ハユキ
惟楽の者。
その者達は神に愛された者の呼び名で、私たちは彼らを敬わなければならなかった。なぜなら彼らは八百万の神々の声を聞き、時にはご神体の役割を果たすからだ。だから彼らは偉かったし、国の政治にも大いに介入してきた。
信者を導く彼らは国民にとって神そのものであったし、神様をその身に宿した彼らは【奇跡】という人智を超えた業を扱えたのだ。
「ハユ……キ!」
だからといって、時には神でさえ間違いを犯すことを忘れてはいけない。
「いや……」
阿鼻叫喚につつまれていた辺りは、ぱちぱちという火の気のあがる気配と煙ばかりになった。
ほとんどの者が地面に倒れてぴくりとも動かない中、私の友人は一人、私の身を案じてボロボロの体を引きずる。
——来ないで。来ないで!
「ハユキ」
私の名前を呼ぶ友人が、こちら手を伸ばしたとき。
私に触れようとした彼の苦痛に歪む顔が、悲鳴が、頭から離れなかった。
「お前のせい……じゃ…な——」
彼は地面に倒れ込んで、動かなくなった。
声にならない悲鳴が、校庭に響き渡たった。
目を瞑るといつもその記憶に苛まれてしまう。だからあなたはいつでも私に優しかったのだ。
夏がくる前の星空は、本当に星が落ちてくるような雄大さで、私のちっぽけさと虚しさをくっきりと映し出すようだった。
「いつか一緒に行きましょう。あの、日の暮れ泥む町へ」
そんなさみしい私の小さな夜空に、あなたの言葉が弾けた。笑顔で細められたあなたの迷いのない目に、そのいつかを迷わず信じようと思う。
「クライド……」
「なんですか、ハユキ様」
「様なんてつけないで」
いつも曖昧で輪郭のはっきりしない、でも太陽のように眩しすぎない、そんな星の光のようなあなたの本当を、私は知らない。
「わかりました、ハユキ」
誤魔化すのも煙を燻らせるようで上手だから、とても真意など見当もつかない。
けれど、それでいい。
「アンディは、どこにいるのかな」
私はただ、彼を見つけ出せばそれでいいのだ。
ふと見上げたその空には、一段と強い光を放つ欠片が浮かんでいた。
ぽつりとついた小さなシミのようにとても小さいけれど、太陽の光をそのままに輝いているだけだけれど、それもまた綺麗だ。
「きっと必ず、アンディの元へお連れしますよ」
あの煌々と瞬きながら輝く星を見上げてクライドは、私の手をぎゅうと握り締めた。
——あの時あなたは必ずアンディを見つけ出そうと言ってくれたけれど。
様々な旅を通して、人の優しさに触れて、私は違う決心をした。
「日の暮れ泥む町」は、貴族の者か上級の惟楽の者しか立ち入ることのできないこの国の政治の中枢。私はそこには入るためだけの権力を欲した。長い間安泰であったこの神の国は、外国から伝わった様々な宗教に混沌の時代を迎える。
私たちの頂点には八百万の神がおわすものと、もうずっと昔から続いてきた信仰がくつがえされようとしている。
外国から伝わった一人の神を絶対的に信仰する絶対神の登場に、八百万の神を信仰の対象として政治の基盤をつくりあげてきたこの国は音をたてて崩れ始めた。
私には——この国を建て直すだけの権力が必要だ。
”君は神に愛されすぎてしまった”
それを不幸という人もいれば幸福だという人もいる。
けれど、その答えを私は、とうの昔に知っていた。
私の本当の旅は、あの町から始まったのだ。
……日の暮れる町
【リビティ】……
リビティの夜はじっとりと陰鬱な気が蔓延していた。溶けだす負の感情は纏わりつき、体を重くする。
夕げ時、ハユキは欠伸を噛み殺しつつ、せっせと宿の一室を掃除してベッドを整えていた。
「おいお前、ひと部屋掃除すんのにどんだけかかってんだよ」
なれない作業に苦戦していると、背後から声がかかってなんだろうと振り返ってみる。
つり上がった目からどうしてもきつい性格を想像してしまうような男の子がそこに立っていた。
「あの、あなた、誰?」
