しおりの時間
世界が白く靄がかっていく。
「夢を見ていたのね。」
知らない女の子が立っていた。
靄の隙間から杏子色の光が差し込む。
柔らかい光を背に静かに笑っていた。
私はよく夢を見る。
正確に言うと、見ていると思う。
何も覚えていないのだ。
毎日見ているはずなのに、その夢を覚えていない。
それなのに、毎朝涙を流している。
何が悲しいのか分からない。
私には、悲しいことなんて何もないのに。
でも、確かに私は泣いている。
それが、何故か私を苛立たせていた。
月曜日
白い。
世界がただ白い。
これが夢に落ちているということだ。
夢の輪郭がぼやける。
私は夢を覚えない。
それは見ていないのと同じことだ。
「‥‥‥さん。」
「‥‥青井さん。」
「青井しおりさん。」
景色を縁取るように色がついていく。
独特の深く濃い緑に焦点が合う。
「大丈夫ですか?具合でも悪いのですか。」
緑から焦点をずらす。
先生だ。
優しく柔らかい声。
靭やかな身体に短い黒髪。大人という感じがする。
細い銀縁眼鏡を左指で少し上げながら、怪訝な顔をしている。黒板には英語。授業中だ。
ノートが濡れている。
私はまた泣いていたのか。
「青井さん。」
先生が心配そうな声を出す。
「大丈夫です。」
仕方なく返事をした。
「そうですか。それでは、授業を続けましょう。」
深く濃い緑に白い線が流れていく。
ヒソヒソ
周りは何かを話している。
時折、わざとらしく、私を見てはクスッと笑う。
くだらない。
キーンコーンカーンコーン
終業のベルが鳴る。5時限目が終わった。
「もう時間ですね。これで終わりましょう。」
言い終わらない内に、辺りは騒がしくなっていく。
ガヤガヤ
私は、教科書を机に詰め込んでいた。
「青井さん。」
またか。
彼女は最近よく絡んでくる。
小さい頃はよく遊んでいた。
今では、私が目障りなのだろう。
後ろには、いつもの二人。
彼女の腰巾着と言ったところだろうか。
彼女は、私の机に左手を乗せ、寄っかかる。
「びっくりした。青井さんも涙が出るのね。」
勝ち誇った顔。
後ろの二人は、わざとらしく笑いを堪えたようにしている。
くだらない。
「そうね。」
左手で髪を掻き上げ窓の外を見た。
薄い水色の空。
今日もいい天気だった。
「くっ‥。」
彼女は声にならない声を漏らし、その場を去っていった。こんな私がむかついたらしい。
後ろの二人は、私をチラチラ見ながら、追うように去っていった。
帰ろう。
私はいつもの道を歩いている。
何度この道を行き来するのだろう。
ただ行き来する。
ガチャ
玄関を開ける。左、右と靴を脱ぐ。
そして、自分の部屋に向かう。
台所を通り過ぎる時
「おかえりなさい。」
母の声がする。
「‥‥ただいま‥‥。」
ぼそっと返し、早足で部屋に向かう。
なんとなく‥。
晩ごはん。
今日は、さんま、ほうれん草のおひたし、お味噌汁。
いつもの様に、母と向かい合い、二人で食べる。
カチャッカチャ
食器と、箸の当たる音。
「学校はどう‥。」
「‥‥普通‥‥。」
「そう‥。」
ブーン‥ブーン‥
古くなった蛍光灯。
薄暗い無機質な白い灯り。
定間隔に響く音。いつも耳障り。
自分の部屋、自分の机、自分のベッド。
ベッドに横たわった。
ひながすり寄ってきた。
右頬を、私の左手に、必死に擦りつけている。
くすぐったい。
ひなとは猫の名前。
銀色の瞳、銀と黒の毛並み。小柄な身体。
アメリカンショートヘアの色をしているが、保護猫なので分からない。
全く鳴かないのが、特徴と言えば、特徴だった。
「おいで、ひな‥。」
仰向けのまま、左手で手繰り寄せ、右手で挟み、ひなを上へと抱き上げた。
ひな‥。
父がつけた名前。
いきなり、連れて帰ってきて、母に怒られていた。
初めて見たひなは、小さく痩せこけていて、可愛いというより、弱々しく儚げで不安に見えた。
ひなは入っていたダンボール箱をよじ登り、落ちるように床に落ちた。
そして、おぼつかない足取りで、母の足元に近づき、声にならないかすり声を上げながら、甘えるように、必死に母の左足に自分の右頬を擦り付けていた。
母は抱きかかえ、そっとひなの頭を撫でていた。
そして、ひなはうちの猫になった。
父は初めから、ひなと呼んでいた。
何故か分からない。
もうどうでもいいこと。
その父は、もうここにはいないのだから。
その頃、私は中学生だった。
それがいつ始まったのか分からない。
何週繰り返したのか分からない。
父と母の喧嘩。
投げやりのような父の言葉。
泣き叫ぶ母の声。
見たくなかった。
聞きたくなかった。
見苦しかった。
父には他に女性がいた。
しかも、その人との間に子供ができた。
細かいことは分からない。
ただ、それが真実だった。
火曜日だった。
晩ごはんは、母と二人だった。
「お父さん、出てったわ‥‥。」
「そう‥‥分かった‥‥。」
「‥‥‥‥」
母は、そのまま席を立った。
すすり泣く母の声。耳を塞ぎたかった。
それ以来、父の話は聞かない。
聞こうとも思わない。
どうでもいいこと。
そう、どうでもいいことだから。
そして、私は女子高に進学した。
なんとなく。
火曜日
今日もいつもの道を行く。学校に続く道。
時間は過ぎる。どんどん過ぎる。
同じ時間を繰り返す。
一日中、窓の外を見ている。
今日も良い天気だ。
キーンコーンカーンコーン
終わった。
キャハハハ
甲高い笑い声が頭に響く。
「カラオケ行こうかぁ。」
「西高の…くんってかっこいいよねぇ。」
楽しそうに話している。
何が楽しいんだろう。
くだらない。
教室を出て、正門を出た。
何も変わらない。
何も変わるはずがなかったのに。
いつもの道を歩いていた。
いつもの信号を待ち、そして渡る。
それを繰り返していた。
5つ目の信号を待つ。
青になって渡り始めた。
その時だった。
「えっ‥。」
目の前が白くなっていく。
「夢?」
でも、歩いてるときに。
でも、落ちていく。
確かに、私は落ちていく。
白い。
白い世界へと‥。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥しおり。」
「しおり。」
ぐいっと誰かが私の手を引いた。
そう、夢の中から引き出すように。
ブッブッブー
耳が痛くなるような音が鳴り響き、目の前を黒い塊が通り過ぎていった。
赤い光が見える。轢かれるところだったのか。
「夢を見ていたのね。」
知らない女の子が立っていた。
肩にかかる黒髪。揃った前髪。
眠たげな目元。整った顔立ち。
白い肌。白いワンピース。
