第一幕:少女の話
「――やあ、よく来てくれたね。待っていた、と言うほど時間は経っていないけど、キミの来訪を待ち侘びていたのは事実だ。歓迎するよ」
ふと視界が開けると、朗々とした声が響く。目の前には少女の姿。人懐っこい笑みを浮かべながら、ひらひらと片手を振っている。
少女は重厚感漂う書斎机の前に座っていた。机には黒いインクの入った瓶が三つと、高級感のある羽ペンが置かれているが、それ以上に目を引くのは山積みの紙切れだ。何やら細かい文字が書かれた紙切れたちは、各々バランスを保ちながら六つの塔を形成し、広い机の半分以上を占領している。机の端からは木製と思しき腕が伸びていて、その腕の先に淡いオレンジの明かりが灯っていた。光そのものがランプに入れてあるようで、炎のように実体はないが、電灯よりも揺らめいている。
よく見ると、彼女が腰かける椅子も年季の入った品らしい。古くなって質が落ちたというわけではなく、時を重ねたことによって深い趣きを得ていた。その背後には本棚がある。隣にも本棚。そのさらに上にも本棚があって――簡単に言うと『壁一面が本棚になっていた』。隙間なく並べられた本は、厚みも背丈も様々だが、どの背表紙にも見たことのない言語が綴られている。それらが一様に暗い色合いなのは、彼らが本棚に並べられてから長い時間が経過していることの証かもしれない。
さて、と前置きして、少女が語り始めた。
「まずは自己紹介から始めよう。私は『シロ』。シンプルでいい名前だろう? 割と気に入っていてね。キミも気軽に呼んでくれたまえ」
シロの容姿は、まさしくその名の通りだった。白い肌は作り物のように透き通っていて、彼女が指先で弄んでいる長い髪も真っ白。着ている服はヒラヒラの装飾がたくさんついた、これまた真っ白なワンピース。黒いインクが跳ねたら、そのシミを落とすのに大層苦労することだろう。ただ、興味深そうにこちらを見つめてくる瞳だけは、澄んだ空のような綺麗な青色をしていた。
少女――シロが椅子から立ち上がり、数歩こちらへ歩みを進める。見た目の年齢は十代前半といったところで、机や椅子は彼女のものというより、祖父のものだと言われた方が納得できる。しかし不思議なことに、アンティークな調度品の中に在る彼女には、欠片も違和感を覚えない。
「――キミは今、どういう状態なのか? 私の正体は何者で、ここは一体どこなのか? きっとキミは疑問だらけだろうから、その質問にひとつずつ答えるとしよう」
ぴっ、と少女が人差し指をあげる。
「ひとつめ、キミの状態。キミには今、体がない。例えるなら、これが一番近い見た目だ」
そう言って、シロは机を照らす光を示した。ランプの中に閉じ込められた、炎でも電灯でもない、明かりの塊。
「この場所に存在するには、キミの肉体は邪魔になる。……いや、邪魔になるというのは違うな。肉体以外の部分、いわゆる精神とか魂、意識ってヤツだね。それだけでこっちに来てもらう方が、私側の都合がいい。わざわざ『入れ物』を用意する手間も省ける」
話しながらシロは歩みを進める。机から離れるローファーのような靴からは、ほとんど足音がしない。床に敷いてある絨毯のおかげだろう。ティーセットが置かれたテーブルの前、書斎机に負けない風格の大きなソファに座って、彼女はカップを手に持った。紅茶の香りがあたりに漂う。
「入れ物はないが、きちんと五感は働くように気を回してあるから安心してほしい。視覚とか聴覚、嗅覚だって問題ないだろう? ただ、体がないから触覚は無いし、モノを食べる必要がないから味覚も無い。……そうなると五感というか『三感』だけど、言い慣れてないから今後も五感って言葉を使わせてもらうよ」
キミと紅茶の味の話で盛り上がれないのは残念だけど、こればかりは仕方がない。そう言うと、肩を竦めて紅茶を口に運ぶ。お茶請けのクッキーをひとつ口に放り込んでから、シロはソファから立ち上がった。