シーツをばさりとベットにかけてからやっと質問をする。
少しクセのある紺色の柔らかい髪の毛に、きつく吊り上がった黒い瞳の目。ただ身長だけはたいして変わらず、歳が近いことが伺える。
「あれ?あー、言ってなかったっけ。俺はこの宿屋の息子、レオルドっての」
「はあ、レオルドさん、ですか。私はハユキです。今日はこちらの宿に安く泊めていただくかわり、お手伝いを……」
「知ってるよ」
レオルドはハユキの言葉を最後まで聞かず、強い口調で話を遮る。せっかちな男の子だと思ったが、夜は本当に辛いから口数も減る。
「父さんから聞いた。俺のことはレオって呼べよ。あんた、アリバーから来たんだってな。いいなぁ、都会じゃん。てかさ、なにしにこんな田舎に来たんだ?」
レオは息つくことなく勢いよく言いきって、その目を輝かせた。
彼はそう言うが、リビティもそこまで田舎ではないし、ここよりもっと北に行けば閑散とした町もよっぽど多い。
「あ、はい。ちょっと探し物を……」
「探し物?」
「ええ、まあそんなところ」
これ以上何も聞いてくれるな、という意思表示のためハユキは精一杯困った顔を作ってうつむいた。
——ばれるのは得策じゃない。保身のためにも、彼のためにも。
「ふうん。ま、いいや。悪かったよ、よけいなこと聞いて」
思ったよりも明るい声で言われたのが意外で顔を上げると、レオが軽く微笑んでこちらを見ていた。黒だと思っていたけれど、よく見ると蒼の混じった暗碧の瞳が妙に綺麗だと思う。
それに、このレオという男の子は存外察しがよいらしい。
「あんたさ、前の客が神書汚したんだけど、新しいの下から取ってきてくんない
?受付のカウンターに親父がいるから。……ったく、バチ当たりそーで恐ろしいよな、神書汚すなんてよ」
神書とは神話や神道についてまとめられた本であり、どこの家庭にも大抵は置いてあるものなのだが、いま時宿屋に置いてあるのは少し珍しい。一神教の宗教でも似たような書が存在し、それは聖書と呼ばれているらしい。
「わかりました。とりに行ってきますね」
「この部屋は俺が掃除しとくから、よろしくな」
結局レオはハユキの掃除のトロさを見かねて神書をとりに行かせたのだろう。
レオはすぐに掃除に取りかかった。
慣れているだけあって、卒のない動きで仕事をこなしていく。
ハユキも見ている場合ではないと思い、とりあえず神書を取りに階段を下りて、受付をしている店主さんのところへ向かった。
「あの、すみません」
店主さんはカウンターから身を乗り出して身長の小さいハユキを見つけると、少し厳ついご面相には似合わない人懐こい笑顔を見せて話しかけてきた。
「どうしたんだい?何か困ったことでもあったのかい?なんでも聞いてくれていいんだよ、かわいい旅人さん」
その物言いに多少ひっかかりを感じるのは、ハユキが今年で17歳になるなんて思ってもみない口ぶりだからだ。
だが訂正する気も起きず、さっさと用件を伝える。夜が更けるごとにハユキの体は怠さを増していくのだ。
「いえ、あの、掃除を頼まれた部屋の交換する神書をとりに来たのですが……」
「ああ、神書ね。さっき届いたばかりだから、これ、頼むよ」
店主さんがカウンターにしゃがんで取り出した、分厚く真新しい神書。
無地の猩猩緋の布でできた表紙は特徴的で、昔から馴染みのあるものだからか、触れているだけで気分が和らぐようだった。
あっ、と宿主さんの声が上がったので、ハユキは神書から目を離して上を見上げた。
「それ届けたらレオのやつも呼んで下におりてきてくれないか?晩飯にしよう……レオってのは俺の息子なんだが……」
「レオルドさんならさっき会いましたよ。この神書を持ってきてほしいと私に頼んだのもレオルドさんですから。いま、呼んできますね」
「よろしくたのむよ」
「はい」
無理に口元の筋肉をひっぱり上げて笑顔で返事をし、くるりと背を向けてさっき降りてきた階段を上る。
