11 掃除
いきなり声をかけてきたファンネさんは、悪戯っぽい顔でニヤニヤしている。
「ファンネさん。おはようございます。どうしました?」
「いや、見かけただけだ。毎朝掃除してるのか?」
「ええ、まあ。今終わったところです」
「ほうん」
ファンネさんは何か言いたそうに目を細めた。しかし待ってみても何も言わない。
とんとん、と熊手の歯を揃えて、ファンネさんを見る。
「朝食は摂りましたか?」
「ん? ああ、いや。まだだ」
「じゃあ用意しますね」
「頼む」
ファンネさんは好物を見せられた犬のように笑う。昨日は遅くまで起きていたし、お腹が空いているのかもしれない。
掃除用具を片してバックヤードの厨房に入る。大きな竃と水を溜める桶、食器棚や鍋が重ねられている。壁際には必要な分だけの薪と、氷をつめて腐りやすい食料を入れておく保冷庫がある。
竃に薪を入れて、挨拶する。
「おはようございます、家守様」
「ぬぅーむ」
しわがれた奇態な鳴き声とともに、眠っていた老人が手足を突っ張って大きく伸びをするように、火の手は燃え広がる。
竃に宿る火の精霊は、家系の始まりに招いて以来、代々家族を守り続けてくれる存在だ。敬うのが慣わしだが、教えられなくとも自然と畏まってしまう。
彼がいなければ暮らしはどれほど貧しくなるか、考えてみれば分かることだ。
フライパンを竃に乗せ、軽く油を引いて材料を手早く支度する。
朝食は軽いもので済ます。宿屋だから少し手が込んでいるが、それも程度問題だ。
バングを薄くスライスする。バングとは、捏ねた芋に磨り潰した穀物粉を混ぜて膨らませて焼いたもののことだ。
それを焼き、アボカドとピーナッツを潰したバターを塗り盛る。ベーコンステーキとスクランブルエッグ、そして玉ねぎとほうれん草と小松菜の炒めものを盛り付け、レタスとトマトを添える。プレートに載せて、パンプキンスープと水をつける。カットしたオレンジをおまけした。
「さあ、どうぞ」
「おう。朝からいいもん食える生活も悪くないな」
宿の食堂でニコニコと待ち構えていたファンネさんに、朝食をサーブする。
机に乗った朝食を見下ろして、ファンネさんは少しきょとんとした。
「お前は? 食わないのか?」
「いえ、お気になさらず。ファンネさんはお客様なんですから」
実は作るついでに余分をつまむのが習慣だが、行儀のいい話ではないので伏せる。
ファンネさんは目の前で好物を取り上げられた犬のように、急に大人しくなった。
「お客って、あたしは宿代なんか払ってないぞ」
「ああ、いえ、お招きした来客ってほうです」
「……む」
そもそも今は現金を持っていないことも聞き及んでいる。
ファンネさんはちらちらと卓の朝食と俺を見比べて、肩を落とした。
「分かった。ありがたくいただくよ」
「どうぞ」
パリパリもちもちの焼きバングに、すっきりした甘さでしっとりさせるミックスバターの相性はなかなかのものだ。
現にファンネさんも加速度的に食べる勢いを早めていく。
そんな折りに、ふと部屋の隅に目を向けて、見えるはずのないものを見た。
「あれ? 今朝洗浄したばっかなのに」
魔力の吹き溜まりができていたのだ。
まだ親指大ほどで小さいが、取り除いた直後に見えていいサイズではない。
「ん、ああ。それなー。ここの女将さん几帳面すぎるからな」
うんうん、とうなずいてファンネさんはバングにかじりつく。
「……それと、なんの関係が?」
「ん? ああ、魔力視は詳しくないんだったな。実際に視覚として見えてるわけじゃない、ってのは分かってるだろ?」
「はい」
あくまで魔力の存在を感知しているのは、体内を循環する魔力であり、第六感が主体だ。見るというのは錯覚に近い。
フォークでスクランブルエッグをすくって口に運び、むぐむぐと動かしながらファンネさんは指を振る。
「魔力視のキモは、その勘が働いてことを見分けられるかどうかに懸かってる。要は、こんなところに見えるはずがない、と思うと、見えてるものが見えなくなるんだ」
「はあ、なるほど」
まだ見えたばかりで魔力があるという感覚に慣れていないから、ローレたちより鋭敏に見えているのかも知れない。
「魔力洗浄、お前今まで見えてなかったんだよな。じゃ、意味がないかも、って感じてたろ? その疑心暗鬼も、今見えてる一因だな。毎日きちっとやってる女将さんは、こんなにやってるんだから見えるほどあるはずがない、って思ってるのさ」
「そりゃまた」
きっつい皮肉だ。
「いやいや。心意気は立派なもんさ。実際、埃一つないしなぁ。宿代なんとか用立てたいもんだ」
そんな結構ですよ、いやいや気が収まらん、というお決まりのやり取りを挟む。
