7 村と空
「空の旅人、か」
目をすがめる。
親方の飛翔機を借りて、何度も思っていた。
もっと飛びたい、自由に飛び続けたい、空の果てまで行ってみたい。風を切って、風に乗って、空の青の向こうまで。
何年も待ち望んでいたはずの機会だ。
ずっとそうだったし、そのはずで準備を進めてきていた。
なのに、いざ突然目の前に出されると、喜ぶ以上にうろたえてしまう。
遊民という暮らしをするには、捨てていくものが多すぎる。
マロウは諦めなければならないだろう。
故郷を離れるのは当たり前で、二度と帰って来れないかもしれない。
親戚同然に暮らす村人とも、会わなくなる。
家族を捨て、家業の宿屋も継ぐことはない。
両親の老いた後も、死に目も見ることはできないはずだ。墓参さえ叶わないかもしれない。そもそも、彼らより生き長らえる保障はない。いや、そのほうが難しいだろう。しかもその最期を、知られることはない。
常識の範疇にない生き方。
だからこそ遊民は、自由の民なのだ。
本当にいいんだろうか。やっていけるだろうか。そんなことが許されるのだろうか。
「リアン?」
驚いた。
いつの間にか歩きが遅くなっていたらしい。ローレは道の角で振り返って、訝しげに俺を見ていた。
「どうした? ぼさっとして」
「い、いや。ちょっと考え事。空のこととか」
「またか。お前、考え込むとすぐ周り見えなくなるよな」
「そんなつもりはないんだけどな」
呆れ顔に追いつく。いつの間に港近くまで下りてきていたのだろう。その角の先が目的の店だった。
表に看板が下がっているだけで、村の家々とあまり見た目が変わらない。どうせ村の飯屋だ、宿屋ともども閑古鳥が鳴きやまず、大したものはない。港に帰った飛翔機乗りが立ち寄るぶん、こちらのほうがまだ繁盛している。
「うぃーす、定食二つー」
扉を開けて、ローレは奥に大声で言う。定食ふたっつー、と復唱する声が奥のキッチンから返ってきた。
中はそれなりに広く、窓際にテーブル席三つ、カウンター席もある。カウンターの奥に、キッチンを覗かせる暖簾が下がっている。テーブルを拭いていた三角巾を頭に巻く少女が、目を丸くしていた。
堂々入店して一番近いテーブル席に座るローレに、彼女は腕を振り上げる。
「こらっ、注文を取るのは私! 勝手にやらないでよ」
「いいじゃねーの、誰がやったって同じだって」
「ほい、失礼」
三角巾の少女の前を通って席に座る。彼女は俺を一瞥してため息をつき、ローレを見てから踵を返して奥に向かう。お冷を取りに行ったはずだ。
「相変わらず寂れてんな、ここ」
「しょっちゅう来るくせによく言うよ」
お決まりの文句を垂れて、ふと気づいた。
遊民として旅立てば、当然、この店に来ることもなくなる。
ローレも同じことを思ったのだろう、遠い目をして、窓枠の木目を眺めていた。俺も視線を卓に落とし、木の継ぎ目を見つめる。
子どものころは、この机が高くて食べにくいと思っていた。そんなことを忘れるくらい日常的に、この店を利用している。
「なあ、リアン」
「なに?」
「お前、迷ってるか?」
「え?」
ローレはどこかを見ていなかった。
他のどこでもなく俺を見て、彼は問いかけている。その眼差しが、そんなはずはないのに、言葉を急かすように感じられた。
慌てて手を振り、つい早口に答えてしまう。
「いや、そんなことはないよ。ずっと言ってたろ、遊民になりたいって」
「無理するな」
苦笑して、ローレは右足を左ひざの上に乗せた。
「お前、あれだろ。マロウが気になってるんだろ」
「まっ」
吹いた。
ローレは至って真面目な表情で俺を見ている。
「俺にはそういうのよく分かんねーけどよ。置いていくのが気になるんだろ?」
「いや別に、そういうわけじゃ」
ないわけじゃないけど。そこばっかり、というわけではない。
あまり他人に関心を示さないタイプの人間であるローレは、遠くから図面を読み解こうとするような顔で、頬杖を突く。
「ちゃんと話したことなかったけど、お前なんでマロウなんだ? 『そばかすマロウ』よりいい娘だっているだろ。ほら、薬屋のシータとか」
「娘とかいうな、シータさんは三十路だぞ」
「あー、年上に見えないからパス。年下扱いされる当人が、まんざらでもないみたいだし」
そりゃあ、あの人はローレに妹みたいに扱われても、それで十代に見られてるならって喜んでるけど。むしろ、俺にも娘扱いをせっついてくる。
ローレは何も考えていないような顔で指を立てる。
「じゃあここのルヤは? 見た目も可愛いだろ」
「いや、ルヤは……」
今しがたの三角巾を巻いたルヤは、性格がキツいことで有名だ。
俺もガキのころは何度か泣かされたし、今もたまに顎で使われる。いや、飯代を負けてもらってるから、用事を受けること自体は正当なんだけど。
ローレは不思議そうに首をかしげる。
「控えめで大人しいし、いいと思うけどな」
「そりゃルヤがお前に気があるから」
ばっしゃー。
ぬめるような水気と刺すような冷気が顔面を襲う。
一瞬で、頭からずぶ濡れになった。
「あっら手が滑ったわ、ごめーあさっせー」
オホホ、と頭に三角巾を巻いて角を隠した悪鬼が笑う。お前手が滑ったもなにも、コップをガッシリ掴んでるじゃないか。人にぶっ掛けるために。
しれっとローレの前に無事なお冷をコトンと置いて、悪魔は去っていく。
「大丈夫か?」
「まあな……」
わざわざ目の前に置いていきやがった、空のコップに滴る雫を眺める。
やっと状況が飲み込めたのか、ははは、とローレは笑った。大きくうなずいている。
「ルヤってドジなんだなぁ。確かに、あれと一緒になりゃ苦労しそうだ」
そうじゃねーだろ、と思ったが、言わなかった。奥から悪鬼が歯がゆそうな顔でローレを見ていたからだ。