8.エプロンの似合う人
ティアが初めてアストラ・ポラリスを昼間に訪ねると、さしものアストンも意外そうな顔を見せた。夕刻に、余った総菜を届けるために。何となく、そう決まっていたからだろう。
「今日はお花屋さん、お休みなんだ。それでね、昨日仕事で仕立て屋さんに行ったんだけど、伝言を頼まれてて」
――昨日は、マルタに何も持たされなかったけれど。それでも本来ならば、帰りに立ち寄って伝えればよかったのだ。けれど胸の中の感情をどう抱え直してよいかわからず、一晩を越してしまった。
星空を見上げながら最後に辿り着いた思いは、恥、だった。
自分と同じで親がいないと知ったとき、自分は何を感じただろう。ひとつは、この口下手であるけれど、性根のやわらかいところのある青年には、しあわせに暮らしていてほしかったという純粋な思いだった。
けれどそれだけではない。それだけでありたかったけれど、そんな、純真な心だけではない。
自分がずっと抱えていた欠乏感に共感してもらえるかもしれないという淡い期待が胸をよぎったことに――そして、自分の境遇を特別だと思い込んでいた自分自身に気付き、顔が燃えるように赤くなった。夜風に当たっても、火照りが冷めないほどに。
一晩かけて自身をなじり、アストンの前に立てるよう叩き直したのだ。だから、多分、自分はもう大丈夫であると思う。誰かの背に甘えることなく、また、前を向いて走れる己になっている。
「ミシンが壊れちゃって、暇なときがあったら見てほしいんだって」
「そうか。……仕立て屋は、ハーゲンさんの店か?」
言い終わる前に立ち上がり、木箱に工具、革紐、何かの部品を放り込んでいった。奥に置かれた大きな黒ミシンの前に屈み込み、考えるように間を開けた後、また何かを収めていく。
「ミシンの修理もしてるの?」
「いや」
修理屋がないからな、と言いながら机の上を片付け始める姿に、今から行く気なのだとようやっと気が付いた。アストンは、窓の鍵を順に閉め始めている。口を開けかけ、閉じるのを何度か繰り返した後、思い切って声を出した。
「あの、絶対邪魔しないから、荷物持ちでついていっちゃだめかな……?」
ぱち、と鍵を閉めた手のまま、アストンが振り返る。
「構わないが、何か用か?」
「その、お店の中を見てみたくって……」
そうだ。昨日はお遣いの最中であったから油を売ってはいられなかったし、何よりも話に気を取られて、それどころではなかった。
けれど脳裏に浮かぶのは、鮮やかな布に繊細なレース、甘く広がるフリルに煌めくボタン。宝石箱を店にすれば、きっとあんな姿になるのだ。
「来るなと言っているわけじゃないんだが……普通に、客として行けばいいんじゃないのか?」
「あそこに入れるような服を持ってないの!」
「服を見るための服とは……?」
全く腑に落ちていない顔をしながらも、待っていてくれ、と二階へ上がっていく。戸締りでもあるのだろうと待ちながら、今日の自分の格好を見下ろした。濃紺のケープの下は、買い直した素朴なワンピース。家事や仕事で汚れてもいいような、これといって特徴のないもの。とてもじゃないけれど、あの店の客としては不相応だ。
今日の入場切符は工具箱だと考えるうちに、階段を下りる音が耳に届いた。振り向き、そして、目を瞬かせる。
――少しだけ跳ねた鼓動を、誤魔化すように。
「ジャケット着てる!」
「まあ、外に出るからな」
いつものシャツの上には、茶色いジャケット。アストンは腕にかけたエプロンを畳んで、工具箱の上に積む。その姿をちらちらと、何度も盗み見てしまった。ジャケットは、あたりの男の人がよく着ているようなもので、特別立派なわけでもない。街の中に混じればきっと、風景の中に埋もれてしまうだろう。それでも、今までエプロン姿しか見たことのなかった肩にかかっているだけで、不思議と、脈を速くさせた。
職人ではない、ただの男の子であるときの姿も初めて見たのだ、と思う。じゃあ行くか、と抱えた木箱の中身は、職人そのものだとしても。
「持つよ、荷物持ちで行くんだし」
