9.若鳥は今日も飛ぶ
アストンの修理を待つ間、ティアはどうしても気になったことがあった。老婦人――ハーゲンの傍につつっと寄る。
「お店、閉めちゃうんですか?」
こんなに素敵なのに、と胸が苦しくなる。その顔を見たからだろうか、ハーゲンはやわらかく微笑んだ。
「近頃目が悪くなってきたから、怪我をしないうちにと思ってね。でもアストンちゃんにこの子を直してもらえるなら、たまに、他のお店に置かせてもらおうかしら」
その言葉に、この女性がミシンを踏む光景が浮かんだ。愛しい老犬と戯れるように、目を細め、布を慈しみながら仕立てる姿。
口にはしなかったけれど、それがいい、と思った。きっとアストンも、それを望んでいるだろう。
手持ち無沙汰になったので、使われないエプロンを抱えたまま、ティアは店内を眺めることにした。あまり可憐なものは似合わなくて恥ずかしいけれど、ひとつくらいは買えるようなものがないだろうかという願いを込めて。
胸元にたっぷりとフリルのついたワンピース、刺繍が鮮やかな帽子。水面に反射する光を集めたようなボタンが並ぶシャツ。夢の中から引っ張り出したような服の数々に目を奪われていると不意に、声をかけられた。
「愛らしい形ね、そのケープ」
どきり、というより、ぎくりと心臓が跳ねた。このケープの特徴はただひとつ、頭の上についた、獣耳の形の膨らみ。
故郷では、頭に何かをかぶる習慣があまり、ない。皆、頭には立派な獣の耳があるのだから。それでも雨除けとして着ることのあるケープには、耳の邪魔にならないようにこうした仕掛けがあり――きっと製作者の意図に反して、自分のような獣耳のない者に、よく売れていた。
この美しい店に似合わない、虚栄のかたまり。
褒められて隠すのも不自然で、けれど自然と、フードを背に隠してしまう。すると、あら袖が、と触れられた。
「破けてしまったの?」
自分で一応は縫いなおしたものの、仕立て屋のハーゲンさんから見れば拙いものだろう。頬が熱くなりながら頷いたのと、奥から声がかかったのは同時だった。
「シャトルの爪が欠けていたので、変えました。あと、足踏みから繋がるベルトも切れかけていたので、一旦革紐にしてあります。……何か、縫ってもらえますか」
存外早かったものだから、もっと時間がかかってもいいのに、と心の中で惜しんだ。煌めく服たちを眺めるための切符が、次にいつ手に入るかはわからないのだ。またお花を注文してくれればあるいは、などと千々に思い乱れていたから、袖を引かれるのに気付くのが遅れた。
「このケープ、縫ってもいいかしら」
「えっ、はい」
「レースをつけても?」
木の棚から一つ二つと、レース編みの花が引き出される。何度も頷けば、老婦人は微笑んだままミシンの前に座り、糸をかけた。
踏む足に合わせ、軽やかにミシンが動き出す。
陽だまりの中を踊る音。闇のような濃紺の布に、小さな花畑が煌めいていく。あっという間に音楽は止まり、ばっちりね、と終幕の合図がかけられた。
「わあ、あ……! ありがとうございます!」
「いえいえ、お礼を言うのは私の方よ。ありがとうアストンちゃん、お代は」
「……要らないです」
「ね。だから、代わりに貰って」
細かく編まれた、繊細な花。汚れるつもりなどつゆもないような、真っ白な色。
ふるさとでは見たことがない。身に付ければ、魔獣に立ち向かう気などないのかと呆れられてしまいそうなもの。
それでも、心が躍るのは止められなかった。
アストンが工具を片付けるのを見て、本来の仕事をはっと思い出す。帰りは自分が持つと言い張って抱えれば、何かもの言いたげな目をされたけれど、押し切ってしまった。
帰り際もハーゲンはアストンに、ちゃんと食べるのよ、外で食べてもいいんだからね、と念を押していた。気圧されて、はい、とも、うん、とも取れないような半端な相槌だけを打っているのが少しだけ面白い。
