虫に慣れたい今日
あぁ、虫に慣れたい。
厳密に言えば、虫に慣れてた自分に戻りたい。
今日も近所の女の子が手にバッタを掴んだまま、私の家に来た。
「ほら、いい加減放してやんな」
私がバッタの開放を促すと、燐子ちゃんはそっと手を開き、バッタは命からがらジャンプして畳の上に降りる。
きっとバッタを手に持ってからここまで走ってきたのだろう。
案の定、力加減が曖昧になった握力で握られたバッタは、口から紫色の血を出すくらい疲弊していた。
「バッタさん、元気なくなっちゃった」
「うん」
「お腹空いてるのかな?」
「どうだろう?」
燐子ちゃんは今日も虫を私の家に連れてきては、弱らせて、弱った理由を考える。
一昨日はコオロギを連れてきていた。
コロオギというのは、大人の目線で見ると何とも口にしがたいあの生物に類似している事が理解できた。
お尻の所から伸びている二本の長い部分。あの部分が、あの生物の長い触角とよく似ている。
あぁ、グロテスクな容姿だなぁ…。
昔の私は素手でコオロギを捕まえて、嬉々して親に見せていたのか。今になって、ようやくあの親の苦い表情の裏に気付いたよ。
目の前のバッタに視線を戻すと、バッタはピョンピョンと弱弱しくジャンプしながら縁側の方へ向かった。外の太陽の光に誘われる様に。
「バッタ、逃げちゃうけど。いいの?」
「うん。あのバッタさんはお腹空いてるからお家に帰ってご飯食べるの。だから邪魔しちゃだめなの」
燐子ちゃんはバッタの姿が消えるまで、ずっとその弱った姿を見つめていた。
私は燐子ちゃんに諭すように言う。
「燐子ちゃんは、虫の事、嫌いになっちゃ駄目だよ」
「どーして?」
「私が嫌いだからさ」
キョトンとした表情で、燐子ちゃんは私の顔を見上げた。
小首をかしげながら、燐子ちゃんは訊いてきた。
「お姉ちゃんが嫌いだと、どーして燐子は嫌いになっちゃだめなの?」
「虫の味方がいなくなるからね」
「…じゃあ、燐子は虫さんの事ずっと好きでいるね」
「うん。燐子ちゃんはいい子だね」
私は燐子ちゃんの頭にポンと手を乗せ、スリスリと下敷きでこするみたいに頭を撫でる。
燐子ちゃんはくすぐったい様に笑みを浮かべ、私の体に飛びついてきた。
最近気になる私のお腹に顔をスリスリと当てて、これも最近気になる私の腿の上に頭を乗せて寝ころんだ。
「燐子ちゃん」
「なーに?」
「なんで燐子ちゃんは、毎日私の家に虫を連れて来るの?」
「お姉ちゃんは、燐子が虫さん持って見せると優しい顔になるの。燐子は、お姉ちゃんのあの顔が好き!」
「そう?」
「うん!ちょっと笑ってるみたいな、そんな顔になるの」
予想外の言葉に、私は少しの間言葉を失った。
私が虫を見て笑うねぇ。
今の私は、コオロギに限らず虫という物体を目にしただけで戦慄が走るのに、虫を見てにやけ顔になるとは到底信じられない。
この一週間。燐子ちゃんに毎日弱った虫を見せられてきた。
精神がすり減りすぎて、おかしくなってしまったのだろうか?
「明日は何持ってくるの?」
「んー、分かんない」
無邪気に燐子ちゃんは答え、天井を見上げてそのままウトウトし始めた。
数分もしないうちに、燐子ちゃんはスースーと静かな寝息をたてはじめた。
私は燐子ちゃんをそっと抱き抱え、すぐ隣の燐子ちゃんの家に向かった。
玄関と出たところで、私は何かの視線を感じた。
視線の方へ首を曲げると、先ほど外に出て行ったバッタが庭先でこちらを見ていた。
なぜだか、背中には小さなバッタが乗っかっていた。
〇
「お姉ちゃーん」
「おー、ここにいるぞー」
ドタドタドタと廊下に音を残しながら、燐子ちゃんが走って私のいる部屋に入る。
今日も何かを手に握っている。
今日は珍しく両手を使い、包む感じで何かを持ってきていた。
両手をズイッと私の目の前に突き出し、満面の笑みを浮かべながら言った。
「お姉ちゃん、はい!」
トーンの高い声とともに、燐子ちゃんの両手が開かれ、その中にいた生物を見た途端、私は無意識のうちに一歩後ろに下がっていた。
「それって…」
「燐子の大好きなコオロギさんだよ。ほら、今日は元気もいっぱいなの!」
そう言うと燐子ちゃんは畳の上にコオロギを置いた。
その瞬間、コオロギは俊敏は動きで畳を縦横無尽に走りだした。燐子ちゃんの言うとおり、元気が溢れている。
私は完全に言葉を無くし、絶句しながら、今日もあの事を思った。
あぁ、虫に慣れたい。