犯人は誰だ
鍵のかかった部屋の中で、男が死んでいた。
堀川洋一。四十二歳。仰向けに倒れたその体は、まるで眠っているかのように静かだった。ただ一点、こめかみに残された鈍い傷痕だけが、これが穏やかな死ではないことを物語っている。
最初に声を上げたのは、秋山だった。
「嘘だろ……堀川さん……!」
秋山の叫びに引かれるように、三人が部屋の入口に集まった。
俺——水島修一は、倒れた堀川の顔を見下ろしながら、静かに息を吐いた。
「……殺人、だな」
自分の声が、思ったより平坦に聞こえた。
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状況を整理しよう。
ここは堀川が所有する別荘のリビングだ。扉は内側から施錠されていた。鍵は堀川のポケットに入ったままで、合鍵は管理人が預かっている。窓はすべて閉まっており、外側からの侵入は不可能。完全な密室だった。
別荘にいるのは四人。
秋山拓也——堀川の元ビジネスパートナー。半年前に金銭トラブルで決裂し、今も揉めている。動機は十分にある。
神崎玲子——堀川の秘書。最後に堀川と話していたのは彼女だ。夕食前に、書斎で何かを相談していたらしい。
村瀬健吾——堀川の大学時代の同期。今回の集まりに急遽参加した。理由は曖昧で、「久しぶりに会いたかっただけ」と言っている。表情が読めない。
そして俺、水島修一。堀川とは十年来の付き合いだ。
誰も警察を呼べない。別荘は山の中にあり、嵐で通信も道路も断たれている。少なくとも今夜は、この四人だけの世界だ。
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「落ち着こう」
俺は三人に向き直った。
「パニックになっても仕方がない。状況を整理して、何が起きたのかを把握しよう」
秋山は顔を青くしたまま壁に背をもたせていた。神崎はソファに座り、両手を膝の上で固く組んでいる。村瀬だけが、腕を組んで窓の外の雨を見ていた。
「順番に話そう。まず、今夜の行動を一人ずつ確認したい」
俺がそう言うと、三人は不安そうに顔を見合わせたが、やがて小さく頷いた。
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最初に口を開いたのは秋山だった。
「……俺は夕食のあと、二階の客室にいた。本を読んでたんだ。堀川とは……正直、顔を合わせたくなかった」
「金の件か」
「ああ。でも、殺すなんて——そんなことはしてない」
秋山の声は震えていた。怒りではなく、恐怖の震えだった。動機はある。だが、この動揺は演技には見えない。
「夕食後、堀川と話したか?」
「一言も。部屋に戻って、それきりだ」
俺は頷いた。
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次に、神崎が静かに話し始めた。
「夕食前に、堀川さんと書斎でお話ししました。来月のスケジュールの確認です。三十分ほどで終わって、私はキッチンで夕食の準備を手伝いました」
「夕食後は?」
「リビングで少し本を読んでから、自室に戻りました。九時半頃だったと思います」
「その時、堀川さんは?」
「まだリビングにいらっしゃいました。お酒を飲んでいて——その時、まだ生きていたはずです」
九時半。夕食が終わったのが八時過ぎだから、およそ一時間半。その間に堀川は一人でリビングに残り、そして死んだ。
「生きていた、か」
俺は呟いた。
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最後に、村瀬が口を開いた。
「俺は……正直、よく覚えてない」
「覚えてない?」
「飲みすぎたんだ。夕食のワインが効いて、途中からぼんやりしてた。気がついたら自分の部屋のベッドにいた」
「何時に部屋に戻った?」
「……分からない。九時か、九時半か。時計を見てなかった」
場の空気が不安定に揺れた。秋山が村瀬を睨み、神崎が目を伏せる。曖昧な証言は、疑惑を招く。
だが、村瀬の目は据わっていた。嘘をついている目ではない。本当に覚えていないのだろう。
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「死因は側頭部への打撲だ」
俺はそう言って、堀川の傍にしゃがみ込んだ。
「一撃。かなり強い力で打たれている。即死に近かったはずだ」
秋山が顔をしかめた。
「……そこまで分かるのか?」
「傷の深さと、出血の量を見ればな。倒れた姿勢からして、正面から打たれたんじゃない。斜め後ろ——背後から近づいて、右側のこめかみを狙っている」
言ってから、自分の口が滑らかすぎることに気づいた。
だが三人は、俺の言葉に疑いを持たなかった。こういう場面では、自信を持って話す人間が主導権を握る。それだけの話だ。
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俺は暖炉の前に立ち、三人の証言を整理した。
