17 経営
自己主張が激しい小物の色覚攻撃をかいくぐり、店先まで戻る。マロウは髪飾りをしていなかった。ポケットに突っ込んで、うえから押さえている。
「付けてればいいのに」
「嫌」
「そーですか」
いまひとつ、買った甲斐がない。
マロウの手を引いて、立ち去ろうとした矢先に声がかけられた。
「お客様」
喫茶店の店員だった。いや、ネームプレートを胸に挿していて、店長と書いてある。
店長さんは顔に穏やかな笑みを刻み、俺の空いているほうの手に、硬貨を握らせる。
「忘れ物です、お気をつけください」
「はあ……。あ、ありがとうございます」
お釣りだ。わざわざ渡しに来てくれたらしい。よく考えたら、土下座じゃ済まない額だ。今さらのように、背中に冷たい汗が流れる。
その見栄を、マロウに気づかないよう渡してくれる。この店長さんが格好良すぎる。
「それから」
「はい?」
まだ何かあるのか。店長さんは俺と、マロウにも目を向けて、目を細めた。
「当店は、二杯目のお代わりは無料となっております。いかがですか?」
なにこの店長さん、格好良すぎる。
テーブルには、飲まずに放り出したはずのコーヒーとジュースが、淹れ直されていた。コーヒーに湯気が復活しているし、なにより混ぜたはずの砂糖とミルクが添えられている。
座ってからそのことに気づいたマロウはうろたえた。
「な、なんなの、この店」
「居心地のよさは店が作る、ってことじゃない?」
「いや、これは……うん」
マロウはうつむいた。
振り返ってカウンターを見る。店長さんは何事もなかったかのように微笑を湛えて、グラスを磨いている。
「すごい店だね」
「そうね」
マロウはジュースに口をつけた。
「そういえば、応援してるとかなんとか言って、結局、私のこと好きなのかどうか、言ってないんだけど?」
バレたか。
俺は曖昧な笑みを浮かべた。
「どう答えると思う?」
「サイテー」
言われてしまった。
しかし俺としても、あまり滅多なことは言えない。
マロウの言った「他にいないからマロウを選んだ」という言葉を、否定するだけの根拠が、自分の中に見つけられない。
目の前でうつむいているマロウは、ジュースの中に浮かぶ氷を回す。
「聞いたんだけどさ、リアン。あの、遊民の人と一緒に旅立つって、本当?」
「え? ああ。……うん、まあね」
相変わらず、よく知ってる。親方もまだ知らないことなのに。
マロウは少し怒ったように頬杖をついた。
「馬鹿みたい。そんな子どもみたいな話」
「確かに。でも、これはまたとない機会だから」
「あんた、宿屋はどうすんのよ」
躊躇ってる理由の一つをピンポイント狙撃。
「まあ、妹は宿を継ぐ気みたいだし、しっかりやってくれると思うよ」
「あんたは二度と帰ってこれないかもしれないのに」
「……そうだね。分かってる」
「私は、誘われたって行かないよ?」
思わず笑った。
「分かってるよ。マロウは遊民なんかより、商人のほうが似合う」
マロウは舐めるようにジュースを飲み、やけに苦そうな顔をした。コップに閉じ込められて揺れるジュースに、文句を言いたそうに視線を落としている。
「行くの、やめたら? なんか、リアンには向かないよ」
「かもね。でも、これは向く向かないって理由で、決めていいことじゃないと思う」
「……そうね」
マロウは葉が滴を落として上向くような、力の抜けた笑みを浮かべた。
「行きましょうか。飛翔機の部品、買い足すんでしょ?」
「そうだね」
コーヒーに口をつける。独特の深い薫りが広がり、後を引く苦味が口に残った。
買い物は順調に済んだ。
マロウの交渉みたいなもので、飛翔機の部品を吟味している間、マロウは手持ち無沙汰に定系金属を見つめていた。
分からないことについていけないのは、当たり前のことだ。
その後はルディックさんに合流して、荷を積み込んでもらう。港の飛翔機まで搬入するのは、店側で手配してやってくれる。大型品を扱う店では当たり前のようにやってくれるサービスだが、実に助かる。
それも終われば、あとは帰るだけだ。すぐに出ないと空で夜を迎えてしまう。
港は飛翔機が行き交う音と風切り音が騒がしい。
『準備できた?』
飛翔機のなかで、支度を整えて計器を確認していく。
マロウの答える声がスピーカーから聞こえてくる。
『まだ。離陸は落ちるんだよね』
『そうだよ』
『考えるだけで嫌になるわ……』
『そう思うなら、ベルトしっかりね』
『ん』
遠くでガラガラン、と鐘が鳴った。
どこかのフリッパーが下ろされ、飛翔機が落とされる。しばらくすると、不格好な太い飛翔機がノロノロと空を這い上がっていく。ルディックさんの貨物飛翔機だ。
「チゼ、頼むよ」
流圧計が一瞬だけ過圧に振れる。そのことに、安心と不安がよぎる。
臨む空は、眼前に駐機するプロペラ機に遮られ、広くは見えない。