靄の隙間から杏子色の光が差し込む。
優しい光を背に静かに笑っている。
「何故、分かるの?」
この子は誰‥。
「分かるよ‥。」
にっこりと笑う。
その頬は、夕日に染まり、更に赤く見える。
答えはそれだけだった。
「そう‥。」
それしか言えなかった。
「助けてくれて、ありがと‥。」
そう言って、その女の子に背を向けた。
青色を確認して、横断歩道を渡った。
いつの間にか夕方になっている。
そんなに私は佇んでいたのか。
なんとなく言ったのだろう。
そうに決まっている。
でも‥
なんで私の名前を知ってるの。
「おかえりなさい。」
「‥‥ただいま‥。」
今日の晩ごはん。
ハンバーグ、キャベツ、トマト、お味噌汁。
いつもと同じ、いつもの食卓。
ブーン‥ブーン‥
蛍光灯の音。今日も耳障り。
ベッドで横になった。
ひなは、私の左の脇腹に寄り添って寝ている。
私は、女の子のことを思い出していた。
不思議な子だった。
自分に似ていた様な気もした。
あの子の表情は明るく、柔らかかったけど。
でも‥
なんで私の名前を知っていたのだろう。
‥‥‥
どうでもいいか。
どうせ、二度と出会わないのだから。
水曜日
灰色。今日は灰色。今日は曇天だ。
夕焼けの次の日は晴れという。
でも、こんな時もあるのだろう。
結局、明日は分からない。そういうことだろう。
いつもの道を歩いていた。
信号を待ち、青になり渡る。青だからそのまま渡る。
そして、3つ目の信号。
そういえば、女の子と出会ったのはここだった。
「‥‥‥。」
信号が青になった。
サラリーマンが早足で渡っていく。
男子学生三人は話に夢中だ。
私は、いつも通り、一人で渡った。
今日も、窓の外を見る。
いつも通りの風景。
手前にグラウンド。
左側には体育館。校舎に比べて新しい。
グラウンドの先には桜の並木。
季節が過ぎれば哀れなもの。
グラウンド隅にある錆びた鉄棒と変わらない。
「青井さん。」
先生に呼ばれた。
ずんぐりした大柄な体型、七三分けの黒髪。
神経質そうな顔つき、無機質な声。
「はい‥。」
仕方なく席を立つ。
「この問題を解いてください。」
黒板には、図形と数式。二時限目数学。
「分かりません。」
本当に分からない。
「座ってよろしい。では、流石さん。」
私が座ると同時に、学級委員の流石さんが席を立つ。前に出て、チョークを持った。
カッカッカッ
教室に無機質なチョークの音が響く。
カァーカァー
遠くから鴉の鳴き声が聞こえた。
曇天の日は、鴉が騒がしい。
アホーアホー
には聞こえない。誰が言い出したのか。
「よろしい。」
先生の声。
流石さんが解いたらしい。拍手がおきた。
私は何をしてるんだろう。
終わった。騒がしい教室を出る。いつもの正門。
いつもの道。いつもの信号を、いつも通り渡る。
3つ目の信号。
ちょうど赤に変わった。
よくあることだ。
一台、二台と車が通り過ぎた。
「ははっ。まじでぇ。」
遠くから声が近づいてくる。
横断歩道の向こう側。
西高の女生徒二人だ。とにかく笑っている。
なんとなく、どこを見ればいいか迷った。
その二人が横断歩道に差し掛かる。
ちょうど青に変わった。渡り始める。
少しずつ、少しずつ距離が近づく。
二人は話に夢中だ。
すれ違う瞬間。私はしっかりと前を見た。
あと少し、あと少しで渡り終わる。
笑い声は後方に小さく消えていく。
渡り終えたとき、何となくどっと疲れた。
「あっ‥。」
その瞬間だった。
まただ。
また私は落ちていく。
白い。
白い世界へと‥。
「‥‥‥‥」
「‥しおり。」
呼ばれた気がした。
夢か現実か分からない。
とにかく、私はその声で目を覚ました。
「羨ましいの?」
不意に声がした。
「えっ‥。あっ。」
声の方へと向いた。
女の子が立っていた。
昨日の女の子だ。
笑っている。
「なんのこと‥。」
何を言ってるのか。
何のことを言っている。
しかし、なんとなく苛立ちを覚えた。
相手は小さな女の子。
そんな子が何を言っているのだ。
「さっきのお姉さん達のことだよ。」
むかっとした。
「何で‥。」
私はばかだ。
何を聞き返しているのだ。
くだらない。
そう、くだらないのに。
「分かるから。」
女の子はにっこりと答えた。
「そう‥。」
もう限界だった。
これ以上、我慢出来なかった。
女の子に構わず私は歩き始めた。
ゆっくり歩き始めたつもりだった。
しかし、気付いたとき、私は早足になっていた。
それが、余計に私を苛立たせていた。
バンッ
思いきり玄関を閉めた。
母が台所から顔を覗かせた。
「お、おかえりなさい。」
母が言う。
「‥‥‥」
足早に母の前を通り過ぎる。
バタンッ
自分の部屋に入った。
私は何をしているのだろう。
他愛もない子供の発言。
何故、私はこうも苛立っている。
情けない‥。
正直そう思った。
それでもお腹は減る。
晩ごはん。
今日は、野菜炒め、ほうれん草入卵焼き、お味噌汁。
いつもと同じ。いつもの食卓。
ブーン‥ブーン‥ブーン
ただ、いつもより蛍光灯を耳触りに感じた。
自分の部屋。自分の机。
ひなはベットでごろごろしている。
私は、自分の机に両肘をつき、両手の平で、両頬を押さえ、考え込んでいた。
あの子は一体何なのだ。
全く訳が分からない。
気にすることはない。
どうせ、もう会わないだろう。
そういえば、怒ったのは久しぶりな気がする。
何か‥‥
ばかみたい。
木曜日
ザァーザァー
朝なのに暗い。雨だ。
私の頬にも雨が降っていた。
月曜日の授業中以来だ。
相変わらず覚えていない。
白い感触だけが、夢の存在に薄く輪郭をつけている。
私は、なぜ泣くのだろう。
「羨ましいの?」
「‥‥」
不意に女の子の言葉が浮かんできた。
くだらない。
くだらないのに、気にしている自分が情けなかった。
バンッ
水色。
水色の傘を広げた。ボタン式は勢いがよい。
そして、私はいつもの道を歩き出す。
そう、この道はいつも通り。
何も、何も変わらなくていいのだ。
いつもの正門。
いつもの階段。
いつもの廊下。
いつもの教室。
騒がしい‥。
いつもの三人組。
時折、私を見ては、にやにや笑う。
今日は、何故かいらいらする。
自分の席。窓際の一番後ろ。
この席は気に入っている。
今日の景色。今日は雨。雨。透明な雨。
雨の音は心地よい。
キーンコーンカーンコーン
始業ベル。
今日も一日が始まった‥。
キーンコーンカーンコーン
終業ベル。
今日も一日が終わった‥。
スゥーパンッ
透明。透明の傘を広げた。
手動式は最後に勢いが必要だ。
