鉄翼は天使を追う
「なぁ、知ってるか? 空を覆う雲の上には、天国があるんだってよ!」
それは、誰もが一度は空想し、夢を見て、そして成長する過程で捨ておいていく、よくある御伽噺のようなものだった。
雲の上には天国があって、そこには天使が住み、地上に降り注ぐ雨や雷を、上手い具合に調節しているという話だ。
だが、そういった気象は全て原理があって、そんなファンタジーな要素は介在しない、自然のうちの一つであった。
いずれ気付くこの事実に、しかし俺はいち早く勘づいてしまっていた。
「はぁ? そんなわけないだろ」
友人が嬉々として口にする妄言は、捻くれた否定によって尽く断ち切られる。
それは、疑問を感じる時に片眉を上げ、いまいち年相応の顔をできない、生意気なガキの口から出たものだ。
そしてそのガキというのがこの俺──クラウ・オーロウラであった。
「空に天使だーぁ? いるわけねぇだろ。そんなんは子供騙しの嘘だ、嘘」
俺はこの時、心に溢れた呆れを全面に押し出して言ってやった。
すると、同い年くらいの友人達は口々に俺を糾弾した。
「嘘じゃない、お父さんが言ってたもん!」
とか、
「本当にいるかもしれないだろ! 見てきた訳でもないくせに!」
だとか、
「天国がなかったら、俺達はなんのためにこんな苦労して生きてんだ!」
なんて言いやがる──いや、違う。
最後のは俺の親父の工房で働く無能社員の嘆きだ。
とにかく、当時十歳の俺の友人らは、そんな根も葉もない天使の逸話を、本気の本気で信じ込んでいた。
まぁ、子供ならそう言ったものに関心を寄せられ、信じきったっておかしくない。なんせまだ考える頭脳が育ってないから。
その点、この頃の俺は周りに比べて、頭一つ抜けていた。
「んな雲の上の話より、もっと手前のもん見てみろよ。俺らがまず見るべきは天使じゃなくて、雲だ」
そんな俺の言葉に、友人らは困った顔で目配せをし合う。
見たところ、俺の言っている意味が理解できていない様子だった。
てなわけで、俺は口元を歪めて笑い、それを突きつけたのだ。
「これを見てみろ!」
小さな田舎町の中、いつも友人と集まる空き地の真ん中で、俺はポッケから取り出した紙を広げて見せた。
そこには、俺の自信作である装置の設計図が書かれていた。
「なに? これ……」
「へへん、聞いて驚くなよぉ?」
それは俺が、何度も何度も夜更かしして、好きでもない専門書を漁り、手首が痛くなるくらい書き直した、究極の一品──、
「飛行機体『フローティス』だ!」
それは俺の夢である、『人間の飛行』を遂げるための機械の名前だった。
「エンジンの位置とか、翼の位置とか、めちゃくちゃ拘ったんだぜ! けどエネルギーサイクル効率がまだまだ詰めきれてないから、それは親父と相談して決めてくつもりだ。それから、これと相似な模型も作って実験する! これが成功すれば、人が空を飛べるんだ!」
希望に満ち溢れ、夜空に瞬く星星よりも煌めいていた俺の瞳に対して、友人ら再び目を合わせ合い──、
「ぷっ、あははは!」
そうして、大声を上げて笑ったのだった。
~~~
「ちくしょう。んだよ、あいつら」
足に対して大きめの安全靴を泥で汚しながら、俺は家に戻った。
最近は雨が多くて、ところどころ粘着質な泥に足を取られたりする。歩くだけで不便を感じさせられることに、俺のイラつきは拍車がかかる。
不機嫌なまま、俺はダイニングの机の上に『フローティス』の設計図を叩きつけた。
「天使は信じて、『人間の飛行』は信じねぇって、どういう神経だよ! くっそ! 道理で宗教がなくなんねぇわけだ!」
俺は怒りをそのまま口にして、椅子の上でふんぞり返ってため息を着く。
昔から、一人でいると思ってることを独り言にして口から零してしまうのが、俺の悪い癖だった。そしてその思ってることというのが、大抵は怒りや不満だったから、毎日親父に注意されていた。
そしてその時も、俺は後ろから軽く頭を小突かれた。
「いてっ」
声を上げる俺は、それが誰にされたのかすぐに分かった。だから振り返った時、眼前にあるであろう顔にも見当はついていた。
「親父……」
「クラウ、今日は何にイラついていたんだい?」
親父は眼鏡をかけた、白髪のおっさんだ。
着ている服はいつも作業着で、色んなところが汚れていて、オイル臭い。おかげで、親父が料理する時はいつも引火しないか不安になる。
「いつも言っているけれど、そうやって感情のままに、言動に棘を持たせてはいけないよ」
「分かってる……でも、あいつらが俺の『フローティス』をさ……」
俺が不服そうに呟くと、親父は俺の設計図を開いて見つめた。老眼と近視が両方始まってた親父は、何度か首を前後に揺らした後、ゆっくりと隅から隅まで、舐めまわすように俺の設計図を読んだ。
「うん……図は綺麗だ。寸法の書き方も、用いてる規格も正しいね」
「おぉ! だろだろ! めっちゃ勉強したんだよ!」
「情報が整理されて読みやすいな。だが、肝心の機体の設計が甘いな。見たところ、これの目的はお前がいつも言ってる、『人間の飛行』だな。だが、これじゃあ飛びやしない」
親父は俺の設計図を、いつも朝に読む新聞みたいに広げて、俺の隣に座って話をしてくれる。
「いいかぁクラウ。飛行機体を作るなら、流体力学の知識も必要だ」
「りゅう、たい……ドラゴン?」
「ははっ、そっちの竜の話じゃない。流体力学だ。流れる体と書いて、流体だな。水とか、空気とかの流れについての学問だ」
親父はいつも、俺の馬鹿みたいな設計の話に付き合ってくれた。
田舎町にある小さな工房で、車や家電なんかを直す何でも屋。それが俺の親父の仕事だった。だから親父は、モノづくり関連の学問は、一通り習得していた。
そんな親父は、まだ誰も成し遂げていない、『人間の飛行』という俺の夢を、唯一笑わなかった人だった。
「翼に掛かる力を計算するんだ。こうして翼の図を書いて、力の掛かる方向を矢印で示せばいい。そしてこの上向きの力が、下向きの重力に勝ったその時、理論上は飛行が可能やもしれんな」
「あぁちょっと待ってくれ親父! 一気に言われちゃわかんねぇよ! いくら俺でも!」
そうして、『人間の飛行』という偉業の夢は、俺と親父の談笑の種にしか、なっていなかった。
~~~
ある日、俺の住む街に、嵐が来た。
比喩とかそんなんじゃなく、ガチのマジの、自然の嵐だ。
「おぉー、うるっせぇー」
ガタガタと音を鳴らす窓から、俺は暗い外を眺めていた。
強い風と、肉を貫通しそうなくらい速い雨。そして、腹の底に響くような雷の轟く音。それは、黒い雲が空を覆い、地上を洗っていくような、やかましい非日常だった。
こうなっては学校にも行けず、遊びにも行けず、仕事だって大半が休みになる。ほとんどの人は、この嵐を忌々しく思うだろう。あるいは、思いがけない休みに狂喜乱舞する奴もいるかもしれない。
俺はと言うと、別に喜びもしないし、かといって嵐が嫌いではなかった。
嵐が来ると、町が暗くなるのがうざいくらいで、あとは非日常って感じで、少しだけワクワクする程度のものだった。
俺はこの日、親父の言っていた流体力学の教科書なるものと睨めっこをしていた。
算術はある程度心得ているつもりだったが、目の前に展開される理論は、最初の二行くらいしか分からなかった。
なんせ、知らない記号ばかりだったから。
しかしニュアンスは伝わってきた。書かれている用語の中には聞いたことのあるものもあり、それを学術的に解明された仕組みを図で見て、面白いと思わないこともなかった。
だが、俺はその分厚い教科書を閉じて思う。
俺には、早すぎる。
「おいおいマジか。俺がわかんねぇのなんて国語ぐらいだと思ってた」
思ったことを口にする性格のせいか、文字の裏に隠された意味を推測するのは苦手だ。だから国語だけはいつも平均くらいしか取れない。
あれは俺のセンスの問題だが、流体力学に関しては、時間をかけてゆっくり積み上げていけば、いずれ分かることだろう。
「にしても、こんなに難しい理論まで持ち出しておいて、まだ『人間の飛行』はできてねぇのかよっ」
俺はぴょんと踵で跳ねて、ベッドに背中からダイブした。うちの古いベッドはあまりバウンドさせてくれず、体重分の衝撃が音になって家に鳴り響くだけだった。
「無理、なのか……?」
視線は上を向いているのに、気分はどんどん沈んでいった。これだけ理論が完成されているのに、誰もまだ空を飛んでいない。
と言うより、そもそも誰も飛ぼうとしていない。
今の移動の主流は車と船。空を飛ぶなんて発想は、常人には湧かないのかもしれない。
だからその研究者も少なく、誰もが夢物語だと鼻で笑うのだ。
そんな価値観に直面したからか、俺は自信を失いつつあった。
もしかして、『人間の飛行』なんてのは、天国よりも信じ難い妄言なのだろうか。
「はぁぁ……くっそ……」
俺はため息を着き、なんとなく窓の外を見てみた。
まだ雨は弱めだが、いずれ強まって家の壁に打ち付けられ始めるだろう。そうしたらいよいよ、外には出られなくなる。
それに、空に立ち込める暗雲の中には、紫色の稲妻が迸っていた。確率が低いとはいえ、落雷する可能性のある今、外に飛び出す理由なんてものはなかった。
「……暇だぜー……」
親父は隣の街に出張の依頼を受けていた。だからこの日は家に俺一人。食事も風呂も別に自分でできるが、暇潰しだけは、俺一人で完結させるには限度がある。
首を百八十度曲げた先には、俺の勉強机と本棚があった。
本を読むなり、勉強するなり、やろうと思えばやれることはあるのだが、面白さでいえば、そいつらは戦力外もいいところだ。
「はぁ、なぁんか面白ぇことでも──」
