8 開眼
「速度計つなげたかー?」
「うまく繋がらない。これで……またか」
「おーい、大丈夫かよ」
操縦席の足元に首を突っ込んだまま、絶縁加工したコードを引っ張って、計器と結び合わせるだけの作業だ。なのだが、ひどく悪戦苦闘する。
一定圧で動力を注ぎながら結びつけないと、うまく稼動してくれないのだ。
その作業を自動でやってくれるタイプの計器もある。しかし初動だけのことで、そのためだけに重さを少しでも足すのは嫌だった。
腰をべったり曲げて座席下に腕を伸ばす姿勢で、同時に足踏板を踏み続けるのが難しい。少しも緩めてはいけないからだ。
カン、という音とともに、機体が微かに右に傾く。
「おう、代わる」
「も、もう一回。……ああ、ダメか。頼む」
結ぶより、ほどくほうが早くなってしまった。
頭をぶつけないように上半身を引き抜いて、操縦席を明け渡す。思い切り屈んで腕を動かし続けたから、腰が痛い。
ファンネさんに遊民修行が確約されて、数日が立っていた。
父さんの見立てでは、彼女の怪我は慎重に経過を見ながら、二十日ほどを目安にするらしい。ただし、完治までは三ヶ月。墜落事故のわりには、かなり軽症だ。
「ほい、つなげたぜ」
「もうかよ。はー、参ったな。自分で出来るようにならないと」
ははは、と笑ってローレは操縦席から飛び降りる。
「まっ、ゆっくり慣れていけばいいさ」
ローレは流圧計の組み立てに戻っていく。
ため息をついてそれを見送り、飛翔機を振り返る。機巧技師として、俺は完全にローレの脚を引っ張っていた。
本格的に弟子入りしたのが十歳を過ぎてからだった俺と違って、単純にローレは幼少から親方にみっちり仕込まれているからだ。と、信じたいが、おそらくそれだけではないだろう。
とにかく、速度計が回せるようになったなら、次は吸気管を取り付けなければならない。工具を載せた長方形の浮台をつまんで、機体の下に滑らせていく。
たんたん、という工房の床を叩く不規則な足音。
「へぇ、意外にしっかりした機体作ってるな」
その声は親方のものではなかった。
開け放たれた玄関口から、顎が埋まるようなカラーを首に巻いて固定したまま、ファンネさんが歩いてきている。口元には、祭りに居合わせたというような、面白そうな笑みが浮かんでいた。
「ファンネさん。歩き回っていいんですか?」
「さあ、聞いてないが、大丈夫じゃないか? そのためのこれだろ」
指先で頸椎カラーを弾くファンネさん。
後で父さんに怒られるだろうな、と思いながら、口ではそうですね、でも首を動かさないようにしてくださいね、と折衷案をあげておく。カラーは本来首の負担を和らげるためであって、着けているから動き回っていい、というものではない。
遊民をベッドに縛り付ける方が、無理な話なのかもしれない。
「これで行くつもりかい? 悪くはないが、ちょっと小さすぎやしないか? 積載量が足りないだろう」
「いえ、師匠。二人で分担できるものは分けるので、かなり余裕があるくらいですよ」
ローレが俺の肩を叩いて、一回り小さい女の子の頭に笑顔を向ける。いつの間にかこっちに来たらしい。
ファンネさんは、少し虚を突かれたように目を大きくした。
「ん、二人で行くつもりか?」
「ええ。頼りになりますよ。なんたってこいつ、天才精霊術士ですから」
「なに言っ、お前本当なに言ってんだ馬鹿!」
焦って本気で文句を言う。いつもそう呼ばれることに文句を返していたが、今日は本気で言っていた。
よりにもよって、本物の精霊術士、精霊の伴人と謳われる遊民を向こうに置いて、天才なんて誇大看板も甚だしい。
いつもの返しだと取ったのか、ローレは気にしたふうもなく笑っている。
「なんだよ、そう呼ばれたのは本当のことだろ」
「みんな素人に毛が生えただけだろ! それも昔のことだぞ!」
「へぇ、天才?」
ファンネさんが少し面白そうに笑う。興味を持ってしまった。最悪の流れだ。
彼女からすれば寝ながらできる精霊術も、俺には高い壁に違いない。精霊を使役して実効を顕す精霊術なんて、ろくに使えないのだ。
「違うんです、俺は本当精霊術士なんてもんじゃなくて。ただ五歳でチゼと誓約したから、舞い上がったみんなにそう呼ばれただけで」
名前を呼ばれたから、という感じで、どこかからチゼがふわりと飛んできた。
ほの青く色めく風の玉を見て、なぜか急に安心して、いや待て、このタイミングで来てもらっちゃ困る。
案の定、チゼの姿をファンネさんに見られてしまった。
「そいつがチゼ? なるほど、五歳でこのクラスの精霊と誓約したなら、天才だって騒ぐのも分かるな」
「でしょう?」
嬉しそうに笑うローレに、苛立ちを覚える。他人事だからって能天気に構えて。
とはいえ能天気なら、チゼのほうがはるかに上だった。動揺する俺を慰めるつもりか、くるくる周りを踊っている。
「チゼ、ほら、ファンネさんに挨拶……あれ? うわっ」
姿を消した、かと思えばいきなり俺の目の前に現れる。
励まそうと構ってくれるのは嬉しいけど、今はそれより言うことを聞いてほしい。
「ん? お前もしかして、魔力が見えないのか?」
