異形種々雑話4「鬼、狐につままれる 」
赤い髪の鬼は、どうやら男前らしい。
狐達が行き交う町の噂話に文字通り聞き耳を立てたのは、狐の里の娘だ。
鬼やら河童やら狸やら、山に居着く異形のものは、はっきり言って見た目が好みじゃない。
下手をすればこちらが喰われちゃうくらい、情緒もなにもあったもんじゃない。
それに比べたら人間の方が、男前を探しやすい。
化け狐が変化するのは、大抵は人間の姿だ。
人間に混ざりその世の中をすり抜け生き残っていく。
しかし、争いも少なく平和な世の中では、変化の意味がやや変わる。
特に、若い女体に化ける者にとっては。
「この間の若い侍は、もうちょっとだったのに」
茶屋で向かい合わせに座る友人に向かって、娘は悔しそうに言う。
少し遠かったが、城下町に行った時は町娘に化けた。
ちょっと細工をして大店に入りこみ、出入りの侍で良いのがいたら取り入ってそのまま奥方に…との算段だった。
「許嫁とやらが来て、あんた化かされてるのよ!って騒ぎだしたんだよね」
友人がお茶を飲みながら、からかうように笑う。うるさいわね、と言い返したが、確かにあれは笑うしかない。
人間の町に紛れるため、獣の耳も尻尾も上手に隠して見た目には全く化け狐とわからないくらい、変化を磨いてきた。
だから、嫉妬で取り乱した許嫁が、町娘にまじないの何やらわからない粉をかける…というのも、端から見たら人情本の一場面で済むはずだったのに、町娘が狐になったことで滑稽本のおちに変わってしまった。
せめて、と戯作のように化け狐の姿でひとあわ、と思ったが、まじないが案外効くもので、七転八倒の末、這う這うの体で逃げてきたのである。
「それより、あっちの山の鬼が男前って、本当?」
山を行き来している時に、鬼と呼ばれる者たちを見かけたことはある。が、やたらに骨ばっていたり、変な肌の色だったり、角が不恰好だったり、とにかくそそられないのだ。
「私は見てないけど、さくらちゃんがこの前まで通ってたよ」
さくらちゃんとは、桜の木の精である。こちらも美女の姿を形作っては山のあちこちに出没するのを日常の楽しみにしている。
「通ってたって、今は別れたの?」
身を乗り出して聞く。
「今はね。でもさくらちゃんは別れたとき、ちくしょう、とか、あいつら、とか珍しく本性出して叫んでたんだよね。興奮して枝振りが悪くなっちゃってさあ…」
痴話喧嘩で別れたにしては、穏やかではない話だ。
友人は、さくらに聞いた内容を思い出している様子だが、こちらもいまいち原因はわからないようだ。
「その赤鬼、いくつくらい?」
さくらは200歳くらいのはずだ。
「20になるかならないかかな…。見た目は天狗の息子と同じくらいって聞いたから」
よし。それなら許容範囲だ。山に住むやつは100歳200歳もざらなので実年齢はあてにならないが、ともかく見た目が若いにこしたことはない。
娘は、すくっと立ち上がった。
「しばらく里には戻らないわ」
そういって颯爽と茶屋を出ていく。決まった、と悦に入った娘の背中を見送りながら、友人がぼそっと呟いた。
「…お勘定…」
山には、様々な生き物がいる。
狐の娘は、人が住む町や村にはたまに行くが、他の山にはあまりいかない。
「だってさー、化け物に会ったら嫌じゃない」
