まだ救える
照り付ける日差しをものともせず、早足で駅まで歩き、電車に揺られ、さらに歩く。
八月猛暑の中、頬を伝う汗は止まる気配を見せない。
ナギはシイナの言葉を胸に前へと進む。
足を止めた場所は、漣の事務所の前だった。
もともと今日は事務所自体が休日でありナギが訪れることを漣は知らないので、彼が居るかどうかは不明だ。
ただ今は漣が居ることを願うより他はない。
薄い希望だというのはちゃんと分かっている。
ドアノブに手を掛けると呆気なく回った。
どうやら鍵はかかっていないらしい。
ドアを開けると中から漂うコーヒーの香りが肺を満たした。
「ん? 今日は休日のはずだが······なんでお前がここにいるんだ?」
幸いにも漣は事務所内に居た。コーヒーを飲んでいることも、白衣も変わらない。
千夏と違い、何一つ変わっていない。
ナギは何故か心が安堵するのを感じる。
いや、そもそも休みの筈なのにどうしているんだこの暇人は。
「おはようございます。漣さん」
本来なら休みのため、来るはずのない人物が目の前にいることにより、漣はクエスチョンマークを浮かべている。
ーーだったら、ここは早めに要求を言うべきだ。
「漣さん、単刀直入に言います。無償で非常日勤務をする気はありますか?」
漣はゆっくりとコーヒーを一口啜り、きっぱりと言った。
「あるわけないだろ」
予想通りの反応だ。
そうですか。と応え、ナギはキッチンへと進む。
漣はナギの意味不明な言動に首を傾げる。
やがて戻ってきたナギの左手には高級感溢れる袋。英語が書かれているが coffeeとだけ読める。
その袋はゴミ箱の上で宙ずり状態だ。
そして右手にはハサミが握られていた。
ハサミの切っ先が怪しく光る。
漣の顔が微妙に引き攣る。
ナギはなんとも底意地の悪い笑みを浮かべ、見せ付けるように両手を前に出した。
なんておかしな光景だろうか······。そんなことはナギが一番理解している。
だがナギの予想通り、効果は覿面だった。
「さ、ささ桜河さん······っ? それは俺が一番大切にしているコーヒー豆じゃないのかな······?」
かたかたと震え、動揺しているのは火を見るより明らかだろう。
ナギはハサミを袋へと近づける。
すぐさま漣は制止の言葉を投げかけた。
「ちょっ、ちょっと待ていッ。それは脅迫だろうっ。俺は今すぐにそれを手放すことを要求す」
「もう一度言いますね」
漣の言葉を遮り、ピクリともしない笑顔のナギ。
そして指の加減で悲劇を生むハサミ。
「非常日勤務をする気はありますか?」
「······はい············」
漣は泣きそうな顔で首を縦に振る。縦に振るしかなかったと言い変えよう。
結論。漣和真はコーヒーの前では手も足も出ないようだ。
「なるほどな。最近有名になってる通り魔さんの正体は城本だったと。んで、城本は ”狂って” いるようだったというわけか」
「はい」
一息ついて、ナギは昨日の出来事を全て話した。
一人では何もすることができないことは重々承知している。
だからこそ、専門家の手を借りるのだ。
「漣さん、何とかならないんですか?」
漣は唸った。
「うーん。お前の言う通り、眼が蒼かったり、城本の外見にまで変化が見られ、尚且つ普段とは全く様子が違うのなら、相当狂っていると言えるな」
話が続く。
「通り魔ってのは人を傷付けるという行為に快楽、悦楽を感じるから何度も繰り返すというケースが多い。だが、それはあくまで初期段階での話だ」
「ええと、つまり?」
「つまり、今回のように人を斬るという快楽的行為の極致。結局の話通り魔なんてその極地に達すると、結果はただ一つ」
ジジッと蛍光灯が点滅した。
「人を殺したいという衝動············殺人衝動だ」
ナギの心に決して軽くない衝撃が走る。
先日の千夏の様子。
血塗られたナイフ······。