押し込まないと開いてくれない。
苦手だ。
少しだけ帰る時間が遅くなってしまった。
私の水色の傘が失くなった。
少し探したが見つからない。
くだらない。
子供みたいなことをするな。
子供‥。
また思い出した。
これもあいつらのせいだ。
透明の傘。
いつも傘立てに放置されている。
そんな傘を借りることにした。
いつもの道。
いつもより少し遅い時間。学生の数も多い。
傘をさしていて良かった。
なんとなくそう思った。
信号を待ち、横断歩道を渡る。
すれ違う人と傘が当たらないようにする。
いつもより、横断歩道が狭く感じる。
色とりどりの傘。
空から見たら少しは綺麗に見えるのかな‥。
少なくとも、人間よりは綺麗に見えるだろう。
‥‥あっ。
私の傘は透明だ。
一人だけ弾き出されたような
なんとも言えない気持ちになった。
横断歩道を渡る。
3つ目、5つ目、渡っていく。
6つ目の信号。
ちょうど赤になった。
幹線道路を離れ、住宅街に入った。
雨だけあって人も少ない。
びぇぇーん
不意に辺りに響いた。
雨音すらかき消している。
子供だ。
大きめの黄色いレインコートを着た小さな男の子。
横断歩道の向こうでうずくまって泣き叫んでいる。
少し先には、赤い傘の女の人。
困った顔で引き返してくる。
赤い大きな傘が男の子を覆う。
相変わらず、男の子は泣き叫んでいる。
女の人がしゃがみ込む。
男の子は傘と女の人に包まれているように見えた。
女の人は男の子のお母さん。
なんとなく分かる。
お母さんが、子供の頭を撫で、そっと抱き寄せた。
びしょびしょの子供を包み込んでいた。
泣き声はぴたりと止んだ。
お母さんに抱きついて笑っている。
あれは嘘泣きだ‥。
私には分かる。
私にも覚えがあるから。
何が悲しい訳では無い。
何が痛い訳では無い。
ただ、お母さんに構ってほしいのだ。
ただ、優しくして欲しいから泣くのだ。
困らせて、心配させて、自分を見て貰う。
子供らしい発想だ‥。
お母さんが立ち上がり、続けて子供も立ち上がる。
さっきまで泣いていた鴉がもう笑っている。
満足そうに、精一杯手を伸ばし、お母さんの手を必死で握っている。
握った手を軽く振りながら、二人の姿が遠ざかっていく。
「あっ」
信号が点滅している。
いつの間にか青になり、また赤になろうとしている。
私は何をしているのだろう‥。
また信号を待つ。
水色のビートルが通り過ぎる。
あの車はかわいい。なんとなく好きだ。
やっと信号が変わる。渡ろう。
「あっ‥。」
まただ。
またなのか。
目の前が白くなっていく。
落ちていく‥。
何故私は落ちるのか。
白い、白い世界へと‥。
「‥‥‥」
「しおり」
私は目を覚ます。
ぼんやりと世界が広がる。
水色、水色が見える‥。
水色、小さな水色の傘‥。
「こわいの?」
水色の傘が話す。
水色の傘が上がる。
まただ。
またあの子だ。
水色の傘から覗いたのはあの女の子だった。
「また‥。」
驚きはしなかった。
ただただ脱力感に見舞われた。
「こわいの?」
また、女の子は繰り返す。
「何の事‥。」
私は馬鹿だ。
また聞き返してしまった。
情けない‥。
でも、聞き返さずにはいられなかった。
「お母さんに甘えること。」
「ばっ。」
馬鹿なことを言い出す。
何で、今更母が関係あるのだ。
私は、もう子供ではない。
あんな風に、あんな風に甘える必要などない。
あんなこと‥。
「お母さんと向き合わない。
ご飯の時間だけ。
一緒にいたら甘えてしまう。
それがこわいの。」
「なっ、く、くだらない。
子供と一緒にしないでよ。」
身体が急に熱くなっていくのを感じた。
何を必死に言い返しているのだ。
馬鹿だ、私。
「さっきの子供と同じ。
心配して欲しいから、強がっているの。」
私が子供。嘘泣きの子供と同じ。
くだらない、くだらない、くだらないっ。
私が部屋に籠もるのは、自分の部屋が好きなだけ。
母と話さないのは、用がないだけ。
それだけ、それだけだ。
「あなた、変よ‥。」
私が言えたのは、それだけだった。
早くその場を離れたかった。
青色を確認して、早足で横断歩道を渡った。
捨て台詞の様な私の言葉。
悔しかった‥。
ガチャ
玄関を開ける。
透明の傘を傘立てに入れる。
右、左と靴を脱ぐ。
一歩、玄関を上がり部屋へと向かう。
「おかえりなさい。」
台所から母の声。
「‥ただいま。」
台所を通り過ぎようとして立ち止まった。
「こわいの?」
女の子の言葉を思い出した。
ガタッ
私は、台所の椅子に座った。
「えっ。お、おかえり。」
さっき聞いた。
「‥ただいま。」
さっき言った。
私は、反射的に机の上のクッキーに手を伸ばした。
たいして、食べたい訳では無い。
なんとなくだ。
今は、蛍光灯の音がしない。
雨音に消されているのだろう。
しばらくして席を立った。
私は、何をしているのだろう。
晩ごはん。
今日は、鶏の唐揚げ、キャベツ、お味噌汁。
いつもの食事。いつもの食卓。
ただ、いつもより一回多い台所。
「今日は、一日中雨ね。」
母が言う。
「そうね‥。」
分かった事を言う。
「明日も雨だって。テレビで言ってたわ。」
「そうなの‥。」
それは知らなかった。
確かに、この雨はなかなか止みそうにない。
古い蛍光灯。
今日はあまりうるさくない。
雨音のせいだろう。
それが、少しだけ嬉しかった‥。
自分の部屋。自分の机。自分のベット。
私はベットに寝転がっていた。
チャチャチャ
部屋の隅から聞こえる。
ひなが水を飲んでいる音だ。
今日も変な一日だった。
というか、へんな子だった。
あの子は一体何なのだろう。
いつも、知ったふうな口をきく。
思い出したら、腹が立った。
子供のくせに‥。
見当違い、でたらめなことばかり。
明日も会うのだろうか。
そんなはずはない。
偶然はそんなに続かない。
でも‥
偶然じゃなかったら。
馬鹿なことを考えてしまった。
偶然じゃなければ何だと言うのだ。
私はどうかしている。
何も変わらない。
そう、何も変わるはずがないのだ。
ただ、同じ時間を繰り返すだけ。
ペロッ
「わっ。」
びっくりした。
ひなが私の頬を舐めた。
ひなの鼻についた水が冷たかった。
もう寝よう。
電気を消して、布団を被った。
ひなが潜り込んでくる。
ゴソゴソ
私のお腹辺りで落ち着いた。
暗い、暗くて何も見えない部屋。
私は目を閉じた。
ザァーザァー
遠く聞こえる雨音。
静かに包まれていく様だった。
金曜日
ザァーザァー
寝坊した‥。
時計は8時30分を過ぎている。
ひなが
ごろごろ
