第二幕:上司と部下の話
――少女の話は尽きることなく、延々と続いた。時折り席を立ち、唇と喉を紅茶で潤すとき以外、彼女……シロは絶えず喋っていた。こちらから返答ができないのだから、それなりの大声で独り言を言い続けているのと大差ないはずなのだが、それでもシロは楽しそうにしている。いつまでも話題が尽きないのは、話し相手がいない時間が長かったからなのかもしれない。彼女の話は、(おそらくこの部屋のどこかにあるのだろう)大好きな物語についての話題がほとんどで、嬉しそうに話す姿から物語に対する愛着が伝わってくる。
シロが四つ目の物語についての感想を語り終え、意気揚々と五つ目の物語の解説に取り掛かろうとしたとき、室内にノックの音が響いた。溜め息と共に羽ペンを置いたシロは、不満げに正面の扉を睨んでいる。
「……どうぞ。開いてるよ」
不機嫌さを隠そうともせず、やや低い声で扉の向こうに告げる。失礼します、という女性の声が響いて、重そうな扉がギィと音を立てて開いた。
「お話し中のところ、申し訳ございません。書類をお持ちしました」
「そうだろうとは思ってたけど、その『書類』って言葉は今は聞きたくなかったよ。もっと洒落た言い回しはないかな」
「言い回しを変えたところで、書類は書類です。それとも『お仕事』と言った方が良かったですか?」
心の底から嫌だ、という気持ちがたっぷり込められたシロの抗議に対して、入室してきた女性は無表情のまま首を振る。
女性の見た目は十代後半で、シロより頭ふたつほど背が高い。首の後ろでひとつに束ねられた長い髪、身に着けたベストとロングスカート、そして意思の強そうな瞳。それら全ての色が黒いため、全身真っ白なシロと比べると『真っ黒』と言っていい容姿をしている。ただ、シャツや手袋は白、ネクタイは青なので、本当に全身真っ黒というわけではない。
「あーあ。さっきまでいい気分で仕事をしてたのに、キミのせいで台無しだ。相変わらずクロはタイミングが悪いね」
「恐れ入ります」
「いや、褒めてないんだけど」
そうですか、と涼しい顔で歩みを進める女性は、見た目通り『クロ』という名前らしい。彼女は手にした書類の束を置くことで、書斎机の上の『紙の塔』をさらに高くした。仇敵でも見るかのような険しい顔のシロを一瞥して、クロはこちらに視線を移す。
「……この光が例の?」
「うん。私の呼びかけに応じて来てくれたのさ。おかげで仕事が捗ってるよ」
やや機嫌を直した様子のシロが、得意げにサインを終えた書類を差し出す。それらをパラパラと捲ったクロは、なるほどと呟いて頷いた。
「捗っているのは本当のようですね。普段よりも厚みがあります」
「だろう? その気になれば私だって、それくらいは――」
「とはいえ、先ほどお持ちした分には劣りますが」
「…………」
渋い顔で閉口するシロ。彼女は話すことに夢中になると、身振り手振りを交えたがる癖がある。つまり、話が盛り上がれば盛り上がるほど、仕事をする手――サインを書く手は止まることになる。サインに集中すれば今以上に仕事は捗るだろう。しかし、先ほど生き生きと語っていた様子から、シロにとって黙って仕事を処理し続けることが如何に苦痛であるかは容易に想像できる。
固まる館長を放置して、クロはソファの手前にあるテーブルの上を確認しているようだ。
「ポットのお茶はだいぶ冷めていますので、新しいものをご用意します。……結構な数を召し上がったようですし、お茶請けの追加は必要ありませんね」
「いやいや、美味しい紅茶には美味しいお茶請けが欠かせ――」
「必要ありませんね?」
「……はい」
語気を強めて繰り返すクロ。それに圧されて従うシロ。二人のやりとりを見ていると、上司と部下というより、気ままな主人とそれを諌める従者といった方がしっくりくる。
よろしい、と小さく頷いて、クロは再び視線をこちらに向けた。
「不要かもしれませんが、自己紹介をしておきましょう。私はクロと申します。そちらのシロの同僚です。お見知りおきを」
優雅に一礼するクロには、まさに従者という言葉が似合う。それより、気になるのは同僚という言葉だ。その言い様がシロも気になったようで、口を挟んできた。
