1-1社会はいつだって不条理
新連載、スタートです!
日本の中枢都市にある高層ビルの一角におれ、長峰コウはいた。時計の短針は、既に頂上まで登り終え、下る方へさしかかっている。
手元の作業が一区切りし、少し静かになった50人近くのデスクが並ぶフロアを見渡すと、10人ほどがまだ在社しているようだ。
(今日はみんな帰るのが早めだな。 まぁまだ火曜日だしな)
フロア内には、カタカタとキーボードを叩く音が響き、部屋の角にある打合せスペースでは、何やら話をしている様子が伝わる。
(誰もが羨むメガベンチャーも、蓋を開けてみればこんなもんだよな)
おれがこの会社に入社して10年とちょっと。入社した当時は、多くの人が名前を知らない会社だった。しかしこの10年間で急成長し、いまや日本でその名を聞けば多くの人が知っているメガベンチャー企業におれは勤めている。そして、おれ自身も会社の中でも中堅の、いわゆる一番油が乗った時期だと思う。給料も悪くない。しかし、周りからの企業の評価がよければ、働いている人が楽しく仕事をしているかといえば別問題である。長時間労働が悪いとは言わないが、明らかに社員全員がオーバーワークで、いつ破裂してもおかしくない風船のような状態だなと感じていた。
おれはパソコンを閉じると、お疲れ様です、と近くの人に声をかけて何気ない、いつもの職場を後にした。
そして事件は翌朝に起こった。
「長峰、ちょっと良いか?」
フロアにぼちぼち人が集まり始めた中で、上司の麻生さんからいつもより少し低めのトーンの、静かな口調で声がかかる。
(これ、よくないやつだ)
麻生さんの声のトーンや、声をかけるタイミングなどをこれまでのおれの社会人経験と照合すると、おれの第六感はアラートを発していた。そして、この後どこにいくかによって、事の重大さが変わる。フロアの端にある打合せスペースにいくのであれば些細なこと。フロアを出て、打合せ室にいくときは多分やばい。
そんなことを思いながら、おれは手帳を手に取り、先を歩く麻生さんの、しわの入ったジャケットの背中を追いかけると、どうやらその足はフロアの外に向かっているようだ。
(はぁ、ヨレヨレのジャケット着て。 麻生さんも大変だな。 それにしても、社外トラブルか、異動か、おれのミスか)
おれは頭の中でいくつかシチュエーションを想定し、自身の感情の波をできるだけ抑え込む準備をする。
10人ほどが入る打合せ室に入ると、朝日が燦々と降り注いでいる。高層階から見える遠くの高層ビルは、疲れのせいか輪郭が少し霞んで見えた。麻生さんと向かい合う形で椅子に腰掛けると、テーブルの上でその手を組んで話し始める。
「突然呼び出してすまない」
「はい、僕の嫌な予感が的中しなければよいのですが……」
「それでいくと、嫌な予感は的中だ」
相変わらず淡々と事実を告げるな、この人は、とおれは視線を落とし、小さくため息をつく。すると、その様子を察したのか、麻生さんはそのまま話を続ける。
「長峰、最近オーバルとの契約とっただろ? あれが、社内の中で波紋を呼んでいる」
思わず、おれはハッと顔を上げ、麻生さんの顔を見る。このオーバルというのは、これまでうちの会社でも何度かアプローチしてきたが、契約に至らなかった難攻不落の大手企業。それを、おれが担当を始めてから、いろんな人の協力もあってなんとか契約成立に持ち込んだ、チーム一丸で取り組んだ仕事だった。
「どういうことですか?」
当然の疑問だと言わんとばかり、麻生さんは頷き、組んでいた手をテーブルに置き直す。
「これまで、あそことの契約に多くの先人が苦労してきたのは知っての通りだ。 そして、その苦労した先人の中にはあの天田さんがいる。 それを、長峰が担当を始めてから半年ちょっとで契約に至った」
おれはここまで聞いて、大きくため息を吐き出し、会議室の椅子がそのまま後ろにひっくり返るかの勢いで背もたれに背をかける。
