漣メンタルクリニックの午後
午後六時過ぎ。
ナギは手を休め、一息ついた。
くぅ~っ。と伸びをして脱力する。
漣の助手といっても特にすることはない。
一日に約二、三人の来訪者は専ら漣が相手をするのだし、まず精神云々をナギが崇高に語れるはずがない。
ナギの助手としての仕事と言えば、訪れる人たちの日程の調整や、漣が問診した内容を記録することが主となっている。たまにそんなことが一つもないことがあるが、そんな日は掃除に力を入れることにしている。
そして今日はそんな日だった。
「ふうっ。終わった!」
ナギは額の汗を拭い、満足げに事務所内を見渡した。
鏡のように輝く机や窓。塵一つない床。書類が綺麗にまとめられた棚を見て、えもいわれぬ達成感に浸っていた。
それほどまでに力を入れて掃除をした理由として、本人は気づいていないかもしれないが、千夏に対する不安を拭いたかったのかもしれない。
ーーうんうん。我ながら素晴らしいじゃない。
程々の長さの髪は一つに結われてあり、手には雑巾が握られている。
ナギは掃除が完了したことを知らせるべく、声を上げた。
「漣さーん。終わりましたよー」
漣は隣の部屋から、コーヒー片手に顔を覗かせる。
「おお、すげえな。こんなに綺麗になるもんなのな」
「ふふふ。すごいでしょう。もっと褒めてくれてもいいですよ」
思わず感嘆の声を漏らす漣に向かって胸を反らす。
「いやホント。たった数時間で一人で片付けるなんっおおっと」
ドアの段差に足を躓かせる漣。
それ以降の出来事は全てスローモーションのように感じた。
体勢を崩した漣の手に持つマグカップが傾く。
その拍子に一粒のコーヒーが宙に舞い、やがて······。
「······あっ」
落ちた。
光を反射し、まるで新品であった床に咲く一輪の茶色い花。
ナギの笑顔が固まった。
ーー嗚呼、これは染みになるだろう。
漣は瞬時にして己の身に降りかかる厄災の気配を感じ取った。
「っいやいやいやっ。ちょっと待て! 今のは不可抗力というか、仕方が無いというか、どうしようもグフウ!」
ナギは容赦なく鳩尾に拳を叩き込んだ。漣は膝から崩れ落ち、その際さらに数滴コーヒーが宙に舞うが、構うまい。
はたしてコーヒー全部が溢れることが防げたことは、漣のコーヒーに対する愛なのか、それとも、どうせ殴られるのなら被害を最小限にしようという彼の防衛本能によるものなのかは分からない。
ナギは一連の出来事が終わってからやっと、口を開くことができた。
「な、何やってくれてんですかあああああ!」
地面に這いつくばり、悶絶している漣など眼中にないようだ。
「もうっ。せっかく綺麗にしたばかりなのに·····馬鹿なんですか!?」
実はナギはこのようなことを特に嫌う。頑張った事実を穢されるのが嫌なのだ。
「そ、そこまで言わなくて、も············」
漣はとぎれとぎれに、なんとかその言葉だけを吐いた。
これ以上打撃部への圧迫を防ぐため、うつ伏せの状態から、仰向けの姿勢へと移行する。
ナギは手早い動作で汚れを拭き取り始める。
「と言うか、桜河もそんなに強く殴る必要はーー」
漣は喋っている途中に何故か口を噤み、何かあったのだろうか。カタカタと全身を震わし始めた。
「············? どうしたんですか?」
ナギは漣の奇妙な反応を不思議がり、しゃがんだ状態から彼を見る。
そして、漣の震える視線を追うと その先にあるモノを確認し、逆にナギも震え始めた。
漣の視線の先にあるもの。それはナギのスカートであり、詳しくはその内側であった。
「ッ!」
ナギは絶句し、顔を真っ赤に染め上げる。
ーーなっ、ななななななななな!
尋常じゃない羞恥心が全身を飲み込み、ナギは無意識のうちに拳を振り上げていた。
「ま、待て待て待て! これこそ不可抗力だろうが! それよりも白い生地の上に水色のボーダーってのは俺的には合っているかと············って何言ってんだ俺はあああああぁ!」
漣の叫びが、ナギの拳によって断末魔の悲鳴へと変わったのは言うでもない。