第十二話 いつかの人の温かさ
「こんばんわ~」
「失礼します」
突然に表れた不安感に心臓を鷲掴みにされるような気分を味わいつつ、九条さんに連れてこられたのは家庭科室。鍵を疑うことなく流れるように扉を開けていたが、これは鏡の世界だからだろうか。現実の世界で鍵の心配をしていた自分が馬鹿に思えてくる。
「勇駆! いるかー!!」
「――深夜にうるせぇな。いるだろここに」
九条さんに呼ばれ反応を返した人影は、部屋の一番奥、食材保管庫すぐ近くのテーブルからこちらに手を振っていた。
「どうしたんだ一体。てか、ついさっき出て行ったばかりだろ」
「悪いが急用でな、こいつに飯を食わせてやりたいんだ」
「こいつ……?」
より近くからその人、勇駆さんの姿を目にした私は、彼女のあまりの体格の良さに思考を放棄しかけていた。
身長は、おそらく百九十はあるだろう。気だるげに肘をついた姿勢だが、テーブルの上にドンッと乗っている二つの霊峰。半袖の制服の上からでもわかるほどに隆起した全身の筋肉はさながらビルダーのよう。
九条さんが実戦的な筋肉だとしたら、彼女のそれは魅せる筋肉。
「は、初めまして。紅京 躯と申します」
「? 見ない顔だな。どうしたんだ?」
「オレらの新しい同居人だ。今日学校に閉じ込められたらしくてな、模型に追われているところを保護した」
「模型に?」
微睡んでいた目元が覚醒と同時にキリッと引き締まり、前髪の一部が赤いさわやかに揺れる金髪を揺らして椅子から腰を持ち上げる。私の感覚は正しく、彼女は私を大きく見下ろす形となる。
わかってはいても、少し怖い。
「お前も、閉じ込められたのか」
「は、はい。ここには九条さんの助けを借りてたどり着きました」
「そうか――」
「っ!?」
自分よりも大きな勇駆さんが、私の太腿ほどはあるだろうがっちりとした両腕を上半身を囲うように動かす。思わずビクリと背筋が震えてしまうが、ここで失礼があってはならないと自分に言い聞かせる。化け物に襲われる恐怖に比べれば、相手が人間である分安心できるはず。
「(安心、安心、安心! やっぱり怖いぃぃ!!!!)」
プルプルと体を震わせている間も、彼女の腕は両肩のあたりから背中に伸びてきている。そしてゆっくりと私の体に触れ……
次の瞬間、私の顔が柔らかいものに包まれた。
「――怖かっただろう」
「?」
抱きしめられている? どうして私は、勇駆さんに抱きしめられているのだろうか。
初めのうちは困惑を隠しきれなかったが、同じ女性であるのに彼女の全身から香る甘い匂いは、緊張で震える私の体を一瞬にして落ち着かせる。
ネルさんに抱きしめられて以来久しく感じていなかった温もりに、いいようのない感情が胸の奥からこみあげてくる。
「あの……?」
「よく、ここまで無事にたどり着いた。もう大丈夫だ、私達がついている」
「勇駆、さん? ――あ、あれっ……?」
勇駆さんに抱きしめられて安心を感じたためだろうか。兆候など何も感じなかったのに、突然目の奥から涙があふれてきた。あまりに突拍子がなくて、自分でも何に由来する涙なのかわからない。
「どうしてっ、急に? 悲しくなんて、ない、のにっ」
「大丈夫、大丈夫だ」
だが、雫がより大粒になっていくにつれて、この感情が恐怖に由来することを自覚し始める。
化け物に追われた恐怖。首を掴まれ鏡に引きずり込まれた恐怖。人形とはいえ、初めて動く物体を破壊した恐怖。学校に閉じ込められて、命の危険にさらされていることが分かった時の恐怖。
全部全部。考えるまいと奥底に封じ込めた感情だった。
「うぅっ、うぅぅぅぅっ!!!!」
「ここにはお前を害するものはいない。今この瞬間に吐き出すんだ。全部出し切ったら、そしたらご飯を食べよう。先のことなんて置いておいて、私たちといよう」