喉を鳴らしながらすり寄ってくる。
お腹が空いたのだろう。
ゆっくりと起き上がった。
台所に向かう。
机の上に三角形の網が置かれている。
その中に朝食が用意されている。
これは、いつもの風景。
母は、毎日、早朝から仕事に出掛けている。
隣町のスーパーで働いていると聞いている。
ひながすり寄ってくる。
ごろごろごろごろ
冷蔵庫から食べ途中の猫の缶詰を出す。
ラップを剥がし、残り全部をひなの食器に入れた。
ひなは必死に食べ始めた。
あっ
残りの缶詰が一缶しかない。
明日でも買いに行かないと。
部屋にひなの食器を取りに行き、新しい水を置いた。
ひなは、その様子をチラッと見て食べ続けている。
そして、私も、少し遅い朝食を食べ始めた。
バンッ
黒色、黒色の大きな傘を広げた。
ボタン式は勢いがよい。
父の傘。
父の使っていた傘だ。
透明の傘は傘立ての中。
なんとなく、使いづらかった。
手動式だから‥。
いつもの道を行く。
ただ、いつもより少し遅い時間。
もう、学生も、サラリーマンの姿も見当たらない。
当然か‥。
信号を待ち渡る。
2つ目の信号、青、そのまま渡る。
3つ目の信号、赤、立ち止まる。
車が通り過ぎる。
黒色、灰色と車が通り過ぎる。
シャー
軽く水をはねながら赤い車が通り過ぎる。
赤。
赤く染まった頬。
ここで女の子と出会った。
夕焼けの中、笑っていた。
信号が青になった。
私は横断歩道を渡り始める。
空から見下ろしたら、私はただの黒い点だろう。
更に私は歩く。いつもの道を。
5つ目の信号。ちょうど青になった。
少し得した気分になる。少し嬉しい。
そういえば、ここでも女の子に出会った。
「羨ましいの?」
思い出したら、また少し腹が立った。
嬉しい気分も台無しだ。
更に私は歩く。いつもの道。
6つ目の信号。
ちょうど赤に変わった。
よくあることだ。
私は、立ちつくす。
なんとなく左の方を見た。
横断歩道の向こう側、小さな病院。
あそこは小児科の病院。
私も小さい頃行ったことがある。
父が連れて行ってくれた。
誰かが病院から出てきた。
スーツ姿の男性が頭を下げている。
こんな時間に。
後ろから小さな女の子。
そうか、この人はその子のお父さんだ。
黒い、黒い大きな傘をお父さんが開く。
赤い、赤いレインコートの女の子はその中に入った。
スッ
お父さんは軽く左手を伸ばした。
腕時計を見ている。
時間を気にしている様だった。
それはそうか。
普通なら出勤している時間だから。
その時、女の子がお父さんの服を引っ張った。
背伸びをして、少しむっとしている。
赤いレインコートから覗く横顔が可愛かった。
お父さんは、軽く息を吸い込み、静かに吐いた。
そして、にっこりと笑った。
スッ
そして、また左腕を伸ばした。
あっ
お父さんは、腕時計を外して、そのまま、ズボンのポケットに押し込んでしまった。
ニカァー
その子は、満面の笑みを浮かべた。
そして、お父さんに抱きついた。
お父さんは少し驚いて、でも直ぐにっこりとして、その子の頭を撫でていた。
とても幸せそうに。
その様子は、雨の中、ぼんやりと光っているようにも見えた。
そう、あの子は幸せなのだ‥。
えーん
子供の頃の私。
泣き虫でよく泣いていた。
病弱ではなかった。
泣いたのは、痛がったのには理由があった。
「しおり。しおり。大丈夫か。」
父が焦ってよく言っていた。
そう、父の気を引きたかった。
父が、仕事に行ってしまうのが嫌だった。
だから、私はよく泣いた。
「大丈夫ですよ。お父さん。」
母は、困った顔でよく笑っていた。
母には、お見通しだったのだろう。
「そうだ。病院だ。病院に行こう。」
そんな母の言葉も聞かずに、父は私を背負って家を出た。
広くて、少し煙草のにおいがする父の背中。
私は、父の背中に顔を埋めていた。
父を独占したような気持ちだった。
いつもはいない時間に父がいる。
それは、何よりも私が大切という証拠‥。
そう、私は確かに父が大好きだった‥。
でも、それは昔の事。
今は、今はどうでもいいことなのだ。
シャー
水をはねながら車が通り過ぎた。
ふと我に返った。
くだらない事を思い出してしまった。
病院を見ると、あの親子はもういなかった。
信号を見た。
青信号が点滅している。
またやってしまった。
せっかく変わった青信号を無駄にしてしまった。
私は、また信号を待っていた。
あの病院に出入りする人はいない。
それどころか、車一台、人一人通らない。
雨音だけが世界を包んでいる。
そっと空を見上げてみた。
何千、何万の涙が降り注いでいる様だ。
黒い、空が黒い。
空が泣いている。
何がそんなに悲しいのか‥。
パッ
信号が青になった。
私は横断歩道を歩き始めた。
たった一人。
まるで、世界に私一人しかいない。
そんな感じだった。
横断歩道を渡りきった時だった。
突然、介入してくる。
白い、白い世界。
私は落ちる。
私は落ちていく。
何故落ちるのか。
そのとき何となく理解し始めていた。
「‥‥‥」
「‥しおり。」
私は目を覚ます。
静かに瞼が上がってくる。
静かに舞台の幕が上がる様に。
ぼんやりと世界が広がる。
黒い、黒い点が見える。
黒い、黒い傘。
病院の前に立っている。
「寂しいの?」
黒い傘が話す。
黒い傘が上がっていく。
覗いたのはいつもの女の子。
もう分かっていた。
何も驚くことはない。
これは、きっと夢の断片なのだ。
白昼夢。
私は、夢を見ているのだ。
「寂しいのね。」
女の子は繰り返す。
これは夢だ。
夢だと思っても少し腹が立った。
「何が寂しいの?」
私は聞き返す。
負けたくなかった。
それに、聞き返さずにはいられなかった。
女の子は微笑んで答える。
「お父さんに会いたいのね。」
私は、自分を抑えるので精一杯になった。
「何で、何でそうなるの。」
開いた口がぶるぶると震えた。
今日が雨で良かった。
「それは、お父さんが好きだから。」
カァー
顔が真っ赤になっていくのが分かった。
それが何故なのか分からない。
気付けば、私は走り出していた。
それが、悔しくて、情けなくて仕方なかった。
強気で聞いた分、余計情けなく感じた。
赤信号。
私が立ち止まったのは7つ目の信号。
ふぅー
はぁー
私は大きく深呼吸をした。
雨の中、靴も靴下もびしょびしょだった。
肩もびしょびしょだ。
私はそっと振り返った。
誰もいなかった。
世界は雨の世界に戻っていた。
私は正面を見た。
目の前には学校があった。
ガタッ
黒い傘を傘立てに押し込んだ。
ガヤガヤ