「とりあえず、もう一度道具取りに行きます」
「んや待て。それじゃ意味ない。あっという間に降り積もるのは、原因があるんだ」
ファンネさんは添え物を平らげて、最後のバングを持って立ち上がった。
壁際に立って、左手を壁に添える。
「よく見てな」
彼女の人差し指に、赤い煙が揺らめき立った。焦げ付くように、壁板の表面が色づいて削れていく。
ぞっとした。
夜のことを思い出す。ファンネさんの精霊は、高位の火精霊だ。
「ちょっと、ファンネさんっ?」
「見てみろ」
ぱっと指を離した跡には、木目に傷一つ残っていない。
汚れを落としたように、人差し指の形で木目が濃く浮かび上がっている。
少し疑問が胸に芽生える。壁に近づいてよく見てみる。
壁の色だと思っていた表面に、泥のような魔力がへばり付いていた。
「これ……って、もしかして」
ファンネさんはバングをかじりながらうなずいた。
「この宿屋いっぱいに、この泥臭い魔力が充満してんのさ」
目が回った。
魔力は埃や汚れとは違う。
悪い汚い魔力が溜まっているからといって、何か影響があるわけではない。
しかし、昔から良い気と悪い気というものがあって、良い気は清浄な魔力の元に集まると言われている。洗浄は、運気を集めるちょっとしたおまじないみたいなものだ。
まあ、それは人間にとっての話であって、精霊は綺麗な魔力を好む傾向にある。
どちらにせよ、綺麗だろうが汚かろうが損しないが、綺麗にしたほうがどちらかといえばお得。そんな程度のものだ。
風の通り道であるため、島の霊脈……大きな魔力の流れは、安定している。
こんなに魔力が淀んでいるのは、旅人の残した汚い魔力が原因ではないか、とファンネさんは分析した。一度ついたそれが拭えないまま少しずつ広がっていき、腐敗が庫内で蔓延していくように、宿を泥のような魔力で満たしてしまったのだ。
「チゼ」
呼べばチゼは壁板の隙間をすり抜けるように、ふわりと飛んできてくれた。
「宿の魔力を、一度綺麗にしてやろう」
応じるように、風の玉が浮かび上がる。
ファンネさんは頼まれもせずに手伝いを名乗り出てくれたが、お客様にそんな真似はさせられないので、堅く遠慮させていただいた。
洗浄の手順はシンプルだ。チゼが宿中に満ちた魔力を押し固めて窓から吐き出し、俺が壁や隙間に残る魔力を掻き出す。
一度試しに俺の部屋でやってみた。ちょっと後悔した。
充満している、という言葉を改めて思い知らされる。
チゼが部屋中の魔力を風で追いやって丸めていくうちに、凝縮された魔力は目に見えるほど茶色くなっていく。凝縮されると肥溜めのように見えてくるそれは、見るだけで不快を催した。やっぱり、綺麗にしないと損があるかもしれない。
窓から押し出してもらうと、煙はもくもくと窓から立ち上っていく。
部屋の中はどこかすっきりとして、爽やかな気がする。実際にあの魔力を目の当たりにすると、本当に爽快な空気になったように思える。
「チゼ。二階からも一気にやるぞ!」
返事はせず、風の玉は楽しそうにクルリと回る。
チゼに手伝ってもらいはするが、要は単純作業だ。箒で掃き出すのと変わらない。
ぼふん、と煙を二階の空き部屋、北側窓から押し出してしまって、家中の空気を一度換気し終える。狼煙のように茶色い煙が空に吹き上がっていった。
空をいくらも行かないうちに、風で吹き散らされる煙を見上げる。
「おう、終わったか」
ファンネさんの声。彼女は部屋の前で、労っているか揶揄しているのか曖昧な、薄い笑みを浮かべている。その顔を見て、ふと思いついた。
「あの泥の塊みたいな魔力は、部屋に充満してたものが固まっただけなんですよね」
「ん、ああ。それがどうかしたか?」
「ちょっと、思いついたものがありまして」
チゼを手招きして、耳打ちする。
震えた風の玉はふわりと円を描いて上昇し、窓から空に飛び出した。
窓から首を出して見上げる。
高くにかすれたような雲が浮いている。本日も空は青く、気持ちの良い晴れが広がっていた。あの青のどこかにチゼがいる。
「なにするんだ?」
ファンネさんが怪訝そうに部屋に入ってきた。
「あ、ちょっと離れていたほうがいいかもしれませんよ」
「ん?」
ちら、と空を見上げて、息を呑んだ。
青の槍が降ってくる。
「伏せて!」
「はぁ?」
窓縁にしがみついて頭を低くする。間抜けな声を上げながらも屈み込んだファンネさんの髪が、吹き飛んだ。
そんなふうに見えるくらい、爆発的な勢いで風が吹きこんでいる。空気が顔に張り付いてくるかのようだ。乱暴に体を撫で付けられる。窓枠は軋み、扉ははね飛ばされたように勢いよく開く。シーツが引きずられて床を転がる。