できれば夜は動きたくないが、泊めてもらう代わりにしっかり働かないと、と重たい体を引きずって先ほどの部屋を目指す。
それでも少し息が上がるので少し足を止め、真新しい神書の艶々した縁を優しく指でなぞった。
これはハユキにとって一生涯の関わりを持つものだ。
本の間に指をかけ、たぱたりとそのままページを開いた。
——45ページ目
『惟楽の者』——
かんながらのもの。
——神に見込まれし
惟楽の道を示す者
八百万の神の御心を
汲み、民のために
これを伝えるべし
汝こそご神体
決して軽んじ
軽んざれるべからず——
「ハユキ?」
突然降ってきた声に驚いて神書を勢いよく閉じると、暗碧の瞳がすぐ目の前でハユキを覗き込んでいた。
「あ、レオ……さん」
「さんとかつけんなよな。そんな堅かったらこっちも気ぃ使うじゃん。それよりお前ってほんととろいよな、神書とりにいくだけでこんな時間かかってるし」
「あ、ごめんなさい」
「いいよ、怒ってないって」
言ってにいっと笑うと、口元の両端から覗く先っぽの尖った八重歯が可愛らしかった。
レオは言葉遣いこそぞんざいではあるが、笑顔となるときつい印象が薄らいで、父親似よく似た人懐っこい表情がハユキの警戒心を解かしてくれた。
「あの、宿主さんが神書を置いたらレオ……と一緒に降りてきてご飯にしようって」
ハユキはつられてにこりと笑いながらそう伝えた。
こうやって温かい人たちに接し、口元が綻んでしまってから、ふと思うこともある。
思い出すとそれはすぐに冷えた気体が充満したような不安の闇の底に、ハユキはすとんと落とされる。
——クライドは、どうしているのだろうか。私はひとり、この暖かい宿で、受け入れてくれる暖かい人たちの元で笑っていて、それでいいのだろうか。
「そっか、んじゃ早く神書置いてきてよ。その部屋、すぐ客入るからさ」
「わかりました」
ただ返事をしただけなのだが、途端にレオルドは笑顔を引っ込めて、ずいと顔を近づけてきた。
あまりにも近くに鋭い目が迫ってきたので、思わずハユキは少し身を引く。
「敬語、やめろよ。あんた、しばらくウチに泊まるんだろ?堅いのは止めようぜ」
するとレオはまたにっと大きく笑った。
「返事は?」
「あ、うんっ」
やっぱりいい人だと思って温かくなると同時に、底に沈殿して溜まった闇がかき混ぜられて広がる。
——クライド、またあなたばかりに押し付けてしまった。
足手まといになるのはご免だけど、何もしないでただ人の厚意に甘えるだけの自分が、どうしようもなく情けなかった。
「ハユキ?どうしたよ」
「いや、なんでも。じゃあ、行ってくるね」
ハユキはレオに背を向けると堪らなくなって神書をぎゅっと抱き込んだ。
「クライド……」
小さく溢してしまった名前の主を思いながら本を撫でると、ざらざらとした布の表面が酷く冷たく感じた。
***
「ハユキ様、どこまでもあなたにお供致します」
跪いて頭を深く下げた若い騎士が私の目の前に居た。
誰かが供なうなど、私はそれほどの価値を持たないというのに。
「ハユキ様なら」
騎士の力の籠った強くて揺るぎのない声が私の胸を殴った。
私にとって期待ほどの重荷——いや、そんな甘いものではなく、身動きすら封じ込めてしまうほどの枷はない。
真っ直ぐに突き刺さった騎士の瞳に、私は目を逸らさずにはいられなかった。
「随分と買い被ったのものですね。私は……」
私は何の奇跡も起こすことなど叶わない。生まれつき持ったただ重たいだけの地位に鬱ぎ込んでいる、人一倍脆い人間だというのに。
「わた……し……」
自分を蔑む言葉ばかりが頭の中に溢れんばかりにわきあがってきて、膨らみ始めた自責の念が涙となって頬を伝った。
「くっ……ふぅ……」
急に泣き出した私に騎士は狼狽することなくゆっくりと立ち上がると、私の頭を優しく撫でた。
その時腕に抱えていた新書の手触りが、どうにも心地よく感じたのは気のせいだったのだろうか。