そう呟きながら、俺は再び窓に視線を向けた。
──その時だった。空から光が落ちてきたのは。
「……あ?」
一瞬、雷かと思った。
だが、それは違うとすぐに分かった。
だってそれは、雷みたいに素早いジグザグの光じゃなくて、丸っこくてゆらゆらと揺れる、綿毛みたいな光だったから。
「なんだ?」
気になった俺が窓に寄り、外を凝視する。風に虐められる草原の中に、それは右往左往しながら、力無く落ちた。
なんで力が無いように見えたのかわからなかったが、とにかく、俺はそういう所感を得たのだ。
着地した光はスっと消えて、代わりにその場所に、俺は人影を見た。
「はぁ? どういう──」
その時、一際大きな雷鳴が轟き、雨がいっそう強まってきた。風は轟々と今も吹き続け、ちびっ子なら吹き飛ばされてもおかしくない具合だ。
そして、俺の視線の先にある人影は、吹き飛ばされてもおかしくないくらいの大きさをしていた。
「なっ、ん~っ、あぁくっそ!」
俺は居ても立ってもいられず、家のドアを蹴破るように開け放って外に飛び出した。
全身を殴られるような風を受け、一瞬怯んだ俺だったが、負けてやらないと踏ん張って走った。
部屋から見えた草原は東側だ。
俺のくるぶしくらいまで生えた草の中を走っていると、靴下がすぐにびちょ濡れになった。
「おーい!! どこだ!!」
俺は確かに見た人影を探し、嵐の中を歩いていく。この瞬間も雷が鳴っており、なんだか例年の嵐の時よりも多い気がした。
恐怖もあったが、それよりもあの光と人影が気になった。そうして諦めずに突き進んでいると、俺は不思議なものを見た。
「な、んだ、あれ……?」
緑の草原の中に、白いふわっとしたものが伸びていた。近づいて見た時、俺は仰天した。
「翼……!?」
それは、白くて大きな翼だった。しかし、片方の翼は黒く焦げていて、肉と関節が顕になっていた。
そして、その翼の下には、うつ伏せになって動かない、俺と同い年くらいの子がいた。
「おい! お前! こんなとこ居たら、死ぬぞ!」
俺は、その子が着ていた半透明の白い服を引っ張った。その子は死んでるわけじゃなかったが、かなり体力が消耗されているらしく、「んん……」と答えるだけだった。
「くっそ……しゃーねーな!」
俺はその子の手を自分の首に回し、思いの他重たい体を引きずりながら玄関へと向かった。
ころころ方向を変える風に抗いながら、俺は何とか、その子を連れて中に戻ることができた。人を抱えて歩くというのか、なんて大変なんだろう。
俺は改めて、肩車してくれていた親父に感服した。
「さて、と……」
びしょ濡れの俺は、同じくびしょ濡れの謎の子に目を向ける。うるさい自然の雄叫びは、もうあまり聞こえない。
そのおかげで、ここが安全だと分かったのか、その子はゆっくりと目を開け、上体を起こして俺を見た。
「あ、れ……僕……」
明るい照明のある場所で見ると、その子は随分、人間離れしている容貌に見えた。
白髪に、白く透き通るような肌、そして青い瞳。どれも俺が見た事のないような身体的特徴だった。
そりゃ、違う国に行けばそう言った色の特徴を持つ人もいるんだろうが、こんな田舎町に他国の観光客が来るとは思えないし、それ以上に、俺の目を引くものをこの子は持っていた。
「お前……その、背中のそれは……」
「えぇ……ぁ、これ?」
俺がそれを指さすと、その子は持ち上げて見せてくれた。
自分の体の一部みたいに。
「んん?」
その子は眠たげなたれ目のまま、首を傾げていた。俺の反応が奇妙なのかと思ったが、そんなわけがない。
さっきは見間違いかと思ったし、逼迫していたからあまり考えていなかった。
だが、こうして落ち着いて見てみると、そいつはやはり、あれにしか見えなかった。
「……天使みてぇ」
そいつは、御伽噺に登場する架空の存在に酷似していた。
~~~
「僕は、ソラリス。助けてくれてありがとう!」
背中に翼を持つその子──ソラリスは俺に対し、柔和な笑みと共に感謝を伝えてきた。
ソラリスはとにかく白いという印象で、およそ人離れした美しさがあった。
しかし当時の俺は、そいつの小綺麗さよりも、背中の羽が気になってしょうがなかった。
だって、人間に翼が生えてるなんて話、聞いたことがなかった。その特徴は正しく、あの御伽噺に登場する天使そのもの──
「……俺は、クラウ・オーロウラだ」
「クラウ! 君の名前はクラウって言うんだね。よろしくねっ、クラウ」
ソラリスは人懐っこくて、すぐに心を開いたようだった。嵐の中から助けたっていうのもあるんだろうが、それ以上にソラリスの爛漫な笑顔には、人を疑うという発想すらないように見えた。
「僕は天使なんだ。良ければ、僕ができる範囲で君の願いを──」
「お前ちょっと、その背中見してみろ」
「えっ、うわぁ!?」
俺はソラリスの肩を掴み、無理やり後ろを向かせる。
白い羽が集まってできており、触ってみるとちゃんと暖かい。装飾品とかでもなく、きちんと血が通っている感触があった。
そうして、俺は興味のままに翼を触っていたが、左の翼──黒く焼け焦げた方の翼を見て、俺は目を細める。
「……お前、雷にでも当たったのか」
「あ、えっと……」
左の翼に羽はほとんど残っていない。代わりに皮膚が露出し、しかし肌に火傷などは残っていなかった。
「いやてか、なんで翼なんか生やしてんだよ?」
「ぼ、僕が天使だからだよ。さっき言ったのに」
「天使ぃ? いるわけねぇだろ。そんな架空の存在が」
「えぇ!? 君の目の前にいるのに!?」
俺はその時、断固として天使の存在を認めなかった。たとえ目の前に本物がいたとしても、だ。
「まぁいいや。とりあえず濡れちまったしよ、風呂にでも入っか」
「フロ?」
「あぁ? まさか風呂を知らねぇのか?」
「んー、僕の住むところには、そんなものなかったなぁ」
「お前、地元どこだよ」
「雲の上の天国さ」
「いつまでその設定引きずるつもりだ?」
「せ、設定なんかじゃないよ! 本当のこと!」
ソラリスは両手を振りながら俺に反抗した。俺はそんなソラリスの言葉を聞き流しながら、風呂場にまで引っ張っていった。
脱衣所まで水滴の道を作りながら進むと、俺はタオルを用意して、ソラリスに一言命じた。
「ほら、服脱げ」
「え、え!? 君の前で!?」
「あぁ? 別に気にすることじゃねぇだろ」
「い、嫌だよ! 不純だ!」
俺はいっぺんに入ってしまえば時短になると思ったが、ソラリスは頑なに俺の前で服を脱ごうとしなかった。
そんなに嫌がるならばと、俺は先に風呂を譲った。
譲ったのだが──、
「ね、ねぇ! これは、どうやって使うの!?」
「目が痛い! なにこれ! 呪い!?」
「ねぇ見てクラウ! 丸い透明なものが飛んでる!」
「うるっせぇ!」
ソラリスはとにかくはしゃぎ回っていた。髪を洗い、シャワーを浴びて、お湯の溜まった風呂に浸かるだけで、ソラリスはどたんばたんと音を立て、一緒に入るなという癖に、ずっと俺の名前を呼んでいた。
だから俺は脱衣所から離れることができず、濡れたパンツだけになって扉に寄りかかっていた。
「~~♪~~~♪~~♪~~」
体を洗い終え、ようやく風呂に浸かったらしいソラリスは、家中に響くくらいの歌声を披露した。綺麗で高い声だったが、音程はあまりあっていないようで、透き通るような声が台無しだった。
そして、ようやくソラリスが風呂から上がってくると、
「うわぁ!? なんでそんなとこにいるの!?」
「お前の話に付き合ってやってたんだろうが!」
そんな一悶着もありつつ、俺とソラリスはなんとか風呂を終えた。
ソラリスが入った後の風呂には、白い羽がいくつも浮いており、俺はそれを取り除いたあと、なんとなく風呂に浸かるのを諦めた。
「はぁぁくっそ、とんだ災厄だな」
「何が?」
リビングで水を飲んでいたソラリスは、疲れ果てた俺に対してそんなことを言ってきた。
そいつは、俺と出会った時と同じ服を着ていた。
なんでも、天使の服は濡れてもすぐに乾くらしい。そんな馬鹿な話を、俺は信じないが。
「そんで、ソラリスはどこから来たんだ?」
「だから言ってるじゃない。天国から来たんだって」
「まだ天使って言い張るのか。頑固なやつだな」
「どちらかと言えば、頑固なのは君だよ!」
ソラリスは確かに、天使の特徴をこれでもかと詰め込まれたやつだった。
でも何故か、俺は天使という存在を認めたくなかった。それを認めてしまうと、自前で翼を持ち、空を飛ぶ彼らでなくては、空を飛ぶことなど叶わないと言われているような気がしたのだ。
「……まぁ、一千万歩譲って、お前が天使だとするよ」
「そ、相当だね……」
「お前、片翼がそんなんじゃ飛べねぇんじゃねぇの?」
俺の指摘に、ソラリスは表情を暗くして、しかしすぐに微笑んで頷いた。
「そう、だね。傷は治せるんだけど、羽までは、まだ僕じゃ無理みたい」
俺はソラリスの笑顔を見て顔を顰めた。
無理してる顔だって、すぐに分かった。
「……なんで、あんな所に?」
「うーん……僕が天使だって、信じた上で聞いて欲しいんだけど」
「あぁ……まぁ……」
「嫌ならいいよ」
いまいち首肯しきれない俺に、ソラリスは目を細めてそう言ってきた。俺はここで観念して両手を上げ、一旦ソラリスの話に耳を傾けることにしたのだった。
~~~
ソラリスの話は、俺の知る御伽噺に似ていた。
雲の上にある天国に住んでいて、そこには雨だったり雷だったりを操る天使達がいるのだとか。
ソラリスはその中でも最年少で、空を飛ぶまではできるが、まだ天候を思いのままにすることはできないらしい。
そして、そんなソラリスが何故ここにいるのかと言うと、
「嵐を止めようとしたんだ」
「止める? 嵐を?」
