表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/29

13 田舎者の外出

「って、観察なんてしてる場合じゃなかった」

 水の精霊に手を振って、今度こそ洗濯室を出ていく。

 奥の部屋、書斎に飛び込む。宿の書斎と違って、飛翔機や機巧技術の専門書がたんまりと詰まっていて、立派に書斎している。

 その一角にある鍵が差しっぱなしの金庫から、俺たちの飛翔機ぶんの積み立て資金を取り出した。金貨を……五枚もあれば余るだろう。

 上空の島では紙幣が流通しているらしい。ここほど海面に近い村では、価値の安定した金貨がどうしても経済の中心だった。

 そもそも上空の連合国家と違って、下空は紙幣の価値を保証する母体が、行商組合くらいしかない。仕方のないことだ。

 むしろ紙幣経済というものが、今一つピンと来ない。

 一度だけ紙幣で買い物をしたことがあるけど、あんな紙ペラで物を受け取ってしまって、後でなにか言われやしないかと不安で仕方がなかった。

 田舎者という自覚はある。

「マロウごめん、お待たせ!」

 飛行帽を頭にかぶりながら、工房の滑走路に走る。

 壁にもたれ掛かっていたマロウの表情は、キャップの鍔でよく見えなかった。両手を腰に当てて、声を張る。

「お待ちしましたとも! ったく。早く、お父さん待ちわびてるよ!」

「悪かったよ。チゼ、加圧頼む!」

 走るマロウを追いかけて、習慣に近い頼みをする。チゼもすぐに応じて、風の玉が滑走路の真ん中に駐機する飛翔機に飛んでいく。

 煙の尾を引きながら。

 声が詰まった。湧いた感情は、走る息に飲まれて消えた。

「ほら、リアン早く!」

 マロウが機体の横に立って、大きく手招きする。

 中身を見もせずに鞄に詰め込むように、動揺をとにかく抑え込んで、今は走った。

「マロウ、乗り方は分かる?」

「バカにしないで。確かにあんまり乗らないけど、滑走離陸まではできるもん」

「ま、そっか。それより、キャップはダメだよ。風に煽られて飛ばされやすい」

 鍔に手を伸ばすと、マロウは過剰なくらい身をのけ反らせて逃げた。

 彼女は俺の手を見上げて、分かりやすいくらい傷ついた顔になる。さっと飛翔機を見つめて、前が見えないくらい目深にかぶり、早口に言った。

「ご、ごめん。こ、これはいいの。分かってやってるんだから」

「……そう」

 俺を見もせず、マロウは機体に取り付いて、よじ登り始める。ものの分かった動きで座席に入っていく。

 浮遊島においては、ちょっとそこまで乗っていく、なんてときにも飛翔機を使う。

 複座だろうが単座だろうが、操縦法に違いはない。だからこそ、空に出ることを生業とする者に、落下加速という技術の差別化が作られたのだ。

 いや、実際にしょっちゅう飛ぶなら、滑走路が必要なんて甘ったれたことを言っていられない、という現実もあるのだけど。

 とにかく、操縦だけなら誰もができて当たり前だった。

 飛翔機はその専門性とは対照的に、身近な乗り物なのだ。

 そんなことをぼやぼや考えながら、操縦席の支度を終える。マイクに手を触れて、後部座席のマロウに声をかけた。

『マロウ。準備できた?』

『もちろん。いつでもどうぞ』

『了解』

 マイクから手を離す。

 滑走路に目を向けると、右手前方に単座の飛翔機が停まっていた。でぶな鳥のような、ずんぐりと不格好な貨物飛翔機だ。鳥なら首に当たる部分がえぐられ、操縦士が座っているのが見える。彼がマロウの父であり、リディック商店の店主だ。

 手を挙げて大きく振る。

 彼も振り返し、親指を立てて、それを滑走路の先に向けた。お先にどうぞ。

 手を回して輪を作り、飛翔機を叩く。ありがとう。

 操縦席に深く座り直し、各計器に目を走らせる。

『行くよ。チゼ、お願い』

 流圧計が右に振れて、また中心に返っていく。

 レバーを倒し、降着装置のロックを外す。がたん、と段差を降りるように機体が揺れて、翼を支える桁が軋む。

 左右で降着装置の重さを切り替え、縦舵を入れて、飛翔機を滑走路の中心を貫く白線に重ねる。手のひらを圧迫するレバーの感触。押し、かくんと一瞬柔らかくなって落ちて、また固くなる。このギアが変わる瞬間が好きだ。機首が白線に重なる。

 レバーを一番下まで倒す。速度計が振れる。体が重くなったようにシートに押さえつけられた。滑走路のわずかなへこみに飛翔機が揺れ、軋む。スロットルを開けると同時に、動翼を上げて機体をまだ滑走路に押さえつける。

