第三話 紅は赤に追われてて
太陽は地平線に隠れ、月は雲に隠れる夜。私は携帯のライトを頼りに、歩きなれたはずの廊下を歩く。
足元を照らしつつ、少しでも動きがあれば止まって様子を伺う。門のところで見た現象が、この暗い場所で、いつ起きないとも限らないためだ。
「ご、ごめんなさーい。まだ残っている人はいませんかー?」
こういう時、まず最初に職員室に向かうべきなのはわかっている。事実先程まで、居残りをしている教師に助けを求めるべく向かったのだ。
結果はこの通り。目的の部屋には明かりがついておらず、人影はなかった。
「(うぅ……どうして誰もいないんだよぉ~)」
電気が消えた部屋に一人でいる。家では毎日のことなのに、環境が違えばこうも感覚が変わるのか。
真っ暗な教室を横切るたび、そこに人以外が映るのではと不安で仕方ない。
それでも僅かな希望を頼りに、自分以外の居残り学生を求めて声を出し歩き続ける。
とりあえずは一階の、比較的逃げやすい部屋から。
「(職員室、会議室、校長室、図書室、特別学習室は全部だめ。となると後は、荷物置き場と二か所の空き教室、だったっけ)」
中庭を中心に置いて、それを囲うように長方形の形をとるわが校の校舎。体育館プール等はここから少し離れた場所に別館として建てられている。
まぁそちらは二階に上がる前に行くとして、今は私がいる特別学習室から一番近い近い一つ目の空き教室へと向かう。
「はぁぁ。少し、寒いや」
もう卒業まで日のない三学年二学期、つい先日夏休みを満喫したばかりのこの時期に、まさかこんなことになるなんて想像すらしてなかった。
「怪談には少し時季外れだろうに、空気読めやこの野郎。もう! ――アダッ!? くぅぅッ」
適当にそこら辺にあった人体模型のパーツを蹴り上げ、思ったより丈夫で重さもあったために蹴ったこちらのつま先が悲鳴を上げる。
「いってて、あぁ。なるほど、八つ当たりしても意味なんかない。そういうことですか神様……はぁ」
客観的に見た今の自分は、目も当てられないくらい情けない。
いくらこんな状況に追い込まれているとはいえ、物に当たったあげく自爆してしまうとは。ここはせめて、蹴飛ばしてしまったこの模型の顔を元の場所に送り届けて挽回しよう。
そう思い私は、足元に転がっている人体模型の頭部を持ち上げた。見るからに不気味というか、まともに授業の中で使った覚えのない模型だ。せいぜいが内臓や肺をもぎ取られた状態で見せられたくらいか。
さて、と。人体模型というと理科室か科学準備室かな、確か三階の体育館側奥……
「ん?」
――ちょっと待って。三階? 体育館側? ここは一階の、体育館とは真逆の特別学習室前。なんで人体模型の、それも頭だけがこんなところに?
「そ、それに私。確かに勢いをつけて遠くに蹴飛ばし……」
瞬間、手のひらから伝わる嫌な感覚に、思わず模型の頭部を取り落としてしまう。床に強く打ち付けられたそれは、ころころと不自然に柱の場所まで転がると、こちらに顔を向けた状態で静止する。
――ニヤァッ
「っっ! うわああああああああ!!」
笑った。確かに今、筋肉も臓器もないはずの模型が笑った。面白いものを見つけたみたいに、口角を上げた!
背筋を素早く駆け抜けた冷たい何かに後押され、一目散に逃走を開始する。逃げたところで何処にいけば!? なんて明確な場所も方向も考えず、ただ逃げるために足に全エネルギーを手中させたのだ。
「なにあれ!? なにあれ!!?? 怖い怖い怖い怖い!!!!」
カラカラカラ――
「しかもついてきてるーー!? 手足もなくてどうやってついてきてるんだよ!? ヘビの骨格でも使ってるのかお前の体いや頭!! 気になるけど見たくないーー!!」
重い手荷物を持ったまま、背後から近づく物音から逃げ続けた。はぁはぁと息を上げながらそれでも助かりたい一心で足を動かした。
そうやって走り続けていると、ほぼ無意識的に私の顔は後方へと向いた。好奇心に負けただとか、そんな下心は一切ない。ただ自分と相手との距離を図るため、脳が無意識のうちに首だけを後ろに振り向かせたのだ。
「って! 転がって来てるのねーー!? いや冷静に考えたらそうだろうけども! というか早いな!?」
急な坂道から転がしたかのように勢いよく転がってくる赤い生首に戦々恐々としつつ、再び走ることに集中する。心の中で、どうして後ろを見たのか後悔に苛まれる。あんなものが私を追いかけていると思うと、足がすくみそうだ。
目的地であった第一空き教室も荷物置き場も通り過ぎ、残るは第二空き教室のみ。そこから先は曲がり角になっていて、反対の館に行くための渡り廊下があるだけ。
「(落ち着け、冷静に、クールに考えろ。あそこから渡り廊下に出れば、少なくとも別館に行くか外に出るかの選択肢ができる。第二空き教室が開くかどうかもわからない。となると私が取るべき行動は自ずとわかる)」
そうと決まれば、後は乱れる服装には目もくれず全力疾走。
こんな時、ただ一つ窓から零れる微かな光を反射し、ちっぽけな希望を感じさせるこのペンダントだけが私の心を支えてくれる。
「はぁはぁ!! あ、あそこを通れば、きっと逃げ切れ――」
瞬間、私の頭は、驚くほど澄み切った思考で先の状況を予測する。確かにあの曲がり角を抜けて、渡り廊下へと進めば別館には行けるだろう。しかしその先は、階段を通じて真上に理科室と科学準備室がある場所。
考えたくはないが、もしもあの首に意思があって、頭以外も動いているのだとしたら。
「っ!?」
ここにはない胴体の部分が、今もこちらに向かってきている可能性がある。
もしもあの曲がり角の先でこいつの胴体と鉢合わせでもすれば、その先に待つのは……想像などしたくない。
「ぅぅ! こ、怖いけど行くしかない!! 中に何もないことを信じて、空き教室から外に出る!!」
時折、カラカラと転がる音に加えて何かにぶつかる音が鳴る。多分この音は、鼻のでっぱりが地面に当たって頭部全体を押し上げた音だろうな。などと走馬燈のような感覚を味わいつつ、目前に迫る空き教室。
明かりはついておらず、案の定というべきか人の気配はない。
「はぁはぁ いや、この場合は良かったと考えるべきかな。はぁはぁ 覚悟はできた、三 二 一 今!!」
無理やり体を真横に動かし、なおかつバランスを崩さないよう姿勢をコントロールする。引き戸の取っ手までもう少し、背後の頭部も私が曲がったのを確認して緩やかなカーブを描くようにこちらに進路を変えてきた。
迷ってる暇なんかない! 指先が戸に触れた瞬間、勢いよく扉を引っ張って……
――ガシッ!
「(あ、終わった)」
開いた扉の先、闇の中に潜む黒い腕それに、強く私の腕は掴まれてしまう。指先が肉に食い込んでとても振り解けそうにない。
というより既に、驚きと恐怖で心臓が止まったような感覚だ。全身から冷や汗が噴き出て、もうどうにでもなれと諦めてすらいる。
私を迎えたのは、空き教室の中の暗闇だけではなかった。
「(こんなところにも、お化けがいるなんて……)」
一寸先すら見えない暗闇に体を引きずり込まれながら、私は、人生の最後を予感した――