「家事も大変でしょう。お嫁さんを貰ったら?」
肩が跳ねたのに合わせて、箱の中の工具が小さく、音を立てた。
そっと息を吸う。曖昧な肯定をすれば、老婦人がどこかからお嫁さんとやらを連れてきて与えてしまうのではないかと、そんな馬鹿な想像までが一瞬で駆け抜けた。
「違うのでは……その人の働きを目当てに、伴侶になってもらうのは」
「それもそうね」
叱られちゃった、と軽やかに笑う声と、何よりも。
アストンが明確に否定をしたことに、どこか、胸の奥が緩んでいた。
帰路。自分にとっては工具箱など重くはなく、跳ねる枷にもならなかった。歩くたび、裾で花たちが揺れる。花束をずっと抱えているようで、もうじき暖かくなれば着られなくなるのが惜しいほどだった。まだもう少し、朝晩は冷えればいい。
「でも、良かったの? お店、閉めてきたのに」
それはそれとして、お代も受け取らなかったことが、微かに引っかかっていた。
代わりに貰って、と婦人は言っていたけれど、それならば本来はアストンが受け取るべき何かがあっただろう。
「別に……急ぐ修理も、今はない」
急ぎの仕事はなくとも。いつも何かを縫っているのは、店頭に並べる商品を作るためなのではないか。靴一足、鞄一つを作るのに、何日がかかるのか。
たった一人で店を成り立たせながら、同時にそのための時間と引き換えに、無償で――それも、何年も顔を合わせていなかった人を相手にできる。
アストラ・ポラリスを出る前、ためらいなく工具箱に部品を放り込んでいった手が、脳裏によみがえった。
「……本当に、誰かの力になれるんだね」
それは羨望に近い吐息だった。自分には思いもよらないことを、彼は迷いなくやってしまう。
足元には、真昼の短い影が二つ。それでもアストンのものは自分のものよりも一回り大きい。
間を、温みを孕んだ風が通り抜けていく。
言葉は交わされず、ただ並んで歩く音だけが道に落ちていった。
「……俺の親のことは、知っているんだろう」
カタ、と工具が腕の中で音を立てる。蹴り飛ばした小石が道の端に転がっていく音が、耳に引っかかる。
意図がつかめないまま、一拍置いて小さく頷いた。
「親父が……死んでから、マルタさんは急に、食事を余らせるようになった。裏通りのダンデのじいさんは、他所へ頼んでいた修理を全部、うちに回してくるようになった。なめし工房の親父は、いつ頼んでも、在庫がないと断ることがなくなった。……どういうことか、わかるだろ」
喉が渇き、鼓動がいやに速くなる。
――けれど。
続いた声はやわらかく、笑うような声色だった。
「俺は、生かされているんだよ。……貰ったものを俺一人で抱えているのは忍びない、それだけだ」
やっと、隣を仰ぐ。
染めたような青空から降り注ぐ陽が、アストンの髪に、瞳に、やわらかな光を零していた。
胸の奥が熱くなる。
アストンに向けられた眼差しにはきっと、憐憫も同情も含まれていただろう。けれどアストンは、その中からあたたかな部分だけを受け取って、生きるための火にくべることができる。
それは眩しさよりも、やすらぎを与える光に感じられた。
――こんな風に、目を細められる人だから。
自分は、そばを歩きたいと、願ってしまうのだろう。
ふと目を遣れば、道の端には、昼の休みらしい男性たちが集まっている。パンを片手に、木の幹に蔓のようなものを巻き付けながら、ああでもないこうでもないと盛り上がって。
何をしているのだろうかとアストンに問えば、猫除けじゃないのか、と返事が戻った。
「棘でも巻いているんだろう。……ああ、上に巣があるのか」
呼応するように、ぴい、と空高くに声が響く。雛たちは下で見守る男たちに目もくれず、帰ってくる親鳥に我も我もと口を開けていた。
――きっと、皆、この街から巣立てるだろう。
アストラ・ポラリスまでは、もう少し。
アストンの隣で石畳を弾む足は、いつもより軽やかだった。




