぁぁっ!」
一瞬の隙を突き、O-disの懐へと潜り込む凛。
《忘音》による渾身の蹴りを、体内に浮かぶ『核』へと放つ。
「――!!!!」
これまでに感じた事のない強い衝撃が、O-disに降り注ぐ。
損傷までには至らなかったものの、ふらつく身体がダメージの大きさを現わしていた。
行ける。
確かな手応えを感じた凛が、更にもう一撃をお見舞いしようとする。
しかし、その思考こそが誤りだった。
凛の脳内から、触手に対する警戒が薄れていたのだ。
「――ッ!!!」
凛に激痛が走る。
O-disの触手が、彼女の大腿を貫いていた。
抜かれると同時に舞い散る血が、自身の顔を汚す。
『凛!』
「これ……ぐらいっ!」
一度離れるべきだと促そうとする《忘音》だったが、凛が言葉を遮る。
この脚では、再び懐へ潜れる保証はない。
今。この瞬間だけが、この怪物を斃す好機なのだと痛みに堪える。
「っ!」
だが、あくまでそれは彼女の精神だけの話だ。
現実に傷を負った脚は、彼女の動きを鈍らせる。
凛を嘲笑うかのように、鞭のようにしならせた触手が横薙ぎに振り払われる。
この至近距離では、躱しようがない。
「こン……のぉっ!」
鈴の音を鳴らし、凛が強引に脚を持ち上げる。
足の裏で鞭を受け止めるも、衝撃までは殺しきれない。
身体が宙に浮く。自慢の速度も、自分を奪われては形無しだ。
一方のO-disは、凛の存在を心底楽しんでいた。
足首に触手を巻きつけ、力いっぱいに森の中へと投げ飛ばす。
地面や樹によって強く打ち付けられた身体は、滲み出る血によって赤く染まっていた。
「あ、う……」
頭を打った影響か、視界がぐらつく。
はっきりとしない輪郭の中、『死』が迫っている事だけははっきりと判った。
『凛! 立って! 逃げて!!』
《忘音》の声が頭の中で響き続ける。
自分だってそうしたいのは山々だが、身体が動かない。
O-disの触手。その先端が、自分へと向けられる。
視界が霞んでいてよかった。悍ましいものを、視なくて済む。
(あかりちゃん、ごめん。あかりちゃんだけでも、逃げて)
自分はもう無理だ。そう悟った時、浮かんだのは親友の姿だった。
どうかこの怪物に見つからないように、逃げて欲しい。
神頼みをするかのように、単に親友の無事を願った。
凛の事情など、全く意に介する様子もなく。
O-disは彼女を貫くべく、触手を真っ直ぐに放った。
「――っ!」
『死』への恐怖からか、咄嗟に眼を閉じる凛。
不思議と、痛みはない。もしかすると、これが『死』なのかもしれない。
そんな事を考えている時だった。《忘音》の声が、頭に響き渡る。
『あかりっ!?』
「え……」
意味が分からない。どうして、あかりの名を呼んだのか。
困惑しつつも、凛は閉じた瞼を持ち上げる。すると、光が差し込んだ。
自分はまだ生きているのだと実感する一方。
朧げな視界へ映ったのは、信じられない。受け入れられない光景だった。
「あ、かり……ちゃん……?」
輪郭ははっきりしない。でも、それがあかりだとはっきり分かる。
腰まで伸びた髪に隠れて、大地へと伝っていく赤。
はっきりとしたコントラストが、ぼやけた視界に正確な情報を伝えてくる。
ふと、凛は手を動かしてみる。自分には何も起きていない。
O-disの触手は、彼女を貫いてはいなかったのだ。
凛は全てを悟った。あかりが、自分を庇ったのだと。
O-disの触手に貫かれたのは、彼女なのだと。
「あかりちゃん、どうして……!?」
「心配しないで」
戸惑いを見せる凛を安心させるかのように、あかりが振り向いた。
彼女の優しい声が、凛の鼓膜を揺さぶる。
「大丈夫、凛ちゃんはわたしが守るから。
だから、何も心配しなくていいんだよ」
「あ、あぁぁ……」
凛は、涙が溢れるのを止められはしなかった。
そうだ。いつだって、そうだ。
自分がどれだけ無茶をしても、あかりが手を差し伸べてくれる。
守ってくれていた。
あかりを貫いた触手から、鮮血が滴り落ちる。
手を伸ばしたくても、身体が言う事をきかない。
凛は己の無力さを、心の底から恨んでいた。
「……《天掏》、ごめんね」
『いいわよ。凛は、貴女にとって大切だものね』
対するあかりの表情は、非常に穏やかだった。
自分の決断に巻き込んで申し訳ないと詫びる時でさえ、微笑みを崩さない。
だからこそ、《天掏》も主であるあかりの意思を尊重した。
「――じゃあ、お願い《天掏》」
あかりのブレスレットから、黒い石が強い光を放つ。
刹那、O-disだけではない。凛さえも、全ての景色が闇に囚われる。
「あかりちゃん!?」
どうして、《天掏》を?
どうして、自分の視界まで奪ったの?
あかりがその疑問に答える事は、ついになかった。
視界が奪われる中。凛の鼓膜に轟くのは、とある音。
5年前から頻発する、誰もが知っている。誰もが慄く音だ。
「空が、裂けた……?」
硝子に罅が入り、割れていくような不快な音。
紛れもなくそれは、裂空現象の発する音だった。
……*
「また、裂空現象が!?」
「ええ! 注意してね、紗香ちゃん!」
再び観測された裂空現象に、紗香は驚きを隠せない。
インカム越しに聴こえる佐和の声も、いつになく真剣だ。
日に二度も裂空現象が発生するという状況自体が稀だというのに。
発生地点がO-disの居る森林公園なのだから、否が応でも警戒してしまう。
既に六人の適合者から、通信が途絶えている。
佐和に言われるまでもなく。警戒心を最大限にまで引き上げながら、紗香は森林公園の中へと飛び込んだ。
しかし、そんな彼女を待ち受けていたのはまたしても異様な光景だった。
「どうしたの? 紗香ちゃん」
「これ、は……」
息遣いから、紗香が困惑している様を感じ取ったのだろう。
佐和が状況の報告を求めるが、はっきりとした返事はない。
無理もない。
紗香自身が、状況を飲み込めていないのだから。
「あかり、ちゃん……。あかり……ちゃん……」
そこに、O-disの姿は見当たらなかった。
代わりに居るのは、ボロボロになった身体を引き摺りながら親友を探す一人の少女。
紗香自身も、よく知っている少女の姿だった。
「音無、さん……?」
「凛ちゃんが居るの? あかりちゃんは?」
「天間さんは、見当たりません……」
佐和の問いに、困惑した様子で答える紗香。
彼女は自分の存在に気付いていない凛の姿を、ただ目で追い続けていた。
いや、目が離せなかった。
あんなに辛そうな顔をしている音無凛を見たのは、初めての事だったから。
初根市にて、二度の裂空現象を確認。
適合者六名の死亡を確認。一名が行方不明。
死亡者全ての高位次元力精製炉は消息不明。
天間あかりが所持していた《天掏》は、破損を確認。
生存者、一名。名は音無凛。
尚、ショックにより事件当時の記憶が一部失われている模様。
これが音無凛の、中学最後の春休みに起きた事件だった。