友人も言っていた。妖怪や精霊の類いは、沢山いすぎてよくわからない。
しかし、今日は意を決して赤鬼の住む山に来た。
ほとんど人の形をしている噂の鬼は、頂上に向かう途中の山小屋のようなところに住んでいるらしい。娘はとりあえず山道を登る。
「…きつい」
ばてた。
日頃出掛けるのは町ばかり。言い寄る男はみんな籠を頼んでくれる。なので、四つ足の化身とは思えない程、娘は体力が無い。
なんでこんなに道が険しいのか。どうして他の獣がいないのか。
鬼がいるからだ。人も獣も寄り付かないのだ。
「…帰ろうかしら」
あっさりしている。元より切り替えは早いのだ。だから次から次へと違う男に乗り換えられるのだが。
「そうよね。平地にも男前は沢山いるわけだし」
下山しようと、少しでもましな道を探して方向を変え、足早に山道を歩く。帰り道は不思議と足が軽いのよね~と半ば駆け足になったところで、人影に気づいた。
仁王立ちで腕を胸の前で組み、遠くを眺めている人影は、赤い髪をしていた。
噂の、鬼だ。
背は6尺あまり。思っていたより、細身だ。締まっているというべきか。
年は20程と聞いたが、精悍な顔つきはもう少し上にも見える。
見とれていると、視線に気づいてこちらを見た。
目が合い、笑顔を向けられる。どぎまぎした。
「道に迷ったのか?」
優しい語り口だ。思わず頷くと、そうか、と彼は言いながら娘に歩み寄る。
「うちに来るか?」
断る理由はなかった。しかし願ったりな誘いに飛び付くのもなけなしの矜持が許さないので、ちょっと躊躇うふりをしてみる。
「ああ、嫌なら別に。この先を曲がればちょっとはましな道に出るから、そこを辿ればふもとまで行ける。じゃあな、もう迷うなよ」
にこにこと言いながら道があるという方を指差しながら一気に言い、そのまま彼は大股でずんずんと斜面を登っていく。
あれ、なにか違う、と思ったときには、彼の背中はすでに遠ざかっていた。
待って!!
叫びたかったが、先ほどまで息切れしていたせいで咄嗟に大声が出ない。
加えて、もう足腰も限界だ。
私…何しに来たんだろ。切なくなり自然に涙が流れた頬に、優しく触れるものがあった。
「大丈夫か?」
戻ってきてくれたらしい。
彼がその骨ばった指で、涙をぬぐってくれている。
覗きこむ瞳は、鬼という呼び名に似つかわしくないほど、優しい。
これは、惚れるわ。
さくらちゃんも惚れるはずだわ。
彼はそのまま軽々と娘を抱き上げ、斜面をものともせず上っていく。
あ、これが噂のお姫様抱っこ…!
そうか。町の男は非力だから籠をすぐ呼ぶのか…
なんか腑に落ちたような気がした。
ともかく狐の娘は、このときすでに鬼に骨抜きにされていたのである。
「怪我は、ないか?」
粗末な小屋の中、鬼は娘を筵に座らせた。
いちいち丁寧で優しい。
「元気になるまでいていいからな。食べ物は…川にでも行ってくるか」
よし、じゃあゆっくりしてろよ、と言い残して彼はすぐに出ていってしまった。
日はすでに落ちかけている。昼前に自らの住みかを出て、意気込んでこの山に来たのに、なにかやかにやと夕方になってしまったらしい。
しかし。
「かっこいい…」
一人で溜め息をつく。聞いていた通り、いや聞いた以上、そして思った以上に男前で娘の好みに合致する。
たまたま出会えたのも何かの縁かもしれない。
