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24 風

 頬を指先で撫でられるような感触。

 顔を上げた。

 誰もいない。

 部屋は無人で、椅子だけが取り残されたように部屋の真ん中に置かれている。わざわざ空から取り込んだ魔力は入れ換わって、青い帯は細く暗くなっていた。

 目元の涙は風に乾いて張り付く。手の甲でこすり取り、目を開けた。

 薄く色づいた煙が浮かぶ。

 チゼだ。いつからそこにいたのか分からないが、気ままにゆらりと浮いている。

 本当にいつでも変わらない。

 つい、微笑んでいた。

「チゼの夢を見たよ。最初に出会ったときの、誓約したときのことをさ」

 チゼは答えない。

 煙に手を添えても形はない。そよ風に触れるような手触りだ。

 手にすり寄るように、チゼの煙は手に集まる。

「お前は、俺の手の感触が分かるのかな」

 なんとなく、近いものは感じているだろうと思っていた。子どもの頃から、捕まえようと空をかくと、風の玉はくるくると宙返りして反応を見せたから。

 風の玉はチゼじゃない。

 だから、俺の知っているチゼなんて、どこにもいないような気がしていた。

「そんなことは、なかったんだな」

 風の玉はチゼの正体ではなかったが、チゼは風の玉として俺に姿を見せてくれた。俺がチゼを視れなかったから。

「見えないときも、気づかないときも、いつだってそばにいてくれたんだよな」

 鼻の奥がツンと痛み、喉が引き絞られて声が歪む。

 俺と誓約を結んでくれたチゼは、間違いなくチゼで、それは変わらずそばにいてくれる。俺を守ってさえくれる。

「ありがとう」

 俺は顔を伏せて、震える指先をゆっくり握った。

 どん底の気分が、少し晴れた。


 寝台から立ち上がると、一瞬だけふらつく。すぐに平衡感覚が頭の中に戻ってくる。

 慎重に体の様子を見る。吐き気もない、気持ち悪さもない。体調は異常ないようだ。擦り傷などの外傷も、体を動かすのに支障はない。もう大丈夫だろう。

 部屋を出てみると、食堂に父さんがいた。

 座って煎茶をすすっていた彼は、俺の顔を見て少し驚いたような顔を作る。

「もう歩けるか?」

「うん」

「気持ち悪いとか、めまいがするとかはないか? 頭痛や、吐き気とか」

「ないよ、大丈夫」

「そうか。ならいいんだ」

 さらりと問診らしいことを済ませて、湯飲みを煽って茶を飲み干す。

 彼は湯飲みを机に置いたままにして、立ち上がり、すこし緩んだ笑みを浮かべた。

「少し、歩かないか」

 そんなことを提案されたのは初めてだった。

 彼はいつも放任的だ。

 母さんの言う通り、やりたいようするといい、というのがモットーだった。むしろ母さんが父さんに影響されて、そういう主義に立ったのかもしれない。

 今の俺には、表に出ても行く当てがないことを思い出した。

「……いいよ」

 首を引いて同意した。

 彼はおおらかにうなずき、先導して宿の玄関を開ける。

 思えば、父さんと二人で話したことは、あまりなかった。

 たまに話しても日常のことをひとつふたつと話すばかりで、会話らしい会話をしたことはなかったように思う。

 父さんはあまり饒舌なほうではなかったし、人のやることに手も口も出さないからだ。背後で、しくじったときだけ受け止めて、後始末を手伝ってくれる。

 そういう人だった。

 二人で村道を歩いても、話す言葉を見つけられない。

 俺は父さんのことを、なにも知らないのかもしれない。

 日差しは傾き、空の青は黒さを含んでいるように見える。昼を過ぎているようだ。

 村の家々は、木壁に土ぼこりを埋めて黒ずんでいる。ひと気はなかった。木柵の向こうに畑の黒土が広がる。今期はここが休耕地だったのだろう。

 路肩の雑草が、うかがうように首を伸ばしていた。踏み固められた土は日に焼けて白みを帯びている。

 村を離れて歩く間、父さんは一言もしゃべらなかった。

 道を歩いて大きく回り、木を埋め込んだ階段が増えてくる。道なりに行った向こうに森が見えてきた。ちょうど島の裏側だ。

「リアン、覚えてるか? お前がチゼを連れ帰ってきたのが、あの森だぞ」

 やっと口を開いたと思ったら、そんなとぼけたことを言った。

「忘れるわけないだろ、誓約した精霊のことだぞ」

「そうか、そうだよな。はは、すまん。いつも一緒だから、ときどき、生まれたときからそうだったような気がしてな」

「いや、さすがにそれは」

 父さんは緩んだ笑みを浮かべる。

 こんな顔をする人だったか、と思う自分に驚いた。

 そういえば俺は、工房に入り浸っているか、宿では仕事に没頭するばかりだ。家族と接するための時間、というものを過ごした記憶がない。

「すまない」

 父さんはいきなり言った。

「ローレとの話、聞こえてしまってな」

 息が詰まる。

 外の空気を吸って晴れてきた気持ちが、また重く沈んだ。

 父さんはゆっくりとした口調で言う。

「母さんは、お前が行きたい道なら、応援してやらなきゃいけない、と決めて、お前を応援している。でも、あれで寂しがっていたんだぞ。なんだかんだ二人とも、手元を離れてばかりだからな。だから、喜んで迎えるだろう」