青い色は重ね合わせられた空の魔力だ。一つひとつは薄い膜のような魔力の帯が、何十とまとめて宿の中を吹き荒れている。
びゅうびゅうとかごうごうとか、そんな甘っちょろい音ではない。どうどうと、建物ごと押し揺らすかのような衝撃は、やがて尾を引いて消えて、ほどけた。
「な、なにやったんだ、お前っ!?」
ファンネさんはもみくちゃにされた髪をぶわっと広げて、驚きを顔中に表している。彼女は尻餅をついてしまっていた。
「すみません、大丈夫ですか?」
「まあ、あたしは平気だけどさ。なんだってんだ、一体」
チゼが俺の肩の上で、ゆるゆると得意げに巡っている。
やりすぎた相棒を叱るかどうか迷い、曖昧な笑みを浮かべた。
「いえ、ちょっと。昨夜見た空があまりに綺麗だったので」
なんの話だ、と目を眇めたファンネさんは、ふと視線を俺より高くして、目を丸くした。その目がだんだん弓なりに細められて、口許は笑みを結んでいく。
「へえ、面白いこと考えるな」
「どうせ充満するなら、こっちのほうがいいですよね」
辺りを見回す。
部屋の中は澄み切ったような青が、ほんのりと輝いていた。
空の空気、空の魔力だ。
座り込んだままのファンネさんに手を貸して、立ち上がらせる。尻を払いながら、ファンネさんは笑った。
「そういうこと考えるのは良いが、もっと上手く加減しろよな。そんなんで精霊術士を名乗ったら、笑われるぞ」
はは、と笑い飛ばそうとして、なぜか胸が詰まった。
精霊術士とは、精霊の力を自在に行使し、魔法のようなことを成し遂げる者を言う。ただ頼むことも、ごく簡易な精霊術と言える。極めたものは、言葉も交わさず手足より精密に、精霊の魔力を操るらしい。
分かっていたつもりだけど、やはり精霊術士には向いていない。
「名乗るつもり、ありませんよ」
やっと返した言葉は、思っていたより声が小さかった。
ばたんばたばた、と突然廊下に騒音が響いた。なにか悪い予感がする。
チゼは敏感にそれを感じ取って、風の玉をほどいて煙が俺の袖の中にもぐりこむ。
坂を転がり落ちる重い鉄球は、速度と質量で壁を突き破る。この鉄球は肉であり人であり、階段は駆け上がってきて、突き破らずに扉を勢いよく開けただけだ。
「今の暴風はあんただろ、リアン!」
「母さん。いや、俺は」
「言い訳はなし!」
頭の中で鉄球が落ちた。頭蓋骨の内膜が剥離したような気がする。
体重を乗せた拳骨は、鉄拳より重い。おそらくは、文字通りに。
「散らかしたものを掃除しなさい! 地下室もね!」
「ち、地下室も、なにかなったの?」
衝撃で目が回るまま、聞き返した。
掃除は納得できるが、地下室は聞き捨てならない。
詰め込み放題で、辛うじて秩序の体を保っていた地下室を思い出す。
あれがどうにかなったら、まともな掃除と呼べる域を超越してしまう。
母さんは、嫌味たっぷりに大きくうなずいた。
「えーそりゃあもう。棚が倒れたよ」
絶望した。
ファンネさんは、自業自得だね、と肩をすくめた。ぼさぼさになった髪に手櫛を入れている。
地下室の掃除を終えて、ボロボロになった体を引きずって階段を上がる。ずいぶんと苦戦して、すでに外は暗くなっていた。
地下室の階段を上がって目の前の、玄関が開いた。ちりちりんと大人しく鐘が鳴る。
「あ、いらっしゃいませ」
「ん。はい、ただいま」
入ってきたのは、見慣れない若い青年だった。
若草色の外套を羽織って、手にはリディック商店の紙袋を抱えている。
ハッとした。もしかして、これが今日の客か。
「改めて思うけど、この短い間でずいぶん雰囲気変わったよね、この宿」
「は、そうですか?」
「うん。この前は、言っちゃ悪いが、ちょっと寂れた感じがあったんだけどね。僕の精霊、えっと風精霊なんだけれど、ずいぶんと喜んでるよ」
そう言って、彼は嬉しそうに笑う。
聞けば、彼はこの航路を通って遠くまで行った帰りで、行きにもこの宿を使ったらしい。ほんの数日前のことだ。
「模様替えしたようにも見えないけど……、何かしたのかい?」
「いえ、特別なことは、なにも」
「そうかー。あ、夕飯は夜になってから頼めるかな。少し本を読みたくてね」
「かしこまりました」
一礼する。
彼は苦笑して、立ち去っていった。
頭を上げて、ふと思い出す。半ば反射で誤魔化してしまったが、もしかしてチゼが運んでくれた空の清浄な魔力が、特別なことだったのかもしれない。
だとしたら、なかなか、すごいことだ。一工夫で宿を良くできたのだから。
「っと、忘れないうちに母さんに伝えないと」
数少ない客の些細な要望に応えることこそ、宿のあるべき姿ってものだ。
少なくとも、俺が見てきた経営者は、そうやって宿を切り盛りしてきた。