いや、きっと神様が引き合わせてくれたのだ、と妄想を膨らませて室内を見回すと、長い棒のようなものが目に入った。
金棒だ。鬼に金棒、のあれである。
そういえば、小さい頃。まだ上手く化けられない子狐時代に、親から沢山聞かされた昔話。あの中のひとつを思い出した。
「山奥に住む鬼は、迷いこんだ旅人を人の姿で誘い込み、太らせた挙げ句に喰らうてしまうんじゃ…」
うん、こんな言い方じゃなかったかもしれないが、とにかく「山に人食い鬼がいる」話は、子供を迂闊に見知らぬ山に行かせないための、啓蒙に見せかけた刷り込みである。
お母さん探しに行きたくないから宜しく、みたいな。
ともかく、金棒とはいかにもな装備であるが、この鬼も、ひょっとしたら人食い鬼なのだろうか。
慣れない山道で疲弊した体と頭で懸命に考えていると、鬼が戻ってきた。
手には、川魚が数匹と山菜少々。
「足りるかな?あと、飲めるようなら酒は沢山あるから」
太らせるには少ない食料だが、酔わせて喰うのがこの鬼の常套手段なのかもしれない。
ああ、もらった粟があった、と言いながら鬼は手際よく火をおこしはじめた。
すぐに囲炉裏に赤い火が灯り、しばしののち、真上に吊るされた鍋からは温かな湯気と粥の匂いがし、串に刺された魚は香ばしく焼き色がついてきた。
町に出ることが多くなった娘にとって、このような食事は久しぶりだ。
囲炉裏を囲んで座る。
手渡された椀から一口すすると、温かいものが胃に落ちていった。
「美味いか?」
こくり、と頷くと、そうかーと満面の笑みで返された。
すすめられるまま酒を飲み、魚を食べ、腹も満たされ酔いも回ってきた。
疲れもあり、ふらりと傾いた体を力強い手で支えられる。
大丈夫か?こんなとこでごめんな、と鬼に手を添えられ、娘は筵の上に寝かせられた。
手を離し、また囲炉裏端に座って酒を飲もうとした鬼の腕を、娘は掴んだ。
「だめかも…」
もう食われてもいい。うん、違う意味で。
そう思いながら鬼の腕を、体を引き寄せると、彼は黙って娘に覆い被さってきた。
翌日は鳥の声で目が覚めた。
夜の間ずっと隣に感じていた温もりは、無い。
夢、ではないと小屋の中を見回すが、昨日一夜を共にした彼の姿は見当たらなかった。
ふと、はだけたままの着物の前を寄せ合わせる。
「また、川にでも行ったのかな…」
まさかこのまま放置ということは無いだろうが、誘ったのは自分だ。
「でも、誘いに乗っておいて放っておくのは、違う話よね」
そう言いながら、外に出てみる。
小屋の周りだけ最低限の木が切られ、あとは花も雑草も伸び放題だ。ところどころ踏まれたあとがある。
道を作るまでもないのだろう。
住まいには無頓着そうだが、料理は手慣れているようで、ご飯は美味しかった。
ずっと一人でいるんだろうか。
「あ、さくらちゃん…」
そうだ。桜の精が通って来ていた、と。そして別れたと。何故だろう。
彼は、あの風貌で優しい。そして。
「上手だし…」
ゆうべのことを思い出して、溜め息を吐く。
町で、女たらしと噂の若旦那を引っ掛けたことがあるが、鬼の方が格段に上手い。
人間より体力もあるし、20歳にしては慣れすぎている。
狐の間でも噂になるくらいだから、さくらちゃん以外でも精霊や妖怪が通ってきていたことはあるのかもしれない。
…一体どのくらい?