「では次、ふたつめ。ここがどこなのか。まあ、一周ぐるっと見渡してもらえば大体予想できるかな」
言われたとおりに周囲を見る。書斎机の向かいに分厚そうな扉があって、やや高めの天井から卓上のモノと同じような照明が、いくつか吊り下げられていた。それ以外の壁や床は、本に埋め尽くされている。床の上には、机の上の塔から飛び出したらしい紙切れも数枚あるようだが、ほとんどは本棚に入りきらなかったのだろう本たちが雑多に積まれている。ああそうだ、という声で、シロの方へと視線を戻した。
「ごめんごめん、大事なことを言い忘れてた。キミには体がないから、当然言葉を発することができない。言うまでもなく文字だって書けないから、本当に『見聞きすることしかできない』と思ってくれて間違いない。私としたことが、ついキミからの返答を待ってしまったよ。キミがそういう状態だって、すっかり忘れちゃってたな」
いや、ごめんごめん。少女は照れくさそうに笑いながら、もう一度謝った。そしてコホンと咳払いをすると、大げさに両手を広げて誇らしげに語り出す。
「ここは『私の図書館』だ。私が触れてきた物語を本というカタチにして、それらを整理整頓しておくために用意した場所だよ。本当なら建物の外に、空とか街とか作りたかったんだけど……先立つモノが足りなくなってね」
――だから、この世界にはこの図書館しかない。ここが世界のすべて、というわけさ。
そして最後にみっつめ、と前置きして、シロは得意げに笑う。
「何を隠そう、この私こそが館長なのだよ。まあ『私の図書館』って言い方をした時点で分かったとは思うけどね。この部屋は私の自室、いわば館長室ってところかな。思い入れの深いモノだけを厳選して、いつでも読めるように整理してある」
……整理してある、と言う割には散らかっているように見える。先ほどは気付かなかったが、丸めた紙くずがあちこちに落ちているし。本棚の中はさておき、床の上の本はどう見ても整理されているとは言えないだろう。
そんなこちらの心情を察したのか、館長を名乗った少女は再び咳払いをする。
「まあ、なんだ。ちょっと手が回っていないというか、部屋の中に持ち込んだ物語の数が多すぎて、ほんのわずかに整理が追い付いていないところもあるけど。それは些細な問題だ。そんなことより、重大かつ重要な問題がここにある」
深刻な顔で書斎机に近づいていくと、シロは塔と化している紙切れの山をドンと叩いた。
「これだ。この書類の処理は私の仕事なんだが、どういうわけか幾らやっても減る気配がない! 判子があれば仕事が捗るだろうけど、それは前に提案したら却下された。まったく、毎回サインを書くのだって楽じゃないというのにね。キミに体があったら、まずは私のサインを真似るところから始めてほしいくらいさ」
ぶつくさと文句を言いながら、やや疲れた様子で少女は最初の位置へ――つまり、書斎机と対になった椅子へと腰かけた。はあ、と溜め息をひとつ零し、苦笑しながらこちらを見やる。
「ま、そういうわけでだ。キミを呼んだのは、もちろん以前語った大仰な理由もあるんだけど……より切実なのは、延々とサインを書くのに飽きた私の助けになってほしい、というところさ。話し相手は物理的に無理だが、私の話を聞いていてくれればそれでいい。前にも言った通り、私は喋るからね。うん、かなり喋る」
……そんな状態でサインをしたところで、書類の内容が頭に入るとも思えないが。いずれにせよ、こちらの抗議の声は彼女には届かないし、否定も肯定も難しいので、ひとまず彼女を眺めておくことにする。
羽ペンを手に取って、少女は人懐っこい笑みを浮かべた。
「――じゃ、これからよろしく頼むよ。今後、キミは私の秘書代わりってことで」