聞いた話では、最近この世界に、超巨大な嵐の親玉みたいなのが生まれてしまったらしく、天国にいる天使達は、その嵐を弱体化させるのに苦心しているらしい。
俺の街を襲っている嵐は、その巨大嵐の一部分のようなもので、ソラリスはそれを更に弱めようと、天使の力を用いて奔走した訳だが、
「負けちゃって……雷を当てられちゃったんだ」
「嵐にそんな、攻撃意思があるってのかよ?」
「あるよ。さっき言った嵐の親玉──ストリンは、地上のあらゆるものを吹き飛ばし、更地にしようとしている。そうなってしまえば、人類は軒並み雨に呑まれ、雷に打たれてしまう。僕達は、それを防ぐためにいるんだ」
話のファンタジーさは拭えないものの、辻褄はあっているような気がした。
最近妙に雨が多いと思っていたのだ。ラジオでも、各地の雨風にご注意をという警鐘が毎日鳴らされている。
「その、ストリンってやつはどこにいんだよ」
「大地から最も離れた場所、大海の真ん中に彼はいる。今は海から力を吸い上げている最中で、こうやって弱い眷属を放っているだけだけど、いずれは彼本人が世界中を回るかもしれない」
「彼って……嵐に性別まであんのか」
俺の知る工学や科学の世界ではまずない発想だ。各地に相次ぐ悪天候が、まさか嵐の意思だとは誰も思うまい。
「本当なら、僕はこの嵐をただの雨にするつもりだった。でも僕はまだ見習いだから……負けちゃったんだ……」
ソラリスは気を落としながらそう言うと、自分の焦げた翼を広げて見た。
怪我をした鶏みたいに、片翼だけが醜くなってしまったソラリス。もう、この空を飛べないということにかなり落ち込んでいるようだった。
「どうしよう……これじゃあ、天国に戻れない……」
ソラリスは泣きそうな顔でそう言った。さっきまで風呂場であんなにはしゃいでいた奴と同一人物だとは思えないくらい、悲壮感に溢れていた。
そんなソラリスを──否、翼を見て、俺はじっと考え込んでいた。
その翼を見つめていると、不思議と重なるものがあった。
それは、俺の知識を詰め込んで描かれた、『フローティス』の設計図だ。
「……なぁ、もしかしたら、お前また飛べるかもしんねぇぞ」
「えっ?」
俺の言葉に、ソラリスは跳ねるように振り返った。涙が浮かぶ瞳には、一抹の希望が宿っていて、そんな目を向けられてしまっては、俺も黙ってはいられなかった。
「へっ、ちょっと待ってろ」
俺は部屋から飛行機体『フローティス』の設計図を引っ張り出し、彼の目の前で広げて見せる。
「この翼、参考にしたのは鳥の羽だ。材料の硬度と耐久性を考慮してこの形になってるが、お前の翼に合わせるなら、たぶんもっと自由に作れる!」
「えっと、つまり?」
俺は口元を三日月のように歪めて言った。
「俺が、お前の翼を作ってやるって言ってんだ!」
~~~
「邪魔するぜ!」
俺はソラリスを連れ、親父の工房へ足を踏み入れた。嵐の日で休みだから、そこには誰一人としていない。
親父の仕事をたまに手伝う俺は、工具の使い方と寸法の読み方、機材の知識も粗方頭に入ってる。
材料はひとまず、有り合わせのもので検討することにした。
「ソラリス、この嵐はあとどんだけ続く?」
「えぇっと……大きさから見て、明日の夜には弱まる、と思う」
「わぁった。てなると、親父が帰ってくんのはたぶん明後日だな」
親父は出張に出る際、必ず一日分余分に食事などの準備をしてくれている。予定では明日帰ってくるはずだったが、嵐が長引くなら帰宅も遅くなるはずだ。
それまでに、ソラリスの翼を作る。
「ど、どうするの?」
「一旦寸法を測る。その後に材料を検討して、お前の体に合うように作る。あんま重たくしちゃあれだかんな。金属は極力、接合部位以外には使わねぇようにしよう」
俺の意欲はこの時止まらなかった。
まるで俺じゃないみたいな頭の回転で、やることをどんどん紙に書いていった。そして大方流れを決めると、まずソラリスの翼の大きさを測った。
「鳥が空を飛べるのは、空気の流れを翼で掴んでるから。掴んでるってのはつまり、重力以上の上向きの力を得ているからで……」
風に当たる面積と翼弦長から得られる力を計算し、モデル化して考えてみる。シミュレーションと現実は違うから、少し余裕を持った設計にしなければきっと飛ばない。
それから、風速も重要だ。鳥はあまり風の吹いていない時でも飛べるが、ある程度の風があるなら羽ばたかず、翼を広げるだけで滑空できる。
風の強さと向き、それも考慮しなきゃいけないが、
「それは後だな。一旦、この案で軽く作ってみるか! 手伝え! ソラリス!」
「う、うん!」
俺は早速、余り物の材料のある倉庫を開けた。
ここは親父が趣味でものづくりするときに使う材料が置かれた場所だ。事故とに使うものじゃないから、リストなんかも無い。
つまりは、ご自由に使用可能ってやつだ。
「羽部分は布か皮にしよう。取り付けることも考えると、付け外しができた方がいいか。だから、これとこれとこれと……」
俺は色々な材料を引っ張り出し、ソラリスに持たせて工房に戻った。俺より細身のソラリスだったが、腕力は俺よりあるようで、俺では到底持てない量の材料を運んでくれた。
「うし、ひとまず布と革で比べてみっか!」
俺は両方の材料に線を引き、俺は布を、ソラリスには革を切ってもらう。ソラリスは最初は困惑していたが、仕事を与えると案外楽しそうに乗ってくれた。
布をいち早く裁断した俺は、それを何枚か重ねて縫合し、関節部位に取り付けるための機構を作る。
材料は革にして、同じ部位に穴を開け、布を合わせてボルトで締める。求める規格のボルトを探すのには苦労したが、ものの数時間で、俺はソラリスの片翼第一号を作り上げた。
「ほらソラリス、見てみろ!」
「うわ! なにそれ!」
ようやく革を切り終えたソラリスにそれを見せると、ソラリスは目を輝かせて俺の作製品に飛びついてきた。
それがなんだか嬉しくて、俺は話したを指で擦った。
「早速つけてみるぞ!」
俺はソラリスの左翼にそれを取り付けてみる。上から関節を包み、パチンとボタンで閉じるそれは、羽の少ないソラリスの片翼を覆うことができていた。
できていたのだが──、
「……でけぇな」
「うん、ちょっと大きすぎるかも」
しくった。
完璧な右翼の方を参考にすべきだった。裁断した布の形も甘いし、完成品だけで見れば立派でも、いざ取り付けるとお粗末さが際立ってしょうがない。
「おーけーおーけー。何事にも失敗は付き物だ。羽がデカすぎんのと、まぁ見た感じ布じゃ風を掴めなそうだ」
「じゃあ、革でやる?」
「一旦そうするか」
ソラリスに切ってもらった革の大きさを更に調整し、きちんとなめしてから、俺はソラリスの片翼第二号を作り上げた。
その頃には、外はすっかり真っ暗になっていた。
「付けるぜ」
「うんっ」
俺と二人で作った羽に、ソラリスもテンションが上がっている様子だった。
だが、二号を被せた瞬間に、ソラリスの表情が曇った。
「お、もい……」
その片翼第二号は、ソラリスには重すぎるらしかった。
「なーるほど。布だと軽いが、革だと重いのか……」
そしておそらく、重たい原因は翼の部分だけではない。関節に固定するための機構も起因しているはずだ。なにせ、強固にするために金属を使用しているから。
だが、そこを妥協すると安全性ががくんと落ちる。空を飛んでる間に外れてしまっては、翼という機能は果たせていないも同然だ。
「んー……布じゃ空は飛べねぇし、革じゃ重くて動けねぇし……どこを削るべきだ?」
「……そういえば」
机に肘を置いて考える俺に、ソラリスが自分の右翼に触れて言う。
「僕の羽って、場所によって大きさが違うんだ。ほら、外側は大きくて、内側は小さく細い」
「……翼の耐久性は、一様じゃない?」
「たぶん、そうかも。だから、弱くてもいい所は軽いものにして、強くなきゃいけない場所に革を使う……っていうのは、どう?」
そのソラリスの言葉は、天啓のように俺の心に突き刺さった。
俺は指をパチンと鳴らし、ソラリスに振り返った。
「ナイスアイデアだ、ソラリス。お前、俺に似て天才だな!」
「本当? 僕、天才なの!?」
「あぁそうだぜ! やっぱ他人と作んねぇと、新視点は生まれねぇな!」
俺は早速、第三号の制作に取り掛かった。こんなに夜更かししたのは、『フローティス』の設計図以来──否、その時よりも俺は情熱を持って、この翼を製作していた。
布と革を組み合わせ、色んな接合技術の乗った参考書を元に、最適なものを選択して繋げていく。
そして、太陽が昇ってくるくらいの時間になった時、俺は片翼第三号を作り上げた。
「しゃあ! 完成だ!」
「おぉ!」
布より丈夫で、革より軽い。
二つを合わせたハイブリットウィングだ。
俺はそれをソラリスの取り付けると、ソラリスは右翼と一緒にそれを広げて見せた。
「重さはどうだ?」
「ちょうどいいかも! 少し違和感はあるけれど、これくらいなら僕が調整すれば!」
彼は翼をはためかせてみせる。
すると、工房の中に風が渦巻いた。俺が体勢を崩すくらいの強い風だ。
これならきっと、ソラリスは空を飛べる。
「ぃよし! 完璧な翼が──」
その時、拳を振り上げ、ガッツポーズをした俺の視界が一気に暗くなった。
「──ぁ?」
「ッ、クラウ!?」
視界がぐらついて、横向きに倒れていく中、最後に強い衝撃を体に感じながら、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
~~~
「ん、あぁ……?」
目を覚ました時、俺はリビングのソファの上にいた。
汚い作業着ではなく、下着にひん剥かれていた俺が起き上がると、テーブルの上には飯と水が置かれていた。