「はい? 魔力?」
ファンネさんはしばらく、飛翔機を見たことがない相手にどうやって構造を説明するか考えるような顔をして、おもむろにうなずいた。
彼女は無造作に近づいてきて、手を伸ばしてくる。
「ちょっ、とファンネさんっ?」
「動くな」
水をすくうような形の手を目に当てられる。
ひやりとした体温と皮膚の感触が、目の周りを覆った。指の股から漏れる光が、肌を赤黒く透かしている。指先の固さと指間接のしわに、なぜかどきりとする。
どきまぎしていると、目を刺されたような強烈な痛みが走った。暗いところに慣れた目に、いきなり日光を浴びせたような。
目を押さえて苦悶していると、目の痛みは少しずつ引いていく。それこそ、目が日の光に慣れていくかのように。
目を開けてみる。視界がボケて、重ね合わせたように色合いが変わっている。
「ほら。分かるか?」
声を掛けられて、顔をあげる。
さっきと変わらない景色が、妙に見づらい。乗り物酔いしたような胸持ちの悪さが這い上がる。
ファンネさんの髪の色が、艶やかな真紅から、鮮やかな茜に見える。
「どうした? 大丈夫か?」
ローレはわけが分からないという顔で俺を見ている。まったく同じ気持ちだ。
しかし、ふと奇妙な違和感を覚えた。ローレは他の景色に比べ、あまり色合いが変わっていない。
ファンネさんは俺の前で人差し指を左右に振る。
視線を向けると、人差し指を上に向けた。指先に重なっているどこか赤黒い色合いのズレは、ゆっくりと揺らめいて立ち上っていく。煙のように空に溶けて消えた。
「うん、無事に見えるようになったな」
「なんのことですか?」
「魔力。チゼを見てみな」
見てみる。
今まで風の玉にしか見えなかったチゼが、煙を集めたような見た目に変わっていた。逃げるように風の玉がほどけ、煙が流れて、風の玉が湧き上がる。
「チゼ?」
空中でゆらゆら揺れていた風の玉が、びっくりしたように固まった。
もう一度風の玉がほどけて、煙は俺の後ろに回り込もうとする。目で追う。少し考えるように鈍った煙は、逆方向に動く。追う。
また収束して現れた風の玉は、がっかりしたように低くゆらゆらと飛ぶ。
「もしかして、今までずっと消えると思ってたのは、これ?」
「はは、気づいてなかったのか。チゼは実体や可視体を持たない精霊だ。だから、空気の膜で光を曲げて、その風の玉を演出してたんだろう。陽炎みたいにね。どんな精霊も、突然消えたり現れたりしないよ」
ファンネさんはおかしそうに言った。最初から本当のチゼが見えていた彼女には、大したことではないだろう。見えているべきものを、見せただけなのだから。
しかし、俺にとってはそうではなかった。
ショックだった。
つまり、ずっとチゼだと思っていたものは偽物だったのだ。本当の姿は緑がかった煙のように漂っている。
「いや、チゼには悪いことをしちゃったかな。遊びを一つ奪っちゃったから」
ファンネさんは少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「でもまあ、それが見えなきゃ精霊術は使いようがないからね」
「あの、師匠。結局、リアンになにしたんですか?」
ローレがすまなそうに尋ねる。
俺も煙から視線を外し、振り返った。それは気になるところだ。
ファンネさんは、そいつが居眠りしてたから起こしたんだ、と言うときの適当な感じで軽く肩をすくめた。
「魔力を見ても意識できてなかったのを、一度強烈に見せてやって意識できるようにしただけだよ。明順応と同じさ。これくらいの精霊と誓約してるんだから、感覚はできてるはずだしね」
「はぁ」
魔力や誓約という話は、あまりピンとこない。普段、精霊術とあまり関わらない生活を送っているからだろう。
いや、機巧技術も精霊術も、実際に起こっていることが大きく違うわけじゃないけれど。ただ機巧技術は、精霊に力を貸してもらう場所を設えるという感覚で、使役している実感が湧かないのだ。
機巧技術は精霊の働きを利用することで、精霊術は精霊にどう働くか指示すること、と言い換えてもいいだろう。
隣のローレも、理解は出来ても実感できない、という顔をしている。
「ローレは見えてた? チゼの、煙のほう」
「いや。いるんだろうなってのは、なんとなく。でもあの玉がチゼだと思ってたよ」
どうやらそうらしい。確かに、今まで誰にも指摘されてこなかったことだ。
いまひとつ釈然としない俺とローレの態度に、ファンネさんはうなずく。
「魔力を感じるのは慣れだからね。特にチゼは見えにくい精霊だ。無理もないさ。リアンは誓約した張本人だし、今は強く魔力を見せたショックで、過敏に反応しているだけだよ。すぐに収まる」
言われてみれば確かに、もう目を開けるだけでくらくらしてくるような、視界のブレは感じなくなっている。そんなものなのかもしれない。
「それでやっと、精霊術士としての入り口だ。頑張りたまえよ、天才精霊術士くん」
ファンネさんはおもちゃを見つけた猫のような目で笑う。
なにか、とんでもない崖を登れと言われたような、そんな感じがした。
煙は悠々と、俺の周りに滞留している。