もう昼休みになっていた。
私は、びしょびしょになった靴下を脱ぎ、軽く足を拭き、上履きに履き替えた。
いつもの階段。
いつもの廊下。
どこも騒がしい。
いつもの教室。
うるさい。
今日はやけに頭に響いた。
私の机。
私の椅子。
ゆっくりと座った。
力が抜けていくようだった。
「青井さん。」
「‥‥。」
油断していた。いつもの3人だ。
「随分遅い登校ね。
体調でも悪いのかしら。
それともお父さんに‥
あっごめんなさ‥」
「うるさいっ!」
シーン
あんなに騒がしかった教室が静まり返った。
3人も驚いて硬直している。
何よりも自分が一番驚いた。
何をそんなにむきになって怒るのか。
もうここにはいれない。
そう思った。
私は座ったばかりの席を立った。
静まり返った教室を出ていく。
私の前に、道は開かれていった。
ガラッ
扉を引いた。
私が訪れたのは保健室だった。
入学してから初めて入った。
「どうしたのかな。」
丸い眼鏡の優しそうな先生だ。
おっとりとした小柄な身体に、大きめの白衣をまとっている。
先生の前の丸椅子に3人の女生徒が座っていた。
おとなしそうな子達だった。
「すこし体調が悪くて‥。」
別に体調は悪くない。
でも、今の私は体調が悪く見えるだろう。
「うん。
顔色も悪いわ。
すこし横になりなさい。」
先生は左手を左頬に添えて首を傾げながら、保健室の奥を指差した。
保健室の奥には、2つのベッドがあった。
白いカーテンで仕切られている。
奥のベッドはカーテンが閉まっている。
誰かが寝ているようだ。
白いシーツ。
白い布団。
白い枕。
肌色の毛布。
学校のベッド。
先生が小さく微笑みながら、手前のカーテンを閉めてくれた。
しばらくすると小さな声で話し声が聞こえてきた。
おとなしそうな子達が楽しそうに話している。
優しそうな先生の小さな笑い声も聞こえる。
その様子をすこし羨ましく思った。
ヒックヒック
小さくしゃっくりの様な声が聞こえた。
グズッグスッ
鼻をすするような音もした。
奥のベッドの子だ。
多分泣いている。
こんなところで泣いている。
どんな理由があるのか分からない。
でも泣きたいのは私も同じだ。
でも同じにはなりたくない。
そう思いながら、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
「んっ。」
目が覚めた。
保健室は静まり返っていた。
奥の白いカーテンが開いている。
めくれた白い布団に肌色の毛布。
奥のベッドにも誰もいない。
手前の白いカーテンは閉じたままだ。
多分おとなしそう子達はいなそうだ。
先生は‥
先生はいないのだろうか。
そっと手前の白いカーテンを開いてみた。
先生は机に向かい何か書き物をしている。
ふと、先生が振り向いた。
反射的に布団に潜り込んだ。
かっこ悪い‥。
シャッ
白いカーテンは大きく開かれた。
先生だ。
「大丈夫かな。」
微笑みながら聞く。
「あの‥私‥あの‥」
言いにくかった。
早退するのはずるいような気がした。
「無理はよくないよ。
担任の先生には私から伝えておくよ。
帰る準備をして。」
この先生は優しい。
見透かされたようで恥ずかしかった。
先生と少し話して保健室を出た。
廊下は静まり返っている。
今は授業中。
いつもの廊下。
いつもの下駄箱。
「あれっ。」
私の下駄箱に水色の傘がかかっている。
昨日無くなった私の傘だ。
「‥‥‥。」
私は水色の傘を持った。
傘立てに父の黒い傘。
私はその横を通り過ぎた。
私は学校を後にした。
いつもの道を歩いていた。
いつものつもりだった。
周りばかり気にする自分がいた。
信号待ちを怖れていた。
あの女の子に会いたくなかった。
家に着いた頃、雨も小雨になっていた。
ガラッ
玄関を開けた。
右、左と靴を脱ぐ。
そして、一歩家にあがった。
シーン
昼の家は静まり返っている。
私は誰もいない台所に行った。
ジュースを飲み、クッキーを食べた。
自分の部屋の前に立った。
ごそごそと音がする。
ゆっくりと扉を開けた。
シュッ
黒い影が飛び出した。
ひなだ。
すごい勢いでごろごろと擦り寄ってくる。
私はひなを抱き上げて部屋に入った。
ジッパーを下げスカートを脱いだ。
そして、パジャマに着替え、ベッドに潜り込んだ。
「疲れた‥。」
ぼそっと独り言を言った。
横でひなが不思議そうな顔をしている。
急に恥ずかしくなって布団を頭まで被った。
女の子のこと、学校のこと、母のこと、父のこと、
色んなことが頭に浮かんでは消えていった。
それを繰り返している内、いつの間にか私は眠りに落ちていた。
コンコン
ドアをノックする音。
私は目を覚ました。
ひながドアに擦り寄ってる。
ガチャ
ドアが開いた。
「大丈夫?」
母が心配そうに聞いてきた。
「うん‥」
私は眠気まなこで答えた。
さも体調が悪く見えるだろう。
「晩ごはんはお粥でいい?」
母が言う。
「うん‥。」
何となく断りづらかった。
「もうすこし休みなさい。」
母はそう言うとゆっくり扉を閉めた。
ひなは母に付いて部屋を出ていった。
私はしばらくぼ~っとしてから立ち上がった。
部屋は真っ暗だった。
勢いよくカーテンを開けた。
「わっ。」
眩しかった。
赤。
真っ赤な夕焼けだ。
いつの間にか雨はあがっていたのだ。
その場に立ち尽くす私。
夕焼けが私の頬を真っ赤に染めていた。
晩ごはん。
今日はお粥、梅干し、ネギ入り玉子焼、みそ汁。
母と向かい合って食べるいつもの晩ごはん。
「明日はゆっくりしてなさいね。」
「‥‥うん。」
「何か買ってきて欲しいものはある?」
「‥‥ひなの缶詰。あと一つしかない。」
「分かったわ。他にはないの?」
こくりと頷いた。
ブーン
古い蛍光灯。
今日はあまりうるさくない。
自分の部屋。
自分のベット。
私はもう布団に包まっていた。
少し身体がだるい。
今日はなんか疲れた。
ひなは部屋の中をうろうろしてる。
私は目を閉じる。
目を閉じて何も考えないようにした。
今日は寝坊してあまり眠たくない。
それでも目を閉じた。
チクタク
チクタク
時計の針の動く音。
延々と続いている。
どれだけ時間が過ぎたか分からない。
それでも
いつしか私は眠りについていた。
土曜日
身体がだるい。
どうやら風邪をひいたらしい。
ふと時計を見た。
もう昼をまわっていた。
重い身体を起こし
ゆっくりとカーテンを開けた。
眩しい。
嘘みたいに青い空だった。
ひなにご飯をあげないと。
こんな時間になってしまった。
部屋を見渡した。
?