「なあ、クロ。私は館長なんだから、キミは私の部下ってことになる。それで同僚を自称するのはどうなのさ?」
「何もおかしなことは言っていないでしょう。貴女は『自称』館長で、私が勝手に貴女の『世話役』をしている。それだけのことです」
自称と世話役の部分を強調してクロが言うと、シロはまたもや不満そうに口を尖らせる。
「確かに嘘は言ってないけど、それじゃあ無用な混乱を招くだけだ。せめて彼がいるときくらい、私のことをちゃんと館長扱いしてほしいな」
「男性なのですか? 見た目では分かりづらいですが」
「いや、女性かもしれないけど……って、話を逸らさないでよ!」
ますます不満そうなシロのことなど気にもかけていない様子で、クロは平然と解説を始めた。
「シロが館長を名乗っているのは便宜上のもので、本当の意味での『長』ではないのです。この場所には現在、シロと私の他にもう一人の従業員……というか、『住人』がいますが、別段上下の関係はありません。対等な立場です」
この場所、というのは、この図書館のことだろう。シロから聞いた話では、この世界には図書館が存在するだけで、その外には何もないという。クロの言うことが本当ならば、この世界の住人はたった三人。自分を数に入れても、四人しか存在していないことになる。
こちらが思考を巡らせている間に、依然として不服そうなシロが異議を唱えている。
「この場所を用意したのは私なんだから、館長を名乗るのは当然じゃないか」
「ええ、ですから名乗ることは構いませんよ。ただ、私たちは貴女に従うと言った覚えはないと申し上げているのです」
「それはそうなんだけど……納得いかないなあ。もうちょっと敬ってほしいだけなんだよ、私は」
いつまでも不平不満を述べているシロに痺れを切らしたのか、クロの両目がスッと細くなった。
「……なるほど、敬ってほしいと。では、今まで私が処理していた書類の半分を請け負って頂きましょうか。それならば敬意を表するに値します」
「え? は、半分?」
「そうです。参考までに、私の仕事量は貴女の四倍ほどあります。貴女の方が仕事をしているならば、私としても尊敬せざるを得ませんので」
「ちょーっと待って!! その計算だと私の仕事が今の三倍になるんだけど!?」
「まあ、そういうことですね。そうまでして尊敬を集めたいのでしたら、致し方ありません。仕事が好きな私としては苦渋の決断ですが――」
「ごめん! ごめんってば! お願いだから仕事増やすのはやめてー!! 本を読む暇がなくなっちゃう!」
涙目のシロを見て、冗談ですよ、と苦笑するクロ。ホッと胸を撫でおろした様子で、シロは羽ペンを手に取った。紙の塔との戦いに取り掛かるのかと思いきや、書斎机の引き出しから別の書類らしき紙切れを取り出す。
「私の仕事を三倍に増やされる前に、もっと盤石な経営体制を整えなきゃダメだね。安心して居眠りもできないや」
「居眠りする余裕があるのですね。では、新しい紅茶と一緒に新しい書類もお持ちしましょうか?」
「ただの例え話だって!」
楽しそうに口角を上げるクロとは対照的に、シロの表情は引きつっている。どうも、シロには『いじられキャラ』としての素質があるようだ。つい先ほどまで余裕たっぷりだった彼女が焦る様は、見ていて少し面白い。
「では、お嬢様。ご注文は紅茶と追加のお仕事ということで、お間違いありませんね」
「あのね、クロ……ホントに紅茶だけでいいから。間違っても書類は持ってこないでよ!?」
承知いたしました、と恭しく礼をするクロは楽しそうに笑っている。部屋に入ってからしばらくは表情が乏しかったが、シロをいじっている間は笑顔が絶えないし、悪い人ではなさそうだ。……いや、シロから見れば悪人なのかもしれないが。
クロが部屋から去り、シロは紙の塔との戦いを再開するらしい。今しがた書き上げた書類を一読して、溜め息をひとつ零した。
「……とりあえず、必要な書類の用意はできた。クロが紅茶を持ってきてくれたら、新しい従業員を雇いにいくとしようか。……『追加のお仕事』が来るかもしれないし、その前に気分転換をしておかないとだ」
乾いた笑いをもらすシロ。その笑顔は疲労感に満ちていた。