「……荷が一つしかない」
困った様子を見せながら、それなら、と渡されたのは、箱からずり落ちかけたエプロンだった。抱えると少し頬が熱くなったのは、子どもの手伝いのような荷物だったからだ。決して、いつもあの背の後ろで交差されている紐が手元にあって、胸が騒いだわけではない。
アストンを視界に入れるときはいつだって――最初に出会った朝以外は、夕暮れの工房がその背景にあった。だから、うららかな陽のさす屋外を歩いていることが、なんだか不思議に感じられる。日頃は森の奥深く、常盤の葉を重ねたような色の瞳も、今日は少し淡く、木漏れ日のように見えた。
「籠りきりではなくて、朝はよく、パンを買いに出るし……洗濯も。野菜や肉も買いに出る」
料理をするんだ、と感想が口をついて出てから、総菜を持って行かない日もあることを思い出した。そうでなくとも、届けるものは一度の食事の全部を補うにしては少ない。どんなものを作るのかと尋ねると、スープだな、とぼんやりした声が返った。
「ほかには?」
「たまに味を変える」
要するに、スープだけであるらしい。
食生活が不安になるうちに通りを抜け、気付けば、あの麗しいショウウィンドウの前に立っていた。躊躇もなく扉を押し開けるアストンに続いて、そっと足を踏み入れる。レースのカーテンから差し込む光は波打ち際のような影を床に落とし、その可憐さに、次の一歩さえためらわれた。
「あら……あらあら! アストンちゃん!」
久しぶりねえ、大きくなった、とハーゲンさんが奥から駆けてくる。アストンは表情も、受け答えも、急にぎこちなくなった。つい半月ほど前、自分と初めて喋ったときも、こんな様子だった。馴れない人には緊張するたちなのだろうと、今ならわかる。
「少し痩せたかしら? ちゃんと食べてる?」
「……伸びたから……三食、」
「パンや野菜も大事だけれどお肉を食べなきゃ駄目よ、心配だわ」
会話の速さに言葉を置き去りにされ、アストンが視線でこちらに縋る。濡れた子犬のような瞳で、少しほのぼのとしたものを感じてしまった。
「あの、ミシンが動かないってお聞きしたんですが」
「そう、そうなのよ。針目が飛んで、糸が絡まってね。どうしたらいいかわかるかしら」
本題を切り出せば、隣でほっと息が吐かれた。
道中でアストンは、服飾用のミシンと、自分が使う革用のミシンは基本の仕組みこそ同じだけれど、細かな作りは違うのだと話していた。革用のものは力が強くて部品が少ない、と説明する口ぶりは、だから服飾用のミシンはよくわかるわけではないと暗に告げているようだった。
それでも、尋ねられたとたん、背はすっと奥へ赴く。
ジャケットの袖を無造作にまくり、部品を外して黙々と改める眼差しは、いつも作業場で眺めるものと同じだった。迷いのない手は乱雑に見えて、ひとつひとつを壊さないように気遣うものでもある。
「どうかしら。もうじきお店を閉めるの。だから、難しければ、もう一台でなんとかするわ」
この子も年だものね、と。覗き込みながら告げる言葉には、老犬を眺めるような、どこか諦めるような響きがあった。
ミシンを淡々と調べていた瞳が、ふっと上がる。
「相棒だったんでしょう」
レースカーテンが風に膨らんではしぼみ、また静かに揺れる。
布を透かしたやわらかな陽が、アストンの肩に光を落としていた。
「――店は閉めても、壮健でいるのに、越したことはない」
だから自分が直すと、そう告げているかのようだった。
大きな手が、細やかな部品を外していく。
油のにおいがわずかに漂い、その奥に、陽に焼けた布のような温もりが重なる。
目の前の横顔はただ部品を見詰めているというのに、胸の奥まで、真っ直ぐに射貫かれるような心地がした。
ティアは、腕にかけたままであったエプロンを、知らずのうちに抱き締めていた。
ふと手元から立ち上ったのは、革の匂いと油の香。
――実直で朴訥で勤勉で。そして何より、誠実な。見惚れるような横顔は、いつもこの匂いを纏っていたのだと、そのとき初めて気が付いたのだった。