『リアン、できた』
『はい了解』
手を挙げて空夫に報せる。
傍らの鐘が鳴らされた。
すぐそばで鳴ると予想以上にうるさい。上下層のフリッパーに動く気配がないことを確認して、フリッパーがゆっくりと傾き始める。
体が前に傾き、シートの前に滑り落ちそうになる。シートベルトが肩に食い込む。
『わ、わ、うわ』
『マロウ、静かにね』
言って、スロットルを少しだけ開ける。ここからが難しい。
ロックされた降着装置が、堪え切れないようにずり落ち始める。角度が少しずつきつくなる。プロペラ機の載ったフリッパーが頭上に消え、目の前にはただ空しかなくなる。
「行くよ」
言ってから、マイクを入れてないことに気づいた。ギアのレバーを一気に最軽まで倒す。切り落とされたように、飛翔機はフリッパーのうえから滑り落ちていく。
ガカン、とタイヤがフリッパーから落ちる衝撃に機首が下がる。
視界が回って、色とりどりに飛翔機を散らした下層の駐機場が広がった。尻に体重の乗らない感触がゾワリと背筋を撫でる。
その感覚に耐えながら操縦桿を握り、スロットルを一気に開ける。尻の代わりに背中が体重を受け止める。
速度計はするすると右に回り、白い目盛りを越えた。
スロットルを絞り、操縦桿を引き上げる。
尻に体重が戻り、さらに骨盤を圧迫するように体が押さえつけられる。爪先に血が溜まってじんじんと痛む。視界がまた大きく巡り、機体の鼻先が空を仰いだ。
スロットルを調整する。下降上昇で暴れていた速度計も、巡航速度に落ち着く。
計器確認、機体確認。いずれも問題なかった。
ふう、と息を吐く。
成功だ。
『……リアン』
『マロウ。大丈夫?』
『大丈夫、な、わけがっ、ないでしょっ!?』
くわーん、と耳鳴りの残響が頭を揺らす。
怒鳴られた。
『行くときは声掛けてよ! しかもなかなか機首あげないし! 墜落してるのかと思ったじゃない!』
『い、いや、俺も声かけたよ。かけたんだけど、離陸前後は忙しくて両手が塞がるから、マイクを入れられなかったんだ』
『入れられるようにしなさいよ!』
『んな横暴な』
答えながらも、実は暇ではない。
飛翔機を旋回させ、灯台で見える風向から航路を計算する。簡易航路計算機の針をくるくると回し設定した後、また別のそっくりな計器を引き出す。
中途再計算機だ。こちらは方位針と連動していない。代わりに、常に決まったペースで歯車を回す、振り子仕掛けの等速器が内蔵されている。雲や視界内の浮遊島を元に、運航中に風向風速を求めて、航路を再計算するための装置だ。
小さな島は風に流されやすく、風向が途中で変わると、計算した航路から離れてしまうことがある。
もちろん、人が住む以上、年間を通して風が変わりにくい、安定気流の上にある島だ。けれど、念を入れるに越したことはない。空に呑まれたらそれまでだ。
とりあえず再設定の時刻だけ設定して、ようやく透板越しの空を見た。
『よし。それじゃあ、行こうか』
『はいはい。今さら言われても遅いのよ』
『言ったのに』
機首を航路に合わせ、機体の水平を保つ。
あとは飛んで帰るだけ。
窮屈な航行だ。
帰ったときにはすでに夕暮れを過ぎていた。
積み荷だけ片付けて、飛翔機を港に係留し、夕飯だけ食べたらすぐに寝る。火の精霊にいつまでも灯りをもらうほど、夜にするべきことはない。
その前に少し、母さんと父さんの寝室を叩く。今日は一週間に一度の配達員が訪れる日だった。この家に来る手紙は毎週ひとつだけで、送り主は妹だ。
扉を開けて覗いてみると、母さんは手紙を読んでいる。父さんはまだ地下に篭っているらしい。
「なにか変わったこと書いてる?」
「ん、読み終わったら貸すから、ちょっと待って」
「いや、元気そうならいいんだ」
マロウとの会話で妹のことを思い出して、少し気に掛かっただけだ。
手紙に目を落としたままだった母さんが、目だけ俺に向ける。
「いいのかい? 最近返事だって書いてないじゃないか」
「やらないほうがいいんだよ。兄から手紙が来るのがからかわれた、って前に手紙に書いてたから」
「それと返事しないこととは、別問題だろう」
「別なもんか」
思春期の女の子は友達関係が複雑で難しいのだ、と当時相談したマロウに言われたことを、そっくりそのまま繰り返す。特に学校寮で一番近しい人は友達なのだから、なおさらだ、と。
家族や島内では、読み書き四則演算くらいまでは教え合う。
それ以上の学問となると、大きな学校のある島に留学させるしかない。
もちろん職業訓練として必要なものは島内でも教えられる。現に、俺とローレは飛翔機に関わる力学計算や工法、空力、精霊魔力学などを修めている。
基礎教養を越えた、学問としての学習をするために、妹は自ら望んで島を去った。
元気にやっていると言う。
それだけ分かれば充分だ。