ひながいない。
扉も閉まっているし
昨日はうろうろしていた。
ガチャ
扉を開けた。
?
人の気配がする。
母は土日も仕事のはずだけど。
タンッ
ひなが台所から飛び出してきた。
足に擦り寄ってくる。
ふっと人影が現れた。
「あら。おはよう。」
母だ。
何故いるのだろう。
今日も仕事のはずなのに。
「‥何でいるの?」
「休んだわ。しおりの体調が悪いもの。」
母は当然のように答えた。
何故か恥ずかしかった。
‥‥別に頼んでないのに。
「お昼食べようか。」
母が言った。
昼ごはん。
今日は、うどん、海老と海苔の天ぷら。
久しぶりの母との昼ごはん。
昼間は蛍光灯は点いていない。
ひなも缶詰を食べている。
新しい缶詰がたくさんあった。
今日はベットで一日を過ごす。
熱は測らない。
病は気からと言うから。
部屋の外からは母の存在が感じられた。
晩ごはん。
今日は、さんま、昼の残りの海老の天ぷら、みそ汁。
ブーン
今日もあまりうるさくなかった‥。
部屋に戻ると直ぐに横になった。
あんなに寝たのに。
今日は特に眠たい。
だんだんと瞼が下がってくる。
ひなは何をしてるのだろう‥‥。
日曜日
涙。
今日も私は泣いていた。
ひなが必死に擦り寄ってくる。
時計を見た。
また昼をまわっていた。
身体はすっかり楽になってた。
ごろごろごろ
更にひながアピールしてくる。
今日は母はいないらしい。
私はゆっくりと起き上がり
そっとカーテンを開けた。
すこし眩しい。
今日も青い空が広がっていた。
台所。
誰もいない。
そう、いつもの台所。
新しい缶詰を開けた。
ひなは必死に擦り寄っている。
ご飯を置くと同時に
すごい勢いで飛びついた。
水もあげた。
ひなは見ることもなく必死に食べている。
台所。机の上。
母の用意した私の昼ごはん。
今日は、サンドイッチ。
玉子、トマト、レタスにツナ、更にかつサンド。
紅茶を淹れた。
牛乳を淹れてミルクティー。
私は遅い昼ごはんを食べ始めた。
ひなは相変わらず必死に食べている。
今日の一日。
私は居間でテレビを見る。
たいして見たいわけではない。
ただ、ぼ~と見る。
窓の外は青い。
とても青い。
外に出るのは嫌だった。
トゥルルル
トゥルルル
電話が鳴ったのは夕方だった。
「‥もし、もし。」
「‥うん、うん。分かった。」
ガチャン
母からだった。
アルバイトの子が休んで、抜けれなくなった、
少し遅くなるけど、晩ごはんは帰って用意する
との事だった。
私はそのまま台所に行った。
今日の晩ごはんはカップラーメン。
食べる機会がないから
いつ買ったか分からない。
カップラーメンを食べた。
ひなにも少し早い晩ごはんをあげた。
私は自分のベットで寝ていた。
電気も消して早く布団に包まった。
目を開けてずっと布団に包まった。
どれくらいの時間が経ったか分からない。
「ただいま。」
遠くに母の声が聞こえた。
私は反射的に布団を頭までかぶった。
トントン
扉を叩く音。
ガチャ
しばらくして母が扉を開けた。
「しおり‥。寝てるの?‥」
母が言う。
「‥‥‥。」
私は黙っていた。
「‥‥ごめんね。」
母はそう言って静かに扉を閉めた。
私は下唇を噛んでいた。
零れ落ちそうで嫌だった。
私は‥
私は何でこんななんだろう‥
潜るように布団に包まった。
ずっと
ずっと
眠れなかった。
月曜日
目が覚めて頬の水を拭った。
いつの間にか眠りについていたらしい。
一日が始まる。
カーテンを開ける。
空は今日も青かった。
玄関を出た。
私は歩く。
いつもと違う道を。
いつもと逆方向。
駅に着く。
私はそのまま電車に乗った。
混み合う電車。
次第に人が少なくなる。
まばらになった席に座る。
ぽつり
ぽつりと
人はいなくなる。
学校には行きたくなかった。
誰にも会いたくなかった。
何故か‥
海を見たくなった。
プシュー
電車の扉が開く。
目の前が青一色になる。
深い青と淡い青。
季節外れの海。
季節外れの無人駅。
私しかいなかった。
堤防沿いの道を歩く。
堤防の隙間から白と青が見える。
狭い砂浜。
静かな海。
小さい頃
夏になる度
海水浴でこの海に来た。
父と母と3人で‥。
狭い歩道。
ラバーコーンが増えてきた。
前方で道路工事をしている。
警備員が
迂回路を誘導している。
私は
俯きながら
その横を通り過ぎた。
「‥しおり?」
不意に斜め上から声がした。
「‥えっ。」
左上に顔を向けた。
「‥‥お父さん?」
父だった。
ヘルメットから覗く顔。
日焼けをして
目尻に深い皺が出来ている。
驚いたような顔をしている。
それでも
間違いなく父だった。
‥‥夢?
