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第2話 もうひとりの“魔女”




 あれは、今からちょうど2年前のこと。

 雨の降りそうな、浅葱色の空。昼も過ぎた時間帯、曇天の空は青白く雲に覆われ、その町は陰鬱に閉ざされていた。





 その日アオイは、生まれ育った街に久々に帰ってきていた。失くした何かを見つけるために。置いてきた何かを取り戻すために。止まっていた足を再び動かすために、一度だけもと来た道を後戻りして、忘れ物を取りに戻っていた。



 ここには大切な思い出があった。

 片時も忘れることはなかったけれど、アオイはそれを振り切るためにここを離れた。

 あのままここにいてはきっと、生きていけないと思ったから。

 しかし、ただ生きるためだけにここから遠ざかったが、未来まで置き去りにするべきではなかったのだ。過去に囚われたままただ命を繋ぐのではなく、きちんと前に進んでいくために。

 生きる理由を取り戻すために、アオイはこの街に戻ってきたのだ。






 「……あなた、は……?」


 そして帰る直前になって、アオイはある場所で足を止めた。

 思い出の場所───“彼女”の告白を聞いたこの公園の片隅に、うずくまって座り込む人影があったのだ。誰だろうと少し離れた場所から見つめるアオイに気がつくと、どの人影はゆっくりと顔を上げてそう問いかけてきた。



 華奢な身体つきからは少女のように見えるが、フードを深くかぶり髪もボサボサで、俯いているせいで表情も読み取れない。


 「先客がいるとは思わなくてさ。気に障ったのならごめん、別に他意があって見ていたわけじゃないんだ。……わざわざそんな隅っこに座り込まなくても、とは思ったけど。」


 重苦しい雰囲気に飲まれないように、ひとつ大きく息を吸ってから、努めて何気ないていで言葉を返した。休憩スペースにはちゃんとベンチもあるのだが、その少女はあえて公園の隅の一角に、小さく震えるようにして丸まっている。




 「それに、もうすぐ雨も降りそうだけど。ずっとそうしている気か?」

 「……いいの。わたしにはここしか居場所ないもん。」


 吐くようにそう呟いて、ふたたび俯く。それでもやはり気にはなるのか、一瞬だけこちらを見たような気もしたが、すぐに目を逸らして別のところを見つめている。

 その声のトーンに、身を裂くような悲痛さを覚えた。この子の置かれた境遇がどのようなものかは分からないが、アオイはこの子に、どこか自分と同じような雰囲気を感じたのだ。正しくは、どん底にあったこの三年間の自分に。


 「居場所、ね……。まあ、何があったかは聞かないけど。お金や帰る家がないとかだったらどうしようもないしな。」

 「……そんなんじゃない。」


 冗談っぽく軽い口ぶりで言うと、彼女は癪に障ったようにそう言い捨てた。

 あえての言い回しだったが、その答えを聞けて少し安心した。親がいなかったり病気だったり、貧困でどうにもならない子どもだっている。もしそんな相手だった場合、自分にできることなど何もないだろうから。



 それにしても、“居場所”か。




 「ま、いいや。ならこの“居場所”、少しの間だけ相席させてもらうよ。」

 「え。」


 そう言って、彼女の視線の先にある、ほど近いベンチに腰掛け───


 「ニャアッ!」

 「うおうっ!?」


 座ろうとしたベンチの下から突然ネコが飛び出してきて、座るなとばかりに威嚇された!


 「その子、そのベンチの下がお気に入りで、近づこうとすると怒られるの。」

 「早く言えよ!」


 さっきからあの子が見ていたのはこのネコだったのか……

 のっそりと座り込み、どこか気だるげな雰囲気をした黒猫。野良猫なのか飼い猫なのかは分からないが、見ず知らずの人間がここまで近づいてきても逃げないのは相当の変わり者だろう。