ふと巷でよく聞く女体の精霊の数を指折り想像してみたところで、小屋の主が帰ってきた。
「起きてたのか。よく眠れたか?」
笑顔は20歳より幼く見えるので、そこは年上からすると母性本能をくすぐられるが、怪我を気遣う様子や食事の手際のよさ、そして夜。
男前の鬼、というただの噂話から、良い意味でとても裏切られた。
「…ずるいわ」
ん?とこちらを見る鬼の表情からは、言葉の裏を読もうなんてひねたものは微塵も感じられない。
「ああ」
言葉の意味をそのまま受け取ったのか、彼は話し出した。
「天狗のところに行ってきたんだ。一人で出かけて、ごめんな。お菓子をもらってきた」
天狗は、村人からは神のように崇められているため、絶えず祠に供え物が届く。天狗側は、恵みの雨を望む人の声には雨を降らせてやる。長い時間、人間と天狗は深入りはしないまでも共存しているのだ。
「天狗と、仲が良いんだってね」
そのいきさつも聞いたような気もしたが、忘れてしまった。鬼が差し出したお菓子の包みを、礼を言いながら受けとる。
「そうなんだよ。あいつら良い奴でさ。今度一緒に行くか?」
屈託がない。
いちいちこちらの心を鷲掴みにするこの異形のものは、今は自分の手の届くところにいる。
いや、彼の隣にいるのは、今は自分だけなのだ。
山奥で人目がないのをいいことに、少し背伸びをして鬼に口づけた。
それをすんなり受け入れ、返してくる。
この女慣れ具合はどうなのよ、と思ったが、鬼が娘の着物の襟元から手を入れると、娘の口からも息が漏れた。
気持ちいいなー、と言う口調はまるで15、6の悪がきのようだが、慣れた手つきには抗えない。まだ明るいけど、と思ったとき、頭上で鳥の大群が激しい羽音をたてて旋回した。
「あれ?何かあったか?」
鬼は着物から手を抜いて、頭上を見上げる。
鳥たちは山の上空いっぱいに広がったあと、そのまま隊列を作り旋回している。
「たまに騒ぐんだよな…でさ、迷いこんだ村人が被害に遭っちまったり…」
鬼は眉間に皺を寄せた。村人と交流はないはずだが、少なくとも人間に危害を加えることはないことは、自分に接する態度でもわかる。
とにかく、思わぬ邪魔が入ってしまった。
「ちっ」
思わず舌打ちをする。
すると、足元に何かが触れた。蛇だ。
狐からするとむやみに驚くような相手ではないが、明らかな敵対心を感じて思わず力一杯踏みつける。避け損ね、蛇がもんどりうった。
「お、おい!何するんだよ!」
鬼は慌てて蛇を拾いあげると、ごめんな、と言って藪に離してやった。
「…噛まれると思って」
我ながら、もっともらしい返答だ。
「この辺りはあまり獣は来ないけどさ、蛇や鷹は昔からいるんだ。変なことはしないから」
すると、山の反対側から、木々がざわめく音が聞こえた。
雲行きも怪しい。鳥も変わらず飛び続けており、不穏な雰囲気だ。何かの予兆だろうか。
ひとまず小屋に入った。
室内は静かだ。
料理は不得手だが、それでも食事の支度でもしようと囲炉裏脇に進むと、それよりさ、と、鬼が背後から娘の耳元に口を寄せた。
「続きは?」
すでに、鬼の手は娘の体を這っている。どうやらこちらの食事のほうが先らしい。
娘は彼に身を任せながら、鳥たちの喧騒を聞いていた。時折ざざっ、と葉が擦れあう音がする。
そうだ、さくらちゃんが出ていった理由を考えていたんだっけ。
昨日今日とここで過ごしてみて、彼に問題があったとは思えない。いずれ自分もここを離れるとしたら、一体何が原因となるのか。
「できたら、ずっとここにいたいな…」
彼はやや乱れた呼吸を正し、いていいよ、と言った。
それからしばらく、狐の娘は山で過ごしている。
本性は狐とはいえ、完璧に人間に化けて町で過ごすことのほうが多かったため、山の暮らしには戸惑うことも多いが、とにかく鬼は優しい。
狐一族と天狗一族の関係を考慮し、鬼と一緒に天狗のところへ行くのは遠慮しているが、鬼は土産を持ってきてくれたり、それほど長居せずに戻ってきてくれる。
しかし、一人でいると、不思議なできごとに度々遭遇する。
風が吹き荒れたり、突然山道が消えたりする。まぼろしなのか、何かの力でねじまげられるのか、とにかく穏やかではない。