「あ、起きた?」
まだぼんやりする思考、そのピントをなんとか合わせていた俺に、ソファに飛びつくソラリスがそう声をかけた。
「あぁ……俺、寝てたのか?」
「一晩中作ってたからね。仕方ないよ。君はまだ若いんだし、僕も楽しくて付き合っちゃったけど、本当なら寝なきゃいけなかった」
まるで母親のようなことを言うソラリスは、俺の頭を撫でて微笑んだ。その顔を見ていると、俺はなんだか無性にビンタしたくなった。
それは良くないと顔を背けると、昼の十二時を指す時計を見た。
今日は学校があったはずだが、まぁおそらく嵐で休みだろう。
俺は空腹を感じ、テーブル上の食事に手を伸ばそうとして、気付いた。
「お前、それずっと付けてんのか?」
「うん! 僕と君で作ったものだもの。外したくなくてさ」
ソラリスは左翼に、俺らで作った第三号を付けたままにしていた。ずっと纏っていては辛かろうと思ったが、これから空を飛ぶのに用いるのであれば、その重さに慣れるのも必要かもしれない。
そう考えながら、俺は暖かい豆スープを口にして、ふと気付く。
「そういや、俺昨日の夜からなんも食ってねぇのか」
「そうだね。ごめんよ、僕のために」
「あぁ? 気にすんなよ。俺がしたくてやったからな。つか、お前は食わねぇのか?」
食事は俺の分しか用意されていなかった。台所を見ても、洗い物は昨日の俺の昼ご飯分しかなかった。
「僕は天使だから、食事はいらないのさ」
「はぁーん、なんかつまんなそうだな」
「つまんない?」
「美味いもの食うのって楽しいんだぜ? ほら、これ食ってみろよ」
俺は豆スープを救ったスプーンをソラリスへ向ける。ソラリスは少し躊躇ったあと、それを咥えて何度か咀嚼してから、
「うぇ」
「あ、お前!?」
ゴミ箱に向けて吐き出した。
「うぇぇ……人間の食べ物は、不味い……」
「はぁ!? 豆スープ美味ぇだろ!」
「天使の口に、地上の食べ物は合わないんだ。僕らは食べないんじゃなくて、食べれないんだよ」
「マジかよ……」
もしかしたら、俺の世界一好きなピクルスも食えないということだろうか。
あの酸っぱさと塩っけ、そして軽快な音を立てる食感をひっくるめて、彼は不味いというのだろうか。
それはピクルスではなく、彼の舌が悪いと言わざるを得ない。
「なら、お前らはどうやって成長すんだよ」
「天使は力のある他の天使から力を分けてもらうんだ。僕の場合は、僕のお姉ちゃんからかな」
「姉がいんのか」
「うん……きっと、僕のこと心配してる」
そう言う彼は、窓のカーテンを退かして外を眺めた。
昼なのにまだ暗い外には、びゅうびゅうと風が吹き続けている。しかし、雨音はしていなかった。
「ねぇクラウ。君がそれ食べ終わったら、一回外で飛んでみてもいい?」
「おうそうだな。確かに飛んでるとこは見てみてぇな。ちょっと待ってろ今すぐ食い終わらせる」
「いや、あんまり急がなくても──」
「ご馳走様。おし行くぞ、ついてこい」
「はっや!? まだ半分くらいなかったっけ!?」
全てを丁寧に平らげた俺は、食器を机の上に置きっぱにしたまま、ソラリスを連れて外へ出た。
雨は降っていなかったが、相も変わらず風は強かった。
空を見上げると、暗雲の隙間から所々に天使の梯子と白い雲が見える。なんだか奇妙に入り交じったそれを見ていると、ソラリスが空を指さしながら言った。
「今はおそらく、嵐の目の中にいるんだね」
「目?」
「そう。嵐は渦を巻いているんだけど、その真ん中の目と呼ばれる場所は、不自然なくらい穏やかなんだ。面白いよね」
確かにそこは雷もなく、風が吹くだけの穏やかな世界だった。普段は寝たり設計図を書いてばかりだから、そういう天候にまで意識したことはなかった。
「もしかしたら目に見えないだけで、嵐の心臓はここにあるのかもって、お姉ちゃんが話してた」
「嵐に心臓なんてあるわけねぇだろうに」
もしそんなものがあるなら、見てみたいものだ。
「よし、それじゃあやってみるぞ!」
「うん!」
立つのは、俺とソラリスが出会った草原だ。
風が吹く方を見ながら、ソラリスは大きく深呼吸している。俺はそれを、少し離れた場所で見つめていた。
「ふぅぅ……よしっ」
ソラリスは決意めいた表情をすると、向かい風を抑え込むように、両翼を大きく広げて羽ばたいた。
一際大きな風が吹いたその時、ソラリスの足は、地面から離れていた。
「──おぉ」
俺はその時、声が出なかった。
「うわっはは!! 見てよクラウ! 僕、飛んでるよ!」
ソラリスは風の流れに乗り、翼を上手く操って空を泳ぐように飛んでいた。
滑空、上昇、下降まで可能で、第三号はまるで彼の体の一部のように機能していた。
その景色に、俺は言いようのない感動を心に宿して──
「うわぁ!?」
その時、バチンと音がして何かが弾けた。
呆けていた俺はその音で我に返り、すぐさまソラリスへ目を向ける。
彼は空中で体勢を崩し、風に押されながら落ちてきていた。第三号は彼の左翼から外れ、風邪に流されてしまっていた。
──壊れた?
「マジか! くっそ!」
俺は咄嗟に走り出し、落ちてくるソラリスを、濡れた草原をスライディングしながらなんとか受け止める。
そしてついでに第三号を掴みあげ、なんとか事なきを得た。
「お、おい、大丈夫か!?」
「うん! はぁぁ、びっくりしたぁ!」
心配する俺とは裏腹に、ソラリスは満面の笑みでやり切った雰囲気だった。
「ったく、ひやひやしたぜ……」
「大丈夫だよ。落ちることなんてよくあるし、僕ら天使は、人間よりずっと丈夫なんだから!」
ソラリスと出会った時のことが思い出される。確かにあの時、ソラリスは嵐の中で落下したというのに、体に傷一つなかった。
とはいえ、やはり知り合いが落下する様をみすみす見過ごすこともできなかった。
「クラウは優しいね」
「かもな。つかそんなことより、第三号の問題点発覚だ。すぐに直すぞ」
「うん!」
進捗としては失敗過程だ。
飛行者落下を目の当たりにして、俺は肝を冷やしたが、当のソラリスはご満悦といった様子だった。
一日ぶりでも、飛べないはずの天使が飛べるのは、嬉しいことだったのかもしれない。
「……っし」
俺は完全な翼を作るため、気を引き締めて工房に戻ったのだった。
~~~
「んー……」
バチンと音がして、制御を失った第三号はソラリスの左翼から離れてしまい、そのまま落下した。これでは、翼は完成とは言い難い。
そして、その原因は何かと言うと、
「ボルトが、外れちまってるな」
関節部位に取り付けるための機構が、強風に立ち向かうには接合が甘かったらしい。
「俺が思うに、基本的に空飛ぶ時って向かい風だよな」
「そうだね」
「よな~、じゃあそれに耐えられる何かにしねぇと……」
ボルトでは不十分なのは分かった。
他に俺が思いつく金属結合は、溶接だ。
だが、溶接は一度してしまうと修理が大変になるし、そもそも他の部位が熱に弱い。溶接は選択肢としては最悪だ。
だからといって更に強固なボルトを使うとなると、穴の寸法変更や、重量の増加などがあってなかなか手を出しずらい。
どうしたものかと、俺が頭を悩ませていると、倉庫を漁っていたソラリスが俺の名前を呼びながら、一つの箱を持ち出した。
「ねぇ、このボルトはどうやって使うの?」
「あぁ?」
俺はソラリスが持ってきた箱の中身を見た。今はボルトは必要ないが、一応ソラリスからの問いに答えるつもりで、俺はそれを覗き込んだわけだが──、
「──おいおい、これ、使えるかもしれねぇぞ」
その金属が形を作ったものを見て、俺は新たな勝機を見出した。
俺が手のひらに乗せたそれの名前は──、
「リベット! これなら重さを変えずに、接合の強度を高められる!」
リベット──それはネジ山を持たない締結部品で、締結部位に差し込んだ時、反対側の端部を潰したり変形させたりすることで接合するものだ。
ボルトよりも少し外しずらくはなるが、強度はあがるだろう。これなら熱も使わないし、今回の製作にはぴったりだろう。
「でかしたぜソラリス! これでお前はもっと飛べるはずだ!」
「本当!?」
こいつは本当に、いいタイミングでいいものを見つけてくる。
俺はリベットを手に、早速片翼第四号を制作した。
「そこ、抑えてろ」
「うん!」
壊れたボルトの代わりにリベットを使うから、接合部位も少し変える必要がある。俺はまた一から設計を見直し、今までの失敗と成功を踏まえた上で、最高の逸品を作り上げた。
製作にかかった時間は八時間。もう日が落ち、また少し雨が降り始めた頃、それは完成した。
「出来たぞ……俺達の、最高傑作だ!」
「やったぁ!!」
片翼第四号。接合は強く、風をよく捕まえて、重量も軽い。見た目がお粗末なのが玉に瑕だが、そんなことはどうでもいい。
「行くぞソラリス!」
「うん!」
翼にそれを取り付け、さっきと同じ場所でもう一度離陸を開始する。
「ふぅぅ……」
深く息をつくソラリス。今度は壊れないでくれと願う俺は、息を呑んでその様を見守っていた。
そうして少し待っていると、ソラリスの足が地面から離れていく。
「行くよっ、向かい風!」
ソラリスは大きく翼をはためかせ、再び空を泳ぐように飛び始めた。
風に乗り、どんどん上へ上へと上がっていくソラリス。自由に飛ぶ鳥よりも更に自由気ままに飛んでいくソラリスはいずれ見えなくなり、そしてしばらくして、遥か彼方の空からまた降りてきた。
「クラウーー!!!」
街中に響きそうなほどに叫びながら、笑い混じりの呼び声が聞こえた。ソラリスは笑いながら、強い風の中を縦横無尽に飛び回り、最初から第四号が自分の肉体の一部であったかのように、何不自由なく動いていた。
