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9 夜

 その日。

 いつもの夜とは違っていた。

 バックヤードの脇にある居住区に、せせこましくベッドが並ぶ。見るからにみすぼらしい壁板は、店側の内装で力尽きていることがよく見える。

 窓の外に、二つの月が浮かんでいた。小さな月は上弦に、大きな月は三日月に。心は欠けず、富みは尽きゆく。小さな月は一回月かけてゆっくりと満ち欠け、大きな月は一週月で満ち欠ける。

 夜空に青く輝く煙が、棚引くように筋を引く。魔力の流れだ。島に年中吹き付ける、穏やかな南西の風。

 しばらく眺めて、寝返りを打つ。安いシーツに服がこすれて体に絡み付く。何代も使い続けた寝台がメリと軋む。

 眠れなかった。

 チゼはまとわりつくように煙り、雲のようにゆったりと渦巻いている。見慣れた風玉はない。眠るときはいつもどこかに行っていた。

 どこにも行かず、そばで丸くなっている。

 目を開けて、陰に同化する天井を見る。土埃にも似た魔力が淀んでいる。

 見るべきもののない夜にこそ、魔力の流れはよく見えた。

 正確には、見ているのではなく、体の魔力が世界の魔力に感応しているのを、視覚に重ねて解釈しているだけだ。理屈としては、聴いたり、触れたりもできるらしい。

 現に目を伏せても、目蓋に日光が透けるように、存在くらいなら感知できる。

 起きた。

 チゼの煙は滑り落ちるように、俺の体から振り払われる。

 床板に放り置いた靴を突っ掛けて、ぶん投げたフライトジャケットを羽織り、部屋を出た。理由も目的もなかったが、夜の空気を吸おうと思った。

 廊下を歩き、カウンターの脇を抜けて、そっと扉を開ける。

 扉の鈴が触れて低く鳴った。

 村の景色は暗幕で覆ったように不明瞭だ。明かりとしても心もとない月明かりだけが、道や屋根の輪郭をうっすらうかがわせる。

 透き通った帯を何重にも重ねたような魔力が、撫でるように流れていく。白い灯台は闇夜にもボウと浮かび、夜に沈む村から空を照らす。

 港に足を向けた。

 土も屋根の木板道も、夜露に湿って、踏むたびにしっとりと体重を受け止める。

 夜陰の家から、チロチロと赤く舐めるような灯りが見える。家守……竃に住んでもらっている火の精霊が、まだ起きているのだろう。

 家屋の前を抜け、坂を通り、階段を下り、港まで歩いていく。

 岩島の縁、護岸で石が張られ紐の柵が渡される港は、静謐に透き通っている。空に満ちる魔力が揺らめいて、まるで広い水中にいるような気分になる。

 港に沿ってぶらりと歩き、視線を巡らせて気づいた。人影がある。

 縁に腰掛けて背中を伸ばし、空を見つめている。儚げな影に誰だか分からず、見つめてしまった。

 こちらにまるで気づかず空を臨む彼女は、鼻梁の通った凛々しい面差しを気弱げに揺らしている。群れからはぐれた鳥のようで、ひどく繊細なものに見えた。

 赤い髪と頚椎カラーは、間違いなくファンネさんだ。

「ファンネさん、なにしてるんですか?」

 肩が跳ねた。

 振り返る姿は明らかに動揺していて、不意に痛そうに顔をしかめた。

「すみません、驚かせるつもりはなかったんです。大丈夫ですか?」

「大丈夫、だよ。あービックリした」

「あまり首を動かさないでくださいね」

「ああ、ああ。分かってるよ」

 面倒くさそうに手を振る。

 改めて俺を見上げた彼女は、気さくな悪魔のように、ニヤリと笑みを浮かべていた。

「リアンこそどうした、眠れないか? ああ、まあ、視界が開いたばっかだしな」

「知ってたんですか? 眠れなくなるって」

「気にしないヤツは寝るよ」

 なるほど。確かに目の前に膜がかかるくらいのものだ。

「ファンネさんは、こんな時間に何してるんですか?」

「日がな一日眠るなんざ、できないよ。空じゃ眠れない日だって多いんだ」

 ファンネさんは両腕を上げて、お手上げ、と示した。体に染み付いた習慣だろう。

 苦笑して、港の縁に立ち、夜空に目を投じる。

 目に見えるすべてが空で埋まり、空中に放り出されているように感じる。見上げても見回しても、そこにあるのはただ空だ。

