第十八話 人の想いは千変万化
「――――っは」
すでに夕日すらも落ちてきた時間、誰もいなくなった教室の片隅で眠りから目覚める。
明音さんのお膝と、九条さんの手のぬくもりを感じつつ眠った後、午後の授業はすべて睡眠時間に使い今此処に至った。
「ふぁ~……今、何時?」
お二人の話では七時頃本館の姿見鏡前に集合とのことだが、現在時刻がわからなくては準備のしようもない。睡眠をしっかり取ったことでスッキリとした目で、壁に立てかけられた時計を探し見る。
――六時 五十分
「!!? やっばい!!」
授業終りは四時なので、あれから二時間はぐっすり眠りこけていたことになる。まさかこんなギリギリに目覚めるとは思わなかった。素直に目覚まし時計を使えばよかったと、後悔の念が胸中によぎるが、そんなことは後回し。バッグを持って教室を飛び出し、急いで二階の踊り場に向かう。
下校時間をとっくに過ぎ、だいたいの屋内系の部活も活動を終えて下校を開始する時間。どんどんと人の声が薄れていくのを感じると、一気に世界があの化け物ひしめく世界に変わっていくのがわかる。異世界にでも迷い込むような感覚だ。
「すみません! 遅くなりましたっ!!」
全速力で階段を駆け下りた先、鏡の設置された壁に背を預け私を待っていてくれた二人。片や九条さんは手元のメモ帳になにがしかを書いており、片や明音さんは口に含んだ飴らしきものをころころと暇そうに音を立てて転がしている。だいぶ待たせてしまったようだ。
「ん、来たか。しっかり眠れたか?」
「はい! それはもう!」
「そりゃーよかった。睡眠不足は女の敵だかんね~♪」
始まる、明音さんのなでなで。明音さんは私のことを、まるで妹のように可愛がってくれる。その優しさが嬉しい反面、兄弟付き合いの経験がないので距離感を掴み損ねていたりする。
「くすぐったいです、明音さん」
「ヤー、いいねぇ。かぁいいよクーちゃん、母性刺激されまくり」
「今までに見たことない顔だな。こいつのすっかり錆びついた母性に火をつけるとは、やるじゃないか」
「おや、珍しい組み合わせだな」
「!?」
「ん?」
「あ」
鏡の世界に飛び込む直前の戯れに興じている私たちの背後から聞こえる、第三者の声。背中を震わせそちらを振り向けば、すっかり薄暗くなった校舎内でもなおはっきりとした出で立ちの教師が一階から階段を上りこちらへと向かってきていた。昨日、無念にも裏口から出ていくのを見送ったあの先生である。
「あ、先生! 今日は先生が居残りですか?」
「あぁ。ところで紅京、昨日は大丈夫だったのか? 窓越しに見たお前の姿がずっと気掛かりでな」
「えと、まぁはい。いたって健康ですよ?」
蘇る苦い思い出。あの時は自分の身に起こっている出来事が信じられなくて、恥なんかかなぐり捨てて縋りついたっけ。結局、助けを求める口を塞がれて何も言えなかったんだけど。
「そうか。いやなに、お前にしては珍しく授業中に眠ってばかりだと聞いたものでな。特に一限の時など魘されていたらしいじゃないか」
「……はい、すみません」
くっ! こんな状態じゃなかったら普通に授業を受けれていたのに、おのれ学校め。
「体調が悪いなら無理せずに休めよ。体調の管理も学生の仕事なんだからな。九条、蜂頼、こいつのこと頼んだぞ」
「そのつもりです」
「せんせ、あたしらの名前知ってたんですねー」
「当然だ、生徒の名前くらいすべて把握するのが教師の務めだろう。特にお前たち問題児の名前なんか、よく耳にするぞ?」
「問題、児ね。だってよナーちゃん」
「お前と一纏めになるのは気に食わんが、まぁ問題児なのは否定しない」
「えー、でもナーちゃんの方がこの生活に順応するのあたしより遅かったじゃん。誰が寝てた間の授業教えてあげてたっけ~?」
「それ以上言うとタダ働きさせるぞ。それと、勉学はオレたち二人とも狗金さんに見てもらってただろうが」
「ソデシタ」
先生がこちらに集中しているのをいいことに、お二人は背後で思い出話に夢中中。うん、楽しそうなのはいいことだしぜひともその頃の話を聞いてみたいところなんだけど。まずは見てないで助けてもらえませんか!?
「――っと、もうこんな時間か。お前たち、夜道は十分に気を付けて早く帰るんだぞ」
「は、はい!!」
時間にしてみれば十分もなかったはずなのに、お説教となると三十分くらいに感じてしまう。でも、これでようやく今日集まった目的に入ることができる。階段を下りて廊下の先に消えていく後姿を眺め、隙を見て鏡の中に入ってしまおう。
「行ったか? ――よし、鏡の中に入るぞ」
「クーちゃん愛されてるねぇ」
「それはわかりますけど、今は止めてほしかったです……」
九条さんを先頭に、私、明音さんの順に鏡の中に足を踏み込む。化け物に引きづられるようにして入った初回とは違い、初めて自分の足で入るこの世界。
境界を越える際微かに水に沈むような感触を感じたが、思ったよりもすんなり入っていく。さて、今日はどんな奴と遭遇するのだろうか。できれば一度見たことのある奴らから出てきてくれると、私としては嬉しい限りだ。
「あ、そうだった。おーいお前ら」
―― 一方。現実の世界では、教師が伝え忘れたことのために階段へと引き返してきた。
「いない? もう行ってしまったのか」
―― もう少し侵入するタイミングがずれていたら、という奇跡的なタイミングで彼女たちは発覚を免れた。警戒すべき対象は、鏡の外にも存在している。