この天田さんというのは、会社の創業メンバーの一人で、経営権を持っている一人。この人の長所でもあり、一方で厄介な点は、どんな手を使っても目的を遂行しようとする執着心と、圧倒的な自尊心。この天田さんが死力を尽くして契約できなかったオーバルを、おれがあっさりとってしまったように見え、面白くないのだろう。これまで、天田さんの影響を受けて、いろんな人が異動を命じられたり、会社を去ってきたりしてきた。
「異動、ですか?」
おれの回答に、麻生さんはこくりと頷く。
「天田さんは、長峰があのオーバルの女性担当と何かしらの私的な関係があったために上手くいった、という話を、どこかから聞いている、と言っていた。 そして、そんな不健全な状況はよくないから、長峰を異動させて、代わりに天田さん自身が、長峰のチームを率いて直接担当をするそうだ」
おれは思わず天を仰ぎ見る。怒り、悲しみ、哀れみ、様々な感情がおれ自身の心を埋め尽くしていくのがわかる。本当に夜遅くまで一緒にやってくれた仲間や、オーバルの担当以外も巻き込んで、全員で本当に良い物を創り出そうと、そのパートナーとして手を結んでいこうと、契約に至った。しかし、その矢先に、自身の自己顕示欲によって再び振り出しに戻ってしまう可能性がある。もちろん、もしかしたら上手くいく可能性もあるかもしれない。しかし、これまで天田さんが同じようなやり方をした例をいくつか聞いていたが、その全てが上手くいっていないという事実はある。
その後、その会議室でいくつか今後の引き継ぎの話や、実際の異動の時期について説明があったが、正直まったく耳に入ってこなかった。そう、まさに破裂寸前だったおれの中にあった風船が割れてしまったのである。
どうやら、状況の深刻さは麻生さんにも伝わったのであろう。打合せの終わり際に、麻生さんはおれに声をかける。
「長峰、どうせ昨日も遅かったのだろう? 今日は気持ちの整理も含めて、社内には外回りってことにしておいて良いから、家に帰って一日ゆっくりしたらどうだ?」
「あ、はい。 でも、ちょっとすみません。 いろいろ考えさせてください」
おれがそういうと、わかった、とだけ伝えて、心配そうに何度もおれの顔を伺いながら、麻生さんは打合せ室から出て行った。
おれは一人になるといよいよ思考が暴走し始める。最初は、オーバルとの契約がどうなるのか、ということが気になった。しかし考えている間に、今までの努力はなんだったのか、とか、チームメイトは果たして天田さんと上手くやっていけるのだろうか、とか、せっかくこれまで築いた信頼が壊れてしまう、など、個人的な感情を含めた、様々な気持ちが、まるで傷口から血があふれ出るように湧き出てくる。
そして、こういうときは良い仕事なんてできるわけがなく、大いにして空回りし、良くない結果が待っていることを過去の経験から知っていた。その場の勢いっていうのは、良い状況のときは乗っかった方が良い場合も多いが、こういうネガティブな感情のときにはやめておいたほうが良い。
(よし、今日は帰らせてもらおう)
おれは打合せ室を出て、麻生さんに一言、帰宅することを伝えるとそのまま会社を後にした。帰宅中の鞄がいつもより重い。
肌を突き刺す強烈な日差しが降り注ぐ無機質なオフィス街を歩くと、ある人はハンカチで汗を拭い、またある人は、日傘を差しながら手に持った扇子で部分冷却を試みている。
(そうだな、気分転換に海でも見にいこうか)
おれはふと思い立ったかのように海に向かうことに決めた。大きな理由があるわけではないが、なんとなく海に行きたかったのだ。駅に向かいながら、様々な想いを頭に巡らし、振り払いながらも、猫がたくさんいる海の見える島を思い描き、そこに向かう。
駅のホームに向かう階段を下りながら、昔実家で買っていた猫である“テン”のことを思い出す。
(テン、かわいかったよな)
ふと、ホームの狭い部分を歩きながらそんな思いがおれの頭をよぎると、おれの意識は突如遠のき、そして運悪く通過した電車へと体ごと吸い込まれていったのであった。
久しぶりに書き始めてます。
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