俺は思わず「よしっ!!」とガッツポーズをした。
「しゃぁあ!! 成功だぜっ!!」
「いぇぇーいい!!」
俺は胸がじんわり熱くなるのを感じた。
人ではなかったものの、飛行というものを、自分の力で成功させたということに、俺は猛烈に感動したのだ。
「あっ、やべ……」
ふと頬に伝う熱いものを拭うと、すぐ頭上を何かが通り抜けるのを感じた。
「クラウー! 両腕を上げてー!」
「あぁ? 両腕?」
ソラリスの要求の意図が分からず、俺は言われた通りに両腕を上げて待ってみる。
すると突然、俺の脇下に腕が差し込まれ、俺の体を細い腕が抱きしめた。
「うぉぉお!?」
「行くよー! 大空へ!」
強い衝撃に驚く暇もなく、俺は目を白黒させた。
足の下にある草原が凄まじいスピードで前から後ろへ流れ、やがてそれはどんどん遠くなっていく。
何が起こっているのか分からなかったが、視界に草原だけでなく、ポツポツと小さな家が見え始めて、俺は気が付いた。
──俺は、空を飛んでいる。
「うぉお!! やべぇ!! 俺、空飛んで……!?」
「あっはは! まだまだ行くよー!!」
ソラリスは俺を抱えたまま、どんどん高度を上げていく。安全装置も何も無く、全てをソラリスへ任せている俺は恐怖心にちびりそうだった。
そんな時、ソラリスが耳元で叫んだ。
「目、閉じて!」
「お、おう!?」
言われた通り目を閉じると、風切り音と共に顔にミストのようなものをかけられた。
それがミストではなく、雲だと気付いたのは、次に目を開けた時だ。
「いいよ、クラウ。ほら、目を開けてご覧」
「あぁ?」
俺は目を開けた時、思わず息を呑んだ。
「う、わぁ……」
ちゃんとした言葉が出なかった。
目の前には、雲でできた海と、見たことないくらいデカい満月があったのだ。
そこは嵐の中とは違って静かで、青白い光が世界中を照らしているのがよく見えた。
こんな景色は、空を飛ぶやつにしか見られない。
「すっげぇええ!!!」
俺は目を輝かせ、その幻想的な景色を目に焼き付けた。カメラでもあれば残せたかもしれないが、それでもこの目で見るよりずっと劣っていただろう。
「綺麗でしょ」
「あぁ……やべぇな」
「僕も好きな景色だ。もう見れないかと思ったけど……クラウのおかげで、また見れたし、これからも見られる」
ソラリスの顔は見えない。俺を掴んで空を飛んでいるソラリスは、ずっと前を向き続けていたから。
でも、声の調子でどんな顔をしているのかは、なんとなく分かった。
「クラウ……ありがとう! 僕の翼を、作ってくれて!」
その言葉に、俺は歯を食いしばり、「いや」と前置きして、
「ありがとうは俺が言いてぇよ。お前が居なきゃ、こんな景色も見れずに死んでたかもしんねぇ」
「……いや、きっと君なら、僕が居なくても空を飛んでいたさ。いつか、ね」
静謐な空の夜に、俺らの会話も自然と静かになっていた。
そしてしばらく雲の海の上を飛んでから、俺達はゆっくり家へ戻った。
空を飛び、月と雲海を見て、俺はあの時、世界で一番幸せだった。
一生忘れられない、思い出になったんだ。
「ふぅぅぃ……なんか、すげぇ疲れたな……」
「だね。僕もだよ……」
俺らは体を包む倦怠感を風呂で洗い流し、今度はちゃんと寝るために、俺の部屋のベッドに一緒に飛び込んだ。
肌触りの良いベッドの上から、雨足の強まってきた外を見る。風に揺られる草原を見ていると、ソラリスと出会った瞬間が思い出され、それが凄く前のように感じられた。
それくらい、ソラリスと出会ってからの時間は濃密で、俺は物凄く、幸せだった。
「なぁソラリス。明日俺の親父が帰ってきたら、そんときにまた飛んで見せようぜ! 俺が作ったんだって、自慢して回るんだ!」
「ふふ、それはいいかも。でも、明日はきっと嵐はないよ?」
「関係ねぇよ。また飛ばなかったら、風があんまなくても飛べる羽を俺が作る。親父も合わされば、もっといいのが作れるはずだ!」
親父にはソラリスを、ソラリスには親父を、そしてその両方に、俺の翼を自慢したい。
俺はその一心でベッドに入ってからもしばらくは興奮が収まらなかった。
しかし、成長期の十歳が無理できるのも、ここまでだった。
「うぅ、ん……」
俺は猛烈な睡魔に襲われ、瞼を自力で開くことができなくなってきていた。そんな俺の隣には、ソラリスの体温があって、それがますます眠気を誘った。
そして、瞼が最後に落ちる頃、俺は確かにその言葉を聞いた。
「おやすみ、クラウ。また明日」
それが、俺が眠りにつく前の、最後の言葉だった。
~~~
バタンと、強い音がした。
少しだけ目を開ける。
どうやら、窓が風で開かれた音だったようだ。
俺は体を起こし、窓から外を見る。外の嵐は激化し、雷と風と雨が本気を出して地上を洗い流そうとしていた。
俺は急いで窓を閉じ、また布団にくるまった。真夜中何時だったかも覚えていないくらい、それは薄い記憶だった。
だから、その時隣にソラリスがいたかどうかも、覚えていなかった。
~~~
「クラウ、おいクラウ」
体を揺すられ、目を開けた時、目の前にあったのは、親父の顔だった。
俺の寝起きの顔を見ると、親父は安心したように微笑んで、「ただいま」と一言。
「あぁ……おかえり……」
「すまんな。嵐で二日も空けちまって。なんもなかったか? なんか俺の工房で遊んでたのか?」
「ん、工房……? ……あぁ、そうだ」
寝ぼけていた頭が始動する。俺は瞼を擦り、自分の隣を見る。
「んぁ?」
しかし、そこにソラリスの姿はなかった。
「親父、俺と一緒に寝てた奴見てない?」
「お前と一緒に? ……いや、見てないぞ。俺が帰って来た時、この家にはお前しかいなかった」
「……あ?」
俺は耳を疑った。そんなわけねぇだろって。
だって昨日の夜、寝落ちする前に確かに俺達は話をした。
明日、翼のことを自慢してやろうって。
俺は急いで立ち上がる。
家の中を走り回って探した。しかし、あるのはリビングにあった、俺の食事の洗いものだけだった。
俺の家には、ソラリスだけじゃなく、あいつの羽一枚すら、どこにも落ちていなかったのだ。
「……は、ぁ?」
そんな、唐突な消失が、俺とソラリスの別れ方だった。
~~~
それから二十年くらい経った時、俺は親父の仕事を継いで、町工場の長になっていた。
長とは言え、従業員とさして立場は変わらない。ただ、責任と仕事が増えただけだ。
忙しなく色のない日常で、俺が考えていたのは、いかにその日を問題なく乗り越えるか、だった。
かつて夢見ていた、『人間の飛行』は、今も成されていない。
大学まで行って学び、研究室から院にまで上がって、そのまま飛行機体を作り上げるための研究を重ねていた。
構造の目処が立ち、模型での実験も何度か終え、『人間の飛行』実現に着実に近づいていた頃、事件が起こった。
俺の親父が倒れてしまい、そのままポックリ逝っちまった。
そのせいで俺ん家の工房は責任者が不在となり、従業員達は俺に跡を継ぐことを何度も頼み込んで来た。研究に専念したい気持ちがある反面、彼らに世話になったこともあった俺は、その恩返しも兼ねて責任者を名乗り出た。
だが今はその仕事が忙しくて、研究に対しての情熱が薄れつつあるというのが現状だった。
「はぁぁ……くっそ……」
硬いパンを頬張り、豆スープを缶から直接飲んでいた俺は、誰にも聞こえないところでそう悪態をつく。
夢に近づいたかと思ったら、突然引き離されてしまった。しかし俺がやらずとも、他の誰かがいつしか、『人間の飛行』を実現させることは確信できる。
『人間の飛行』は夢ではなく、いずれ世界で使われる技術になるはずだ。
だが、できればその発明者は、俺がいい。
そして、飛行機体ができあがった暁には──、
「──また、あの景色を見てぇな」
かつて、俺の作った翼で空を飛んだあの天使が見せてくれた、雲海と満月をまた見たい。
あの話は十歳の頃のもので、周りに話しても夢を見ただけだと一蹴されてしまい、誰にも信じては貰えなかった。
あの親父すら、流石にファンタジーまでは許容してくれず、寝ぼけているんだと笑った。
そうして誰も彼もに否定されたもんだから、俺も夢だったんだと割り切ることにした。
だが、あの雲海と満月だけは、絶対に雲の上にあるはずだ。
他の全てが嘘でも、あの光景だけは嘘じゃない。だから、俺はそれを見るために空を飛びたいのだ。
その一心だった。
だったのだが──、
「現実は、まぁ、そう上手くはいかねぇよな……」
俺は、工房の隣に新たにできたガレージの中でそうぼやいた。ガレージは仕事用ではなく、俺専用の研究、発明スペースとして使っている。
そこには二十代前半から、後半にかけてまで、研究仲間と共に作り上げた飛行機体が置かれていた。
少しパンクな字で『フローティス』と刻まれたその機体は、しかし空を飛ぶことはできない。
何度か試したが、結局は地面を走ることしかできなかった。
鉄の翼で空を飛ぶのは、まだ俺にはできないらしい。
それに、仕事が忙しくて今はそれどころじゃない。今日だってこの後、修理の依頼を頂いている。
「はぁ……どうしたもんかな──」
「クラウさん」
ため息を吐いていた俺に、背後から声がかかった。振り返ると、従業員の一人が気まずそうな表情でこちらを見ていた。
『フローティス』に寄りかかっていた俺は、豆スープを飲み干し、ようやく人並みになった営業スマイルで彼に応じた。
「どうしました?」
「それが……午後の修理依頼、キャンセルのようでして」
「キャンセル? なんでまた」
「依頼者によると、嵐が怖いから、と」
俺は眉を顰めた。
その反応を待っていたとばかりに、従業員はすぐ側にあったラジオをつけた。