私は父を待っていた。
遠目でも分かるほど
細く痩せているように見える。
そして
見たことがないほど
肌は黒く日焼けをしていた。
耳にかかるほど伸びた髪。
黒かったのが
白と灰色になっていた。
遠くの方で
茶髪の若い人にぺこぺこと頭を下げている。
その人が右手をあげると
父はもう一度頭を下げて私の方に歩いてきた。
「おまたせ。」
にっこりと父が笑う。
目尻の皺が更に深く見えた。
何故か分からない
私にはその皺が心強く見えた。
私は父と歩いていた。
狭い白い砂浜を父とふたりで。
「お母さんは元気かい?」
少しかすれたような声で父が言う。
「‥うん。」
私は父を見れなかった。
ゆっくり歩く。
沈黙が続く。
私は聞いてしまった。
「‥あの人と暮らしているの?」
気付いたら口に出していた。
自分でも
ここに感情があるのかないのか
分からない感じだった。
「‥‥‥。」
しばらくの沈黙の後、父は答えた。
「彼女は別の人と結婚したよ。」
父は笑う。
心強く見えた目尻の皺。
それが今は儚く切なく見える。
「‥‥そう。」
どんな気持ちになればいいのか
どんな顔をすればいいのか
全く分からなかった
ただ
その父の顔だけが頭に残った。
また沈黙が続く。
今度は父が口を開く。
「そうだ。ひなは元気にしてるかい?」
父は笑う。
切なく見えた目尻の皺。
今度は優しく見える。
「うん‥。元気だよ‥。」
一呼吸を置いて続けた。
「なんで、ひなって名前なの?」
どうでもいいと思っていたのに‥。
「しおりにひなの漢字は話してたかな。」
「知らない。」
ひらがなと思っていた。
「日向と書いてひな。
しおりにとって日向でありますように。
暖かい日向のように
いつも暖かく寄り添ってくれるように‥。
だから‥‥。
‥‥ごめんね。」
父は弱々しく笑った。
「‥‥‥。」
私は更に俯いて黙ってしまった。
なんで謝るの‥‥。
嬉しい気持ちと
悲しい気持ちで
よく分からなくなった。
しばらくして父を見た。
きらきらと輝く海を見ていた。
眩しそうに目を細める父。
知っているのに
知らない人の様に見えた。
しばらくして父は仕事に戻った。
その後は
父の問いかけに私が答える
そんな感じだった。
父は私のことを心配していた。
それはそうか。
月曜日に
制服でこんなところにいるのだから。
でも大丈夫だと答えた。
父もそれ以上は聞かなかった。
仕事に戻った父。
離れていく私にいつまでも
大きく手を振っていた。
私は一度だけ
小さく手を振り返しその場を離れた。
空はどこまでも淡く青く
海はどこまでも深く青く
きらきらと光が跳ねるように
眩しく広がっていた。
風もなく波もなく静かな海
私の心も身体も静かだった。
悲しいわけではない
苦しいわけでもない
ただここに身も心も置いて
消えてしまえばいいのに
どこかでそう思っていた。
それから何をしていたのか。
どこに行っていたのか。
あまり覚えていない。
とにかく歩いた気がする。
無人駅に戻ったとき
空は既に暗くなっていた。
切符を買って
誰もいない改札を抜けた
改札内の線路を渡り
反対のホームに行った。
ホームの一番端に向かった。
明るい場所を離れると
どんどん暗くなっていった。
ホームの端に花壇があり
私はそこに座った。
今日は一日が夢の中の様だった。
いつもの道を離れると全ては夢の世界。
白くない夢の世界。
静寂と暗闇の中
電車を待った。
見上げると空がきらきら輝いていた。
遠く儚く眩しくない光。
‥カンカンカン
遠くで踏切の音が聞こえた。
しばらくすると
カンカンカンッ
ホーム内の踏切が大きな音をたて始めた。
線路上
遠くに灯りが見える。
その灯りが少しずつ近づいてくる。
そんなときだった。
白い空間。
白い世界。
視界が一瞬で切り替わった。
何故か、私はほっとした。
多分、私はこれを待っていた‥。
「しおり。」
私は目を開ける。
開けていたはずの目を
起きていたはずの目を覚ます。
白い世界は黒い世界に戻っている。
電車は通り過ぎたらしい。
目の前に女の子。
今日は笑っていない。
寂しそうに私を見ている‥。
「しおり‥。」
女の子が言葉を詰まらせた。
私は自分から話し始めた。
「ねぇ‥。
私のお父さんってばかだよね。
日向だって‥。
ばかみたい。
そんなの知らないよ。
勝手に出て行って‥。
勝手にそんなこと言ってさ‥。」
もう抑えきれなかった。
「私はお母さんが好き。
でも‥
お父さんも好きなの。
寂しかったの。
寂しかったよ。
何で
何で
こうなったの。
ねぇ‥
何で。
私が悪いの?
