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始まり

いくつもの季節が巡り私にとっても何度目かの春がやってきた。

バスの車窓から覗くいつもと変わらない景色も、この地を訪れてやってくる外国からの観光客もごく普通の無機質な光景だ。


今日、私はまだ見ぬ知らない男に隅々までしゃぶり尽くされるのだろう。

車窓から私の顔を撫でる風が生暖かい。

私は大人だ。




初めて彼を見たときからその浮世離れした雰囲気に惹かれていたのかもしれない。しかし当時の私にそんな感情が備わっていたのならば私はもっと違う、いわゆる一般的な生き方をしていたと思う。小さい頃からそうで、何かが欠落していた。それは優しさとか、真面目さとか、狂気さとか、そういうものではない。私の脳の一部が、心が灰死していたのだ。真面目だったのかもしれない。小学校、中学校、高校と成績は悪くなかったし、ボランティアや生徒会に毎日取り組んでいた。友達からも当たり障りなく好かれ世渡り上手が取り柄だった。大学に入った今もそうだ。当たり障りなく友達もできて、卒業後いわゆるハイスペックな会社に入るために勉強している。我ながら仮面を被るのが上手いのだと思う。本当はそんなものどうでもいいのけれど。働きたくないという心の表れはお金を稼ぐ上で顕著に表れていた。掲示板で条件を書き込み、メールを送ってきた男性と出会う。セックスをして、お金をもらう。簡単な話だ。抱かれるのに愛なんてないのは分かっている。見知らぬ男の生ぬるい感触がいとも簡単に私の唇を割って入ってくることも、性欲を全身でぶつけられることも私にとっても何一つ心を動かさないものだった。親には適当に喫茶店でバイトをしていると嘘をつく。体裁を気にする母には母が喜ぶような嘘をついてあげる。私はいつだっていい子だ。


生暖かい風が頬を撫で、私の体を通り抜けていくともう目の前は春だ。自らの意図に反し、河原沿いに綺麗に一列に並べられた桜の木々ももう時期花を広げるのだろう。昔からここの辺りの土地は情緒風情のある土地と知られていて、昔ながらの木造建築物が多く佇んでいる。桜が咲く頃にはその風情を求め多くの観光客が訪れるのだ。私はこの河原沿いの近くのマンションに住んでいて、河原沿いを犬と散歩するのが日課だ。両親に与えられたこの賃貸マンションは大学生の私が住むには大きすぎるもので、いくつもの部屋があり、あまりにも大学生が一人で住むマンションはとしては相応しくないものだった。狭いとこに住ますのは可哀想だとか、そんな理由なのだろう。随分と甘やかされた娘なもんだ。私はこの部屋でチワワと一緒に生活を送っている。このチワワに名は無い。


冬がこの地を離れ、暖かな陽気が差し込むこの河原を歩いていると、春の訪れがそうさせるのか、なんだか生ぬるい気持ちになる。生ぬるい湯船に浸かった感覚。ふやけていきそうなそんな感情。それは友達の家で感じたあの一家団欒というものを体験した時の感覚に似ている。私の父は単身赴任だったし、母も仕事で、三人でご飯を食べたという記憶はあまりない。むしろ三人でご飯を食べる事自体が小さい頃の私にとっては不思議なもので今もそうだ。だからいわゆる家族の温かみ何て言うのは分からない。それでも両親は私に色々な「物」を与えてくれる。優しい人達だ。


そんなことを思いながら河原を歩いてると、私はいつもベンチに腰がける青年(青年と言っていいのかわからないが、顔立ちはまだ同い年に見えたのだ。)に出会う。その青年はこの時代には少し珍しい着流しで、そよ風になびく黒髪とすっきりとした目鼻立ちがなんだか浮世離れした雰囲気を醸し出していた。晴れた日に私はよくこの河原を散歩するのだけれど、彼も晴れた日には一角だけ草木が茂り、遠くを見渡すことのできるこのレトロ調のベンチに座って、ある時は本を読み、ある時は新聞を読み、そしてまたある時は遠くを見ながら物思いにふけっているような目をしているのだ。私は特にその人を気にしたことは無かったし、変わった人ならどこにでもいる、そんな風にしか捉えてなかった。ただ、彼の周りを取り巻く浮世離れしたその雰囲気に少し興味を抱いていたのは事実だった。


今日も彼は小説を読んでいて、なんだかその姿を切り取って写真にしてみればレトロなベンチと着流しが相まって今の時代の青年というよりは明治時代にいるような人だった。歳はいくつだろうか。私と同じ大学生なのかな。この辺りに住んでいるのだろうか。でもこのあたりによく来るってことはこの辺りの人なのかしら。そんなことを思いながら歩いていると彼との距離までもう10mぐらいだ。私の横を私の歩調に合わせちょこちょこあるいていたチワワがわんっと小さい声で吠える。彼がちらっとこちらを見た。黒髪がさたらっと揺れて、少し前髪にかかっている。何回も目の前を通ったことはあるけど、目を合わしたの初めてだ。そもそもまだ喋ったこともないし、見ず知らずの人間に対しこんな表現をするのは少し戸惑うのだけれど、なんだか彼の顔に体を、心を吸い込まれそうになった。この感覚は好きというにはあまりにも程遠い。ただなんだか私はこの人に抱かれる自分を頭の中で想像してしまったのだ。


チワワが走り出したそうに私の手綱を引っ張る。この子はどこに向かうつもりなのかしら。私は少し賭けをしてみた。そっとチワワの手綱に注ぐ力を緩めていった。するっと手から離れていったチワワは走って一直線にその青年の元に向かう。私の勝ちだ。














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