タイミングよく、ラジオは天気について触れていた。電波の悪いラジオは、ボソボソとした声音で、件の嵐についてかなり強い語気で警鐘を発していた。
「なんでも、今は海からすごく大きな嵐が迫ってきているらしくて……」
「あぁ、新聞で見ましたね。確か、南の方の街がかなり酷い目にあっていたような」
一昨日くらいの新聞には、街が嵐によって壊滅させられ、更に追撃と言わんばかりに水位の増した川が氾濫して、そのほとんどの瓦礫や人を流してしまったという話だ。
何とも痛ましい自然災害だが、自分と関係の無い人達の訃報に心を痛めるほどの余裕は、その時の俺にはなかったと思う。
だからそこまで意識していなかったが、ラジオではそれは弱まることなく、この街にも二日ほどで到達するという話だった。
「最近、雨風が強い理由はそれでしたか。お客様も減ってますしね」
「はい。ですからクラウさん、今日明日……いえ、嵐が来る前に、避難するべきだと思います」
従業員はストレートに俺にそう言ってきた。単に仕事を休みたい口実かとも思ったが、新聞のあの文面から察せられる惨状は、確かに看過できるものではない。
家族がいる者ならばなおさら、逃げ延びたいと思うだろう。
「……よし、分かりました。今日から一週間くらいは皆さんお休みということにしましょうか」
「本当ですか! ありがたいです……」
「流石にあの自然災害でも働け、なんて言いませんよ。それに、一週間後にここが残ってる保証もないですし」
ということで、俺は全ての従業員に、今日の午後から休みを与えることにした。
もちろん、その時間分の給料は払うつもりだ。会社の都合で休んでもらっていることにした。
そうして従業員が全て帰宅し、俺は顧客リストや必要な書類を金庫にしまい、粗方仕事場を整理して、その日は酒をつまみながら、部屋の窓の外を眺めていた。
しとしとと降る雨と、少し強い風が草原を揺らす。何度も見てきた光景だが、俺は酒を飲む時、映画でも小説でもなく、その景色をじっと見つめるのだ。
まるで、ふわふわとした光が落ちてくるのを、期待するように。
「……はっ、あるわけねぇよ」
俺は自嘲して、酒がなくなったグラスをシンクに起き、歯を磨いてからベッドに潜り込んだ。
今日から先、仕事の予約もキャンセルした。嵐が過ぎ去るまでの一週間ほどは、久しぶりの暇な時間が訪れる。
「長期休暇を、満喫するとするか」
そうして、もうおっさんになった俺は、大きな欠伸をしながら眠りについたのだった。
~~~
目を覚ました原因は、耳を劈くような音だった。
「あッ──!?」
バリンという音に驚いた俺はベッドの上で飛び跳ねた。
寝ぼけ眼に映ったのは、割れた窓から豪風と雨が流入してくる様だった。
部屋の中を縦横無尽に荒らし、机の上にある書類や参考書が音を立てて倒れ落ちる。俺は慌ててそれを抑えようとしたが、もう意味がないくらいに部屋は荒れてしまった。
「何が──」
──起きた?
そう独り言つ前に、その光は落ちた。
世界中が照らされる白い光が瞬いたと思ったのも束の間、鼓膜を突き破るような爆発音がすぐそこから聞こえた。
「うぉお!?」
自分が死んだんじゃないかと勘違いするくらいに、それは衝撃的なものだった。
体を触り、自分が幽霊になってないことを確認すると、俺は急いで窓から身を乗り出して街を見た。
そして、絶句した。
「……なんだ、あれ……!?」
夜の闇に紛れて、真っ黒な暗雲を引き連れた嵐が、雷を撒き散らしながらこちらに近づいてきていた。
それは、俺の家のみならず、新築の鉄筋コンクリートであっても、耐えられるビジョンが見えないほどに強大な嵐だった。
「ひ、避難、しねぇと……」
従業員に休みを取らせて良かったと自分を褒め、そして何故避難準備をしていないんだと自分を責めた。
俺は急いで非常食をカバンに詰め込み、外に停めてある車に乗ろうと、家の扉を開けた。
「ぐぉお!?」
だが、開けた瞬間に閃光が俺の目を焼き、ついで襲ってきた轟音と暴風に、俺は情けなく吹き飛ばされた。
目の焦点がようやく戻ってきた時、俺はそれが落雷によるものであるということと、それが自分の家の斜向かいにある家を焼き付けしているということに、背筋を凍らせた。
なんと雷は、木や電波塔ではなく、人の住む家を執拗に狙っていたのだ。
「はぁ!? なんだそりゃ!」
そんなことありえない──とは言いきれずとも、確率は低いはずだ。
電気は伝導性の高いものを選んで流れていくはずだ。木造の家より高いものなんていくらでもあるし、これは完全に、攻撃意思のあるものとしか──
「──攻撃意思?」
そのフレーズにひっかかりを覚えた俺は、家の出口とは反対側にある窓、そこから見える嵐の奔流を見た。
その嵐は地上を歩いているというのに、その勢いを一切緩ませず、地上を洗浄するように丁寧に進んでいる。
そこに、地上に根付く命に対する悪意を感じずにはいられなかった。
南の海から上陸したそれは、おそらく更に南にある海──この星でいちばん大きな海に発生したもの。
「──確か、ストリンだっけか」
夢かと思っていた、天使の羽を持つ友人から聞いた話だ。
大地から一番離れた海の上に、世界を更地にしようと企む、嵐の親玉がいるって。
そこまで考えて、俺は反射的に首を振る。
──だから、どうしたというのだ。
嵐の名前が仮にストリンであって、それが分かってなんになる。
今はこんなことを考えている場合じゃない。とにかく、早く逃げなければならない。
「──ぁ?」
そう思い直した俺が顔をあげると、目の前の窓に、奇妙なものが張り付いていた。
──それは、白く美しい羽だった。
目を開いて、俺がそれを凝視していると、ちょうどその窓が限界を迎え、大きな音と共に爆散し、俺は驚きながらもその羽を掴んで倒れた。
「ぐっ、ふぅぅ……くっそ……」
三十年ものの肉体は、回復が遅いわりに防御力が弱い。俺は痛む体を抑えながら、暴風になびく白い羽を見つめた。
脳裏に過ぎるのはただ一つ。あの嵐の夜に出会った、天使の友達だ。
「……天使は、嵐が暴れないように、抑えてるって話だったが……」
今のこの現状を見るに、天使達だけではどうにもならない問題が起こったのだろうか。
それはあまりに飛躍した、ファンタジーが過ぎる話だった。
だが、この時の俺は、信じずにはいられなかった。
この羽が、天使の救援信号であるということを。
「──あぁ! くっそ! どうせ、死ぬんなら!」
俺は玄関ではなく、ガレージへ向かう。
幸いまだ電気は生きている。ガレージの中の灯りをつけ、『フローティス』の座席にリュックを投げ込んだ。
「行くぞ……」
燃料を注ぎ込み、ガレージのシャッターを上げる。暴風が一気に入り込み、『フローティス』のプロペラが独りでに回りだしそうだった。
「行くぞ……!」
装備を身に纏い、ゴーグルをつけて、俺は『フローティス』に乗り込んだ。
馬の嘶きのような音を鳴らし、『フローティス』は前進する。嵐の風をものともせず、雨に打たれても根をあげない。
馬力は車よりも大きく作ってある。エネルギーサイクルも、この時代では最先端のものを使用している。
あと足りないものは、なんだ。
「行くぞぉぉおお!!」
操縦士のやる気と──、
「向かい風ぇぇええ!!」
『フローティス』が加速する。
ゴーグルは雨で濡れていくが、それでも見えないことはない。
そもそも障害物のほとんどない空の旅だ。方向さえあっていれば、別に関係ない。
とにもかくにも、今はそう思うことにした。
「ぐぅぅう!!」
俺は風に押し潰されぬように歯を食いしばり、操縦輪を一気に押し込み、上げる。
機体は上向きになり、その羽に向かい風を受けて、ゆっくりと、浮かび上がった。
「飛べぇぇええ!!」
壁を横に流しながら、『フローティス』は空を飛び始めた。まるで龍が飛来したかのような重音を響かせながら、不格好に嵐へ向かって、飛翔したのだ。
「うぉぉおお!! 上手くいったぁぁあ!?!?」
まさか、鉄の羽を持ち上げるほどの向かい風が必要だったとは。
土壇場で上手くいった試運転だが、俺はその喜びを噛み締めた後、すぐに頭を切り替える。
このまま嵐へ、俺は飛翔するんだ。
「突っ、込め──!!」
暗雲の渦に到達するのは、思いの他早かった。
ただ、視界が悪すぎて何も見えない。
一寸先は闇という言葉があるが、俺の場合、一寸先は──、
「うぉぉお!? 雷ぃいい!?」
目を焼き焦がすような白い光が、目の前を横切った。風に煽られ、雨を叩きつけられ、稲妻を放たれ、俺は目を白黒させながら、操縦輪を操作する腕から力を抜けなかった。
稲妻を躱し、ガタガタと揺れる『フローティス』を励ましながら飛んでいると、俺はふと、嵐の中にあるはずのない音を聞いた。
「あ?」
それは、音ではなく、声だった。
何か、甲高い悲鳴のような声が聞こえた気がした。
それがどこから聞こえたのかと視線を巡らせたその時、俺は気付いた。
『フローティス』の周りに、いくつかの人影が飛んでいるということに。
「な、なんだ……!?」
雲を挟んで少し離れた場所にいるその人影は、稲妻に照らされる度に視界に移る。まるで大海に独りでにいるときに、知らない巨大魚に真下を通られた時のような恐怖心に、俺は操縦輪を握る力が強まった。
だが怯むわけにはいかない。ここで落ちる訳には、いかない。
「くっそ! 正体を、見せやがれ!」
俺は思い切って操縦輪を切り、人影のある方へ突っ込んでいった。
たとえ何があっても、俺と『フローティス』なら大丈夫だと信じて。
そして、突き破った雲の中にいたのは──、
「──はぁ?」
白い髪と、青い瞳、そしてなにより特徴的な、白く大きな翼。
その存在は、間違いなく天使であった。
