13 田舎者の外出
「って、観察なんてしてる場合じゃなかった」
水の精霊に手を振って、今度こそ洗濯室を出ていく。
奥の部屋、書斎に飛び込む。宿の書斎と違って、飛翔機や機巧技術の専門書がたんまりと詰まっていて、立派に書斎している。
その一角にある鍵が差しっぱなしの金庫から、俺たちの飛翔機ぶんの積み立て資金を取り出した。金貨を……五枚もあれば余るだろう。
上空の島では紙幣が流通しているらしい。ここほど海面に近い村では、価値の安定した金貨がどうしても経済の中心だった。
そもそも上空の連合国家と違って、下空は紙幣の価値を保証する母体が、行商組合くらいしかない。仕方のないことだ。
むしろ紙幣経済というものが、今一つピンと来ない。
一度だけ紙幣で買い物をしたことがあるけど、あんな紙ペラで物を受け取ってしまって、後でなにか言われやしないかと不安で仕方がなかった。
田舎者という自覚はある。
「マロウごめん、お待たせ!」
飛行帽を頭にかぶりながら、工房の滑走路に走る。
壁にもたれ掛かっていたマロウの表情は、キャップの鍔でよく見えなかった。両手を腰に当てて、声を張る。
「お待ちしましたとも! ったく。早く、お父さん待ちわびてるよ!」
「悪かったよ。チゼ、加圧頼む!」
走るマロウを追いかけて、習慣に近い頼みをする。チゼもすぐに応じて、風の玉が滑走路の真ん中に駐機する飛翔機に飛んでいく。
煙の尾を引きながら。
声が詰まった。湧いた感情は、走る息に飲まれて消えた。
「ほら、リアン早く!」
マロウが機体の横に立って、大きく手招きする。
中身を見もせずに鞄に詰め込むように、動揺をとにかく抑え込んで、今は走った。
「マロウ、乗り方は分かる?」
「バカにしないで。確かにあんまり乗らないけど、滑走離陸まではできるもん」
「ま、そっか。それより、キャップはダメだよ。風に煽られて飛ばされやすい」
鍔に手を伸ばすと、マロウは過剰なくらい身をのけ反らせて逃げた。
彼女は俺の手を見上げて、分かりやすいくらい傷ついた顔になる。さっと飛翔機を見つめて、前が見えないくらい目深にかぶり、早口に言った。
「ご、ごめん。こ、これはいいの。分かってやってるんだから」
「……そう」
俺を見もせず、マロウは機体に取り付いて、よじ登り始める。ものの分かった動きで座席に入っていく。
浮遊島においては、ちょっとそこまで乗っていく、なんてときにも飛翔機を使う。
複座だろうが単座だろうが、操縦法に違いはない。だからこそ、空に出ることを生業とする者に、落下加速という技術の差別化が作られたのだ。
いや、実際にしょっちゅう飛ぶなら、滑走路が必要なんて甘ったれたことを言っていられない、という現実もあるのだけど。
とにかく、操縦だけなら誰もができて当たり前だった。
飛翔機はその専門性とは対照的に、身近な乗り物なのだ。
そんなことをぼやぼや考えながら、操縦席の支度を終える。マイクに手を触れて、後部座席のマロウに声をかけた。
『マロウ。準備できた?』
『もちろん。いつでもどうぞ』
『了解』
マイクから手を離す。
滑走路に目を向けると、右手前方に単座の飛翔機が停まっていた。でぶな鳥のような、ずんぐりと不格好な貨物飛翔機だ。鳥なら首に当たる部分がえぐられ、操縦士が座っているのが見える。彼がマロウの父であり、リディック商店の店主だ。
手を挙げて大きく振る。
彼も振り返し、親指を立てて、それを滑走路の先に向けた。お先にどうぞ。
手を回して輪を作り、飛翔機を叩く。ありがとう。
操縦席に深く座り直し、各計器に目を走らせる。
『行くよ。チゼ、お願い』
流圧計が右に振れて、また中心に返っていく。
レバーを倒し、降着装置のロックを外す。がたん、と段差を降りるように機体が揺れて、翼を支える桁が軋む。
左右で降着装置の重さを切り替え、縦舵を入れて、飛翔機を滑走路の中心を貫く白線に重ねる。手のひらを圧迫するレバーの感触。押し、かくんと一瞬柔らかくなって落ちて、また固くなる。このギアが変わる瞬間が好きだ。機首が白線に重なる。
レバーを一番下まで倒す。速度計が振れる。体が重くなったようにシートに押さえつけられた。滑走路のわずかなへこみに飛翔機が揺れ、軋む。スロットルを開けると同時に、動翼を上げて機体をまだ滑走路に押さえつける。
『ちょっと、大丈夫なの?』
マロウが声をかけてきた。
速度計の針が回り、白い目盛りを越える。
操縦桿を引く。
押さえていた風船が放たれて浮き上がるように、機体は当たり前という顔で地上を離れる。揺れが急に収まり、風の鳴き声のただ中に吸い込まれていく。