 階段がゆっくりと足元を流れる。

 土と木の間に雑草が潜り込んでいた。こちらに人が来ることは少ない。

 もう遊民になる道も閉ざされたのだろうか。

 どこにもいけないまま、流れない水が腐るように、俺の道はなくなるのだろうか。

 父さんの口調は変わらない。

「なあリアン。覚えてるか? お前がデニル……ローレのお父さんに、弟子入りがしたいと言ったときのこと」

「……覚えてるよ」

 覚えている。

 母さんは怒ったが、父さんは鷹揚にうなずいただけだった。

 父さんが認めてしまったから、母さんは強硬な姿勢が取れなくなって、宿屋と両立することを条件に認めてくれたのだ。

 弟子入りとは言ったが、それ以前から工房に入り浸っていたから、生活が変わるわけではなかった。宿屋にいないことを母さんに叱られることが減っただけだ。

「あのとき、俺は嬉しかったんだぞ。お前の表情が、すごく真っ直ぐだったからな」

「え?」

 父さんを見る。彼は気恥ずかしそうに笑って、顎をかいた。

「それが俺じゃなくてデニルに向けてだったのは、残念だけどな」

 それはなんというか、申し訳ない。

 大きくため息をついて、父さんは空を仰いだ。

「人は変わっちまう。そういうもんだ。でも、自分の中に一本、筋を通しておけば、どんなに苦しくてもやっていける。分かるか?」

「なんとなく」

「すごいことだ。俺がそれを実感したのは、かなり遅かった。ローレの母さんのときまで、変わっていくなんて思いもしなかった」

 隣に顔を向ける。

 父さんは、胸の疼痛に触れるように、空を見上げてまぶしさに目を細めていた。

 その痛みが、俺にも分かった。

 二人について知っていることは、多くない。

 俺とローレが幼馴染であるように、父さんと親方も、親の代から幼馴染であること。

 ローレの母さんの一件以来、父さんと親方が、一緒に酒を呑まなくなったこと。

 それだけだ。

 だが、きっと、それが全てだ。

 息をつく。

 足は止まっていた。

「俺とローレの、行くところが変わった、って。それだけなんだろうな」

 それだけのことだ。

 生まれたときから一緒だった。

 一緒に育って、一緒に遊んで、一緒に、同じものを見て、学んできた。そのはずだった。

 胸をえぐる喪失感は、大きかった。

「父さん」

 口に出して呼んだのは、彼を求めたのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。

「父さん、俺、どうしたらいいのかな。どこを目指したらいいのかな」

「それは、自分で決めないとな」

 父さんは即答した。

 当たり前だ。そこで答えをもらったら、俺の目はまた濁ってしまう。

 でも、俺は、どうしたらいいのか、疑問ばかりが胸の中で渦巻いて、真っ黒に塗り潰されていく。言葉がひとつも浮かばなくなってしまった。

 探すほどに答えが消えていくような気がする。

 そもそも、俺の中に期待するような答えは、存在していないのかもしれない。

 ふわり、と左手を風が包んだ。

 チゼだった。

 俺が元気をなくすと、必ずそばに来てくれる。

 ふわり、と気持ちが泥沼から泡のように浮き上がってきた。

「空を、飛びたい」

 父さんはうなずく。

「いいんじゃないか」

 軽い調子で認めてくれた。

 空を飛ぶ。

 遊民も選択のひとつだ。

 でも、遊民にはならない。それは俺の望む空とは、少し違う。

 ファンネさんは空に魅せられて、空を飛ぶために遊民になった。

 ローレは彼の母に憧れて、ただ空を飛ぶために遊民を志す。

 俺は違った。

 空に魅せられて、しかし呑まれることが怖かった。

 地に足をつけて、そのうえで、自由に空を飛びたかった。

 チゼのために、チゼと一緒に空を飛びたい。

 そのための飛翔機が、なければならない。

 何かが俺の中で繋がった。

 父さんは顔をあげた俺に笑みをくれて、穏やかに語る。

「ローレのお父さんに、後を継いでもいいって、言われたんだってな。あいつはいい加減なことは言わない。本当に、リアンになら工房を任せていいと思っているんだ。その意味は、分かるだろ?」

「……うん」

 代々続けてきた工房を、俺なんかに任せたいと言う。

 きっと親方は、ローレの気持ちに気づいていたんだろう。それでも、なにも言わずに工房を畳むと決めてしまえる人だ。

 工房を継ぐという、その言葉の重みが、ずしりと胸にのし掛かる。

「……なんだか、重いね」

 そりゃそうだ、と父さんはうなずいた。

「あんなでかい建物に、何代何人もの想いが、籠められているからな」

 俺みたいな未熟者を買ってくれる親方が、大きかった。

 見合うだけの力がない自分が、悔しかった。

「機巧技師、か」

 どん底にいるのは、変わらない。

 でもどん底の泥まみれのまま、立ち上がろうと、足に力が戻ってきている。

 父さんの手が頭に乗せられた。髪をかき回す感触が、やけに大きい。

 たぶん、大人ってやつだろう。

 緩んだ笑みを浮かべて、父さんは言った。

「じゃ、帰るか」

「そうだね」

 うなずく。

 涙は拭った。


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