「まとめよう。夕食後、秋山は二階の自室。神崎さんは九時半までリビングにいて、その後自室。村瀬は記憶が曖昧だが、九時から九時半の間に自室へ戻った」
指を一本ずつ立てる。
「堀川は九時半の時点でまだリビングにいた。これは神崎さんの証言で確認できる。つまり犯行は九時半以降だ」
「外部犯の可能性は?」
秋山が聞いた。
「ない。窓も扉も施錠されていた。犯人はこの中にいる」
沈黙が落ちた。四人の視線が、互いの間を泳ぐ。
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「待ってくれ」
俺は神崎に向き直った。
「神崎さん。九時半にリビングを出た時、堀川はお酒を飲んでいたと言ったな」
「はい」
「グラスは何杯目だった?」
「……三杯目か、四杯目だったと思います」
「テーブルの上のグラスを見てくれ」
神崎が振り返る。テーブルの上には、ワイングラスが一つ。中身はほぼ空だった。
「一つしかない」
「そうだ。三杯も四杯も飲んでいたなら、ボトルが近くにあるはずだ。だがボトルはキッチンのカウンターにある。つまり——」
「……誰かが片付けた?」
秋山が呟いた。
「堀川が自分で片付けたとは考えにくい。飲みかけのグラスを残して、わざわざボトルだけ戻すか?」
俺は神崎を見た。
「九時半以降に、誰かがこの部屋に入った。ボトルを動かした人物がいる。それは堀川を殺した人物と同一の可能性が高い」
神崎の顔が強張った。
「私じゃありません。部屋を出てから、一度もここには来ていません」
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「じゃあ、村瀬。お前だ」
俺は村瀬に目を向けた。
「記憶がないと言ったな。だが、お前が部屋に戻った時間が九時半頃だとすると、ちょうど神崎さんが出た直後になる。お前がリビングに立ち寄った可能性は十分にある」
村瀬が眉を寄せた。
「……覚えてない、と言っただろう」
「覚えていないことと、やっていないことは違う」
場の空気が張り詰めた。秋山が一歩後ずさり、神崎が息を呑む。村瀬は黙ったまま、俺を見ていた。
「時間的に考えて、お前が一番怪しい。九時半以降にリビングにいた可能性があり、記憶がないという証言は——」
「水島」
村瀬が、低い声で遮った。
「お前、さっき言ったよな。『斜め後ろから、右側のこめかみを狙っている』と」
「……ああ」
「なんで”狙っている”なんだ?」
静寂。
「傷を見ただけで、“狙った”とまで分かるのか。たまたま当たった可能性だってあるだろう。なのにお前は——最初から”狙撃点”を知っているみたいに話してた」
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心臓が一拍、重く跳ねた。
俺は村瀬の目を見返した。その目は、酔った男のものではなかった。
「……推測だよ。傷の形状から判断しただけだ」
「もう一つ聞いていいか」
村瀬は腕を組んだまま、一歩近づいた。
「凶器はどこだ?」
「まだ見つかっていない」
「ああ。見つかっていない。でもお前は、さっきから一度も凶器を探そうとしていない。普通、真っ先に探すだろう。死因が打撲だと言ったのもお前だ。なのに——凶器の捜索を誰にも指示していない」
「それは——」
「まるで、凶器がどこにあるか知っているみたいだな」
秋山と神崎が、ゆっくりと俺を見た。
三対の目が、俺に向けられていた。
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「おかしいな」
俺は呟いた。自分でも、その声が誰のものか分からなかった。
「こんなはずじゃ——」
言葉が途切れた。
続きを言えば、すべてが終わる。俺はそれを知っていた。だから唇を噛み、黙った。
だが、もう遅かった。
村瀬の目が、静かに俺を射抜いていた。秋山は壁に手をついたまま動けない。神崎は膝の上の拳を震わせている。
誰も、何も言わなかった。
言葉は必要なかった。
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暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
リビングに沈黙が満ちる。雨の音だけが、窓の外で途切れなく続いていた。
俺は三人の顔を順に見渡した。
秋山の怯え。神崎の強張り。村瀬の、あの静かな確信。
——全部、計画通りだったはずなのに。
堀川が最後にグラスを置く時間も。神崎が部屋を出るタイミングも。村瀬が酔い潰れるはずだった酒の量も。
たった一つ——村瀬が、思ったより酒に強かったこと。
それだけで、すべてが狂った。
俺は目を閉じた。暖炉の熱が頬に触れる。
雨は、まだ止みそうにない。
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*了*