出会って数秒の人間に、恥も何もなく縋りつく情けない私。一度決壊したダムから感情がとめどなく溢れ出してきて、自分でももうどうしようもない。勇駆さんにも、九条さんにも申し訳が立たない。
どうか、今だけは、弱い私を許してほしい。ちゃんと、ちゃんと頑張るから。この人たちを、私に優しくしてくれたこの人たちを、絶対に助け出して見せるから。
「『――んー、次はこれかなぁ?』」
数分。涙を流しきり落ち着き始めた私の耳が、部屋の何処からか発生するくぐもった声を拾った。
「グスッ。な、なんの音、ですか?」
「ん? あぁ、この声は」
「『よしよし、これだけ食材があれば十分でしょ。あれ、扉が開かないな? 何かに引っかかったか? よーーし』とりゃああああああ!!??」
家庭科室に隣接する食料保管庫。その扉の奥から、見知らぬ人物が姿を現す。
初めは、いつの間にか姿を消した九条さんの声だと思っていた。けれどその人の格好は、着崩している九条さんのものとは似ても似つかない、フード付きの改造制服を着こんでいた。
頭からフードを被り目元がはっきりとしないその人は、勢いよく飛び出したと同時に床に食材をばらまいてしまっていた。
「痛ァい……」
「だから気ぃつけろつったろ。貴重な食糧ぶちまけやがって」
その人の背後から、消えていた九条さんが現れる。
「うぅ、僕の愛らしいご尊顔が――あ」
「・・・・・・?」
フードに隠れた視線が私に向き、声に反応しそちらを向いていた私の瞳とぶつかり合う。私は泣いた様子を見られて、彼女は食材の惨状を見られて、お互いに変な空気になってしまった。
「えーっと……ごほん! やぁやぁやぁ! 僕は零雫、天傘 零雫! 君とは初めて会うね!」
「紅京、です」
「紅京! いい名前だねぇ。うんうん、僕の零雫と同じくらい素敵な名前だよー!!」
「ありがとう、ございます?」
テンションが高い、天傘さんと名乗る女性。相変わらずフードで目元は見えないが、口の動きだけでこの人が表情豊かであることはなんとなくわかる。
ネルさん、九条さん、勇駆さんとは違う、普段の学校生活にいても不思議ではないユーモアな人。お三方が悪いと言っているのではなくて、彼女たちの性格や見た目は浮世離れしていたから。凄く自然に触れ合える天傘さんのようなタイプは新鮮だった。
「お~いレイダ~、話の前にやることあるだろ~お前には~? ささっとぶちまけた野菜たちを回収しろ!!」
「ひぃぃ!!? ユ、ユーちゃん助けて! この鬼に可愛い僕がいじめられてるよぉ~!!」
「まったく忙しないな、お前は」
「あっ」
高い体温に包まれて、いつの間にか恐怖は何処かへと消えていった。体から離れる柔らかさにほんの少し寂しさを感じると、勇駆さんは振り向きざまに人差し指で静かにのジェスチャーを取る。
“私が泣いたことを秘密にする”というようにも取れるその合図は、もう一つ、“またいつでもしてやる”という彼女の優しさが表れているようにも思える。
視線の高さや筋肉におびえていたのが噓のよう。もうすっかり勇駆さんを怖く感じなくなった。
「こらっ、待ちやがれ!!」
「いやーー!!」
「そういえば、まだ自己紹介を済ませていなかったな。網縫 勇駆だ。親しい物からはユーと呼ばれている」
「あ、僕はレイレイかアマちゃんって呼ばれてるよ~」
「ついでにオレのことも、九条さんなんて他人行儀に呼ぶ必要はないぜ。キューちゃんでもナナちゃんでも好きに呼んでくれ」
首根っこを捕まえられたレイダさんと、捕らえたナナさん。そして、私を安心させてくれたユーさん。悪いことばかりが続いていた夜の学校生活に、ようやく希望が見え始めてきた。