——これは、私の世界が少しずつ回り始めた、優しい記憶。
幼い私が抱え込んだ現実はあまりに重く、悲惨だった。
そんな時、頭をしきりに撫でるごつごつとした手がとても温かかったのを今でも覚えている。
それは変わらず傍にあって私を支えてくれる、大きな手。
そう。私がどんな大罪人であったとしてもその手は変わらずに……。
「そうご自分をお責めにならいでください。あなたのそのようなところに私はついていこうと思ったのです、ハユキ様」
私をいたわるように、大きな手のひらが私の頭を滑り落ちて頬に伝う涙を拭う。
「己の力を過信せず、無力を嘆かれる、あなた様についていこうと」
夜風に揺れる蒼いサリミレの花が月光の元に輝いていた。
小高い丘の、天然のサリミレ畑が見下ろせるその場所には、二人を守るようにして大きな老木が一本、どっしりと佇んでいる。
「あなた様に仕え、どんな旅にもお供致しましょう」
さわさわと風が木の葉を揺らした。
そして幼いながら私はひとつ理解する。
「あなた……は、私の幼さゆえに私を選んだのではないのですか?」
目の前の騎士は私が幼さゆえに教育できるということをわかっていて、仕えると言っているのではないか。
育った環境によって、幼い私の未来が、人間性が決まっていく。教育は、時として洗脳になりかねない。
「私をあなたの思うように教育することも可能です。もしあなたが私の側近となるのならば……」
「なるほど聡明なお方だ。確かにそのような気が一切ないと言えば嘘になりましょう。ですが、あなた様は私などに左右されてはならないのです。ご自身を責められるのは結構ですが、もう少し自分のことも信用なさってください」
厳しい口調でそんなことを言ってくれたのは、あなたが始めてで、その時からあなたはいつでも私の側に居た。
クライド。
***
「最近じゃ仏教徒が増えてるらしくてね、何で神書があるんだって怒られたこともある。なんだかねえ。自分の国の宗教だって言うのに」
夕餉の席で店主さんがパンを頬張りながらそんなことを言った。
「それはおかしいのでは?」
ハユキはおいしそうに湯気の立つトマトのスープを掬い上げたまま手を止めて、その話に抱いた疑問を口にした。
「何がおかひいんだ?」
もふもふと一生懸命パンを咀嚼しながらレオルドが聞く。
「神道と仏教は確かに違うけれど、教えとして反発し合うものでもないの。神道と仏教、どちらも信仰している人はたくさんいるし、僧と惟楽の者も友好的なの。問題は私たちの国教が多神教なのに対して、一神教の教えが広まっていることね」
「へえ、あんた詳しいんだね」
感心して見つめられ、ハユキはごほごほとむせ込んだ。
——ううむ、ちょっと調子に乗って喋りすぎたようだ。年頃の女の子がぺらぺら喋るような内容ではない。
「沢山色々な場所を旅しているから……?」
「いや俺に聞かれても知らねぇよ……」
「まっ、そんな感じ!」
適当すぎる言い訳をごまかそうと急いでスープを口に運ぶと、その美味しさに思わず美味しいと興奮気味な声をあげる。
「ほんとうにおいしい!」
じっくり煮込まれたであろう深いコクと程よい甘さに、さりげなく利かせたスパイスが後を引く。
「あら、ありがとう。なんだか娘ができたみたいで嬉しいわ。ハユキちゃん、ここにいる間は遠慮とかしないでゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます!……ええと、奥様のお名前は?」
奥様と呼ばれることがこそばゆかったのか、奥様だって、と可笑しそうにくすくす笑った。
「ダリアよ」
「ダリアさん、今日から少しの間ですがお世話になります」
「なんなら、ずっといてもいいのよ」
ダリアさんは冗談めいてみせたけれど、なぜかどうしても目だけが真剣に見えた。瞳はレオと同じ暗碧だ。
「それで、ハユキちゃんはどうしてここを旅をしてるの?アリビティなんて何もない町」