とはいえ娘も化け狐なので、それなりにやり過ごしているが、鬼のあずかり知らぬところで、山は不穏な空気に包まれていたのだ。
「山の神のお怒りとか…なにか起こる前触れなのかしら」
不思議に思うが、娘は山を下りようとはしない。
「だってねえ…離れようとは思えないじゃない?」
夜、隣で眠る鬼の寝顔を見て、娘は思う。天真爛漫で裏表がない。優しく、強い。
鬼が寝返りを打った。裸の胸が、呼吸のたびに健康的に上下する。
手が、娘の胸元に伸びてきた。まさぐってきたと思ったら、そのまま抱き寄せられた。
「起きてたの?」
「いま起きた」
半分寝ぼけたような声のまま、重なってきた。
最初は、自分の山や人間の町と違って、山の暮らしは退屈するかと懸念したが、今はまだ、帰りたいとは思わなかった。
しかし、やはりたまには故郷の様子を知りたいとは思うもの。
娘は、久しぶりに狐の里に寄ってみた。
鬼は天狗の山に遊びに行っている。夕方まで戻らないだろう。
「あれー!久しぶり!」
友人がいるであろう茶屋に行くと、やっぱりいた。
「どうしたの?最近見なかったよ。また町に行ってた?」
矢継ぎ早な質問は、お決まりの挨拶である。しょっちゅう町に出向いてお相手を探している娘のことは、友人も特に心配していない。
うん、町。と、適当に濁す。なんとなく、鬼と過ごしていることを話す気にはなれなかった。鬼自身のことを詳しく教えなければならないからだ。
「そういえば、例の鬼がいる山でさ、村人の遭難が相次いでるんだって」
娘は、茶を飲む手を止めた。ここにも噂が届いてるのか。
「毎回違う場所で起こってるらしいけど、まさか鬼の仕業じゃあないよねー」
はた、と思う。娘も何度か不穏な出来事に遭遇しているが、決まって鬼が不在のときだ。もしや彼が村人を手にかけているの?そんな人じゃないはず。いや、人じゃないけど。
考えていても仕方ない。
いてもたってもいられず、まだ茶をすする友人に別れを告げて山へ戻った。
「…やっぱり、きつい」
全力で山を登るのは諦め、途中で休んだ。
見渡す限りでは、今日の山は平穏に見える。
しかし、娘が近くの切り株に腰を下ろした途端、足元から何かが生えてきた。
蔓だ。娘の足にまとわりつこうとうねっている。
咄嗟に娘は本性を現した。妖艶な、狐の姿に。
「やはり」
女の声がした。
「狐か。人ではないと思っていた」
違う声だ。こちらも女性のようだ。
狐は、蔓をかわして娘の姿に戻ると、辺りを見回す。
木々の間から、どこからともなく複数の声が聞こえる。それらはすべて、娘への敵対心をむき出しにしていた。
「だめよう…私も諦めたのに…」
泣きそうな声には、聞き覚えがあった。
「…さくらちゃん??!」
娘の声に反応するように、近くの桜の木が枝を自らねじまげた。ゆら、と空気が揺れて、どこからともなく可憐な女性が姿を現した。
桜色の着物の女性は、袖を目元に当ててさめざめと泣いている。
「彼のことを一番好きなのは、私なのに…」
その語尾をかきけすように、周囲から声がいくつも上がった。
「何を言ってるの?私だから」
「いいや、私!」
喧喧囂囂。
とにかく娘のことも置き去りで騒ぎ始めたが、どうやら話の中心は、ここに今いない鬼のことであった。
すでに山全体もざわついている。成る程、村人たちはこれにとばっちりを受けているわけか。
そこに、以前に感じた気配がある、振り向くと蛇がいた。目があうと、これまた妖艶な女性に姿を変える。
「あの時、おとなしく噛まれて里に帰れば良かったのに」
睨み付けられたが、こちとら引けない。
狐の娘は周囲を見回したあと、呼吸を整えて気合いを入れた。
その日、鬼が小屋に戻ると娘はいなかった。
出かけたか、とその晩は気には留めなかったが、次の日、また次の日と、数日経っても娘は戻らなかった。
「あーあ…」
鬼は、小屋の前に立ち溜め息をつく。
「またどこかに帰っていったか…」
寂しいのかそうでもないのか、ただ事実だけを受け止めたのか。
しばし空を見上げたあと、彼は自分だけが住む小屋に入り、寝転ぶ。
今日は、鳥や木々の喧騒もない。
穏やかな山の空気を感じながら、鬼は一人まどろんだ。
了