 深呼吸した。湿った冷たい空気が、胸いっぱいに広がる。

「夜の空は、こんなに綺麗なんですね」

「ああ。ここは気流が安定してるから、特にな」

 振り返る。ファンネさんも空に目を向けていた。焦がれるように真っ直ぐに、疎ましそうに気だるげに。

 その横顔に思わず見とれてしまう。見る先で、唇が揺れた。

「リアン。あんたは、空に呑まれそうになったことあるか?」

「え?」

 驚いて声が出る。同時に見とれていたことに気づいて、変に動揺した。

 彼女の言葉、空に呑まれる……遭難してしまうことは、空において最も警戒すべきことだ。目印のない空にあって、どこかにたどり着くことは難しい。

 ファンネさんは、もどかしそうに顔を歪める。

「すまん、分かりにくいな。違うんだ。何て言ったらいいか……空を飛んでて、すごく、他がどうでもよくなる、っていうか。飛ぶこと以外考えられなくなる、っていうか。だからつまり、そう、なんていうか」

 度忘れした言葉を代弁させようとして、ファンネさんは手を右に左に踊らせる。

 は、と顔を輝かせた。

「空に、魅了されるような」

 すっ、と彼女の気持ちが胸に入ってきた。空を飛ぶたびに感じていたことだ。

 空に呑まれて、ずっと。

「俺も、空を飛ぶといつも感じていました。この空を、どこまでも、って」

「ああ、だろう。やっぱり話が分かるな。あたしもそんな感じだ。この衝動を抑えるのが苦痛で、あたしは空に飛び込んだんだ」

 ファンネさんは懐かしむように笑う。

 空のように明け透けな笑顔には、強い羨望を感じさせられた。

 ただ、ひとつ小さな錯誤があった。それは小さなトゲのようにチクリと刺さり、しかし紛れて飲み込まれて、まるで見えなくなってしまう。あとには何事もなく、空への憧憬が湖面のように凪いで広がっている。

 ファンネさんは空を見上げる。

「ベッドで寝転がるのは、ときどき、一日で充分さ」

 港を吹き下ろす風に、彼女の赤い髪が揺れる。

 風と一体になったかのような姿が、現実離れして美しく見えた。

「リアン」

「……あ、はい」

 声をかけられたことにすぐ気づかなかった。彼女は静かな表情で俺を見つめる。

 翻って突然沸き上がった言い知れない恐怖に、体がすくんだ。

 無表情にも近いファンネさんの形相は、空のように遠く底知れず、手の触れ得ない領域の存在にさえ思われる。

「あたしの飛翔機は……どうだった? 直せそうか?」

「え。それは」

 無理です、と答えようとして、口がしびれたように動かせなくなる。

 言葉に詰まった。

 飛翔機は、機巧技術の粋を集めた精密機械だ。

 機巧技術とはつまり、精霊の力を借りて機械を動かす技術を言う。

 歴史は長く、現在でも使われるメジャーで簡単なものには、竃がある。火の精霊を竃に住まわせて、火を借りるのだ。

 飛翔機は、飛翔板に精霊の力を注いで上昇力を生み出したり、推進器の窯に精霊の力を込めて圧力を掛けて、空気をものすごい速さで噴出させたりすることで飛ぶ。

 その窯は、精霊一体ずつの持つ力に合わせて、綿密に計算して設計されている。本来的には一体一機の、代替不可能なものが基準となるのだ。

 要するに、歪んでしまったからちょっと直そうとか、悪くなったから取り換えよう、といった修理がどうしても利かない部分がある。

 その特性から値段は張る。しかしそれ以上に、飛翔機は自分と精霊を確かに繋ぐ、絆そのものと言える。

 ローレが常々飛翔機が欲しいと言うのは、親方の飛翔機は彼のティキウィキに合わず、飛翔板をうまく使えないからだ。

 多くの精霊に適合するよう調整された、汎用特化の窯はむしろ珍しく、難しい。

 それを知っているから、何も言えなかった。

 あなたの二人目の相棒は死にました、なんて、軽々しく口にできるはずがない。

「無粋なことを言うな、ファンネ」

 耳慣れない声が突然響いた。

 ファンネさんの隣に陽炎が立ち上り、それを裂くように炎が湧く。さあっ、と辺りが夕焼けに差されるように、煌々と照らされた。目を焼く光に目をふさぐ。いや、光だけじゃない。濃密な魔力もそこにあった。