私は黙ってたよ。
嫌われたくないから黙ってたよ。
家もそう。
学校もそう。
ひとりは嫌だよ。
もう嫌なの。
寂しいよ。
寂しいよ。 」
私は女の子に泣きついていた。
私より小さい女の子。
女の子は何も言わず私の頭を撫でていた。
私は泣いた。
ずっと
ずっと
泣き続けた。
いつまで泣いたのか分からない。
女の子はどうなったか分からない。
どうやって帰ったかも分からない。
ただ
帰ると母は家の前で私を待っていた。
そして
泣いて私を抱きしめた。
私はそんな母の頭を
無意識に撫で続けていた。
火曜日
朝はいつもどおり訪れた。
空は青く濃く
どこまでも高かった。
私はいつもの道を歩いていた。
いつもどおり。
ただ晴れなのに透明の傘を持った。
学校に着き、傘を傘立てに入れた。
教室に入る。
一瞬静かになる。
3人組も様子を伺うようにしていた。
気にはならなかった。
私は一日中窓の外を見た。
いるはずのない
女の子を探していた。
帰るとき
傘立てから黒い傘を抜いた。
父の黒い傘。
帰り道。
信号毎に立ち止まり女の子を探した。
でも会うことはなかった。
そして
いつもの食卓
いつもの食事
自分の部屋
自分のベットで
一日が終わった。
次の日も
その次の日も
女の子に出会うことはなかった。
そして
夢も見なくなった。
それから
いつもの毎日が繰り返された。
ただ違うのは
いつも女の子を探していた。
もう会わないのだろう‥。
そう思い始めた頃だった。
火曜日
今日も学校が終わった。
私はいつもの道を帰り始めた。
1つ目の信号
2つ目の信号
3つ目の信号
女の子を探した。
でも会えなかった。
4つ目の信号
ちょうど赤になった。
女の子を探した。
でも見つからなかった。
信号が変わる。
諦めて渡ろうとした。
そのときだった。
ゆっくりと視界が白くなる。
やっとだ‥。
やっと訪れた白い世界‥。
「‥‥‥。」
「‥しおり。」
懐かしさすら感じた。
私は目を覚ます。
横断歩道の向う側。
女の子が立っていた。
夕日で赤い頬を
更に赤く染めて笑っていた。
私は
青信号を確認して
車が来ないのを確認して
横断歩道を渡った。
女の子が近くなる。
渡り切る。
女の子と向かい合う。
女の子は私を見上げながら
ゆっくりと話し始める。
「しおり‥
あなたは知っている。
世界は色で満ちている。
嫌いな色。
好きな色。
大切にしたい色。
認めたくない色。
気付けばそこにある色。
しおりの白い世界。
しおりの夢に色をつけて。
しおりはどうしたい‥。」
私は答える。
「私は‥
もう大丈夫‥。」
私はもう私を知っていた。
「ありがとう‥。」
言葉にしなくてもよかった。
途端に
視界が白く霞がかっていく。
「まって。
いかないで。
私まだあなたを知らない。
名前さえ知らないの。」
私は
消えていく世界に
消えていく女の子に
叫ぶように話しかける。
「大丈夫‥。
私はしおりを知っている。
しおりは私を知っている。
すぐ近くに私はいるから‥。」
視界が閉じる。
世界が閉じる。
最後の白昼夢。
ゆっくり目を開ける。
もう誰もいなかった。
「ただいま。」
「おっ‥おかえりなさい。」
少し驚いたような母の声がする。
私はその足で台所に向かう。
「お母さん。」
私から声を掛ける。
「えっ‥。どうしたの。」
母は驚いている。
私は続ける。
「今までひとりにしてごめん。
いつもありがとう。
これからもずっと一緒だよ。」
自分の気持ちを伝えた。
「‥‥うん。
‥うん。
ありがと‥。
ありがとう。
しおり。」
母は泣きながら私を抱きしめた。
あぁ‥‥
私はもう母の背を超えていたんだ。
この人はこんなに小さかったんだ。
この前は気付かなった。
お母さん‥
それに気付くと
私も涙が止まらなくなった。
そんな
ふたりの様子を
ひなが不思議そうに見ていた。
晩ごはん。
今日はカレー。
お母さんのカレー。
そしてサラダ。
トマトに胡瓜にレタス。
いつもと同じ。
お母さんと向かい合う食卓。
色々話した。
女の子のこと。
お父さんに会ったこと。
お母さんは
ひとつひとつ頷きながら
泣いたり笑ったりしながら
話を聞いてくれた。
古い蛍光灯。
灯りは暗いけど暖かい。
今日は音も聞こえなかった。
食後に
1枚のメモをお母さんに渡した。
そこには
お父さんの携帯番号が書かれていた。
お父さんは別れ際にこのメモを渡した。
あれ以来
鞄の奥底に入れたままだった。
お母さんは少し躊躇いながら
そのメモを受け取った。
その日の夜中。
遠くにお母さんの声が聞こえていた。
泣いたり、怒ったり、笑ったり。
微かに聞こえる声から
喜怒哀楽が伝わってくるようだった。
そんなお母さんの様子は久しぶりだった。
その声を
遠くに聞きながら
私は深い眠りに落ちていった。
電話をする母の横にアルバムが一冊。
無くしたと言っていた家族写真。
お父さん。
お母さん。
小さい頃の私。
カメラに満面の笑顔を向けている。
それは‥
あの女の子そのものだった。
でも
それを私は知らない。
その夜
私は夢を見た。
白くない世界。
よく笑い、よく話す、そんな自分の姿。
お母さんも笑っている。
お父さんも笑っている。
皆笑っている。
世界はきらきらと色を変える。
カラフルに世界を彩る。
そんな私の世界。
目が覚めても覚えていた。
私はもう泣いていなかった。
「ありがとう。」
私はぼそっと独り言を言った。
「にゃ〜。」
応えるようにひなが鳴いた。
「日向もありがとう。」
日向の頭をそっと撫でた。
カーテンを開ける。
眩しい光に目を細める。
空は
青く深く高く
どこまでも澄んで見えた。
私はいつもの道を歩く。
同じように
それぞれのいつもの道を歩く人達。
7つの信号。
7つの横断歩道。
その先に私の学校。
いつもの階段。
いつもの廊下。
いつもの教室。
私の机。
私の椅子。
私の椅子に座る。
窓の外を見る。
青いどこまでも青い空。
見ているだけで気持ちいい。
「青井さん。」
不意に声を掛けられる。
いつもの3人組。
幼なじみの子が声を掛ける。
「今日は機嫌良さそうね。
天気がいいと青井さんでも嬉しいのね。」
後ろの2人がくすりと笑う。
「そうね‥。
こんなに天気がいいとね。」
幼なじみが怪訝な顔をしている。
その様子に後の2人は顔色を伺っている様だった。
確かに嬉しかった。
空の青さは知っている。
ただ
その青さを綺麗だと思えるように
なったことが嬉しかった。
土曜日
ジングルベル
ジングルベル
街には音楽が流れている。
色とりどりに煌めく街並み
今日はクリスマスイブ。
多くの人が信号待ちをする。
スクランブル交差点。
「キャハハ。
やっぱりそうだよね。」
横から楽しそうな声が聞こえる。
「そうそう。そうだよね。
今からそこに行こうか。」
楽しそうに話している。
「だよね。
ねぇ。
しおりはどう思う?」
不意に声を掛けられる。
幼なじみの白川さん。
その後ろには
その友達の佐藤さんと鈴木さん。
「うん。
そうしよう。」
私は笑顔で答える。
それに満足そうな白川さん。
また話を続けている。
ティーティラ
ティーティララー
信号が青に変わりお決まりの曲が流れる。
私は歩き出す。
しっかりと
一歩また一歩。
交差する人の波。
私は話に夢中になっていた。
波が交わる。
交差点の中央。
私の直ぐ近くをすれ違う家族がいた。
お父さんとお母さん
真ん中で手を繋いで笑っている女の子。
私の知らない
でも見たことのある女の子。
そのまま人の波は流れていく。
すれ違い歩いていく。
それぞれが
それぞれの時間の中で‥。
ふと
頬に感じる冷たい感覚。
私は空を見上げた。
白い
白い世界。
静かに世界に舞い降りる。
世界は
優しく包まれる。
きっと明日は
ホワイトクリスマス。
日曜日
今日はクリスマス。
そう‥
家族と過ごすホワイトクリスマス。
もちろん
日向も一緒だよ‥。