千夏がそんなところまで堕ちてしまったという証拠はない。だが、漣の一言は千夏の確信を射ているだろう。
「はたして ”狂った” から殺人衝動に侵されたのか、それとも殺人衝動に侵されたから ”狂った” のかはまだ分からないが、城本はギリギリな綱渡りをしていることに変わりはない」
漣の言葉には少し違和感があった。
ギリギリな綱渡りをしている。という言葉に引っ掛かった。
「どういうことですか?」
喉がひりつく。
気付かないうちに相当緊張しているようだった。
「考えてもみろ。あいつはお前に謝ったんじゃないのか?」
『ごめん、ごめんねナギ』
千夏の言葉が反芻する。
「俺は、城本が狂ってはいないと踏んでいる」
コーヒーのおかわりを注ぐべく立ち上がる漣。
一瞬、一筋の光が暗き道を照らしたように思えた。
しかし、また暗くなってしまう。
「漣さん、あの場には血を流した女の人がいたんですよ?」
そう。あの血塗られた光景が存在したという事実が、彼女が狂ったと肯定しているようなものだった。
漣は人差し指をナギに向ける。
「そこだ。俺も引っ掛かっている。もし、狂ったとするなら人を殺すという行為にも納得がいかないわけでもない」
ナギは耳を傾ける。
「だが、狂ってないとするなら、人を安易に殺そうとはしないはずだ。それこそ、城本のような人間は特にな。だから狂うか狂わないかのどっちつかずのギリギリな綱渡りなんだ」
漣は強い口調で断言する。
「まだ狂ってないとするなら、あいつを堕とす訳には行かねえな」
「でも」
ナギは俯きがちに不安をぶちまける。
「あんなの、千夏じゃない。あんな ”狂った” ような姿、千夏じゃないですよ······」
言葉は堰を切ったように止まらない。
「だけど、千夏は私にごめんって言ったんです。悲しそうな顔をしたんですよ······ッ。それなのに、救えないんですか? あいつは苦しんでいるに違いない。なのに、私にはどうすることもできないんですか?」
最早これは我が儘だ。いま漣にぶつけたところですぐにどうこうできるわけでもない。
ナギは同時に自分の無力感を噛み締めた。
そんな彼女に、あっさりと救いの手は伸ばされた。
「············誰も救えないとは言ってないだろ」
「えっ、あれ?」
「 ”狂う” こと、即ちこれは精神の崩壊を意味する。お前も経験したから分かるだろうが、心が弱っていると些細なことで精神は崩れ始める」
漣は普段の態度とは百八十度違う、真面目な、カウンセラーの顔で訥々と語る。
「その要因となる大半が鬱だと思ってもいい。摩耗した精神はちょっとやそっとじゃ癒されねえからな」
ナギは心の隅にある大きな黒い塊、以前の苦い経験を思い出す。
漣は先を続けた。
「つまり、精神が崩壊しかけの時、まだギリギリ形を保っているなら摩耗した精神を癒し、救える余地はあるってことだ」
不思議と、ナギの心は安心感に包まれる。
暖かく、気持ちが落ち着いていく。
漣はニヤリと口の端を吊り上げた。
「城本は言ったんだろ? ごめん。ってよ」
ナギのモヤモヤした視界が一気に開けた。
「ってことは、あいつはまだ狂っちゃいねえってことだろ」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
ああッ……区切りが悪いところで切ってしまった(゜д゜lll)
本当はちゃんと区切って次に繋げなければ、次回の話でなんとも微妙なところで場面が切り替わるということになってしまうのです。
……が、予定していたよりも長くなってしまったので申し訳ありませんが微妙なところで今回は切らせていただきます。
毎回のことですが、誤字脱字、間違った表現や疑問に感じた箇所がありましたら御指摘のほどよろしくお願いします。
感想やアドバイス、評価のほどもいただけたら幸いです<(_ _)>
ではっ、次回も目を通してもらえることを祈りつつ
霞アマユキ