『ちょっと、大丈夫なの?』

 マロウが声をかけてきた。

 速度計の針が回り、白い目盛りを越える。

 操縦桿を引く。

 押さえていた風船が放たれて浮き上がるように、機体は当たり前という顔で地上を離れる。揺れが急に収まり、風の鳴き声のただ中に吸い込まれていく。

 風の抵抗になるばかりで、邪魔な降着装置を引き上げる。

 風を見て方位を見て、振り返った。気球の紐を握って灯台が飛翔機を見送っている。

 目的地への航路は、灯台と気球と飛翔機の位置関係で求める。

 人が住む島は安定気流、すなわち恒常的に一定に吹く気流の上に存在する。流れる距離を想定し、先回りするような航路を決めなければならない。

 とはいえ、求めた角度で飛んでいけば、島がどんなに流されていてもたどり着く。少なくとも見える範囲内にあるだろう。

 島が大きければ大きいほど質量が大きく、極端な変化が起こらないからだ。

 計器群のなかに、尻に輪のついた針が三本並ぶ羅針盤、簡易航路計算機がある。懐中時計のようにも見えるそれのガラス蓋を開けて、指を突っ込んでかき回す。

 距離時刻風向風速、さっきの三項目、目的地の方位と気流。

 くるくると針を回し、羅針盤周りの目盛りを回し、やがて赤い一番上の針が止まる。

 真ん中の軸を押して固定、方位針と同期を取る。機体を傾けて、機首を少し右に曲げた。赤い針が方位針と同じだけ回り、真っ直ぐ上を指す。

 そこまでやって、やっとマイクに手を触れて、少し困った。

『なにか答えようとした気がするんだけど、忘れた』

『あらそー大変ね』

『……怒ってる?』

『まさか。操縦に忙しいんでしょう、励んでくださって結構よ』

『忙しいのは終わったよ。ごめん』

 機外に目を向ける。

 白々とした青空の果ては、疎らに遊礫と浮遊島を孕んでいて、どこか寒々しい。

 はー、とどこか笑いを含んだため息が聞こえた。

『本当に、リアンもローレも、飛翔機一筋だよね。飽きもせずによくやるよ』

『同じことしてるなら飽きるかもしれないけど、別にそういうわけじゃないからね』

『私には区別がつかないわ』

『たぶん、俺にとっての商売もそうだよ』

 マロウは笑った。

 空の上には雲が日光に照らされて、白く輝いている。

『ねぇ。ちょっと、聞いたんだけど』

『うん?』

『んん、その……』

 マロウには珍しく、言葉を濁らせた。

 そのとき、右側に今そこに現れたかのように、貨物飛翔機が浮き上がってくる。

 彼は翼を左右に振る。こちらも操縦桿を左右に倒し、機体を振って挨拶を返した。

 貨物飛翔機は満足したように機体を右に傾け、視界外に沈んでいく。衝突を嫌って離れたのだ。

 翼端が搭乗口の縁から消えるのを見送って、マイクに手を触れる。

『ごめん、なに?』

『ん、いや。いいの。それより、新商品のドライフルーツはどうだった?』

『ああ、あの柑橘類の。あれ遠い島のって言われても、一口大に砕かれてるし、あんまり違い解らないよ。味も渋味が目立ったかな』

『そっか。うーん、売り方は要検討かなあ』

 商売の話をすると、マロウはいつも活き活きとする。

 話にはついていけないけど、彼女の努力は本物だ。

 年を経るごとに、みすぼらしく田舎臭かった店が、しゃれて気の行き届いた店に化けていったのだから。今では、たまに宿屋に来た客が暇潰しに必ず向かうくらい、魅力的な店になっている。

 それでいて過度に主張しない、落ち着いた居心地のいい店を作り上げる、マロウのセンスが好きだった。

 惹かれた理由なんてそれくらい。

 大袈裟に語られるほど、恋だの愛だの、激しいものじゃない。

 少なくとも、俺にとってはそうだった。


 飛翔機に揺られて、三時間ほどが経った。

 飛翔機は風に流されていないか、遊礫はないか、を確認するくらいで、基本的には真っ直ぐ飛ぶだけだ。空の巡航は子供でもできる。

 ただ、アクシデントの一つひとつが致命的というだけの話だ。

 マロウは、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 風防を叩く風の音を聞きながら、周囲を眺める。

 遥かな青が果てしなく広がり、点々と遠い島が撒かれている。遠いそれらはほんの少しずつ、ときには雲よりも遅く動いている。

 時間が引き延ばされたように、ゆったりと流れる。見渡す限りの空の中で、自分も空になったような、あるいは卑小な遊礫の親戚に過ぎないかのような、独特の感覚。

 遭難して方途を見失うことを、空に呑まれる、という。

 それは、まったくその通りの表現で、こうして空を飛んでいると心を奪われそうになる。航路を外れて、ただどこまでも飛んで行く。そうするだけの魅力を、空は持っていた。

 狭い操縦席で、フライトジャケットごとシートに縛り付けられていることを忘れるほどの、雄大な世界だ。

 空は青く、どこまでも広く、生活の糧もなく、しがらみもなく、ただ存在する。

 こうしているときが、一番落ち着く。大好きな時間だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