だが、それは俺の知らない天使だ、ソラリスじゃない。
そしてその天使の様子が、普通ではなかった。
目を凝然と見開き、青い瞳の中には稲妻のような紋様が刻まれていた。
その感情の感じられない視線と俺の視線が交差した瞬間、その天使はこちらへ手を向けた。
──全身の細胞が、危険信号を発した。
「面舵いっぱぁぁい!!」
飛行機にそぐわない掛け声を叫びながら、俺は右に機体を傾けた。
その瞬間、俺の機体の腹を、太い稲妻が掠めた。
「おいおいおいおい!! 天使は天気を制御してんじゃねぇのかよ!!」
右に傾いた車体はそのまま右へズレていく。俺はその最中、雲を割る度に様々な姿をした天使達の眼差しを見た。
無機質な瞳には例外なく、稲妻のような紋様があった。
そしてまた例外なく、彼らは俺に対して、稲妻を仕向けてきた。
「くっそ!! どういうこったい!! まさか、実は天使は人類の敵って展開じゃねぇだろうな……!?」
焦りすぎた俺は、口端から漏れる涎を服の裾で拭う。それから、ゴーグル越しに燃料の残量を見る。
風のおかげで成功したとはいえ、この嵐の中を飛ぶということはやはりかなりのエネルギーを消耗するらしく、メーターは既に半分を切っていた。
だが、俺がメーターを見たのは、いつ着陸するのかを見定めるためじゃない。
いつまで俺がこの空に居られるかを知るためだ。
「ソラリス!! ソラリス!! どこだ!!」
俺は声を張り上げて呼ぶ。雷と雨と風のせいで、俺の声は全然届かない。
先程からすれ違う天使達の中にはソラリスはいない。それは断言できる。
なら、あいつは一体どこにいる。
俺に、空を飛ぶ感動を教えてくれたあの天使は、一体──
「あ?」
その時、俺は嫌な音を聞き、次いで機体が大きく左へ傾いた。
慌てて右へ戻そうとするも、何故だか機体はその形を維持していた。
目を見開きながら、俺は嫌な予感に左の羽を見た。
目線の先には、こちらを凝視する天使がしがみついていた。
そしてその瞳には、先程まではなかった強い意志が宿っていた。
それは、殺意だ。
想像できるだろうか。誰もいない暗雲の中、得体のしれない人型の生き物に、殺意を向けられる恐怖が。
「て、めぇ!!」
俺は操縦輪を逆にして、機体を左へ回転させる。頭に血が上り、そしてすぐに向きを戻すと、羽から天使は居なくなっていた。
振り落とせた──そう、俺が歓喜した時だった。
「がっ!?」
俺の頭が、強く抱き締められたのは。
「な、なんだなんだ!?」
手を伸ばすと、柔らかい腕を掴んだ。それが天使だと理解した時、俺は背筋が凍りついた。
──ここで雷を放たれたら。
そう思った俺の頭の中では、諦観と反発心が喧嘩して、俺が逡巡してしまった、その時──、
「……目」
「あ?」
「……目、嵐の……目……」
それが、俺にしがみついている天使の声だと気付くまでに、俺は一拍時間を要した。
放たれた言葉は二文字だけ。だが、俺はこの時、ソラリスの翼を作る時よりも冴えていた。
「嵐の目か! そこになにかあるんだな!」
渦巻く嵐の真ん中には、不思議と雨や風の少ない場所がある。それはソラリスと一緒に見たことがある。
きっとそこに、何かがある。
「サンキューだぜ、名も知らぬ天使! てなわけで頭を離してくれ──」
そうして、俺が解放を願い出ようとしたのと同時に、その天使はか細いこえで呟いた。
「──おね、がい」
その直後、眼前から稲妻が迸り、俺の頭の上すれすれを駆け抜けていった。
「あ?」
頭の上にあった重みは消え、代わりに何かがポトッと、俺の肩に落ちた。それを慌てて拾った俺は、手に掴んだものを見て、歯を強く噛み締めた。
「よーく、分かったぜ」
俺はそれをリュックのあるところへ投げ込む。あとで地上に降りれたら、埋めてやろうと思った。
そして、それを持っていた天使の言葉で、全てを理解した。
「あんたらは、自分の意思じゃねぇんだな!!」
天使は、天気を操る力を持つという。
ならば逆に、天気に天使を操られてしまうことがあってもおかしくない。
ソラリスは、ストリンは天使達が総出でかかっても手に負えない嵐だと言っていた。
「みんな、ストリンに飲み込まれてやがんだな!」
ストリンは天使達を操り、自らを増長させ、地上の人間に雷を落とさせているのだろう。嵐の意思の有無など考えたくもなかったが、こうなっては信じる他ない。
「行くぜ、ストリンとやら!」
そうして意気込んだ俺の視界が、ある時一気に晴れる。
明順応を起こした俺が目を細めると、そこは雷も雨もない、だだっ広い円筒状の空間だった。
「はッ──」
空を見上げると、月明かりらしき青白い光が差し込んでおり、その他にも爛々と輝く星々が見えた。
その幻想的な景色に、似合わぬものがあるのを俺は見つけた。
「あれは……」
巨大な嵐ストリン。
その巨大さゆえに、嵐の目の大きさも段違いに大きいわけだ。
だからと言って、その中にもう一つの嵐があるとは思わなんだ。
「あれが、お前の心臓じゃねぇの、ストリン!」
俺は『フローティス』を急降下させる。小さな嵐の中では、今までの嵐以上に稲妻が迸っており、まるで恒星のように自ら光り輝いている。
その原動力となっているのは何か。俺はその正体をなんとなく理解していた。
「ふっ──」
息を止めるようにして、その嵐の中に入り込む。稲妻がすぐ側で音を鳴らし、俺を狙っているぞと、嵐が殺意を見せているようだった。
それに構わず進み続けると、小さな嵐の目に到着する。
暗雲から抜け、明るい世界に目を開けた俺が見たのは、雷を纏った一人の天使であった。
白い髪に青い瞳、そして美しく大きな翼。そこまでは他の天使と変わらない。
だが、決定的に違うものがある。
それは──、
「片翼、第四号!!」
天使──ソラリスの左の翼に取り付けられた、人口の翼だ。成長したらしいソラリスの翼にしては小さすぎるそれは、しかし未だにそこに張り付いていた。
「やっぱ、嘘じゃなかったよな!!」
思い出の品を目にして、俺は言いようのない感動に目元が緩んだ。
そして、稲妻の紋様のある瞳のソラリスと目が合った。
その瞬間、俺は『フローティス』を急降下させ、ソラリスは腕を横薙ぎに振るう。
すると、先程まで俺がいた高度を、極太の稲妻が通過した。
「ひぃぅ! 食らったらマジ一溜りもねぇ……!」
ソラリスの周りを旋回しながら、俺はじっくりと観察する。ソラリスは俺をじっと見つめ返し、真顔のまま狙いを定めている。
そう思っていたのだが、
「──あ?」
俺は見た。
ソラリスの口元が、三日月のように歪むのを。
「なーるほど……お前、そこにいやがったのか」
それは、明らかにソラリスの魂を抱えた器ではなかった。きっとストリンの本体は、ソラリスの中に潜んでいるのだ。
そこまで気付いて、俺は口を噤む。
──さぁどうする。クラウ・オーロウラ。かの嵐の親玉を、どうやってソラリスから吐き出させる。
口での説得は絶対に無理だ。しかし攻撃して外に追い出すというのも、ソラリスの体である以上、俺はできればやりたくない。
というかそもそも、俺は攻撃手段がない。あるとすれば『フローティス』ごとの特攻だが、俺には自殺するほどの度胸はない。
「くっそ! バットでもあったらな!」
もしかしたら、すれ違いざまに腹を殴れば、内側に巣食うストリンを引き摺りだせたかもしれない。
が、稲妻を走らせまくるストリンに、果たしてどう近づくか。
二つの課題に悩んでいられる時間もない。燃料は刻一刻と減り続けている。
「どうする、どうするどうするどうする……!」
無策で飛び立ったことを後悔しつつ、俺は考えていた。
何か、何かソラリスからストリンを吐き出させる方法を──、
「──吐き、出させる?」
その時、俺の目線はリュックへ向いた。そこに入れていたものを思い出し、俺は一筋の可能性を見出した。
「……ワンチャンス、あるならやる価値はある……あとは……」
そう、あと必要なのは──、
「俺の、覚悟だ!」
腹を括り、俺は残り全ての燃料を使い切る勢いで『フローティス』を動かす。
網のようになった稲妻の隙間を縫い、俺は自分でも驚くくらいの技術でストリンへ近づいていく。
その俺の飛行テクニックに驚愕したのか、ストリンはソラリスの体を介して、暴風を俺に叩きつけてくる。
燃料の消費量は増し、俺の辿る結末がだんだんと一つに絞られていく。
だが、俺は止まってやらない。
「飛ぶなら、向かい風だよなぁぁあ!!」
俺は気迫だけで風を押し切り、稲妻を避け、雨に耐え凌ぎ、遂にストリンに到達する──その瞬間、ソラリスがその手を頭上へ伸ばした。
「──くっそ!!」
それが何を意味するのか分かった。
ストリンはソラリスの体ごと、近づいた俺を稲妻で飲み込み、殺すつもりだろう。
頭の中に湧いた様々な感情が叫ぶ。
死ぬかもしれない。痛いかもしれない。熱いかもしれない。苦しいかもしれない。
怖い、怖い怖い、怖い、が──、
「ふ──」
俺はここまで運んでくれた愛機、『フローティス』の操縦輪を撫でてから呟いた。
「あばよ、俺の最高傑作!!」
俺は高度を上げ、機体を逆さまにした。
ひっくり返った視界には慣れなかったが、首を上げるとすぐ目の前には、驚愕した表情のソラリスがいる。
「届け俺の思い!!」
俺はリュックを持ち上げ、思いっきり『フローティス』から飛び降りた。
逆さまになっていた『フローティス』は、直後に落ちてくる稲妻を一身に受け止め、俺の背後で大爆発を起こした。
その勢いに乗るように、俺は死ぬ気で手を伸ばして、ソラリスの肩に抱きついた。
「さぁて、ソラリス!」
俺はリュックの中からとあるものを掴みあげ、歯でその蓋をこじ開ける。