「ぬ……あい済まぬ。夜には輝きが強すぎたか」

 目を細めて、目の前をそっと見る。

 鎧騎士のような姿が宙に屹立していた。炎の揺らめく勇壮な騎士は、顔のあるべき場所が洞のようで周りの炎に揺られている。

「せ、精霊?」

「うむ。ファンネを守護している。本来、飛翔機にはあまり向かないがな」

 ふっふ、と笑う声に合わせて、火の粉がチラチラと踊る。明るく眩く、まさしく太陽のような精霊だ。

 喋る精霊という高位な存在は、一般的な存在ではない。

 公明正大を是とし発展と克己を好む火の精霊は、確かに比較的高位の者も人に近い。ただ、それを差し引いても、個人と誓約を結び寄り添うというのは、珍しかった。

 呆気に取られる俺を他所に、ファンネさん自身はその精霊を隔意なく見上げる。

「フォウルノーズ」

「うむ、ファンネよ。どうなるかは見届けたであろう。我からも言上したはずだ」

「でも」

 顔を曇らせるファンネさんを振り切るように、火の粉の嵐が吹く。鮮やかな炎が空を焼き、港を塗り変える。

 フォウルノーズは、手を空に差し向け、威風堂々たる威勢で、朗々と揚言する。

「我らが飛翔艇は、最後まで役目を捨てず主を護り、立派に飛び切った! その雄姿は我が記憶に焼き付けた! 我が友、我が翼、我が半身よ! 主のことは、我にあい任されよ!」

 失われた飛翔機の栄誉を謳いあげる、その言葉に、胸を衝かれた。

 唯一無二の飛翔機は友であり、翼であり、半身。まさにその通りだ。むしろ、そうでなければ、本当の飛翔機とは言えない。

 立てる土が空にしかない疎の世界で、空を生きる唯一の手段なのだから。

 昔のことを、思い出す。

 何度か飛行を経験して、初めて空での自由な操縦を許可されたときのことだ。

 歳はほんの六つか七つ。

 妹が学校を志すなんて夢にも思わず、兄を気取っていたころだった。

 島の周囲を離れることは許されなかったものの、親方の飛翔機を借りて、ローレと交代で自由に空を飛んだ。アクロバット飛行なんて余計なことはしなかったが、ただ旋回と上昇と下降をするだけで、頭が爆発するかというほど感動した。

 ただ目の前の大きな棒を握って、動かすだけで、世界が巡り動く。世界を操っているかのような、圧倒的な万能感、空との一体感。

 俺が飛翔機に取り付かれたのは、この経験が契機になっている。

 飛翔機は空を望む人に寄り添う。

 ただ、だからこそ、それを損なうことは、身を削られるように恐ろしい。

 当時の、その飛行の最後。

 前部座席で操縦していたローレが、機体を滑走路に着陸させようとした。

 変に欲張ったりもせず、基本に従って速度を抑え、飛翔板で機体を支えながら、降着装置で滑走路に降りる。たったそれだけのことだ。

 操縦桿が袖に引っかかった、と聞いている。

 当時ローレは、フライトジャケットの袖を開くのがカッコイイと思って、親方に怒られようとも欠かさず開けていた。起きて不思議な出来事ではない。

 機体が突然上向き、浮力の方向が逸れて機体はバランスを崩した。落下し、尾翼を地面に打ち付けた。

 尾翼動翼がへし折れて、吹き飛んだ。

 どんなに飛行中に下降しても、あの瞬間の落下ほど恐ろしい下降はない。

 腰を突き上げる衝撃が背中を叩き、シートベルトが体に食い込む。激震に目が回った。ジーンと足が痛んだことを覚えている。

 親方が顔を真っ青にして飛んできた。

 信じられなかった。

 あれだけ自由に空を飛んだ飛翔機が、たったこれだけのことで墜落する。

 あれだけ自由に空を飛べた飛翔機が、これだけで破損し、飛ぶ力を失う。

 飛翔機を見る親方の絶望した表情は、しばらく夢に見るほど衝撃だった。

 飛翔機を降りるローレの震えた体は、一生忘れることができないだろう。

 空を生きる人にとって、飛翔機という存在はどこまでも重い。

 村人にとってさえ、そうなのだ。

 村人の飛翔機は、親やその親の代から直して整えて受け継いでいく、大切なもの。

 そのために窯の造りを甘くし、どんな精霊にもある程度の負担を強いることで、飛翔機を飛ばせるようにする。そうして何代も共有していくのだ。

 増してそれが、たった一人、たった一体のために作られた飛翔機なら。

 飛翔機とともに、自分そのものと思えるほど近しく、空にあり続けた遊民なら。

 半身を奪われる痛みは、どれほどのものか、想像するに余りある。


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