「何もないことありませんよ。みんな温かい人たちばかりです」
「それは他所の人が珍しいからよ。なかなか旅人さんなんて来ないから」
「そうなんですか。私は探し物をしてここまで来ましたけれど、ここは落ち着きます。最初はちょっと目つきが悪くてびっくりしましたが……」
「なぜそこで俺を見る?」
「あらやだ、何でもないの。ははは」
という冗談はさておき、本当に今まで色々な場所を旅して、ここが一番落ち着くかもしれない。
ハユキ自身の、生まれ育った故郷よりも、ずっと。
「そう言えばあんた、一人で旅してるわけじゃないんだろ?連れは大丈夫なの?それともボッチ旅?」
「”ぼっち”て言うな。一人旅と言いなさい一人旅と」
さっきのお返しと言わんばかりににやにやするレオルドだが、ハユキは”彼”のことを思い出してしまって手が止まり、スープ用のスプーンが皿の底に触れてかちりと短い音が鳴った。
「連れは……いるけれど……。私は見た目通りとても貧弱でか弱いから、腕のたつ剣士が同行してくれているの」
「か弱い……?」
なぜその言葉に疑問を持つ。レオルドめ。
「そいつ、ここに泊まんないの?」
今度は普通に聞いてきたので、ハユキも怒りを納める。
「うん、彼は用事があるから今は別々に行動しているの」
近頃は何かと物騒な事件が多発しているけれど、クライドもこの町は安全と思ったらしい。
だから今、ハユキの側に彼は居ない。
この旅は本当は、ハユキのためのものだというのに。
「ハユキちゃん、大丈夫?」
声にはっとして無意識にうつむいてしまっていたらしい顔をあげると、ダリアが心配そうにことらを窺っていた。
「はい、なんでもありません。大丈夫です」
そう言ってダリアさんを安心させるようにハユキはパンを一つ千切って口に放り入れてみせた。
「そういえば、この宿には神書が置いてあるんですね、今時珍しく」
ハユキはすぐに話を変えようと、先ほど気になった神書についてを話してみた。
「ああ、それは俺が……」
すると店主さんは熱心に神書を扱っている理由について話し始める。
「俺は、本物の惟楽の方を見たことがあるのさ。なに、修行の旅だって言ってたな。惟楽の方ってのは位のとびきり高い方々だから滅多にお目にかかれるものじゃないが、運よく雨が降ってきたってんで次の町に行く前にこの宿に泊まったってわけよ」
どきり——とした。
惟楽の方、とは、王族や役人とはまた別の権力者であり、二統政治の内のひとつで、神様に仕える立場にある。お酒を飲んだわけでもないのに店主さんの声は徐々に張り上がっていき、気分は高揚しているようだった。
「その時俺は初めて奇跡をこの目で見た。惟楽の方が奇跡を起こせるってのは本当だったんだ。それまではずっと不満で仕方なかったが、だからあの方々は生まれつき高い位いなんだと思ったよ」
それ以来店主さんは神道の上に立ち導く惟楽の者を崇拝するようになったらしい。
「それで、その惟楽の者はどんな奇跡を起こしたのですか?」
何となく話を変えるために聞いてみたことだったが、ハユキは既にその話を夢中になって聞いていた。
もしかしたらと、隅の方に僅かな期待を抱きながら。
「その日は急に凄い雨が降りだしてさ、そこですぐ近くの川で遊んでいた子供が流されそうになってるって知らせを聞いたんで助けに行ったんだ。——それで、そこにあの方も来て、川の水を止めたんだ」
一時、心臓が脈をうつことすら忘れてしまったのかと思うほどの動揺と喚起と焦りを一編に覚えた。いや、もっと色々な感情が混ざり込んでいたかもしれない。
「川の水がまるで生き物のように動いていたが、あれは惟楽の方が操っていたのさ。俺は見た」
—————僕は見たよ。ちゃんとこの目で、君の力を。それを不幸、と言ってはいけないのかもしれないけれど、とにかく君の力は悟られちゃいけない。さもないと————……
旅に出て久々に、あの人の声を思い出した。