憤慨を露わにした表情のソラリスの口に、首に回していた方の手の指を突っ込んで無理やり開いた。
そして、俺は手に握りしめたそれを、その口の中にぶち込んだ。
「俺の大好物──豆スープだ!!」
液状の豆スープが、ソラリスの口の中を埋め尽くす。茶色と赤色の混じったそれを、ソラリスの喉は反射的に飲み込んでしまい、そして、
「んげぇぇええ」
「うぉぉお!? 俺にかけるな!!」
思い切り吐き出した。
腹の底からは豆スープだけではなく、なにか目に見えないものを吐き出しているようだった。
「やったか?」
それからしばらく沈黙の時間が続き、俺は一瞬、豆スープで世界が救われたものだと思った。
だが、俺の髪の毛が静電気でふわりと持ち上がり始めた時、違うのだと突きつけられた。
「あ、やべ──」
瞬間、四方八方から稲妻が差し迫って──、
「──させないよ」
俺のすぐ隣で聞こえた、凛々しい声。
すると、稲妻は俺達に当たらず、不自然に軌道を曲げて、また四方八方へと散っていった。
その光景を目の当たりにして、俺はその名前を呼ばずにはいられなかった。
「ソラリス!」
「やぁ、クラウ! よく来たね!」
昔見た時より、随分精悍とした青年に育ったソラリスは、あの時の柔和な雰囲気を思わせる笑顔で俺に返事をした。
「なんか、すごい老けた?」
「そりゃ、二十年も経ってやがるからな!」
「あぁそっか。人間は寿命が短いんだったね」
俺のツッコミに対して微笑むソラリスは、勇猛な笑みを、俺達を囲う嵐──ストリンへ向ける。
「さて、よくもやってくれたね。ストリン」
咎める言葉を向けられた嵐の親玉は何もせず、ソラリスからの睨み付けにじっとしていた。
と、思わせたのも束の間、俺達の周りにあった暗雲の壁がぐっと近づいてきた。
ストリンは、嵐の目を縮ませることで、俺達を嵐の中に閉じ込めようとしていたのだと思う。
だが、それはソラリスによって阻まれた。
「ストリン、君は、左回りだったね」
そう言うソラリスは、迫ってくる暗雲に手を伸ばし、その回転方向とは逆方向へ手を振るった。
すると、嵐の渦巻きの威力がみるみるうちに弱まっていき、やがてゆっくりと消滅してしまった。
「すげぇ!」
「だろう? 君の片翼くらいのこと、僕もできるようになったのさ。そして──」
ソラリスは腕を掲げ、綺麗な指をパチンと鳴らした。
「──その恩返しを、今果たそう」
その瞬間、地上を蹂躙していた巨大な嵐の中に、燦然と輝く光がいくつも生まれ始めた。
俺はそれを見て、大きな嵐が夜空の星すら吸い込んでしまったのかと思った。
だが、それは違う。その光は星なんかよりも、よっぽど珍しいもの達だ。
「さぁ、みんな! 目を覚ますときだ! 天使は一心同体。この忌々しい厄災を、僕らの手で葬り去ってやろう」
ソラリスの掛け声に光はいっそう強まり、やがて嵐の暗雲の速度が急激に落ち始めた。
稲妻の数は減り、風はなりを潜め、雨は横殴りではなく、しとしととゆっくり降るようになった。
それは正しく、天気を操る天使の御伽噺の絵本で見た光景だった。
「さぁ、観念したまえ。生を飲み込む厄災よ」
消え去っていく嵐。それは、悲鳴のように雷轟を鳴らしながら、ゆっくりとその存在を失っていった。
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暗雲が晴れ、長らく星と満月を見せなかった空が、久しぶりに世界へ到来した。
とても美しい夜の空の上、俺はソラリスと目を合わせ、そしてほぼ同時に吹き出した。
「やったな! ソラリス!」
「うん! 凄かったよ、クラウ!」
それが、俺とソラリスの再会であり、ストリンとの死闘の結末であった。
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「ふぅぅ……死ぬかと思ったぜ」
遥か上空から、ソラリスに抱えられた状態で地上へ向かう俺はそう呟いた。今日はなんとも、疲れる日だったと思う。
「本当、君が『フローティス』を捨てた時はどうなるかと思った」
「あ? お前あん時意識あったのかよ?」
「ずっと見てたよ? 体の自由はなかったけれど」
ストリンに乗っ取られてる間、ソラリスにも意識があったというなら、俺のバットで殴る等の発言も聞かれていたのだろうか。
いや、聞かれていないということにしよう。
「なんで乗っ取られてたんだよ?」
「ストリンを押さえ込もうと傾倒するがあまり、その力を逆手に取られたって感じかな……相手を操ろうとするなら、こっちも操られる覚悟が必要だってことだ」
「んー、大方、俺の考察通りだな……」
ストリンは自分を抑え付けようとする天使を倒すのではなく、逆に取り込んで、自分を強化させる材料にしていたのだ。
そう考えると、恐ろしい厄災だと思う。嵐や台風は、地上ではかなりの速度で消耗して小さくなるはずだが、ストリンは天使の力で、一生消えないどころか、増長し続けることができたということなのだから。
天使は一心同体であるとソラリスは言っていたが、一人が操られてしまうと、他の天使も従ってしまうということなのだろうか。
だとすれば、天使が最上位の生き物という固定観念も崩れる。
「……そういや、忘れかけてたぜ」
俺は唯一持ち帰ることができたリュックを開けて、中からとあるものを取り出した。
「なんだい?」
「いや、これなんだけどな……」
俺がそれを出して見せると、ソラリスは目を大きく見開き、それからゆっくりと普通の顔に戻って行った。
その最中に、いったいどれほどの色の気持ちが交差したのか、俺には分からない。
天使の間の関係性が、人間である俺らの感覚と同じとは限らないだろう。しかし、その表情の変化には、少なからず苦しみが伴ったはずだ。
「これ、埋めようと思ってたが、天使流のやり方とかないのか?」
「……天使は自然には還らない。それはゆっくりと時間をかけ、だんだんと光を失い、粒子となって消えるはずだ」
「……そうか。んじゃ、俺が持ってるよりは、お前の方がいいよな」
俺は決して落とさぬようにそれをソラリスへ手渡すと、ソラリスはそれを見下ろしながら少し黙祷した。
そして、それを懐の中に大事そうに仕舞うと、ソラリスはスイッチを切り替えたように笑顔を見せた。
「ねぇクラウ。少し目を閉じてくれない?」
「目を?」
「いいからっ」
俺は言われた通り目を閉じる。
視覚が遮断され、他の五感が自然と鋭くなる中、俺は前にもこんなことをした記憶が蘇ってきた。
「ぁ──」
ミストのようなものが俺の顔を濡らし、自分が今雲の中にいるということが分かる。
それからしばらくして、全身の周りに涼しげな風が吹き抜けていることに気が付いた。
「いいよ、見てご覧」
俺はゆっくりと目を開けた。
流れゆく雲、反射される青白い光、少し寒い空気の中、俺はそれを見た。
「──はっ、やっぱ、最高の景色だな」
「だね」
それは、俺が二十年間渇望していた、満月と雲海に挟まれた景色だった。
「ッ……は、歳食ったな、俺……」
この時、俺は頬に伝わった熱いものに、手が届かなかった。
ソラリスは視線を下げず、ただ前を向いて空を飛び続けてくれていた。
しとしとと雨のように落ちていくものを見ていた俺は、自分の下を通り抜けていく光の帯を指さした。
「おっ、見ろよソラリス。雲海を何かが泳いでるぜ」
「ははっ、いい表現だね、それ」
もちろん、それがソラリスの仲間である天使達であることは分かっていた。
でも何故だろう。ソラリスとの会話を、こんなくだらいものでもいいから、続けたいと思ったんだ。
「なぁ、ソラリス」
「なんだい?」
「俺が、また空を飛んだ時にさ」
俺は口元を歪めて笑う。
「今度は、俺がお前を後ろに乗せてやるからよ!」
「──あぁ、楽しみにしているよ」
清々しい気分だった。
空を飛び、夢を叶え、嵐を退け、ここ二十年で一番嬉しい時間だったかもしれない。
「だからよ、それまでにお前の翼のそれ、外しとけよ?」
「えぇ? どうして? 四号は僕の宝物だよ。それに、これがある前提の飛び方を覚えてしまったから、外したら返って飛べなくなっちゃうよ」
「だぁから、そうなった時のために俺が飛行機体作んだっての」
「遠回りすぎるよ」
第四号の話で盛り上がり、ゲロの話で盛り上がり、あの夜の話や、ストリンのこと、そして天国で起こっていたこと。
色々と話をした。地上に辿り着くだけならそんなに時間を要さなかっただろうが、ソラリスは気を遣って、その時間をめちゃくちゃ遅らせてくれた。
その間、心地のいい夜風に吹かれながら、それは天空にて宙吊りなことも忘れて、ソラリスとゆっくり話し込んでいた。
話し込んでいて──いつの間にか、俺は眠りに落ちてしまっていたらしい。
「……ぁ」
嗚咽のようなものを漏らし、俺は目を開ける。
そこは、俺の家のベッドの上だった。
窓からは黄色い朝の光が斜めに差し込み、そのさきにある床にあったはずのガラス片は片付けられていた。
立ち上がって家中を歩いてみるが、俺以外の存在の気配はなかった。昨夜のことが夢だったのではと、俺の心に一抹の不安が過ぎったその時、とあるものが残されていることに気付いた。
「……羽」
リビングの机の上に一つだけ、白く美しい羽が置かれていた。
俺はそれを取ると、晴天の朝光にそれをかざしてみる。透き通った羽は、太陽の光を反射させ、さらに美しく輝いて見せた。
大きくて立派なそれを大切に思い、俺は一言だけ呟いた。
「夢じゃ、なかったんだな」
空を飛ぶ鳥の影が過ぎ去ったのを、俺は滲んだ視界に映した。
その視界が滲んでいたからか、俺はその影が鳥のものか、はたまた、翼を生やした別のものなのか、分からなかった。