風の抵抗になるばかりで、邪魔な降着装置を引き上げる。
風を見て方位を見て、振り返った。気球の紐を握って灯台が飛翔機を見送っている。
目的地への航路は、灯台と気球と飛翔機の位置関係で求める。
人が住む島は安定気流、すなわち恒常的に一定に吹く気流の上に存在する。流れる距離を想定し、先回りするような航路を決めなければならない。
とはいえ、求めた角度で飛んでいけば、島がどんなに流されていてもたどり着く。少なくとも見える範囲内にあるだろう。
島が大きければ大きいほど質量が大きく、極端な変化が起こらないからだ。
計器群のなかに、尻に輪のついた針が三本並ぶ羅針盤、簡易航路計算機がある。懐中時計のようにも見えるそれのガラス蓋を開けて、指を突っ込んでかき回す。
距離時刻風向風速、さっきの三項目、目的地の方位と気流。
くるくると針を回し、羅針盤周りの目盛りを回し、やがて赤い一番上の針が止まる。
真ん中の軸を押して固定、方位針と同期を取る。機体を傾けて、機首を少し右に曲げた。赤い針が方位針と同じだけ回り、真っ直ぐ上を指す。
そこまでやって、やっとマイクに手を触れて、少し困った。
『なにか答えようとした気がするんだけど、忘れた』
『あらそー大変ね』
『……怒ってる?』
『まさか。操縦に忙しいんでしょう、励んでくださって結構よ』
『忙しいのは終わったよ。ごめん』
機外に目を向ける。
白々とした青空の果ては、疎らに遊礫と浮遊島を孕んでいて、どこか寒々しい。
はー、とどこか笑いを含んだため息が聞こえた。
『本当に、リアンもローレも、飛翔機一筋だよね。飽きもせずによくやるよ』
『同じことしてるなら飽きるかもしれないけど、別にそういうわけじゃないからね』
『私には区別がつかないわ』
『たぶん、俺にとっての商売もそうだよ』
マロウは笑った。
空の上には雲が日光に照らされて、白く輝いている。
『ねぇ。ちょっと、聞いたんだけど』
『うん?』
『んん、その……』
マロウには珍しく、言葉を濁らせた。
そのとき、右側に今そこに現れたかのように、貨物飛翔機が浮き上がってくる。
彼は翼を左右に振る。こちらも操縦桿を左右に倒し、機体を振って挨拶を返した。
貨物飛翔機は満足したように機体を右に傾け、視界外に沈んでいく。衝突を嫌って離れたのだ。
翼端が搭乗口の縁から消えるのを見送って、マイクに手を触れる。
『ごめん、なに?』
『ん、いや。いいの。それより、新商品のドライフルーツはどうだった?』
『ああ、あの柑橘類の。あれ遠い島のって言われても、一口大に砕かれてるし、あんまり違い解らないよ。味も渋味が目立ったかな』
『そっか。うーん、売り方は要検討かなあ』
商売の話をすると、マロウはいつも活き活きとする。
話にはついていけないけど、彼女の努力は本物だ。
年を経るごとに、みすぼらしく田舎臭かった店が、しゃれて気の行き届いた店に化けていったのだから。今では、たまに宿屋に来た客が暇潰しに必ず向かうくらい、魅力的な店になっている。
それでいて過度に主張しない、落ち着いた居心地のいい店を作り上げる、マロウのセンスが好きだった。
惹かれた理由なんてそれくらい。
大袈裟に語られるほど、恋だの愛だの、激しいものじゃない。
少なくとも、俺にとってはそうだった。
飛翔機に揺られて、三時間ほどが経った。
飛翔機は風に流されていないか、遊礫はないか、を確認するくらいで、基本的には真っ直ぐ飛ぶだけだ。空の巡航は子供でもできる。
ただ、アクシデントの一つひとつが致命的というだけの話だ。
マロウは、いつの間にか眠ってしまったらしい。
風防を叩く風の音を聞きながら、周囲を眺める。
遥かな青が果てしなく広がり、点々と遠い島が撒かれている。遠いそれらはほんの少しずつ、ときには雲よりも遅く動いている。
時間が引き延ばされたように、ゆったりと流れる。見渡す限りの空の中で、自分も空になったような、あるいは卑小な遊礫の親戚に過ぎないかのような、独特の感覚。
遭難して方途を見失うことを、空に呑まれる、という。
それは、まったくその通りの表現で、こうして空を飛んでいると心を奪われそうになる。航路を外れて、ただどこまでも飛んで行く。そうするだけの魅力を、空は持っていた。
狭い操縦席で、フライトジャケットごとシートに縛り付けられていることを忘れるほどの、雄大な世界だ。
空は青く、どこまでも広く、生活の糧もなく、しがらみもなく、ただ存在する。
こうしているときが、一番落ち着く。大好きな時間だった。