 「ったく……」


 気を取り直して、公園の隅の柵に腰掛けるようにして背中を預けて座り込む。

 ……心持ち、あのネコとは距離を取りながら。


 「……何で?」


 少女は怪訝な顔をアオイの方へと向けてきた。困惑した表情で、居心地の悪そうにさらに身体を縮こまらせる。

 初対面の相手と同じ空間にいることは、決して社交的とは言えない性格のアオイにとっても居心地は良くないものだったが、それでも構わずこの場に居座る。


 「ここは、俺にとっても大事な場所だから、かな。」


 『ここしか居場所がない』ということは、逆に言えば少なくともここだけは彼女にとっての“居場所”なのだということ。

 でもそれは、アオイにとっても同じなのだ。


 「あとはまあ、似た者同士の雰囲気を感じたから、そのよしみで。」




 アオイの言葉を聞き、不服そうに目を逸らしてから、少女はふたたび俯く。

 少し言葉を交わしただけだったが、それでもアオイは確信した。この子は重い何かを抱えている。ただ生きていくことすら苦しいほどの何かを。

 だとしたら、アオイとしては他人事だとは思えなかった。重すぎる荷物を過去に抱えて、それでも生きていかねばならない者同士。

 もしかするとそんな同類としての匂いを嗅ぎ取ったからこそ、アオイのような見ず知らずの人間に、ああして声を掛けずにはいられなかったのかもしれない。溺れた人間が藁をも掴むように、道に迷った人が僅かな明かりをしるべに歩くように。


 「ダメだよ……放っておいて。わたしは“魔女”なんだから……。」

 「え……」


 不意に出てきた言葉に、アオイは思わず目を見開く。


 「わたしは“魔女”だから……。魔女は人を不幸にするの。自分も、他人も……。ここにいたら、あなたも不幸になっちゃう。」




 思いもかけず飛び出してきたその言葉に、アオイの中でいろんな記憶と感情が一気に全身を駆け巡った。

 正直、こんなところでその名前に出くわすとは思わなかった。しかも、よりにもよって、この場所で。アオイは左手のブレスレットに手を当てる。



 ───“魔女”。

 それはアオイにとって、何よりも意味のある言葉だった。3年前、ちょうどこの場所で、アオイはその言葉を聞いたのだ。



 “実はね、わたし……“魔女”なんだよ?”


 「彼女」のイタズラっぽい笑顔が脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。アオイにとって忘れられない、忘れるはずのない笑顔。


 ““魔女”はみんなを幸せにするんだよ。だからアオイくんも。これからもずっと、幸せでいて───”


 優しく、あたたかく、曇りのない真っ直ぐな声。

 その温もりを、大きさを、彼女の心の強さを、アオイは知っていた。その言葉を胸に抱いて、アオイはここまで生きてきたのだ。



 そして今、目の前で少女が放った言葉には、それとは真逆の重苦しい響きがあった。




 「“魔女”は不吉の象徴なんだって。“魔女”には悪いことばかり起きる。生きているだけで不幸になるし、その結果、周りにも不幸を振り撒いてしまうの。」

 「……君は、自分がその“魔女”だと?」

 「うん。わたしの周りには不幸なことばかり起こった。お母さんも“魔女”だったけど、やっぱり不幸になった。わたしたちはいつも除け者にされるし、わたしたちがいると、みんな嫌な思いをしてしまうの。」


 少女の言葉には、胸がチリチリするような切実さと痛みが感じられた。


 「君は、本気でそう言ってるの?」

 「たとえわたしがどう思っていようと。わたしに関わったら、みんな不幸になっちゃうんだもん。信じるか信じないか、不幸になりたいかどうかはあなたの勝手だけど、わたしはイヤなの。他の誰かまで不幸にするなんて……。だから放っておいて。」




 アオイはかつてないほどに激しい感情が腹の中にぐるぐると渦巻いてくるのを感じていた。

 “魔女”は人を不幸にする───不貞腐れたように、突き放すように、自分を呪うような口調で少女はそう言い放つ。アオイが今日まで信じてきたものを、何もかも否定するような言葉。そんなはずはないと言い返してやりたいにも関わらず、何と言葉を紡いだら良いものか分からない。少なくとも、この子はまるで呪詛のようなその言葉を、本当に信じているようだった。




 「ニャア……」


 先ほどのネコが、空気を読まず退屈そうにあくびをする。






 「わたしはずっと、一人でここで───」

 「待って。それ以上は言わないで。“魔女”が人を不幸にするなんて、そんなことがあるものか。」


 少女の言おうとしたその先を、アオイは静かに遮った。



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